2013年10月31日木曜日

パウル・フェヨスの数奇な人生(1/12)

パウル・フェヨス、アマゾンで。1940年代初頭。

ある日、私はノルディスク・フィルム(デンマークの映画会社)の重役会議に乗り込んでいった。私はここでの映画監督の仕事をすぐに辞めたいといった。もうここでは映画を作れない、と。重役たちは、あと2年契約が残っている、と言う。・・・・私は、ここではもう新しい映画は作れない、と主張した。『じゃあ、どこなら作れるのだ?パリか。ロンドンか?』とにかく辞めたい一心で、私は会議室の壁に貼ってあった世界地図の上で、私の指の届くところにあったマダガスカルを指差した。『ここでなら。』マダガスカルのことなんかなんにも知らない。・・・・困ったことに、重役たちは『マダガスカルか、よろしい。カメラマンは誰がいい?』と聞いてきた。

ー パウル・フェヨス


パウル・フェヨスという人物は、まだ日本語圏内ではそれほど紹介されていません。彼の名前を検索すると、いくつかの映画のデータベースに行き着くくらいです。実際、彼が映画監督・文化人類学者として、もっとも名を馳せた英語圏でも、ごく最近になって見直されてきたに過ぎません。彼の名前の表記が、パウル・フェヨスがいいのか、ポール・フェヨスがいいのか、パル・フェヨスがいいのかも定かではありません。彼を映画監督と呼ぶのがいいのか、文化人類学者と呼ぶのがいいのか、考古学者と呼ぶのがいいのか、それもはっきりしません。いえ、彼はそれら全部であって、もっと他にもあるのです。医者、騎兵、ピアノ工員、生化学者、ボクサー・・・。そして、彼の人生は、ほら吹きでさえ言うのをためらわれるような、信じられないような出来事の連続なのです。しかし、その人生の物語を読む限り、彼が残したいくつかの映画が根底に持っている信念 ーー 誰でも幸せになることができるし、そして人生を思いっきり楽しむことができる ―ー が、その中に息づいているのが伝わってきます。

一般的には、映画監督としてのパウル・フェヨスが有名です。とはいえ、彼がハリウッドで監督した「都会の哀愁 (Lonesome、1928)」「ブロードウェイ (Broadway, 1929)」が、ごく最近、現存するプリントが修復されてようやく日の目を見たところなのです。彼が1930年代にヨーロッパで監督した作品はまだまだ埋もれたままです。文化人類学の領域では、彼はマダガスカルや東南アジアの先住民の文化について最初に調査した研究者の一人であり、貴重な映像資料を残した人物として知られています。また、考古学調査の一環として、インカ帝国の16の遺跡都市を発掘し、アマゾン上流に居住していたヤグア族の文化を詳細に記録しました。後年はアメリカの科学財団の責任者として多くの研究を後押しし、放射性炭素年代測定法の確立に一役買ったりしました。なんだか、ひとりの人物とは思えませんね。これはそのパウル・フェヨスの話です。

パウル・フェヨスは1897年1月24日にハンガリーのブタペストで生まれました。彼の家系は15世紀にまで遡る古い由緒のあるもので、いわゆる土豪でした。父親を早く亡くし、母方の親戚の邸宅で恵まれた幼少期を過ごしたようです。しかし、その後、父方の厳格な叔父の世話になってからは、不自由な日々を送りました。後年まで、パウルは叔父の悪夢を見たそうです。

ハンガリーは、まだこの頃、オーストリア=ハンガリー帝国の一部で、ハプスブルグ家の支配下にありました。しかし、ハンガリー民族の独立運動はずっとくすぶっており、19世紀には様々な内戦や闘争が起きています。一方で、オーストリア=ハンガリー帝国の貴族は、支配階級として強いプライドと信念を持っていました。特にハンガリーの貴族は、その血の気の多さと誇りの高さ、そして少しばかりエキセントリックな行動で知られていました。もちろん、パウルにはこの血が流れています。

ジムナジウム(中学/高校)のころから演劇に興味を持っていたパウルは、演劇の道に進むことを望みましたが、叔父に反対され、結局、医学校に進みます。ところが医学校に入ってすぐ、第一次世界大戦が始まります。1917年に、パウルは騎兵隊に配属されます。騎馬民族の長い長い歴史をもつハンガリーでは、「馬に乗る」ことについてうるさい人が多く、騎兵隊となればなおさらです。しかし、世間知らずのパウルは入隊のときに、「お前は馬に乗れるか」と聞かれ、「はい、乗れます」と答えたために、「へぇ~、馬に乗れるってよ」と、隊でもっとも荒くれの雌馬、ウィルマをあてがわれます。騎兵隊の点呼のときには、馬を巧みに駆って隊長の前で止って、また隊列に戻る、というのが規則なのですが、パウルはウィルマを制止できず、毎朝全速力で隊長の横を通り過ぎてどこまでも行ってしまい、隊の笑いものになっていたようです。

とはいえ、騎兵隊はもうすでに時代遅れでした。実際の戦闘で前線に立つことはなく、もっぱら偵察の目的で使用されていました。その後、パウルは航空隊に配属されますが、そこでも偵察役でした。彼はここで飛行機の操縦を覚えます。

第一次世界大戦が終わり、パウルは医学校に復帰します。1921年に学位をとりますが、彼は医者になる気は全くありませんでした。もう在学中から何本も映画を撮っており、すっかり映画の虜になっていたのです。在学中に監督した映画は

Pan (1919)
Lord Arthur Seville's Crime (Lidercnyomas) (1919)
The Black Captain (Fekete Kapitany) (1920)
Reincarnation (Ujraelok) (1920)
Arsene Lepin's Last Adventure (Arsene Lepin Utolso Kalandja) (1921)
The Star of Eger (Egri Csillagok) (1921)

パウル自身によれば、これらはどれも1週間ほどで楽しみながら作ったに過ぎない、というものだったそうです。卒業後から1923年まで、彼は、ブダペストやパリの劇場で、オペラや舞台を手がけます。一度はパリのグラン・グリニョールでも演出したようです。この頃、ヨーロッパでは、マックス・ラインハルトのスタイルが、演劇界、映画界を席巻していました。パウルも強い影響を受けた一人で、実際ラインハルトの舞台で、技術スタッフとしてかかわったこともあります。ハンガリーの小さな村で受難劇を演出したこともありました。100人に上る村人たちが出演者ですが、ほとんどが文盲だったため、口述でセリフを覚えさせる必要がありました。

1921年に、彼はマラ・ヤンコウスキーという女優と結婚します。彼は生涯を通じて嫉妬深い性格で、こと女性になるとのぼせやすい性質でした。わずか2年の結婚生活の間に5回も「浮気相手」と決闘しています。ほとんどが、パウルの言いがかりのようなのですが。

その頃、フェヨス家は経済的に凋落してしまっていました。パウルの母親が、いわゆる戦争債を戦時中に買ったのですが、それが敗戦と共に紙くずになり、土地や財産はすべて消えてしまったのです。さらに不安定な政権や社会情勢がブタペストに押し寄せていました。1923年、離婚を契機に、最初の冒険に出ます。
 
 
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