2013年11月18日月曜日

パウル・フェヨスの数奇な人生(10/12)

パウル・フェヨス、アマゾンで、飛行機不時着後。1940年

マシコ族という研究対象を失ったパウル・フェヨス一行は、リマまで引き返しました。パウルは、そこで山地奥深くにある古い都市の遺跡の話を耳にします。アメリカの探検家、ハイラム・ビンガムによって、1911年にマチュ・ピチュの遺跡が発見されたことは、パウルもよく知っていましたが、それとは別に「古い都市が存在する」という話は根も葉もない噂だろうくらいに思っていました。ある日、フランシスコ派の僧院の図書館で「クズコの輝かしき未来(1848)」という本を見つけます。この本には、ある俗僧が、アマゾンの密林で迷ってしまい、2年間行方不明になったことが記されていました。この男は帰還して数日で死んでしまいますが、ジャングルの奥地で見た古代の都市について話をしています。この話と、先ほどの噂が、地理的にも奇妙なほど符合したので、パウルは興味を持ち始めました。1940年9月、ヴェナー・グレンの了承と資金提供を受けたパウルは、その幻の古代都市の発見を目標にリマを出発します。

この探検に同行したのが、スタンフォード大学のポール・ハンナでした。彼は教育学の教授ですが、ネルソン・ロックフェラーによって、南米に派遣されていました。目的は、ペルー、エクアドル、ボリビアにおけるナチスの活動、特に教育におけるナチズムの浸透を調査することでした。実はこれらの南米の国々では、ナチズムは初等、中等教育の各場面で思ったよりも深く浸透していたのです(戦後、多くのナチス高官が南米に逃れたのも、こういう背景があったからだと推測されます)。ポール・ハンナは、リマの町で物資や助手を探しているヨーロッパの怪しい調査隊がいると聞いて、パウル・フェヨスのグループを監視していました。この調査隊は、ヴェナー・グレン(当時はナチス・ドイツに共感していると考えられていました)のバックアップがある。ますます怪しいと踏んだポール・ハンナは、考古学者のふりをして、パウル・フェヨスの調査隊に同行することを申し出ました。結局、パウルがヒトラーを嫌悪していることや、隊がアンデスの遺跡発掘の学術調査に本気で取り掛かっていることを知ると、ポール・ハンナは自分の正体を明かしたようです。

1940年と1941年に2回の調査を経て、チョケスイスイ、チャチャバンバ、サヤックマルカなどの遺跡を発見し、36平方キロメートルの地域を調査、詳細な地図を作成しました。100kmにも及ぶ補給路を維持し、数百人の経験の浅い人足を監督しながらの調査でした。この調査結果は1944年に出版されています。パウルは、自分には十分な考古学の知識がないとして、遺跡発掘は最小限にとどめ、あくまで遺跡の位置の確認、写真などによる現状記録、そして地理的情報の収集をメインとしました。

パウル・フェヨス ヤグア族と。

また、パウルはこの時期にペルー北部に住むヤグア族の調査もしています。ヤグア族はやはり外部との接触の少ない種族で、言語、文化についてほとんど知られていませんでした。調査隊はヤグア族と接触して、彼らの言語を学び、その生活、習慣を記録することに成功します。言語をフィルムに記録するために、同時録音のできるカメラで住民の話し言葉を撮影しました。さらに、非常に珍しい村落の引越しをフィルムに収めることができ、これはドキュメンタリー映画「ヤグア(1943)」として編集されました。ちなみに、この映画がパウル・フェヨスのフィルモグラフィでは最後の映画となります。

1941年、ヴェナー・グレンはヴァイキング財団を設立します。財団のもとで、パウル・フェヨスはアンデスでの遺跡調査、ヤグア族の人類学研究の成果を発表します。財団はニューヨークにオフィスを構え、パウルは研究部門の指揮を執りました。彼は、もうすっかり商業映画の世界とは決別し、文化人類学、考古学にすべてのエネルギーを注ぎ込んでいました。

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