ペルーのインカトレイルにある、ウィニャイワイナの遺跡
1940年にパウル・フェヨスの調査隊が発見した。

パールハーバーの攻撃を期にアメリカは正式に第二次世界大戦に参戦します。太平洋、東アジアの地理、民族に明るいパウル・フェヨスは、スタンフォード大学で海軍の兵士を相手に、文化人類学の講義をするよう、要請されます。彼の講義は非常にユニークで、非常に実践的だったようです。彼は若く、まだ何も知らない兵士たちを相手に「シミュレーションによる訓練」をします。

「君たちは、ある島に到着する。君たちは無線基地を設営しなければならない。上陸船は母船に引き返し、君たちは自分たちだけが頼りだ。さあ、どうする?」

生徒たちは、何も事前情報がないまま、その島について探索し、また住民と遭遇したときのコミュニケーションの方法を、手探りで考えていきます。生徒たちの言動をもとに、パウルは情報を与えたり、住民とのやり取りをシミュレーションしたりします。生徒が住民を警戒させるような言動をとれば、住民のふりをしているパウルはもう何も言わなくなってしまいます。こうやって、いかに現地の住民からいかに協力を得るか、そして必要な物資や情報をいかに確保するかを兵士たちに教えていきました。彼はこれをずっとインドネシアやタイで自ら経験してきているので、現地住民とのコミュニケーションの重要性を理解しているのです。兵士たちは、このトレーニングを通して、言語がいかに重要か痛感し、ランチの時間でも中国語やマレー語で会話をしていたそうです。

ヴァイキング財団は、文化人類学や考古学に研究資金を提供することを目的としていました。財団でのパウル・フェヨスの役割は、多くの学者たちとコミュニケーションをとり、学問の発展に寄与すると思われる研究を見極めていくことでした。1945年、第二次大戦が終結し、ようやく軍事から切り離されて研究ができるようになりました。「学際領域」 ーーすなわち専門的な学問同士の間をつなぐ領域ーー は、まだまだ未開拓の時代でしたが、パウルはまさしく専門家たちを引き合わせ、それぞれの領域の関心事をつないでいくことにかけては先駆者だったといえるかもしれません。彼は「自分は考古学について疎い」と常に発言していましたが、彼の「学際領域に敏感な感覚」のおかげで、考古学にとって非常に重要な研究がなされました。

アメリカ自然博物館のラルフ・フォン・ケーニヒヴァルトは、戦時中ジャワ島で日本軍の捕虜になって死んだと伝えられていました。しかし、彼は収容所を生き延び、ジャワ島各地に隠しておいた考古学的資料 ーージャワ島で発見した原始人の頭骸骨ーー を持って帰国したのです。1947年のことです。ケーニヒヴァルトは、避暑のため、コールドスプリングスの研究所で研究していましたが、そこの研究所はまさしく核物理、核化学のメッカでした。ある日、パウルにあった彼は、自分がいかにその研究所で浮いているかを話していました。核物理学者の群れにひとりだけ考古学者なんて!ランチで話しかけてくる研究者たちは、考古学なんて全く知らないのです。だから説明するのも苦労する。つい昨日も、ランチで食堂のテーブルの前に座った男が、話しかけてきたよ、とパウルにこぼします。

「『君は何を研究しているの?』って聞いてくるんだ。だから、僕が最近持ち帰った頭蓋骨と写っている写真を見せて『こういう原始人の研究をしているんですよ。』って答える。するとね、『へぇ。その頭蓋骨は何年位前のものなんだい?』なんて聞いてくる。『だいたい50万年前くらいですかね。』ってこっちが言うと、『そんなに古くなかったら、もっと正確に、何年前、って言えるんだがね。残念だ。』なんていうのさ。」

パウルが、それはどうやるんだって聞くと、「なんでも放射線がどうとかこうとか言っていたなあ」とはっきりしません。パウルはふと、今読んでいる岩石の年代決定法でヘリウム・インデックス(ヘリウムの同位体の比で年代を決定できる)について書かれていることを思い出しました。ひょっとしたら・・・。その男の名前は?ケーニヒヴァルトは、その男の名前も知らないので困ったことになってしまいました。

パウルはコールド・スプリングスの研究所に電話をかけ、食堂の従業員に「昨日、ケーニヒヴァルトとランチを食べていたのは誰かわかるかい?」と聞きました。ハロルド・ユーリーですよ。ノーベル賞学者の。

ウィラード・リビー

シカゴでハロルド・ユーリーに会ったパウル・フェヨスは、早速そのアイディアについて矢継ぎ早に質問します。「実はその研究をしているのは、私じゃなくて、ウィラード・リビーだよ。」同じくシカゴ大学で研究をしているウィラード・リビーはバルチモアの下水から炭素の同位体を検出し、それがどうやら大気を起源とするものらしいと考えていました。同位体の半減期は正確にわかっているので、炭素を含むものなら年代を決定できるのではないかと考えていたのです。それを是非とも考古学のために使いたい、とパウルが突っ走っているのですが、リビーは、まだ手法が確立されていないからと慎重です。パウル・フェヨスは、ヴァイキング財団が研究費を出すから、是非とも考古学に役立てるものにして欲しいと申し出ました。ウィラード・リビーは、放射性炭素年代測定法を開発し、後年ノーベル賞を受賞しました。(ウィラード・リビーによる話でも、パウル・フェヨスが考古学と放射性炭素年代測定を結び付けたことがわかります。)