2013年11月4日月曜日

パウル・フェヨスの数奇な人生(3/12)

パウル・フェヨス 1929年

パウル・フェヨスという人物をあらわす、もうひとつ重要な形容詞があるとすれば、「飽きっぽい」という言葉かもしれません。そうでなければ、人生の中でこれほどいろんなことに手を出すこともないでしょう。事実、彼の映画作品を見ていると、作っている途中で飽きちゃったんじゃないかと感じることがあります。彼は1925年いっぱいまで、ロックフェラー研究所に在籍しますが、どうやら飽きてしまうようです。一方で、彼の「映画の虫」が収まらず、ハリウッドに行くしかない、そこで映画を作るんだ、と思いつめるようになります。彼は、フレクスナー博士に「家族の事情で」カリフォルニアに行くことになった、と伝えます。フレクスナー博士はカリフォルニア大学バークレー校での職を世話してくれます。パウルは「バークレーはサンフランシスコの郊外で、サンフランシスコはロスアンジェルスの郊外だから、映画を作りながら、仕事にも通えるだろう」と的外れなことを考えて安心して出発してしまいます。

ぼろぼろのクルマでの大陸横断の旅を終えたあと、パウルは、サンフランシスコはロスアンジェルスの郊外ではないと知ることになります。しかし、彼の映画への決心は固く、ロスアンジェルスに住んで、ハリウッドの映画スタジオに毎日通い、外の門をじっと見つめて、家に帰る日々が続きます。すぐに資金は底をついて、彼はハリウッドとパサデナの中間にある、オレンジ畑に住むようになります。オレンジの木の下で寝て、起きるとハイウェイに歩いていって、ヒッチハイクでハリウッドまで行くのです。そして、夜になると畑に戻ってきて、木の下で寝るのです。このころ、日銭を稼ぐために、ボクサーとしてリングに立っていたようです。とにかくノックアウトされるまで立っていればいいというやつで、1ラウンドごと5ドルもらえたようです。彼の耳がボクサー特有の「カリフラワー」になっているのは、そのせいです。

正直、ハリウッドに毎日行っても、映画監督どころか、エキストラの仕事さえ簡単にはもらえません。ジョセフ・フォン・スタンバーグの映画に「最後の命令(1928、原題:The Last Command)」というのがありますが、帝政ロシアで将軍だった男が、革命で追われ、ハリウッドでエキストラをやっているという話です。パウル・フェヨスは、それを地でいっているのですが、なぜか、エキストラで終わるのではなく、本当に映画監督になってしまいます。

ある日、彼をオレンジ畑で拾ったのは、エドワード・M・スピッツという男でした。彼のどでかいピアス・アローというクルマのなかで、彼らはお互いハリウッドで映画を作るという夢を語り合います。彼は、実はニュージャージーの事業家の息子なのですが、映画熱にうなされてしまい、どうしてもプロデューサーになるといってきかない。困った父親が「映画を作って来い」と、10000ドルという中途半端なお金を渡したのです。当時は最低でも30000ドルくらいは一本の映画を作るのに必要でしたから、父親は「世界を見せてあきらめさせる」つもりだったのでしょう。スピッツは、もうお金を半分くらい使ってしまっていました。
「僕はプロデューサーになりたい、君は?」
「僕は監督になりたいんだよ。」
「そうか!お金は5000ドルある。やってみないか?」
次の日、フェヨスは5000ドルの小切手を手にして(!)、映画製作に乗り出します。

まず、俳優探しです。彼は知り合いのエージェントに行って「金は払えないけど、それでもいいから映画に出たい役者」のリストをもらいます。それから、主演女優です。彼はチャップリンの「黄金狂時代」に出演していた、ジョージア・ヘールに前々から目をつけていました。映画を作るなら、彼女を主演女優にしたい。でも、彼女はいまやハリウッドのトップスターです。普通にエージェントなんて通したって、無理に決まっています。そこで、友人から彼女のスケジュールを聞きだし、西部劇のロケーション撮影の日(周りに誰もいない砂漠)に会いに行きます。ランチ休憩のときに、彼女に近づいていって、出演交渉をします。
「エージェントを通してもらえないかしら。」
「エージェントじゃダメなんです。私は貴方とお話がしたいのです。」
「なぜ?」
「タダで私の映画に出演してもらいたいからです。」
ひとしきり爆笑したあと、彼女は笑いながら「帰ってね。じゃないと警察呼ぶわよ。」といいます。
「ここには警察いませんよ。砂漠の中ですから。」
結局、彼女はパウルの話を聞き、面白いと思ったのか、タダで出演することに同意します。最終的には彼女のエージェントから、無名で当たり役を探しているオットー・マティセンも紹介され、主演男優となります。

それから、場所です。そのころ、ハリウッドには「ファイン・アーツ・スタジオ」という貸しスタジオがありました。いわゆる独立系やB級(Poverty Row)の製作者が、日割りで借りて、撮影するところです。パウルは、そこに行き、「時間割で貸してくれ」と交渉します。
「ありえないだろ。セットを立てるだけでも何日もかかるんだぞ。」
「いいんです。時間割でお願いしたいんです。誰かが撮影していないときにセットをそのまま拝借したいんです。」
「え?他人のセットでどうやって映画撮るのさ?」
ここが、彼の映画のミソでした。

それから、フィルムです。当時のハリウッドは、フィルムといえば、コダックが主流で、アグファが若干使われている程度でした。そこにデュポンが割り込もうとしていました。パウルはデュポンのセールスに会いに行き、
「フィルムをツケで売ってくれませんか。映画の最初に『フィルムはデュポン』、映画の最後に『フィルムはデュポン』って出しますから。」
喜んだセールスは、何千フィートものフィルムを送ってきました。

カメラマンとカメラ。無名だったレオン・シャムロイ(ええ、そうです、オスカーを4回受賞した、「猿の惑星」のレオン・シャムロイです)に声をかけ、のるかい?、のった、で組むことになります。カメラはシャムロイがツケでどこかから借りてきました。

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