2013年11月6日水曜日

パウル・フェヨスの数奇な人生(4/12)

ラスト・モーメント 1928年

では、彼はどうして他人のセットで映画を撮れると思ったのでしょうか?彼のアイディアはこうです。

人は死ぬ前に走馬灯のように自分の人生を思い出す。ほんの一瞬のうちに自分の人生のいろんな出来事がフラッシュのように想起される。その瞬間を映画にするのです。主人公は入水自殺を図ろうとする。その最後の一瞬に、彼の人生の様々な出来事がフラッシュバックで語られる。他人のセットでもいいのは、そのセットに合わせた「過去の物語」を作っていくことができるからです。だれかが、モンテ・カルロのセットを立てている。すると、主人公がモンテ・カルロで破産する話を作って、そのセットを借りて撮影する。他のプロダクションが病院のセットを建てている。すると、主人公は戦争で負傷して、病院で看護婦のジョージア・ヘールと出会うことになる。

ジョージア・ヘールの撮影も大変でした。彼女は出演することに同意したとはいえ、「空いている時間だけ」という約束です。ですから、ほとんど撮影に時間を割くことができません。ダブル(姿が似ている別の俳優)を使っても、できることは限られています。ここでもパウルのアイディアが活かされます。オーソン・ウェルズは「市民ケーン」で冷え行く夫婦関係をモンタージュで表現したと有名になりましたが、ここで彼は婚約から離婚までを全部モンタージュで表現します。公園のベンチのふたり、キス、指輪、教会の鐘、仲の良い二羽の鳩が、いがみあう二羽のカラスに変わり、ベッドで枕を取り上げる夫、キッチンの流しに積み重なった汚れた食器、といった具合に流れ、最後は判事の槌で終わります。

映画のタイトルは「ラスト・モーメント(原題:The Last Moment)」といいます。

3ヶ月ほどで作品は完成しましたが、今度はどうやって公開するか、という問題になります。そうです。誰一人として配給については約束していません。パウルは、ハリウッドでもっとも辛らつで厳しい映画批評家に電話をします。ウェルフォード・ビートン(フィルム・スペクテーター紙)とテーマー・レーン(フィルム・マーキュリー紙)の二人です。映画を作ったので、見て欲しい。「なぜ、私なんだ?」このあたりであなたが一番厳しい批評家で、本当に僕の映画がいいか悪いか知りたいんです。

ラスト・モーメント 1928年

レオン・シャムロイが映写技師となり、ファイン・アーツ・スタジオの映写室で試写が行われました。映画が終わった後、ビートンがパウル・フェヨスに聞きました。
「これは誰が監督したんだね?」
「私です。」
「これは、私が今まで見た映画の中で最高の作品です。」
パウルは、それが嫌味や皮肉ではなくて、本気なんだと気づくのに時間がかかったようです。

3日後、スペクテーター紙もマーキュリー紙も「ラスト・モーメント」を絶賛する記事を囲みで掲載しました。町中に彼らのことを絶賛する新聞があふれているのに、レオン・シャムロイもパウル・フェヨスも夕食のお金すら持っていなかったのです。ファイン・アーツ・スタジオのセットのベッドで寝泊りしていたパウル・フェヨスは、夜中にビートンからの電話でたたき起こされます。
「すぐに、君のフィルムをチャップリン邸に持ってきてくれないか?チャーリー・チャップリンが見たいと言っているんだよ。」

「ラスト・モーメント」は、チャップリンが代表をつとめるユナイテッド・アーチスツから配給され、ロスアンジェルスで1927年11月、ニューヨークで1928年3月に公開されました。ニューヨーク批評家協会は「1928年の最も優れた10作品」に「ラスト・モーメント」を選びました。水底に沈みゆく主人公、気泡の映像が、突然、フラッシュのように連続する人の顔や様々なオブジェのカット(おそらく数コマずつのラピッド・カットでしょう)に変わり、そしてそのカットのスピードがゆっくりとなって、最初の話につながっていく。そして終盤にまたこのフラッシュのようなシークエンスが出てきて、水に沈んでいく主人公に戻っていく。「こんな映画はいままで存在したことがなかった」「映画という媒体が、はじめて映画として息づいた」「パウル・フェヨスは、たとえこの1作品しか残さなかったとしても、映画史に残るであろう。」

この映画のプリントは現存していません。

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