2013年11月10日日曜日

パウル・フェヨスの数奇な人生(6/12)

ブロードウェイ 1929年
「ブロードウェイ(原題:Broadway)」はパウル・フェヨスが「自分の人生でもっとも惨めな作品」と呼び、撮影監督ハル・モーアが「もっとも楽しんだ作品」と呼んだ映画です。もともとのストーリーは大したものでもないのに、ユニバーサルは、映画化の権利だけで100万ドルも払ってしまっていました。そこで、さらに500万ドルをかけて、大作にしようと打って出たのです。パウル・フェヨスはどうすればいいのかわかりません。世界のどこにも存在しないような巨大で派手なステージで歌って踊っている主人公が、「こんなうらぶれたところを出て、いつかビッグになってやる」と言っている、というとんちんかんな話ですから、そりゃ厄介です。今、この映画を見るとすれば、まさしくそのカメラワークを楽しむのでしょう。この映画のために、巨大なカメラ・クレーンを建造しました。クレーン長50フィート(約15m)、重量28トン、6輪の自走式で、クレーンは360度回転、180度スイング(すなわち半球すべて)し、クレーンに搭載したカメラ用ステージはさらに360度回転するという代物です。作ったのはいいのですが、ユニバーサルのステージに入らないし、フロアも沈んでしまうので、ユニバーサルは新しくステージを建設、コンクリートで固めたフロアに、この代物がぐるぐる動いても大丈夫なスペースと天井で、「ブロードウェイ・ステージ」と呼ばれました。「ブロードウェイ」の中で、目の回るような映像を見ることができます。実はそんな大きなセットだし、ぐるぐる回るクレーンでは、十分な照明を得られないことが明らかになります。そこで、天井には絹を張って、その向こうに白熱灯をたくさん配置しました。これは「星のように」みえるはずです。これでも十分ではなく、ハル・モーアはコダックに頼んで、特別に感度の高いフィルム(タイプAのパンクロマチックに特別な処理をしてもらったもの)を準備してもらいます。これが、すぐに劣化してしまうので、毎日、ロチェスターから冷蔵空輸して送ってもらっていたそうです。

ブロードウェイ 1929年
頭の上に摩天楼をかぶった踊り子たち

「ブロードウェイ」の撮影に使われたクレーン


この頃から、パウル・フェヨスとユニバーサルの関係は悪化していきます。パウルは人気ジャズバンドのリーダー、ポール・ホワイトマンの映画を監督するように言われます。まず、ストーリーがない。そこでユニバーサルの脚本部30人全員で考えるのですが、ろくなアイディアは出てきません。カール・レムリ Jr.は「だったら、アメリカの有名作家全員に聞いてみよう」と言い出す。「ポール・ホワイトマンの映画を作ります。すばらしいストーリーを100語でお願いします。」とありとあらゆる有名作家に送ったんです。セオドア・ドライサーは「No、Never」と50回書いて送ってきた。できた映画は「キング・オブ・ジャズ(原題:King of Jazz)」ですが、パウル・フェヨスはクレジットされていません。今では、ニルヴァーナのカート・コベインのおじいさんが出演しているので有名な映画です。

 
左からカール・レムリ Jr.、ポール・ホワイトマン、カール・レムリ Sr.、パウル・フェヨス

MGM映画「ビッグ・ハウス」の外国語版撮影現場で。
アルバート・アインシュタイン(中央)、パウル・フェヨス(右端)
「西部戦線異状なし」の映画権を買ったと聞かされていたにもかかわらず、パウル・フェヨスはそれを作らせてもらえない。どれもこれもつまらないストーリーばかり。彼は一方的にユニバーサルを辞めてしまいます。それからしばらくして、MGMに雇われますが、ここはもっとつまらない。最後は脚本部で脚本を読んでいたのですが、あまりにアホらしく、馬鹿馬鹿しい。ある日、回ってきたメモを見たとたん、パウルは立ち上がってオフィスを出て行き、そのままシカゴ行きの「チーフ号」に乗って、ハリウッドを去りました。彼自身の言葉を借りれば、「ハリウッドとの恋愛が終わった」のです。1931年のことでした。

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