パウル・フェヨス マダガスカル

マダガスカルは、この時代には、まだヨーロッパの文化人類学の研究がそれほど進んでいない土地でした。事前の調査や文献探索をしても得られるものは少ないまま、パウル・フェヨスは1936年にボルドーから貨物船に乗ってマダガスカルに向かいます。彼は「未開」と呼ばれたマダガスカル南部の、いまだ政府の管轄の届いていない地域に入っていきます。途中、フランス植民地軍の砦で、「あんなところに行ったら、首を刎ねられて食われるぞ」と脅かされましたが、かまわず進んでいきました。そこで、撮影隊一行はタノシ族とバラ族に遭遇し、彼らの生活をフィルムに収めます。パウルは、「生まれて初めて出会った原住民」に強い感銘を受けます。彼らは理路整然と考え、アメリカ人なんかよりもはるかに理にかなった生き方をしている。彼らは非常に理知に富んでいて、文明国の誰よりも賢い。ここで撮影されたドキュメンタリーには「エジラのダンスコンテスト」「ビロ」などがあります。

アンタンドロイ族のダンサー/治療者
(パウル・フェヨス撮影、1936年)
(via デンマーク国立博物館

当時の文化人類学あるいは文化人類学者は大半が差別的で、研究の対象とする民族に対して理解を深めるという態度で臨んでいるとはお世辞にもいえない時代でした。とくに文化人類学と啓蒙的な文化政策が交差する場合には、その醜い差別感情が露わになります。1931年にフランスで「植民地展覧会(L’exposition coloniale)」なるものが開催されますが、そこでニューカレドニアの住民がパリに連れてこられ、動物園の動物のように展示されていたのです。マダガスカルにも全く調査が入っていなかったわけではありません。事実、1910年代からフランスのパテ社がいくつかマダガスカルで撮影したフィルムを公開しています。ただ、「北極の怪異(1922、ロバート・J・フラーティー監督、原題:Nanook of the North)」に始まる、「西欧人でない民族に、ジャズを聞かせて反応を見る」といったことを繰り返しやっていたのです。

博士号をもった文化人類学者でも、(調査対象である)原住民の狩りに同行して、平気で獲物を撃ってしまう者がいるのだ。獲物は自分のものではないということ、銃を撃てば、住民の狩りの対象が一帯から姿を消してしまって、彼らの経済を破壊するということがわかっていないのだ。

Paul Fejos

私が調べた限り、「エジラのダンスコンテスト」と「ビロ」はニューヨークのMoMAがプリントを所有しているようです。ほとんど上映されることはないようですが、記録によると、「ビロ(The Bilo)」は族長の葬式の様子を収めた貴重な資料のようです。族長の息子によって催された音楽と踊り、そして埋葬時の儀式として、族長の牛800頭を生贄をささげる様子などが記録されているようです。

バラ族のダンサー
(パウル・フェヨス撮影、1936年)
(via デンマーク国立博物館

マダガスカルには1年近くいましたが、その後、ヨーロッパの帰途にセイシェル諸島に寄港し、そこでも撮影をします。デンマークに帰国したのち、撮影した作品をデンマーク王立地理学会で発表し、一躍デンマークの文化人類学界で注目の人物となります。マダガスカルの文化については詳細な調査がされていなかったこと、デンマークの王立博物館にもマダガスカルに関する資料がなく、パウルが持ち帰った様々な事物が、貴重なコレクションとなりました。この時点で、パウルは文化人類学に強い興味を抱くようになります。1937年、今度はスウェーデンの映画会社が彼に同様の映画を依頼します。

パウルは少し濁した話し方をしているのですが、彼はアメリカに戻りたいと思い始めていたようです。ヨーロッパに戦争が近づいていること、特にナチス・ドイツと各国の関係が不安定な状態が続いていたこと、スウェーデンの立場はその中でももっとも微妙だったこと、などから、彼は「アメリカに戻れなくなるのではないか」と、オファーを躊躇していたようですが、待遇があまりに良かった。そして、東インドに向けて長い旅に出ます。目的地はインドネシアでしたが、横浜、神戸にも立ち寄っています。