2014年2月27日木曜日

広告に載った九つの映画:沈黙の塔 (後篇)


「沈黙の塔」

撮影のギュンター・リッタウ(1893 - 1971)は、もちろん、フリッツ・ラングの「メトロポリス(1927)」をカール・フロインドと担当した有名なカメラマンです。特に「特殊撮影の」リッタウとして有名でした。ドイツ国内でのはじめてのトーキー「心のメロディ(Melodie des Herzens, 1929)」(Youtube, 部分)やジョセフ・フォン・スタンバーグがドイツで監督した「青い天使(Der Blaue Engel, 1930)」(YouTube)の撮影を担当し、1930年代からは自ら監督もこなしました。1940年の「潜水艦よ、西へ!(U-Boote westwärts!, 1941)」(YouTube)は彼が監督した国策映画のヒット作です。戦後は50年代から撮影監督にもどっています。

「沈黙の塔」ゼニア・デズニ

ルディ・フェルド(1897 - 1994)は、ベルリン出身の舞台美術家です。1910年代後半からナイトクラブのポスターなどを手がけ、映画の美術は1920年代から担当しました。1926年にはウーファの宣伝PR担当部長になり、主にウーファ・パラスト劇場の舞台や看板美術を担当します。ウーファ・パラスト・アム・ズー(Ufa Palast am Zoo)はベルリンのブライトシャイトプラッツにあった、ウーファのフラッグシップの劇場です。20世紀のはじめに隣接する動物園のホールから映画館に転換され、1926年に改修されて2000人以上を収容できる最大規模の映画館となりました。

「スピオーネ」公開時のウーファ・パラスト劇場装飾デザイン

フリッツ・ラング監督「月世界の女」公開時の
ウーファ・パラスト劇場内の装飾
(ルディ・フェルド)

パラマウント映画「つばさ」公開時のウーファ・パラスト劇場
(ルディ・フェルド)
ルディ・フェルドは、この映画館で新しい映画がプレミア上映されるたびに、劇場の内外に独創的な装飾美術や仕掛けを創り出していきました。1928年のフリッツ・ラングの「スピオーネ(Spione)」(YouTube, 部分)の公開の際には、入り口のファサードに大きな眼を据えつけて、そこからサーチライトが劇場前を照らす仕掛けで話題になりました。「アスファルト(Asphalt, 1929)」(YouTube)の公開の時には都会の通りが写された透明なシートが貼り出され、その前を点滅する自動車の仕掛けが動いていたと言われています。また映画のプレミア公開の前にライブショーを催すのも、この劇場の特徴だったのですが、この舞台芸術もルディ・フェルドが担当しました。しかし、1933年、ナチスが政権を掌握すると、ユダヤ人である彼はウーファ経営陣から「長い間は雇えないから」と言い渡され、国外へ脱出します。パレスチナでナイトクラブでも経営しようかとしているところへ、弟で俳優のフリッツ・フェルドからの誘いがあり、ハリウッドへ。ハリウッドで主にプログラム・ピクチャーの美術を担当しました。
 
ウーファ・パラスト劇場での
「サム・ウディングとチョコレート・キディズ・オーケストラ」のショー
舞台装飾はルディ・フェルド(1928)
ルディ・フェルドがプロダクション・デザインで関わった
フィルム・ノワールの傑作「ビッグ・コンボ(1955)」

2014年2月24日月曜日

広告に載った九つの映画:沈黙の塔 (前篇)

「沈黙の塔」

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沈黙の塔
Der Turm des Schweigens

1925年

ヨハネス・グウター 監督
Johannes Guter

ゼニア・デズニ、ナイジェル・バリー、フリッツ・デリウス 出演
Xenia Desni, Nigel Barrie, Fritz Delius

クルト・J・ブラウン 脚本
Curt J. Braun

ギュンター・リッタウ 撮影
Gunter Rittau

ルディ・フェルト 美術
Rudi Feld

エーリッヒ・ポマー、デクラ・フィルム、ウーファ 製作
Erich Pommer. Decla-Film-Gesselleschaft Holz & Co., Universum Film (UFA)

デクラ・ライ、ウーファ 配給
Decla-Leih, Univerum Film (UFA)
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飛行機が砂漠で墜落し、二人の男が生死の境をさまよう。そのうちの一人はもう一人を欺いて、自分だけ逃げ、さらに大事な研究成果と恋人をさらってしまう。復讐を誓った男がたどり着いた恐ろしい塔に住んでいた、娘とその父親。その父親はマッド・サイエンティストだった...。

もう、上のスチール写真だけでわくわくするような映画ですね。マッド・サイエンティストが、塔の上であんな格好しているのですから、いい映画に間違いありません。

この映画は「忘れられた名作」として近年注目を浴びている作品です。2006年にプリントの修復が行われ、2007年にベルリン映画祭で記念上映されました(1)。1924年当時、ウーファのスタジオでは4本の作品が製作に入っていたと記録されています。F・W・ムルナウの「最後の人」、フリッツ・ラングの「ニーベルンゲン」、アーサー・フォン・ガーラッハの「王城秘史(Zur Chronik von Grieshuus, 1925)」、そして「沈黙の塔」。なかでも、この「沈黙の塔」の不気味な塔のセットはひときわ目立っていたそうです(2)。

監督のヨハネス・グウター(1882 - 1967)は、ラトビア出身です。彼は、1905年の革命のときに警官を殺害し、ベルリンに逃亡してきました。はい、そうです。彼はいきなり殺人犯です。翌年、理由は定かではないのですが、ラトビアに舞い戻り、そこで逮捕され収監されます。一年間の収監の後、裁判所へ連行される際に再び逃亡、その後はヘルシンキ、コペンハーゲン、そしてウィーンと放浪します。舞台経験をつんだ後、1917年に映画界に転身、1919年には自身の映画会社、センタウア・フィルムを立ち上げます。彼は1920年代、同じラトビア出身の女優、ゼニア・デスニを主演にした作品を何本か監督しています。そのうちのひとつがこの「沈黙の塔」です。彼は、1922年にウーファがデクラを合併したときに移ってきた映画監督たちーフリッツ・ラングやF・W・ムルナウもいますーのひとりです。1930年代半ばまでは、軽い娯楽作品を監督していましたが、その後文化映画を何本か製作した後、公の場から姿を消します。

「支配者(1937)」

脚本のクルト・J・ブラウン(1903 - 1961)は人気の作家、脚本家でした。1920年代から30年代には、週刊誌などにたびたび寄稿し、小説も多く出版しています。ロマンスから何でも担当していましたが、ナチスの台頭後にはプロパガンダ映画の脚本も手がけています。悪名高い「突撃隊員ブラント(S.A.-Mann Brandt, 1933)」(YouTube)の脚本にも参加したようですが、クレジットは外されています。フリッツ・ラングの元妻、テア・フォン・ハルボウと共同で「支配者(Der Herrscher, 1937)」の脚本も担当しました(3)。これはかなりストレートなプロパガンダで、今でも上映制限がかかっています。戦後も特に支障なく書きつづました。

(1)Lathrios Film Festival Database
(2)Klaus Kreimeier, "UFA Story: A History of Germany's Greatest Film Company, 1918 - 1945"
(3)映画「支配者」については、counter-correntの記事(英語)に詳しく書かれています。

2014年2月21日金曜日

広告に載った九つの映画:フレデリック大帝 (後篇)

「フレデリック大帝」
 
「フレデリック大帝」の製作・監督・脚本をしたアルゼン・フォン・クセレピィはもともとハンガリー人です。母親はドイツ人ですが、父親はハンガリー人の画家でした。彼の一生を見ていると、ドイツ人になりたかったのに、ならせてもらえなかった、という印象を受けてしまいます。ブダペストで自動車のエンジニアをしていたのですが、その後ベルリンに移り住み、1912年ごろから映画の製作に関わり始めます。1914年に第一次世界大戦が始まるとオーストリア=ハンガリー軍にパイロットとして従軍します。1918年に「ファウスト」を製作しようとしますが、「非ドイツ人がドイツの古典を手がけるとは何事か」と強烈な反発に会い、あきらめます。そして、この「フレデリック大帝」を手がけた後も自分の製作会社で映画を作り続けるのですが結局うまくいかず、1924年、ウーファに会社を売却してしまいます。翌年にはアメリカに渡って、ハリウッドでの映画製作を試みます。パラマウントにH・G・ウェルズの「世界戦争」の映画化の話を持ちかけますが頓挫、「創生」「ラスプーチン」などの企画もすべて失敗します。1927年にはニューヨークで「クゼレピィ・ムービーズ」を設立するも行き詰ってしまい、翌年ベルリンに戻ります。さらにここでも11月革命の映画の製作で政治志向性の意見が合わず、監督を辞しています。

1930年に、彼はナチス党員になります。

1932年、ゲッベルスに映画「Deutschland über alles」の企画を持ち込みます。また、ベルリン滞在中のエイゼンシュタインについて記事を書いて、母親の旧姓(デーリンゲルというドイツ名)で出版して「ドイツ人になる」ことを誓っています。翌年に再び映画製作会社を設立するのですが、ゲーリングのドイツ空軍がすぐそばに飛行場を作り始めたために、スタジオの建設ができず、やっと作った映画もウーファとの間でいざこざが起き、会社は破産します。

1939年にブダペストに戻った後は、1941年まで数作を監督した後、引退したかのごとくぱったりと音沙汰が無くなり、1958年に亡くなります。

ワイマール期の早い時期に保守的な作品で成功を収めただけでなく、ナチス党員でもあったクセレピィが、ナチス政権下でかんばしい扱いを受けていないのは、彼自身の性格の問題か、それともナチス幹部や同調者たちの問題か、そこはよくわかりません。しかし、あれほどゲッベルスやヒトラーに気に入られ好待遇を受けたレニ・リーフェンシュタールやヴァイト・ハーランがナチス党員でなかったことを考えると、党員 -しかもわりと早い時期に入党していた- であった事実は、何の役にも立たないことがあるのだということですね。

また、彼のように1920年代後半には多くのヨーロッパ映画人がハリウッドを目指しています。しかし、エルンスト・ルビッチやマイケル・カーチスのように成功して名を残したのは一握りで、ヨーロッパに戻ってしまった人も多くいます。クセレピィは一本も作れていないので、かなり極端な例ですが、ヴィクター・シェーストロム、モーリッツ・スティルレル、ヴィクトル・トールジャンスキー、ここでも取り上げたパウル・フェヨス、後で取り上げる予定ですがベンジャミン・クリステンセンなど、数えればきりがありません。F・W・ムルナウも亡くなったときには、ハリウッドに見切りをつけてしまっていました。しかし、このサイレント末期の「宇宙戦争」は実現していれば、面白かったかもしれませんね。

「フレデリック大帝」の脚本に名を連ねているハンス・ベーレントは、ユダヤ人です。ナチスの台頭と共にドイツから脱出し、スペイン、オーストリアと転々としますが、ベルギーで拘束され、1940年にアウシュヴィッツ収容所に送られ、殺されます。同じく名を連ねている、ボビー・E・リュトケは、1928年ごろから反共作品の脚本などを手がけ、ナチスの初期のプロパガンダ映画「ヒトラー青年 クヴェックス」も彼の手によるものとされています(リュトケ自身は、戦時中は自身が書いたと主張、戦後は否定)。彼は戦前の映画出版で最もポピュラーだった「Film Kurier」の創刊にも携わっていました。彼は、戦後の「シュピーゲル」誌のインタビューで、いかに自分がこの「フレデリック大帝」の製作でイニシアチブをとったかを語っていますが、ベーレントの名前を口にすることはありませんでした。

撮影のギイド・ジーベルは、ドイツ映画の黎明期のもっとも重要なカメラマンです。彼が「プラーグの大学生(1913)」で2重写しを用いてドッペルゲンガーを表現したことが、ドイツの撮影技術の方向性に大きな影響を与えたことは間違いありません。カール・フロイント、フリッツ・アルノ・ワーグナー、カール・ホフマンらが師と仰いだカメラマンですが、トーキー以後は仕事が減り、後進のために撮影技術の本を書いたりしていました。

この「フレデリック大帝」4部作は、現在なかなか見ることのできない作品です。私も見ていません。35mmプリントは4部とも現存しているようです。第4部だけはDVD-Rでも流通しているようですが、クオリティはかなり悪いようです。

2014年2月18日火曜日

広告に載った九つの映画:フレデリック大帝 (前篇)

フレデリック大帝(1921-22)


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フレデリック大帝
Fridericus Rex

アルゼン・フォン・クセレピィ 監督
Arzen von Cserépy

オットー・ゲビュール、アルベルト・シュタインリュック、エルナ・モレナ 出演
Otto Gebühr, Albert Steinrück, Erna Morena

ギード・ジーベル 撮影
Guido Seeber

アルゼン・フォン・クセレピィ、ハンス・ベーレント、ボビー・E・リュトケ 脚本
Arzen von Cserépy, Hans Behrendt, Bobby E. Lüthge

クセレピィ・フィルム 製作
Cserepy Film Co. GmbH

UFA 配給
Universum Film (UFA)
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これは、1921年から1922年にかけて製作された4部作です。全290分。

第一部 疾風怒濤 (Sturm und Drang)
第二部 父と息子 (Vater und Sohn)
第三部 サンスーシ (Sanssouci)
第四部 運命のいたずら (Schicksalswende)

この映画は、ウーファ史上初めて「政治的問題作」として話題になった作品です。1922年の3月にベルリンのウーファ・パラスト劇場で第一部「疾風怒濤」が公開されたとき、ウーファは、プロシア軍人の服装をさせた男たちをパレードさせるなどかなり過激な宣伝を行いました。この映画の国粋主義的な香りとウーファ設立のいきさつが相俟って、国内の左翼陣営を刺激することになったのです。

ウーファはもともと第一次世界大戦中の1917年、プロパガンダ映画製作を主な目的として、ドイツ銀行が主体となって設立された国策会社です。それが大戦後の1921年に民営化され、ウーファは「共和国的な」 ーすなわち大衆の好みに迎合的なー 性格を帯びるようになります。この時期の有名な作品として、フリッツ・ラングの「ドクトル・マブゼ(1922)」ディミトリ・ブコウスキーの「ダントン(1921)」などがありますが、暗い世相を反映した犯罪者や、歴史スペクタクル、室内劇、社会派ドラマなど、広いテーマを扱っていました。当時のドイツ国内は、その後のヒンデンブルグなどに代表される「帝国派」と社会民主党などに代表される「人民派」に大きく二分されていました。そのどちらに与するともなく、大衆娯楽を提供するのがウーファだと思われていました。ところが、「フレデリック大帝」は、かつてのプロイセン帝国の栄光を賛美し、フリードリッヒ二世を英雄として描いていたのです。明らかに「帝国派」 ーかつてのドイツの栄光を取り戻すー のスタンスの映画です。リベラルの「ベルリナー・ターゲブラット」紙は検閲による上映中止を求め、社会民主党系の「フォアヴェルツ」紙は映画のボイコットを呼びかけました。

しかし、この映画は大ヒットし、皮肉にもその後「プロイセン映画」と呼ばれる一連のジャンル映画を作ることにもなったのです。この映画を含めたプロイセン映画のほとんどで、オットー・ゲビュールが大帝を演じています。最も有名なのは1933年の「Der Choral von Leuthen」です。もともと、プロイセン映画が描いていた保守性と、ナチスの思想は必ずしも相容れなかったのですが、愛国精神の鼓舞という点で非常に使いやすい道具であったのは間違いありません。

この映画の製作したクセレピィ・フィルムは、歴史映画を得意としており、舞台俳優から映画監督に転身したラインホールド・シュンツェルが「マグダラのマリア(1919)」「キャサリン大帝(1920)」などのヒット作を作っていました。「フレデリック大帝」は、アルゼン・フォン・クセレピィ自身が監督した大作です。時代考証が重んじられ、フリードリッヒ・ジーブルグ博士なる人物を呼んで、帝国軍の制服からサンスーシの内装にいたるまで正確に復元されたようです。原作はヴァルター・フォン・モロ、「野卑で、下品な国粋主義者ばかりが出てくる作品」と一部ではけなされていましたが、その後も多くのプロイセン映画が下敷きにしています。

「フレデリック大帝」の上映は、政治闘争の舞台となります。社会民主党や共産党は、「このゴミを上映する映画館は反動的だ」と非難し、上映する映画館は警察の警護を必要としました。しかし、民衆の大多数はこの大作を歓迎し、ベルリンのウーファ・パラストは定員2000人の2倍、3倍の超満員の上映が続きました。映画評論家ハンス・フェルドによれば(1)、

この大衆の熱狂的な人気に(左派が)まともに闘っても勝ち目はなかった。この少数反対派ができることと言えば、歴史的知識に乏しい観衆を混乱させることくらいであったが、これはベルリンなどの大都市のプレミア上映では効果があった。必要なのは(18世紀の)軍服の知識とすばやい反応神経だけ。オーストリア軍、ロシア軍、フランス軍が、スクリーンに登場したら、すぐに拍手大喝采をするのだ。知識に乏しいほかの観客はつられて喝采する。敵に攻め込まれてプロシア兵が退却しているのを拍手して喜んでいたと愚か者たちが気づくのは、字幕が出てきてからだ。

結局、ウーファにとっては「売れるもの」であれば、それが帝国派の反動的な映画であっても、インドの神秘的な伝説であっても、犯罪地下組織のアクションであっても、なんだってかまわなかったのが本当のところです。

(1)Klaus Kreimeier, "UFA Story: A History of Germany's Greatest Film Company, 1918 - 1945"

2014年2月17日月曜日

広告に載った九つの映画 (序)



これは、1925(大14)年9月21日号のキネマ旬報に掲載された広告です。右から読むので読みにくいですが「おゝうるはしの ウフア映画」とあります。ドイツ映画を輸入していた会社の広告で、とくにウーファ(Ufa)社の映画を扱っていたようです。ここにはこの会社が輸入した(あるいは輸入する予定の)9本の映画が宣伝されています。私はウーファの映画、ドイツ表現主義の映画についてはかなり好きでよく見ているつもりだったのですが、これらの映画の中で知っていたのはカール・Th・ドライヤーの「ミカエル」だけでした。1925年ごろと言えば、古典ドイツ映画が頂点を迎える時期です。フリッツ・ラングが「ニーベルンゲン」2部作を完成し、F・W・ムルナウが「最後の人」を撮った時期です。これから「メトロポリス」や「嘆きの天使」が出てくる時です。ウーファが映画史にそれこそ「燦然と輝く」時代です。ですが、ここに挙げられた映画を、私は聞いたこともありませんでした。ここに並んでいる、監督や俳優の名前もあまり耳にしたことがありません。そこで、それをタイトルごとに調べてみました。そこから見えてきた色んなことがあまりに面白いので、ここに書きとめておこうと思います。

ウーファという会社の大まかな歴史については、ウィキペディアに譲るとして(笑)、この時期から1945年にいたるまでのドイツ映画界についてちょっと述べておこうと思います。私たちは、どうしても「巨匠」や「名作」の歴史に眼を奪われがちですし、「問題作」や「汚点」に注意がいってしまいます。つまり、ジーグフリード・クラカワーの「カリガリからヒトラーへ」やロッテ・アイズナーの「The Haunted Screen」のような映画史書、批評書が語り続けてきた、ヴェゲナー、ラング、ムルナウといった巨匠やその名作、リーフェンシュタールのような問題人物のプロパガンダ作品が、この時代のドイツ映画を代表していると思いがちになってしまうことです。もちろん、それらは大作であり、ウーファが全面的にバックアップした作品群ではあるのですが、同時にウーファ、あるいはドイツの観客がそういう好みだったと言うわけではないと思うのです。たとえば、ナチス政権下の映画はすべて「意思の勝利」のような、あるいは「ユダヤ人ズース」のようなプロパガンダ映画だったかと言うと、むしろそういう映画は稀で、大部分の映画は現実逃避的なエンターテーメントだったわけです。

ウーファは、特に芸術映画の根城というわけではなく、この時代のドイツに特徴的な一企業だとおもいます。ワイマール時代は、資本家の保守的な性格をもった利益追求型の企業、そしてナチスの台頭後は、政権に吸収されることに抵抗しきれずに「国家」が要求するものを提供しながら利益を追求する、という道をたどります。「国家」と言っても、なんだか分からない連中が相手です。ヒトラーもゲッベルスも映画が好き。不思議なことに二人とも勇ましいプロパガンダ映画は二の次で、ヒトラーは「(大して面白くも無い)センチメンタルな社会派コメディ」がお好みで、ヴァイス・フェルデルという俳優の「二つの封印(Die beiden Seehunde, 1934)」が特にお気に入り()。ゲッベルスはもう少し映画の好みが高尚で、一応「ユダヤ・ボルシェヴィキの」エイゼンシュタイン監督の作品には一目おいている。二人に共通するのは、美人女優に眼が無いこと。総統は、レナーテ・ミュラーのことを大いに気に入ってしまい、彼女の映画をもっと作るように命令。問題は、彼女には秘密のユダヤ人富豪の恋人がいたことです。ゲシュタポに嗅ぎつかれて、彼女は謎の死を遂げてしまいます。ジェニー・ユーゴは、ヒトラー、ゲッベルス、ゲーリングにいたずらをして射殺されなかった唯一の人間です。ヒトラーに「私は総統だ」と叫ぶオウムをプレゼントしたり、ゲーリングの食事にゴムのソーセージを出したり。ジェニーがいない夜は、特別に撮影された彼女の全裸体操フィルムを総統はご覧になっていたようです()。リダ・バーロヴァ(「メトロポリス」の主役グスタフ・フレーリッヒの元婚約者)に狂ってしまって、ゲッベルスは自殺未遂をしてしまう始末。1920年代後半から敗戦まで、ドイツ映画は女優の時代と言ってもいいかもしれません。リル・ダゴーヴァー、亡命してしまったマレーネ・ディートリッヒ、レニ・リーフェンシュタール、リリアン・ハーヴェイ、ツァラ・レアンダー、マリカ・レックと挙げるときりがありません。彼女たちが、美しく着飾り、歌い、踊り、愛にうつつを抜かす(多くの場合勇敢な軍人に)、そんな映画が大量生産されました。

ジェニー・ユーゴ

リリアン・ハーヴェイの"Ins Blaue Leben (1939)"公開時の
ウーファ・パラスト・アム・ズー劇場

とは言え、文化政策の一環として、政治色が濃い映画も製作されました。そのためにナチス政権はウーファを国有化し、ゲッベルスの配下においたのです。完全に徹頭徹尾プロパガンダの目的で製作された映画は、本当に数えるほどで、歴史上の人物や出来事に沿って、ナチスのイデオロギーを刷り込んだ内容のものがほとんどです。

1925年の段階では、まだナチスはミュンヘンの田舎に巣くっているゴロツキくらいなものです。しかし、この広告に並んでいる作品に関わった人たちが、その後歩む道を考えると、この広告に凝縮された世界が奇跡にようにも感じられます。

ここに挙げられている映画について、ひとつずつ書いていきます。あらかじめ告白しておきますが、私が見たことがあるのはカール・Th・ドライヤーの「ミカエル」だけです。一般にDVDなどで流通しているのは、この作品だけです。「フレデリック大帝」の第四部が非常に低いクオリティのもので出ています。「沈黙の塔」は最近ヨーロッパでリバイバル上映がされています。その他の作品はプリントがアーカイブに存在していることがわかっているものもありますが、大半が行方不明です。調査には、英語、ドイツ語の文献を参考にしました。

() Eric Rentschler, "The Fuhrer's Fake" in Hitler - Films from Germany: History, Cinema and Politics Since 1945edited by Karolin Machtans, Martin A. Ruehl
() , Hitler's Sex Life, Liberty Magazine

 
 
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