「大暴風」
アルウィン・ノイシュ(1879 - 1935)は、ケルン生まれの俳優です。1914年に「バスカビル家の犬」でシャーロック・ホームズを演じて、一躍人気俳優になります。デンマーク、ノルディスクの映画「ジキル博士とハイド氏(Ein seltsamer Fall, 1910)」で主演し、ここでは一人二役をこなします。1914年には同じ題材でドイツ・ヴィタスコープ社で主演。デンマーク版はプリントの存在が確認されていないのですが、ドイツ版は不完全ながらもプリントが発見され、修復されました。1920年代からはノイシュの人気も低迷して、出演映画の数も減ってしまいます。1933年にナチスが政権を掌握した後、ナチス党の労働組合であるNSBOに参加しますが、56歳で世を去ります。最後は忘れ去られてしまった俳優ですが、彼が1910年代に演じていたタイプの役柄は、コンラート・ファイトやロン・チェイニーなどの俳優たちが1920年代以降に演じる怪人の原型にもなっていると思います。たとえば、1914年のノイシュ/ドイツ版の「ジキル博士とハイド氏」のメークアップはスチールで見る限りなかなか衝撃的です。1920年のエーリッヒ・ポマー製作/F・W・ムルナウ監督の「ジキル博士とハイド氏(Der Januskopf)」のスチール(これもプリントの存在が確認されていません)に見られるコンラート・ファイトのメークアップは明らかにノイシュの影響が見られます。彼がデンマーク時代に出演した映画に「東京から来たスパイ(Spionen fra Tokio, 1910)」というのがあって、非常に気になります。そういえば、フリッツ・ラングの「スピオーネ(1928)」も日本のスパイが題材でしたね。

「ジキル博士とハイド氏(Ein seltsamer Fall, 1914)」
左がアルウィン・ノイシュ

F・W・ムルナウの「ジキル博士とハイド氏(Der Januskopf, 1920)」
中央がコンラート・ファイト、
右は(ハリウッドでドラキュラになる前の)ベラ・ルゴジ


「東京から来たスパイ(Spionen fra Tokio, 1910)」

撮影のクルト・シュタンケ(1903 - 1978)は、この映画がカメラマンとしてのデビューです。彼は、この後ドキュメンタリー、ショート・プログラムのカメラマンとして一年に数本のスピードで量産していきます。特に彼が1930年代後半にマルティン・リクリ監督の下で撮影した一連の「プロパガンダ科学映画」というのがあります。「太陽、地球、月(Sonne, Erde und Mond, 1938)」「雲の交響楽(Sinfonie der Wolken, 1939)」「ラジウム(Radium, 1941)」「風の問題(Windige Probleme, 1942)」などの作品で、科学のテーマを取り上げながらも、第三帝国の関心事にいかに科学が役立つかという方へ話が向いていくという映画のようです。マルティン・リクリはチューリッヒ生まれの科学者で、写真化学を専門としていましたが、1920年代よりドキュメンタリー映画の製作に深い関心を持つようになりました。1930年代には、ナチスの庇護の下で多くの科学ドキュメンタリー映画を監督しましたが、戦況が悪くなった戦争末期にはスイスに帰国、以前出版した自伝「私は百万の民のために撮影した」も都合よく書き換えてしまいました。一方、クルト・シュタンケは戦後もドキュメンタリーを撮影し続けたようです。

美術のフランツ・シュレーターは、1925年からカール・フレーリッヒ監督と組んで作品を作ることが多くなりました。もともと精力的な仕事人だったようですが、ドイツ国内の多くの美術監督がハリウッドへ移ってしまったり、ナチスの台頭と共に国外へ逃亡する中、仕事が増え続け、最も人気の美術監督となります。「フリードリッヒ・シラー - 天才の勝利(Friedrich Schiller - Der Triumph eines Genies、1940)」(YouTube)や「オーム・クルーガー(Ohm Krüger、1941)」(YouTube)などが代表作です。戦後は自分の製作会社で短編映画を製作したりしていましたが、ピーター・ローレが「ドイツ映画の黄金時代よもう一度」とドイツに帰国して監督・主演した「失われた男(Der Verlorene, 1951)」(YouTube)で美術を担当しました。

ピーター・ローレ監督・主演「失われた男(Der Verlorene, 1951)」
美術:フランツ・シュレーター