「アイ・ラブ・ルーシー」撮影風景
カメラ手前で光量をチェックしているのがカール・フロイント

この映画のカメラマンとしてクレジットされているのが、カール・フロイント(1890 – 1969)です。「ミカエル」の撮影の時にはF・W・ムルナウの「最後の人(Der Letze Mann, 1925)」の準備に忙しく、大部分を(クレジットされていない)ルドルフ・マテが撮影したとされています。カール・フロイントはドイツ映画界とハリウッドに多大な足跡を残した撮影監督です。1906年に映写技師として働きはじめ、初期の頃からトーキーの実験撮影を行っていました。イタリアの有名なオペラ歌手、エンリコ・カルーソの歌う様子を音とともに残そうとしていました。1908年にニュースカメラマンとしてバルカン半島に派遣され、まさしく第一次世界大戦の勃発を目の当たりにします。徴兵されたものの太りすぎで解除、しかし、戦場に赴いてニュース映画をひたすら撮り続けました。戦後は劇映画に転向します。「ゴーレム(Der Golem, wie er in die Welt kam, 1920)」「メトロポリス(Metropolis, 1927)」「ベルリン:大都会交響楽(Berlin: Die Sinfonie der Grosstadt, 1929)」、ハリウッドに渡ってからは「ドラキュラ(Dracula, 1931)」「巨星ジーグフェルド(The Great Zeigfeld, 1936)」「キーラーゴ(Key Largo, 1948)」などの撮影監督を担当します。1950年代にはテレビに活動の拠点を移し、「アイ・ラブ・ルーシー(I Love Lucy)」を6年近く撮りました。フロイントは、「蜘蛛(Der Spinnen, 1919)」で一緒に仕事をしたものの、フリッツ・ラングをひどく嫌っていました。そのひとつの理由に、ラングの最初の妻の変死は、実はフリッツ・ラング自身が射殺したと考えていたからだという証言があります(フロイントは事件直後にフリッツ・ラングに呼ばれて自宅をおとずれていて、現場を見ています)。それでも、エーリッヒ・ポマーに説得されて「メトロポリス」のカメラを担当することになります。彼は常に新しい技術に貪欲で、「ベルリン:大都会交響楽」ではモーター駆動のカメラを用い、その後イギリスでワイヤー録音システムのテストに立ち会います。ハリウッドに移ったときもテクニカラーのコンサルタントをするためでした。カール・フロイントはハリウッドで何作か監督もしています。そのうちの「マッド・ラヴ(Mad Love, 1935)」は、ピーター・ローレが主演のホラー映画ですが、映画評論家のポーリン・ケイルが「オーソン・ウェルズは、『マッド・ラヴ』のヴィジュアル・スタイルやアイディアを盗んで『市民ケーン』を作った」と批判したこともありました。フロイントは当初テレビの仕事をひどく嫌がったようですが「3台のカメラで同時に撮影する方法を考えてくれるのはあなたしかいない」とプロデューサーに説得され、引き受けます。今でもスタジオ撮影のシトコムは、この「アイ・ラブ・ルーシー」で確立されたライティングが基本になっています。ちなみに、この「ミハエル」では、カール・フロイントは役者としても参加しています。これが最初で最後の映画出演です。


この映画はYouTubeでも見ることができますし、かなり高いですが日本語版のDVDも販売されています。是非とも見てください。