フリッツ・ラングのハリウッド訪問記
「採掘リグとやしの木のあいだで」
Filmland, 1925年1月号

レンテンマルクの導入、ドーズ案とウーファの危機


よく耳にする逸話で、「フリッツ・ラングの『メトロポリス』の製作費がかさんでウーファが倒産しそうになった」というのがあります。決して間違ってはいないのですが、ウーファが危機に陥ったのはあのSF超大作だけが原因ではありません。

1923年11月に、レンテンマルクが導入されます。これは暴落したマルクを一旦停止してレンテンマルク紙幣に置き換えた政策です。これによって急降下していた貨幣価値は一夜にして下げ止まりました。ほぼ同時にアメリカが「ドーズ案」というドイツの賠償金支払い緩和策を提案し、それによってドイツの通貨と物価は安定の方向に向かいます。実はこのドーズ案には、アメリカの産業界がドイツ国内に資本を投下してビジネスを拡大したいという思惑がありました。

映画界にもこのドーズ案の波が押し寄せます。まず、それまで「マルクで儲けてもしょうがない」と手控えていたハリウッドが一挙にドイツ市場に映画を輸出してきます。今までビジネスの拡大と国内市場の事実上の独占で経済危機を乗り越えてきていたドイツ映画界が、世界最大のエンターテーメント産業の攻撃に曝されたわけです。輸入規制で国内市場の40パーセントは国内映画会社が確保できていましたが、それをウーファ、エメルカ、ナショナルなどの企業で取り合っている状態でした[3]。一方で国内の通貨が安定したために映画輸出がハイパーインフレーション期のようなわけにはいかなくなりつつありました。

映画史家ぺーター・バッハリンによると、当時アメリカ国内には22500の映画館があり、1本の映画は平均してのべ1800万から2000万人の観客を呼ぶことができたのに対し、ドイツ国内では5000の映画館で映画一本あたり約400~500万の観客だったそうです。当たり前の話ですが、市場の大きいアメリカのほうが圧倒的に映画製作には有利です。まだ事業拡大の夢から覚めないウーファの経営陣は、「ハリウッドと対抗するには、ハリウッド並みかそれ以上の(豪華な)作品を作ることだ」ということが頭から離れません。エーリッヒ・ポマーとフリッツ・ラングは「ニーベルンゲン二部作」のニューヨーク・プレミアに出席するために渡米、ハリウッドを訪れ、監督に会い、撮影現場を見学し(ラングは特に「オペラの怪人(The Phantom of the Opera, 1925)」に感動したようです)、ハリウッドのように映画を作るにはどうすればいいかを学ぼうとしました。そしてそれが実を結んだのが「メトロポリス(Metropolis, 1927)」だったのです。

しかし、すでに浪費癖のついてしまっていたウーファは、「メトロポリス」に取り掛かる前から赤字を抱えていました。1925年末には3600万マルクの赤字になっていたという数字もあります。この状況では映画を製作することもままならない、そして、それを見越してアメリカのMGM、パラマウントが融資を申し出てきたのです。そうです。「ドーズ案」の目論見がここで発揮されるわけです。ウーファの映画をアメリカで公開するのと引き換えに、ドイツ国内のウーファ直営館でアメリカ映画を公開させろと言ってきたのです。1925年の12月、この契約にウーファはサインします。ウーファはキャッシュが欲しかった。アメリカでの映画公開での外貨獲得が欲しかった。しかし、MGMとパラマウントは、ウーファに麻薬のようにアメリカ資本に依存させ、競争力を失わせることが目的でした。

実はこの時期にアルフレッド・ヒッチコックはドイツーイギリス共同製作の下、当時市場を伸ばしはじめていたドイツのエメルカで監督デビューします。「快楽の園(The pleasure Garden, 1925)」と「山鷲(The Mountain Eagle, 1926)」ですね。これも外国資本(この場合はイギリス)のドイツ国内への投入だったのです。

ウーファの崩壊

 

アメリカ資本との提携は一見、功を奏するかと思われました。しかし、事態は好転するどころか、悪化の一歩をたどったのです。ウーファの巨大プロジェクトはどれも予算をオーバーし、資金を圧迫する一方、頼みの綱だったアメリカ映画からのコミッションがさっぱりだったのです。「黙示録の四騎士(The Four Horsemen of the Apocalypse, 1921)」、レックス・イングラム監督、ルドルフ・バレンチノ主演の、アメリカ国内では大ヒット作だったのですが、MGMはこんなものを持ってきて「売れ線」だと思ったのです。第一世界大戦が舞台で、バレンチノはフランス兵として戦い、甥の嫌なやつがドイツ兵となるという、明らかにドイツ国内でヒットするわけがない映画。いや、こんな場違いな映画を持ってきたMGMの気が知れないのですが、映写技師たちがフィルムをまわすのが嫌だと言いはじめる事態になってしまいました。キング・ヴィダーの「ビッグ・パレード(The Big Parade, 1925)」は、やはり第一世界大戦を舞台に、アメリカ兵とフランス娘の恋を描く映画ですが、これをドイツで封切れと言って来る。ドイツ兵を「フリッツ野郎」と呼び、戦友が目の前でドイツ兵に撃たれる。そんな映画を押し付けてくるわけです。ほとんどパワハラですね。編集してドイツ公開バージョンを作ろうという話まで持ち上がったそうです。こんな感じですから、ウーファ系列でかかるアメリカ映画はどれも不評で、売り上げが見込めない状態が1926年から27年にわたって続いていました。

そして、キャッシュが底をつき、もはやウーファは身売りをするしかなくなってしまったのです。そして、ウーファを買い上げたのが、右派の実業家、アルフレート・ヒューゲンベルクでした。彼は巨大出版グループを経営し、「国策のために」借金まみれのウーファを買い上げるような人物でした。右派政党の国家人民党(DNVP)の国会議員として政治に深く手を染めてもいました。と同時にユダヤ人嫌いでも有名です。また、このウーファの危機に乗じて、I.G.ファーベンも経営に参加します。I.G.ファーベンは、アグファを傘下におさめており、フィルム会社と映画会社が同じ資本によって経営されるという、異例の事態が起きるのです。

(つづく)