J・アーサー・ランク製作「黒水仙(1947)」のオープニング


戦争が終わり、兵士達が帰ってくる

1946年、イギリスの実業家で映画製作者、J・アーサー・ランクと、アメリカの鉄道王、ロバート・R・ヤングが、手を組んで事業に乗り出します。彼らはイーグル・ライオン・フィルムズという映画会社を設立します。そのトップに弁護士のアーサー・クリムをすえ、ワーナー・ブラザーズからブライアン・フォイをプロデューサーとして迎えました。この会社は、映画の未来を見すえようとしていました。しかし、あやふやな基盤と少し早すぎたヴィジョン、何よりも市場の動きを見誤って、4年目には消滅していました。

戦時中、この二人の実業家は、戦争が終わった後のことを考えていました。イギリスのランクは、戦争が終われば、兵士達が帰国し、さらに映画産業が拡大すると予想していました[1]。彼はその機会を逃さず、特に同じ英語圏であるアメリカでの市場を獲得するために、アメリカの映画会社と交渉を重ねます。彼が製作したイギリス映画をアメリカ国内で配給するためです [2]。しかし、MGMやパラマウントといったメジャーには相手にされず、独立系のユナイテッドと交渉を繰り返したものの、メアリー・ピックフォードやチャールズ・チャップリンとのやり取りはひどいありさまでした。結局、彼はさらにその下のランクの映画会社、Poverty Rowと呼ばれるB級映画会社をパートナーとして探すしかなかったのです。

一方でヤングは、戦争が終われば旅行産業がブームになるだろうと考えていました。戦時中はアメリカ国内での旅行が制限されていたため、観光産業は縮小していたのです。戦後の旅行ブームのときにぼやぼやしていると、市場を航空産業に取られてしまう。そう考えた彼は、長距離鉄道事業への投資を始めます。その事業展開のひとつに、長い旅行の間のアトラクションとして映画上映を考えていたようです。そして映画プリントを扱う会社 ーパテ現像所ー を買収します。ところが、取引先のある映画スタジオが現像代を払えなくなり、そのままスタジオごとヤングが買い上げることになります。他のPoverty Rowの会社からさえ「腐ったゴミ」と呼ばれたPoverty Rowの最下層、PRCです [3]。

ランクとヤングは、英国産映画をアメリカ国内で配給する会社としてイーグル・ライオン・フィルムズを興します。一方でPRCの設備を使って映画製作をすることにも乗り出したのです。

PRC製作「The Black Raven (1943)」のオープニング

典型的なPRC作品「ナボンガ(Nabonga, 1943)」


メジャーの独占はいつ終わるのか

イーグル・ライオンのトップに就任したアーサー・クリムは、もともとは映画スタジオをクライアントに持つ有名な弁護士事務所のパートナーでした。彼は当時のハリウッドが独占禁止法に抵触したビジネスをしていることを、長い経験から知っていました。また、ハリウッドの金の流れにも通じており、ビジネスの側面については裏まで知り尽くしていた男です。独占禁止法違反として、1940年にメジャー5社に対して出された判決は、他の中小のスタジオが公平な配給を受けられるようになる道筋となるはずでした。しかし、メジャーはのらりくらりとして、判決に従いません。1945年に更なる独占禁止法違反でハリウッド映画会社8社が訴えられます。クリムはまさにこのタイミングで映画スタジオと配給の会社を任されるのです。彼は、国の判決でメジャー8社が映画館チェーンを切り離さざるを得なくなれば、独立系の製作会社にも有利な配給ができるようになると思っていました。

1946年から製作に着手したイーグル・ライオンでは、ヤングが準備した1200万ドルを元手に6作品を手がけます。そのどれも100万ドル以上の製作費をかけて、メジャーの配給チェーン、すなわち封切りの一番館に配給できるように狙っていました。映画のクオリティを引き上げれば、必ずチャンスはあると考えていたのです。

イーグル・ライオン・フィルムズ製作「虚しき勝利(1948)」のオープニング

うまくいかないビジネス

イーグル・ライオンが当てにしていた目論見は外れるばかりでした。戦後、アメリカ国内での映画の興行成績は無残な状態に陥ったのです。兵士達は帰還しました。しかし、彼らは家庭を持ち、子供が産まれ、夜に映画を行くよりも、家でラジオを聴くようになっていたのです。また、GIビルという制度で、多くの帰還兵は大学に入学、出費を抑えるためにも、映画館から足は遠のいてしまったのです。

映画の配給も、メジャー各社は心を入れ替えようとはしません。実質的なブロック・ブッキングは続き、「クオリティが低い」とPoverty Rowの作品は買い叩かれるか、2番館、3番館でしか興行できない状態が続きます。おまけにメジャー各社がBユニットで2本立て興行の添え物も製作する体制が出来上がり、ハリウッド全体が完全な供給過剰に陥っていたのです。1946-47年のシーズンは、イーグル・ライオンは大幅な赤字に転落、戦略の転換を余儀なくされます。自社での製作はやめ、独立プロデューサーに資金の一部を調達、その配給権を得るというビジネスにするのです。このシステムで、ブライアン・フォイ、エドワード・スモール、ウォルター・ワンガーといった、メジャーから独立したプロデューサーたちがイーグル・ライオンで映画製作をすることになります。そして、大幅に削減された予算のもとで、一連のフィルム・ノワールの作品が誕生します。

第2部につづく)

<注>
[1]J・アーサー・ランクは1944年にイーグル・ライオン配給会社を設立し、世界中に配給網を拡大することに乗り出します。そして、戦時中にもかかわらず、デンマーク、 オランダ、フィンランド、スェーデン、チェコスロバキア、ギリシャ、ルーマニア、ユーゴスラビア、シリア、パレスチナ、アビッシニア、インド、シンガポールなどに支社を設立しました。(Geoffry Macnab, "J. Arthur Rank and the British Film Industry", p.80 [1993] )

[2] J・アーサー・ランクが製作した主要作品リスト
老兵は死なず(The Life and Death of Colonel Blimp, 1943)
ヘンリー五世(Henry V, 1944)
天国への階段(The Matter of Life and Death, 1945)
黒水仙(Black Narcissus, 1947)
赤い靴(The Red Shoes, 1948)

[3] PRCが製作した主要作品リスト
The Devil Bat, 1940
コレヒドール(Cooregidor, 1943)
Nabonga, 1943
まわり道(Detour, 1945)