2014年10月18日土曜日

疲労困憊の3D映画(2)

via. wonderfulengineering
 
50年代とは違うシナリオ

2000年代後半から注目され始めたハリウッドの3D映画のビジネスモデル、あるいは普及のシナリオは1950年代とは違うのだとする意見もあります。Thomas Elsaesser の「The ”Return” of 3D」は、その相違として4点を論じています。

(1)長期的な3D映画の目標は、パーソナルな消費(DVD、ゲーム、スマートフォン etc.)である。
(2)3Dの視覚芸術は(ドルビー・サラウンドなどの)3Dの聴覚芸術を補完する性質のものである。
(3)3Dの視覚芸術は歴史的には2Dに先行していた技術でもあった。
(4)デジタルの3Dは、美学的な見地から「見えない」特殊効果を目指している。

実はこれらは、2000年以降、3D映画が議論される際によく目にする論点です。私はこれらの論点こそ、多くの人が指摘する「3D映画の失速」を物語っているのではないかと思っています。
パーソナルな消費、小さなスクリーンでの3D映画、エンターテーメントの可能性、というのは、実際の3Dディバイスに対する市場の冷ややかな反応を見ると、その可能性は著しく萎んでしまっているとしか言えません。「ニンテンドー3DSは『3Dであるにもかかわらず』売れた」とされ、3Dのスマートフォンはほとんど注目されませんでした。そのような現状は、ディバイス、およびそれに対応したソフトウェアの開発への投資を一挙に鈍らせます。私自身、家庭用の3Dディスプレイに必要な材料の研究開発の現場の状況をわずかながら知っていましたが、結局R&Dや商品戦略を考える上で、「量が出ない」というのは大きなネックとなり、「技術的な差異化」「次世代のディバイス」といった切り口は殆ど意味をもちません。特に3Dディスプレイの場合、仮に商品化したとしても、そこから先に伸びていくマーケットが見えにくいのです。そういう、業界全体の投資が減速し始めると、加速度的に縮小し、おそらく現在では「パーソナルな消費」はほぼ壊滅したといってもいいと思います。

(2)の議論は (1) と整合性がありません。パーソナルな消費が仮に存在したとしても、劇場でのサラウンドシステムを再現するわけではなく、ヘッドフォンを使用したステレオ音響にサラウンド的なエフェクトを施しただけです。また、劇場での鑑賞に絞ったとしても、ドルビーサラウンドが「3D」を構築しているとはとても思えません(著者はなぜかドルビー・ノイズ・リダクションが3Dをもたらしたと言っていますが)。ドルビーのATOMOSは、3D的な音像設計を目指していますが、この普及はこれからです。

1860年頃の3Dステレオグラム

ステレオグラムは、19世紀から絵や写真を立体的に鑑賞するものとして普及し人気がありました。しかし、「先行した」技術であることと、それが継続的なエンターテーメントとして機能するかは別問題です。むしろ、ステレオグラムやそれに類するノヴェルティは立ち消えることなく、ずっと映画やTV、ビデオやネット動画と並行して存在し続けていたことを考えると、なぜそのノヴェルティの位置から抜け出せないでいるかを考える必要があります。

Elsaesserは次のように言います。

3-D を、アトラクション映画ではなく、空間の奥のほうから物を投げたり驚かせたりするものではなく、デジタル画像の柔軟性やスケーラビリティや流動性、その曲面性を、音響と視覚の空間に導入し、物語の統合へむけた新しい映画の最先端と考えてみてはどうだろうか。水平線をなくし、消失点を宙に浮かせ、距離を淀みなく変化させ、カメラを解き放ち、観察者を恍惚とさせる - そうすれば、その美的可能性は、スーパーヒーローやおもちゃやSFファンタジーに飢えた子供たちくらいしか喜ばない馬鹿げた話以上のものを語れるようになるだろう。

著者の呆れ果てたスノビズムを度外視しても、本当に3D映画が物語り -Narrative- に新しい地平を開くのかどうか、考える必要があります。正確に言うと、3Dがもたらす新しい物語りが、3D によって失われる物語りよりもはるかに魅力的か、ということです。アナロジーで言うなら、サイレントからトーキーに移行したときに失われた物語りと得られた物語りで、トーキーによって得られたものが「美的可能性」の上においても十分魅力のあるものだったが、それと同じことが3Dにも言えるだろうか、という問いです。

私は、この問いに答えるためには、3D映画はまだ十分に可能性が探られていないと考えます。Elsaesserもあげている「Cave of Forgotten Dreams (2011)」などは、その可能性を探索する一歩だとは思いますが、多くの3D映画は、まだその文法を把握することで精一杯だといわざるを得ない。典型的な例が、マイケル・ベイの「Transformer: The Age of Extinction (2014)」でしょう。彼は非常に短いカットをつなぐことで、彼のファンが好むダイナミズムを生み出していたわけですが、3Dではあまりに短いカットでは観客がショットのパースペクティブに慣れることができない。そのため、この映画では彼は5秒以上のショットを重ねるように心がけていたわけです。すなわち、マイケル・ベイは2Dで「魅力的に」使いこなしていた物語りができなくなったのです。その代わりに得たものはどれくらいだったのでしょうか?


ここで、マイケル・ベイを美学的な観点で語るのはおかしいだろうという意見もあるかもしれません。しかし、Elsaesserのいうところの「スーパーヒーローやおもちゃやSFファンタジーに飢えた子供たちくらいしか喜ばない馬鹿げた話」でさえ、語り方を模索しているときに、それ以上の語りを模索することをもって3Dの優位性を位置づけるのは、議論として説得力がないと思うのです。

私が強く感じるのは、「どうしたら3D映画は離陸できるのか」ということの筋道が見える前に、経済のダイナミックスで3D映画が消える、あるいは限られた役割しか与えられなくなるのではないかということです。Immersion -没入ー の側面に強く依存していた3D映画の市場開発のシナリオが、次の一手を打つ前に息切れしてしまっていると見えるのです。

(3)に続く

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