2015年3月25日水曜日

「スナイパー」-フィルム・ノワールから新しい時代への入り口

「スナイパー(1952)」UNKNOWN HOLLYWOODオリジナル予告編

  次回の「知られざるハリウッド映画」で上映予定のエドワード・ドミトリク監督「スナイパー(The Sniper, 1952)」は、サンフランシスコを舞台としたフィルム・ノワールの佳作だ。この作品は、調査した限り日本で公開された形跡がみられず、現在でも日本国内でDVD等で見ることができない作品である。

  舞台は第二次世界大戦後のサンフランシスコ。ブルネット(黒髪)の女性を狙った無差別殺人が次々と起こる。犯人はビルの屋上や物陰からスコープ搭載のライフルで狙い撃ちをしているのだ。サンフランシスコ市警は、次々と起こる殺人を前に市民の批判を浴びはじめる・・・。

  エドワード・ドミトリク(1908 - 1999)は「ケイン号の叛乱(The Caine Mutiny, 1954)」、「山(The Mountain, 1956)」といった大作も有名だが、私としては「ブロンドの殺人者(Murder, My Sweet, 1944)」や「影を追う男(Cornered, 1945)」などのスタイリッシュなフィルム・ノワールの作品が特に印象深い。「ブロンドの殺人者」はそれまでロマンチック・コメディーやミュージカルの甘い役が多かったディック・パウエルを、ハードボイルドのシンボル、フィリップ・マーロウに仕立て上げるという離れ業をやってのけた演出力が見事だ。「十字砲火(Crossfire, 1947)」は、人種差別問題を扱った、当時としてはセンセーショナルなスリラーとして歴史的にも重要な作品である。ロバート・ライアン演ずるモントゴメリーの正体が少しずつ暴かれていく様子は血も凍る。


  一見順調に見えたドミトリクのキャリアだったが、1940年代後半の赤狩りのさなか、共産党に一時期在籍していたことが非アメリカ的活動を行っていたと糾弾され、「ハリウッド・テン」の一人として投獄されてしまう。1951年4月に「転向」を表明、HUACの公聴会で、他の共産党メンバーの名前を挙げた。転向後、ハリウッド映画界に復帰して最初に監督した作品が「スナイパー」である。「スナイパー」で警部役として登場するアドルフ・マンジュー(1890 - 1963)は赤狩りで最も強硬だった右派の俳優。率先して公聴会で証言し「共産党員は全員ソ連に行け」と言い放ったりとしたのだが、その彼が「元共産党員」のドミトリクの作品に登場しているのもなかなか味わい深い。撮影中は特に大きな衝突もなかったようだ。

  「スナイパー」はその大部分がサンフランシスコでロケーション撮影されている。しかし、1940年代に20世紀フォックスで製作されたセミ・ドキュメンタリー風の「ブーメラン(Boomerang!, 1947)」「出獄(Call Northside 777, 1948)」あるいは「裸の町(The Naked City, 1948)」とも異なる風景の切り取り方をしているように感じる。撮影監督はバーネット・ガフィー(1905 - 1983)。「地上より永遠に(From Here to Eternity, 1953)」「俺たちに明日はない(Bonnie and Clyde, 1967)」で二度アカデミー賞を受賞しているハリウッドを代表する撮影監督だ。ガフィーの白黒映画における独特のアプローチ -弱いコントラスト、全体にグレーを基調とした画面ー は有名で、この作品でもその美学が遺憾なく発揮されている。フィルム・ノワールというと、ジョン・オルトンやジーン・ネグレスコに代表される陰影の強い照明(キアロスクーロ)とディープ・フォーカスを要素とした映像を思い浮かべがちだが、ガフィーの映像はその対極にある。砂を噛んだような(gritty)灰色に荒された世界。ファム・ファタルの妖艶な輝きや裏切りのナイフのような鋭い影 -まさしくハリウッドによってグラマライズされた世界ー とは無縁の、普通の人間が孤独に日々を過ごす灰色の都会を写し取るこのような映像こそ、その後のハリウッド映画に別次元のリアリズムを与えることになった。「スナイパー」を見ていただければ分かるが、装飾が失われて大衆化していく都会の風景が容赦なく切り取られている。そのスタイルは、1952年と言うよりは60年代を髣髴させる。


  サンフランシスコは坂の多い土地だ。この土地が持つ高低差に加え、連続殺人犯が獲物を狙う高低差、ビルの屋上からの眺望、観覧車の高さ、といった「高/低」に支配された構図が随所に現れてくる。不思議なことに高さからくる開放感よりも、高いものに阻まれたクローストロフォビック(閉所恐怖症)な強迫や、地に足が着いていない不安定な浮遊感を感じてしまう。背景に高い建造物のシルエットを配置する広めの奥行きのある構図とともに、視野をぐっと絞ったタイトな構図もある。広角と長めのレンズを縦横無尽に使いながらサンフランシスコの町が実に多彩な角度から切り取られていく。同じくサンフランシスコを舞台とした「ブリット(Bullitt, 1968)」や「めまい(Vertigo, 1958)」と比較しても面白いだろう。


  主人公を演じるアーサー・フランツ(1920 - 2006)は、特にTVドラマの手堅い性格俳優として重宝された。「ペリー・メイスン」「ローハイド」などに出演している。メアリー・ウィンザー(1919 - 2000)は大きな眠そうな瞳と175cmという大柄な体躯が印象的な女優。フィルム・ノワールにも多く出演している。注目したいのはジェラルド・モー(1914 - 1968)、この作品ではアドルフ・マンジューの部下で少し皮肉屋の刑事を演じている。彼は1930年代から50年代にかけて、実に500以上のラジオ番組に出演しており、多くのリスナーにとって、彼こそフィリップ・マーロウ、ネロ・ウルフ、ホイッスラーといったハードボイルドの「声」だった。「スナイパー」では、その風貌も手伝ってか「ハンフリー・ボガートの真似をしている」といわれることもあるが、どうだろう。彼もその後TVドラマで活躍するが54歳の若さで亡くなってしまう。


アーサー・フランツ
メアリー・ウィンザー

アドルフ・マンジュー
ジェラルド・モー


ジェラルド・モー主演の「フィリップ・マーロウの冒険」ラジオ番組  

  「スナイパー」の中でTVが話題になったり、プロットのカギとなったりするシーンがいくつかある。今回字幕を制作するうえで、当時のTV放送の状況を知る必要があって調査したのだが、1952年当時すでにアメリカではTVが大衆文化の一端として浸透しつつあった。なかでもスポーツの放送は非常に人気が高かったが、それは当時のTV放送においては録画放送のハードルが高かったことも一因だ。とはいえ、放送用のビデオテープシステムの開発が進み、テレビドラマが人気を博するようになるまであと数年。この映画は、TVそのもの、そしてTVが象徴するような、都会に生きる人間の新しい孤独の風景を切り取って見せている。この四半世紀後、トラヴィス・ビックルがTVをけり倒す、その入り口が見えている。

第5回「映画がアメリカンサイコを作った」
2015.4.5. Sun. 17:00開場 17:30開演
原宿 千駄ヶ谷 映画24区スタジオ(Webサイト
短編映画併映
オリジナル日本語字幕付

上映後「映画がアメリカンサイコを作った」トーク
MC:角田亮、Murderous Ink

2015年3月18日水曜日

アレキサンダー・ハミッドの「あてなき彷徨」

  マヤ・デレンの「午後の網目(Meshes of the afternoon, 1943)」を知っている人も多いだろう。共同監督として名が挙がっているアレキサンダー・ハミッドは「マヤ・デレンの夫」としてまず紹介される。しかし、彼自身も、その生涯にわたって新しい映像技術に挑戦し続けた映像作家である。その彼の処女作が「あてなき彷徨(Bezucelná procházka, 1930)」である。この作品はチェコスロバキアの実験映画の始まりと言われている。

 

  プラハの街。路面電車。男。そして路面電車は男を郊外へ連れて行く。わずか8分程度の作品だが、手持ちカメラの映像と鋭い編集が澱むことの無い流れを作っている。当時のフランス、ドイツ、ソ連の映像芸術からの影響も勿論見えるが、構図やシルエットの撮り方は非常に新鮮だ。

  アレキサンダー・ハミッドはIMDBによれば本名アレキサンドル・ジーグフリード・ゲオルグ・シュマエル(Alexander Siegfried Georg Smahel)、オーストリア・ハンガリー帝国のリンツに1907年に生まれた。1930年代にチェコスロバキアの前衛映像運動の旗手として注目され、「あてなき彷徨」のほかにも「プラハの城(Na Prazském hrade, 1931)」を監督・撮影している。これはぜひとも見たい作品の一つだ。この頃はアレキサンドル・ハッケンシュミードという名で活動している。この作品の製作はラディスラフ・コルダ。戦前のチェコ映画界における重要な役割を果たした人で、ヘルミーナ・ティールロヴァーなどの作家を支持し、チェコ人形アニメの基礎を築いたと言われている。

プラハの城(1931)

  靴のブランドで有名なバタ(Bata)の経営者、ヤン・アントニン・バタが、1930年代に映画撮影所バタ・フィルム・スタジオを設立する。そのスタジオは若い映像作家達を呼んで様々な作品を製作させたが、ハミッドはその中心的人物だった。そのスタジオの作品はコマーシャルも多く、その作品のひとつにアレキサンダー・ハミッドと若きエルマール・クロスが監督したタイヤのコマーシャル「ハイウェイは歌う(Silnice zpivá, 1937)」がある。

ハイウェイは歌う(1937)
  さらにナチスのズデーテン地方の分割から存亡の危機に陥ったチェコスロバキア政府が製作した「危機(Krize, 1939)」の共同監督もつとめた。この後、ナチスのチェコ併合とともにハミッドはアメリカへ亡命、マヤ・デレンと出会うのだ。

  実は、UNKNOWN HOLLYWOODの第3回「封印されたプロパガンダ」のトークの際に使用した資料映像のひとつ、「国家の賛歌(Hymn of Nations, 1944)」はアレキサンダー・ハミッドが監督だった。すっかり見落としていた。


  彼はその後もドキュメンタリーの分野で活躍し続ける。1960年代に「トゥ・ビー・アライブ!(To Be Alive!, 1964)」という同時に3画面に映写する作品を監督、さらに1976年にIMAXフォーマットのドキュメンタリー「トゥ・フライ!(To Fly!, 1976)」の編集も担当している。

  しかし、この映画作家達の有機的なつながりはなんだろう。IMAXからチェコアニメまで。その中心にアレキサンダー・ハミッドはいる。

"Alexander Hammid", MUBI
"Modernity and Tradition; Film in Interwar Central Europe", A film program offered in association with the exhibition Foto: Modernity in Central Europe, 1918 - 1945, at the National Gallery of Art, Washington, 2007
"Ladislav Kolda", fbz.cz
"The Birth of IMAX", Diane Disse

2015年3月14日土曜日

列国の愉楽(1929)

1929年にヨーロッパの芸術映画サークルでちょっとした話題になったアマチュア作品がある。”The Gaiety of Nations”という題名だが、ここでは「列国の愉楽」と呼ぼう。


この作品は第一次世界大戦を挟んだ欧米の歴史を表現した11分程度のものである。A・H・アーン(A. H. Ahern)とジョージ・H・シューエル(George H. Sewell)の二人によって作られた作品なのだが、冒頭の字幕にあるように「15フィート×11フィートの部屋の中ですべて撮影(一つのショットを除いては)」されたという。8畳ちょっとのサイズの部屋だ。


厚紙を切り抜いて作った街並み、新聞や株取引の黒板といった小道具を用いて、巧みにストーリーを展開していく。シルエットやキアロスクーロに比重を置いた照明、極端なクローズアップ、手持ちカメラ、数フレームまでそぎ落とした編集など、サイレント末期当時の映画テクニックをふんだんに盛り込んでいる。


特に戦争の場面は「厚紙で作った」ことが誰の眼にも明らかだが、なにか禍々しい衝撃を残していく。戦車が現れるシーンなどは構図として隙無く嵌っていて、「物語り」のクリシェをなぞることで逆に我々の想像力を刺激している。

ジョージ・H・シューエルはアマチュア映画のパイオニアとして知られているようだ。シューエルとアーンが1924年に製作した「Smoke」という短篇(35mm)は、どんでん返しのエンディングがその後のアマチュア映画に影響を与えたといわれている。


【参考】
"Small-Gauge Storytelling: Discovering the Amateur Fiction Film, Ryan Shand"、Ian Craven (2013)

Close Up、1929年 10月号 


2015年3月12日木曜日

オスカー・フィッシンガーの徒歩の旅

UNKNOWN HOLLYWOODの第1回に来ていただいた方は、この短篇フィルムを覚えていらっしゃるだろう。


これは、ラッキー・ストライクのコマーシャル(1948)だ。実は、これはオスカー・フィッシンガー(Oskar Fischinger, 1900 - 1967)が戦前1930年代にドイツで製作したタバコのコマーシャルの真似だということを知った。ムラッティというブランドのタバコのコマーシャルが1934年と1935年に製作されている。これは実は以前日本でレーザーディスクで発売されていたようだ。

オスカー・フィッシンガーは抽象映像芸術の先駆者であり、その後のヴィジュアル・アーツに大きな影響を与えたと言われている。1920年代から、ヴァルター・ルットマンと交流があり、お互いを刺激する関係にあった。フィッシンガーの仕事で有名なのはフリッツ・ラングの「月世界の女(Frau im Mond, 1929)」の特殊効果である。月面や宇宙空間、そしてロケットなどのヴィジュアルを提供した。その頃、彼自身はスタディーズと呼ばれる、紙に炭で描いたアニメーションを製作している。これらは音楽と同期させて鑑賞することを目的としており、映像史上初のMTVとも言えるかもしれない。



フィッシンガーが1920年代に発明した装置に「ワックス・スライシング・マシーン」がある。これはワックスで作成されたオブジェをスライスしてその断面を1フレームずつ撮影していくものである。これで製作された作品が「ワックス・エクスペリメンツ(Wax Experiments)」と呼ばれている。


彼の作品をもっと知りたいと思うが、なかなか見る機会はなさそうだ。特に彼の作品を管理している、フィッシンガー・トラストが多くの作品を再リリースしていない現状では致し方ない(特に彼が製作したコマーシャルなどは、フィッシンガー自身の遺志によるところも大きいようだ)。そんななかで現在全編見ることが出来て、なおかつ非常に興味深いのが「ミュンヘンからベルリンまで徒歩の旅(Munchen-Berlin Wanderung, 1927)」である。家賃が払えなくなってベルリンに逃避行したときの徒歩の旅程で得られた映像を映画にしたものである。これは見る機会があればぜひ見てみたい。



この抜粋を見て思い出したのが、2002年ごろから数年間、マイクロソフトが研究開発していた「マイライフビッツ(MyLifeBits)」で導入されたセンスカム(SenseCam)である。 マイライフビッツは、自分の人生をすべて記録して保存するシステムを提供しようというプロジェクトで、ゴードン・ベルが自身でそれを実践していたのだが、そのときに首からぶら下げてタイムラプス映像を取り続けるカメラがセンスカムである。これがその例である。


最近は自撮り棒で自分のビデオを撮るのが流行っているが、以前は外界を撮ることに熱中していた時期があった。このセンスカムとそのアイディアは、実はアルツハイマー病や記憶喪失などの記憶障害の患者のために利用されている。その日一日の行動を記録したものを後で見直すことで、記憶の復帰を刺激することができるとされている。

「ミュンヘンからベルリンまで」を記録した、そのときの記憶の持ち主はもういないのだが、その映像は私達に別の経験を与えてくれる。それはどういうことなのだろうか。私は「他人が撮った映像」「自分が撮った映像」を見るという行為のはじまりについて、もう一度最初から考え直さないといけないようだ。

2015年3月11日水曜日

ハンス・カスパリウスの「ヒデンゼー(1932)」

英国の映画雑誌「Close-Up」の1932年9月号に掲載されていたスチール写真に眼を惹かれた。



ドキュメンタリー映画「ヒデンゼー(Hiddensee, 1932)」からのもの。監督はハンス・カスパリウス(Hans Casparius)。ヒデンゼーはバルト海の孤島だ。そこを舞台としたドキュメンタリーだと思われる。思われる、というのも、この映画についての情報がほとんど見つかっていないからだ。



ハンス・カスパリウスの映画界における活動は、G.W.パブストの「三文オペラ(1931)」などにスチール写真家として参加していること、戦後「サイモン(Simon, 1954)」という短編映画をイギリスで製作したことくらいがIMDBに掲載されている程度である。この「ヒデンゼー」というドキュメンタリー映画についてはリストされていない。



カスパリウスは、写真家として1920年代からナチス台頭前のベルリン、そしてその後ロンドンで活躍しているようである。ジグスモンド・フロイトの肖像写真のひとつも彼のクレジットになっている。

彼のベルリン時代の写真は、街の何気ない風景をスナップした作品だ。対象を瞬時にとらえたようなものが多い。けれども、陽光に満ちた白とそれが落とす影とがしっかりと刻まれ、そのコントラストが魅力的だ。









ちなみに、短編映画「サイモン」はショーン・コネリーが映画出演した二作目らしい。また、カスパリウスが監督・製作した、スコットランドを舞台にしたドキュメンタリー映画「You Take the High Road (1950s)」は、ここで見ることができる。

 
 
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