マヤ・デレンの「午後の網目(Meshes of the afternoon, 1943)」を知っている人も多いだろう。共同監督として名が挙がっているアレキサンダー・ハミッドは「マヤ・デレンの夫」としてまず紹介される。しかし、彼自身も、その生涯にわたって新しい映像技術に挑戦し続けた映像作家である。その彼の処女作が「あてなき彷徨(Bezucelná procházka, 1930)」である。この作品はチェコスロバキアの実験映画の始まりと言われている。

 

  プラハの街。路面電車。男。そして路面電車は男を郊外へ連れて行く。わずか8分程度の作品だが、手持ちカメラの映像と鋭い編集が澱むことの無い流れを作っている。当時のフランス、ドイツ、ソ連の映像芸術からの影響も勿論見えるが、構図やシルエットの撮り方は非常に新鮮だ。

  アレキサンダー・ハミッドはIMDBによれば本名アレキサンドル・ジーグフリード・ゲオルグ・シュマエル(Alexander Siegfried Georg Smahel)、オーストリア・ハンガリー帝国のリンツに1907年に生まれた。1930年代にチェコスロバキアの前衛映像運動の旗手として注目され、「あてなき彷徨」のほかにも「プラハの城(Na Prazském hrade, 1931)」を監督・撮影している。これはぜひとも見たい作品の一つだ。この頃はアレキサンドル・ハッケンシュミードという名で活動している。この作品の製作はラディスラフ・コルダ。戦前のチェコ映画界における重要な役割を果たした人で、ヘルミーナ・ティールロヴァーなどの作家を支持し、チェコ人形アニメの基礎を築いたと言われている。

プラハの城(1931)

  靴のブランドで有名なバタ(Bata)の経営者、ヤン・アントニン・バタが、1930年代に映画撮影所バタ・フィルム・スタジオを設立する。そのスタジオは若い映像作家達を呼んで様々な作品を製作させたが、ハミッドはその中心的人物だった。そのスタジオの作品はコマーシャルも多く、その作品のひとつにアレキサンダー・ハミッドと若きエルマール・クロスが監督したタイヤのコマーシャル「ハイウェイは歌う(Silnice zpivá, 1937)」がある。

ハイウェイは歌う(1937)
  さらにナチスのズデーテン地方の分割から存亡の危機に陥ったチェコスロバキア政府が製作した「危機(Krize, 1939)」の共同監督もつとめた。この後、ナチスのチェコ併合とともにハミッドはアメリカへ亡命、マヤ・デレンと出会うのだ。

  実は、UNKNOWN HOLLYWOODの第3回「封印されたプロパガンダ」のトークの際に使用した資料映像のひとつ、「国家の賛歌(Hymn of Nations, 1944)」はアレキサンダー・ハミッドが監督だった。すっかり見落としていた。


  彼はその後もドキュメンタリーの分野で活躍し続ける。1960年代に「トゥ・ビー・アライブ!(To Be Alive!, 1964)」という同時に3画面に映写する作品を監督、さらに1976年にIMAXフォーマットのドキュメンタリー「トゥ・フライ!(To Fly!, 1976)」の編集も担当している。

  しかし、この映画作家達の有機的なつながりはなんだろう。IMAXからチェコアニメまで。その中心にアレキサンダー・ハミッドはいる。

"Alexander Hammid", MUBI
"Modernity and Tradition; Film in Interwar Central Europe", A film program offered in association with the exhibition Foto: Modernity in Central Europe, 1918 - 1945, at the National Gallery of Art, Washington, 2007
"Ladislav Kolda", fbz.cz
"The Birth of IMAX", Diane Disse