2015年7月12日日曜日

『マイホーム騒動記(1942)』





次回のUNKNOWN HOLLYWOOD上映作品は『マイホーム騒動記(1942)』。都会のアパート暮らしが気に入っている夫(ジャック・ベニー)と、とにかく由緒正しい歴史のあるものが好きな妻(アン・シェリダン)。その妻が、二百年前の崩壊寸前の田舎の一軒家を夫に黙って購入。初代大統領が泊まった家だと聞いて、すっかりのぼせ上がったのです。曲者の隣人プレスコット、曲者すぎて怖可笑しい地元民キンバー、移り気すぎる妹にどケチな叔父。ちょっと普通じゃない人たちが、皮肉屋ジャック・ベニーの皮肉を焼いて食う、そんな映画です。



原題は "George Washington Slept Here"ージョージ・ワシントンがここで寝たーです。「ここで寝た」とは「この家に泊った」という意味。不動産業界では、歴史上の人物と関わりがある土地や家にプレミアがつく傾向にありますが、アメリカの不動産業界でもそれは同じ。「セオドア・ルーズベルトが泊まった家」「ジュディ・ガーランドが泊まった部屋」というのは、それだけで価値が高くなります。そんな中でも「ジョージ・ワシントン初代大統領が泊まった家」というのは、不動産業界の決まり文句のようになっているそうです。ティモシー・フットによれば、ジョージ・ワシントンは1750年代は「最初は地理調査のために、その後は植民地軍士官として」西部を彷徨し、ヴァージニア州のマウント・ヴァーノンにプランテーションを所有した後も、大陸議会に出席するためにフィラデルフィアに住み、独立戦争後に初代大統領になってからは「心許ない新しい合衆国の国民」たちに直接会うために、各地で遊説を行い、「数限りない旅館や宿」に泊まったといわれています。だからこそ、信憑性があり、また同時に真偽が確かめにくい「ブランド」として不動産売買で流通してしまったのでしょう。

バイオリンを弾くジャック・ベニーとハリー・トルーマン元大統領(1959)
Wikipedia
『マイホーム騒動記』の焦点は、なんと言ってもジャック・ベニーです。日本では、エルンスト・ルビッチ監督の『生きるべきか死ぬべきか(To Be Or Not To Be, 1941)』のハムレットを演じたがる役者ジョセフ・トゥーラの役が有名ですが、一方でそれ以外の活動はあまり知られていないのではないでしょうか。彼は1930~40年代にラジオ番組で人気を博し、その後1950年代にTVに移行していった、コメディアン、俳優です。1910年代にボードビル芸人としてデビュー、マルクス兄弟とも交流がありましたが、1932年にカナダ・ドライが提供するラジオ番組に主演して以来、彼の出演するラジオ番組は大成功を収め続けたのです。

ジャック・ベニーはボードビル出身だが、彼のユーモアのスタイルはラジオに適していた。彼のコメディは身体的な笑いには頼っていない。彼のコメディは、彼が何を言ったか、どういう風に言ったか、そして何よりも大事なのは何故言ったか、である。
ベニーはコメディの中で、彼が演ずるキャラクターが(視)聴者の心の中にしっかりと焼きつくような、そういうアプローチをとった。そのキャラクターとは、いつも安っぽくて、ケチで、見栄っ張りだ。

"Radio Live! Television Live!: Those Golden Days When Horses Were Coconuts" Robert L. Mott (2003)

「命か、金か」と強盗されても、「ちょっと考えているから待ってろ」と言ったり、高尚なオペラの話に加わろうとして「うるさい!」と言われる・・・・そういったキャラクターを作り上げて、30年にわたって、アメリカのマスコミを代表するエンターテーナーに君臨していました。当時のラジオ番組は「ラッキー・ストライク・プログラム、主演ジャック・ベニー」と言う風にスポンサーとなっている会社の製品が番組のタイトルだったのですが、1940年代に「ジェル-O・プログラム」を彼が担当した時には、あまりに人気が出てしまってジェル-O(インスタントのゼリー)が爆発的に売れて生産が間に合わなかったそうです。彼は番組のスポンサーと良好な関係を保つことを何よりも最優先させ、広告会社ともタイアップしてギャグやスキットを考える、といったビジネスマンでもあったのです。

監督のウィリアム・ケイリー(キーリーと発音するようです)もあまり馴染みのない映画監督かもしれません。しかし、1930年代にはワーナー・ブラザーズのギャング映画、1940年代にはコメディを監督して堅実にヒットを飛ばしています。意外にも『情無用の街(Street With No Name, 1948)』というギャングもののフィルム・ノワールの佳作も残していて、ギャング映画のジャンルではなかなか手堅い作風を見せています。この監督も映画界よりもラジオに軸足を移していきました。しかも番組の監督ではなく、英国アクセントでしゃべる司会者として40年代の後半は活躍していました。

原作はジョージ・S・カウフマンとモス・ハートの舞台脚本です。この戯曲家チームは『我が家の楽園(You Can't Take It with You, 1936)』『晩餐に来た男(The Man Who Came to Dinner, 1939)』などのコメディをブロードウェイで大ヒットさせました。『我が家の楽園』はピュリツァー賞も受賞しています。『我が家の楽園』はフランク・キャプラが1938年に、『晩餐に来た男』はウィリアム・キーリーが1942年に映画化しました。コーエン兄弟の『バートン・フィンク(Burton Fink, 1991)』の主人公、バートン・フィンクは、ジョージ・S・カウフマンの風貌にインスパイアされています。

ジョージ・S・カウフマン

バートン・フィンク(ジョン・タトゥーロ)

『マイホーム騒動記』、実は原作のブロードウェイ戯曲では、夫と妻の役割が逆なのです。戯曲では、夢見がちな夫が勝手に「ジョージ・ワシントンが泊まった家」を購入してしまうのです。ではなぜ役割を逆転させたのか。ジャック・ベニーがラジオで作り上げてきたペルソナを、映画に生かすためなのです。この映画化の段階での役割の逆転は、当時の映画界とラジオ界との関係を考える上で非常に示唆的です。当時のハリウッド映画界は非常に強大で影響力のあるものでしたが、一方では舞台、ラジオ、そしてその後はTVの持っている影響力を推進力として利用していた部分もあったのです。とはいえ、ラジオ番組のジャック・ベニーをそのまま持ってきたわけではない。これは、ジャック・ベニーのペルソナを生かしながらも、ハリウッドの解釈を加えながら練り出したキャラクターです。

『生きるべきか死ぬべきか』

例えば、『生きるべきか死ぬべきか』のジャック・ベニーの役柄は、ラジオのペルソナからは更に距離があるけれども、決して無関係ではない。このことは映画の脚本にもしっかり現れていて、ジャック・ベニーが演じるキャラクターについて、「なぜ言ったか」を常に意識するような、そしてその「なぜ」が全部キャラクター自身に跳ね返ってくるような、そういう仕掛けが常に用意されている。ジャック・ベニーはそういう意味で、非常に典型的なアメリカのエンターテイナーだと言えるでしょう。

ハティ・マクダニエル


『マイホーム騒動記』で家政婦へスターの役を演じるハティ・マクダニエルは『風と共に去りぬ(Gone With The Wind, 1939)』でも家政婦を演じていたのでご存知の方も多いでしょう。彼女は『風と共に去りぬ』で、黒人で初めてアカデミー賞(助演女優賞)を受賞しました。また、彼女は自分が主演のラジオ番組を持った初めての黒人でもあります。『ベウラ(Beulah)』は1947年から始まり、50年代にはTVに移行して続いた長寿番組です。もともとは30年代に白人が演じていた黒人家政婦のキャラクターを独立させて番組とし、マクダニエルが1952年まで主演しました。ところが、その黒人、特に黒人男性の描き方が非常に差別的であると批判を受けてしまいます。今となってはその後のTV番組も含めて、「政治的に正しくない」番組として忘れ去られています。

『ウチの亭主と夢の宿』

『マイホーム騒動記』に非常に良く似たハリウッド作品として『ウチの亭主と夢の宿(Mr. Blandings Builds His Dream House、1947)』という、ケーリー・グラント、マーナ・ロイ主演のコメディがあります。ニューヨークのアパートに住んでいた夫婦がコネチカットの田舎に独立戦争時代からあるボロ家を買ってしまう、という話です。ケーリー・グラントもマーナ・ロイも生粋のハリウッド俳優ですから、ハリウッド映画のロジックでキャラクターが組まれています。だから、明快で「映画的な」笑いが多くありますが、ジャック・ベニーのぐるっと回って自分に飛んでくる皮肉のような後味はありません。見比べてみるのも面白いでしょう。




2015年7月2日木曜日

動くカメラ (8)

『戦艦くろがね号』で使用された船上撮影用リグ
『戦艦くろがね号(Old Ironsides, 1926)』は、19世紀の地中海で海賊船と戦う帆船を舞台とした歴史活劇です。この映画のアクションシーン撮影の大部分は実際の船の上で行われました。撮影監督のアルフレッド・ギルクスは、ここで特別な装置を開発します。油圧で調整されたリグで、この上に三脚で固定されたカメラを設置しています。

ギルクスは、船の甲板の上に普通に三脚を立ててカメラを置くと、船の揺れが表現できないと考えました。

『戦艦くろがね号』の大部分は航行中の船上で、しかも実際の嵐のなかで撮影されるため、船の実際の揺れを自然にスクリーン上で表現することが望まれていた。
デッキ上に三脚を「打ち付け」たり、そうでなくても船に固定したりしてしまうと、これは不可能だ。そのようなセットアップでは、カメラは船の一部となってしまう。カメラの動きは船の動きと同期してしまう[1]。

それまでも揺れている船で撮影するためのカメラ用アタッチメントはあったようですが、これはバネでカメラを支持するタイプのもので、慣性がつきすぎてしまうという問題がありました。そこで、甲板の外にぶら下げるリグを作り、その吊りを油圧で調節していたのです。こうすれば、リグは船とは独立しますが、慣性による過度な揺れも油圧の調整によって抑えることができます。

この映画では、パンクロマチック・フィルムが使用されています。1920年代前半まで使用されていたオルトクロマチック・フィルムでは、空は白く映ってしまうため、空と海の境の水平線がはっきりしないのですが、パンクロマチックではそれがはっきりと出るようになります。つまり、『戦艦くろがね号』では水平線が船の背景に映し出されるのです。ギルクスは、固定された前景(甲板上)に対して、水平線が乱暴に動くだけでは「船の揺れ」を表現できないだろう、と考えて、油圧リグを考案したのでした。

『つばさ(Wings, 1927)』でも、パンクロマチック・フィルムが使われています。

まず、空中戦のシーン -パンクロマチック・フィルムの使用とマグナ・スコープ(注:大型スクリーン)の使用でスリルが増しているー は、カメラ好きにはたまらない映像クオリティだ [2]。

パンクロマチック・フィルムのおかげで、スピード感のある空中戦が立体的になっています。『つばさ』では、飛行機上に固定されたカメラからの映像がありますが、これだと『戦艦くろがね号』で回避したこと -カメラの動きと飛行機の動きが同期してしまうー が起きていしまいます。けれども、むしろ雲がはっきり映っていることで、背景の動きが強調されて空中戦の臨場感が伝わってきます。やはり遠景で撮影した空中戦、雲の合間を縫って飛び交う飛行機の映像が、もっともエキサイティングでしょうか。

 

[1] ""Sea-Going" Cameras for "Old Ironsides"", American Cinematographer, 6, p.7 (1926)
[2] "Wings", Amateaur Movie Makers, p.306, May (1928)


 
 
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