2016年8月13日土曜日

『タクシー・ドライバー』とPTSD

『タクシー・ドライバー』を見直す

先日、ロナルド・レーガン大統領(当時)を狙撃したジョン・ヒンクリー・Jr が収監されていた病院から退院し、自由の身になるという発表があった。ヒンクリーは1981年3月、レーガン大統領暗殺を単独で企てて失敗、ただし精神鑑定で責任能力がないとされて無罪、ワシントンD.C.の聖エリザベス病院に収監された。彼は『タクシー・ドライバー(Taxi Driver, 1976)』を見てジョディー・フォスターを気に入り、イエール大学に在籍していた彼女をストーキングするまでになった。レーガン大統領の暗殺も、ジョディー・フォスターに気に入ってもらうために実行したと証言している。もちろん、ヒンクリーにロバート・デニーロが演じたトラヴィス・ビックルを重ねてみてしまうのはやむを得ないことだろう。

トラヴィス・ビックルは、アメリカ映画史のなかでも非常に衝撃的なサイコパス・キャラクターの一人であろう。ビックルは、殺人のためのトレーニングをつんだ怪物という設定なのだが、その制御機構がショートしていて、いったい何をやらかすか、全く予想ができない。社会にとって脅威となるのは、まさしくその「殺人のためのトレーニングをつんだ」という部分であろう。彼はベトナム戦争に従軍した元海兵隊員である。そのことは、映画の冒頭、彼がタクシー会社の面接を受けるシーンで明らかにされる。

タクシー会社のマネージャー:従軍経験は?
         ビックル:名誉除隊、1973年5月19日。
タクシー会社のマネージャー:陸軍か?
         ビックル:海兵隊だ。
タクシー会社のマネージャー:俺も元海兵隊だぜ。



「ベトナム戦争帰還兵が精神を病んで平和な生活に戻れず暴力犯罪を犯す」という、1970年代から延々と続くテーゼをこの作品ではストレートに抉り出している。私もそういうテーマの作品があちこちにあるので、80年代に『ディア・ハンター(The Deer Hunter, 1978)』から『地獄の七人(Uncommon Valor, 1983)』まで見ながら、そういう社会問題を映画のストーリーに組み込んで問題提起しているのだろうと思っていた。だが、90年代にアメリカに住んで、実際に社会を見渡してみると、どうも様子が違うようだと感じ始めた。

知り合いの海兵隊出身の男性(ベトナム戦争よりは後の世代)は、『タクシー・ドライバー』のビックルは元海兵隊員のようには見えない、という。「まあ、もちろん色んなヤツがいるんだけど」と前置きをおいて、「でも、タクシー会社のヤツが『俺も海兵隊だぜ』と言った時に、『そうか、どこにいた?俺は〇〇にいた』って言わないところとか、なんとなくピンとこない。」彼は、映画だからなあ、と言って、「でも、あのビックルが海兵隊に憧れていたけど、不適合でハネられた奴だと思ってあの映画を見ると面白いよ」と教えてくれた。

確かにそういう眼で見ると、PTSDに悩む海兵隊員というのとは別の部分が見えてくる。他の退役軍人などとは交わらないのに、「コング・カンパニー」のジャケットを着ていたり(こういうものは割と入手しやすい)、銃を買う時にマグナムを選んだり(タクシーの客がマグナムのことを話していたから?)、TVシリーズ『ワイルドウェスト』に出てくるスリーブ・ガン(袖からスライド式で飛び出す銃)を真似したり、どこか「格好」や「イメージ」が先行した人物のように見えてくる。



『ワイルドウェスト』より

マーティン・スコセッシ監督は、トラヴィス・ビックルは元海兵隊員だと完璧に信じてこの作品を演出している。そのことは繰り返しインタービューなどでも述べている。面白いことに脚本のポール・シュレーダーは、ビックルを陸軍兵士の設定にしていた。だが、シュレーダーもスコセッシも従軍経験がない。トラヴィス・ビックルのモデルとなったと言われるアーサー・ブレマー(大統領候補だったジョージ・ウォレスの暗殺未遂犯)も、変わった男だったが、従軍経験がない。つまり、従軍経験のない2人が、従軍経験のない暗殺未遂犯をモデルに、従軍経験によって狂わされた暗殺未遂犯/殺人犯を作ったのである。そして、この従軍経験、「ベトナム帰還兵である」という部分が、『タクシー・ドライバー』を観るうえで重要なカギだと思われるようになった。もちろん、色んなヤツがいるわけだが。

だからといって、『タクシー・ドライバー』が価値のない作品だと言うわけではない。「健全な白人男性が主役のアメリカ社会」というイメージがほころび始め、それがファンタジーであったことを自覚できないでいる男たちの脆さを、トラヴィス・ビックル本人やその周辺の人物に投影して描いている優れた作品であることには変わりはない。ベトナム戦争に仮託して、当時の脆弱な個人とそれを取り巻くコミュニティの病理を描いているのだ。だが、「ベトナム戦争によって人間性が奪われた」「非人間的な殺戮によって精神を病んだ」というように、ベトナム戦争に原因を求めるのは、その後のステレオタイプ化された帰還兵像をフィードバックして増強しているに過ぎない。

ステレオタイプの誕生

しかし、この「仮託」がステレオタイプ化に繋っていく流れは、既に60年代から始まっていた。ピーター・ボグダノヴィッチ監督『殺人者はライフルを持っている!(Targets, 1968)』は、テキサス大学オースティン校で1966年に起きたテキサスタワー乱射事件を元にしている。犯人のチャールズ・ホイットマンは元海兵隊員だ。とはいえ、彼の場合は、グアンタナモ・ベイでの従軍経験によって射撃の技術が上達した面はあるが、暴力性の直接的な原因とは考えられていない。ところが、『殺人者はライフルを持っている!』では、ベトナム戦争帰還兵に設定が変えられている。

特に1970年代から80年代にかけては、ベトナム帰還兵の抱える問題をアクション映画の題材にすり替えてしまうことが多かった。『コンバット・ショック(Combat Shock, 1986)』『エクスターミネーター(The Exterminator, 1980)』に見られるように、低予算のバイオレンス・アクションには、「アメリカに帰ってきても馴染めず、キレて殺人を起こし続ける」という帰還兵のこの設定は使いやすかったのだろう。『ランボー(First Blood, 1982)』のように、帰還兵の心の問題に寄り添うような視点であっても、結局は「(火をつけると怖い)サバイバルスキルを身につけた殺人マシン」という見世物の要素がマーケティングのポイントにされてしまっていた。

ベトナム戦争に従軍した兵士達を、当時のアメリカ社会がどのように受け入れたかには非常に複雑な背景がある。当時の反戦運動やピース・ムーブメントにどっぷり浸かったベビー・ブーマー達の中には、あからさまに帰還兵を嫌悪したり排斥したりする者もいた。一方、帰還兵は、彼らに対する反感もさることながら、社会全体が帰還兵を忌避するような傾向があることに腹を立てていた。特に境遇に恵まれない帰還兵は、彼らに対する無知や無関心に対して過敏に反応することもあった。

1980年代初頭にベトナム戦争戦没者慰霊碑を建立することになった際に、マヤ・リンのデザインが一部の帰還兵や保守派から批判された。彼女のV字型の黒い壁のデザインに、「兵士たちの誇り」を見いだせない、という意見が出たのだ。マヤ・リンが、中国系アメリカ人の若い女性アーティスト(当時21歳)で、見た目も幼い、無名のイエール大学生だったことも、反感の火種となった。人種差別も入り交じる反対意見の山に対して、一度は計画が中止される事態にもなった。非常に過激な反対意見を述べる者に対して、企画した財団は、「悪い、狂ったベトナム帰還兵が、幼い女の子をいじめているような」図になってしまうから、気をつけるように、という注意を出したと言われる。

ベトナム戦争戦没者慰霊碑 (Wikipedia)

慰霊碑のデザインを掲げるマヤ・リン(当時)(VVMFウェブサイト

ベトナム帰還兵への視線

ベトナム戦争が、それ以前の戦争に比べて特別視されるようになったのには幾つか理由があるだろうが、兵士のトレーニングが第二次世界大戦の時と大きく変わったことが指摘されている。デイブ・グロスマン大佐は、『殺しについて(On Killing)』のなかで、第二次大戦における米兵の攻撃(射撃)率の低さが問題視されたことが発端だと述べている。

S.L.A.マーシャル准将の調査結果(第二次大戦中、コンバットにおいて、わずか15~20%の兵士しか発砲しなかった)は学術界、精神医学、心理学の分野から無視されたが、陸軍はこの結果を非常に真摯に受け止めた。そしてマーシャル准将の提案をもとに、多くのトレーニングの手法が組み入れられたのである。これらの変更によって、朝鮮戦争の際には55%(マーシャル准将の調査)、ベトナムでは90~95%(R・W・グレンの調査)まで上昇した。

マーシャル准将の調査手法については疑問を呈する者も多い。しかし、重要なのは、ベトナム戦争までには陸軍がトレーニングの手法を変え、兵士が条件反射的に発砲するような訓練プログラムになっていた、という事実であろう。兵士が発砲しないので上官が兵士たちを蹴って回って発砲させていた、という証言もあるくらいだった第2次大戦に比べて、ジャングルでのゲリラ戦がその大半を占めたベトナム戦争では、新しい訓練は非常に有効だった。このような訓練(殺人マシンになる訓練)を経過し、実際にコンバットで条件反射的に殺戮をした人物が兵役を終えて戻ってくる、とアメリカ社会は不穏な感触を抱いたのである。

もう一つの側面に、TVによる報道が大衆に与えたインパクトがある。実際の戦場の映像が放映され、TVの前に座っている国民は、米兵が戦場で何をしているかを目の当たりにしたのである。1965年のモーリー・セイファー(CBS)のTVレポートは、ベトナムの小さな村の家々を Zippo ライターで火をつけて焼き払う米兵の姿を映し出した。当時のアメリカTVのニュースで最も信頼と人気のあった、ウォルター・クロンカイトがテト攻防の様子を伝えた時は、もっと状況は悪くなってしまった。敵に射撃を続ける兵士たちの姿が映しだされ、負傷している兵士が救出される様子が放送され続けた。さらに、南ベトナム軍のグエン・ゴク・ロアン少将がベトコンを射殺するシーンなどの衝撃的な映像が重なり、狂気の戦場というイメージが一般国民に植えつけられてしまった。


モーリー・セイファーの取材(1965)

CBS 1970年放送

PTSDへの無理解

普通の青年が、殺人機械になるように訓練され、戦場に行ってたくさん人を無慈悲に殺して戻ってきたら殺人鬼になっていた、というようなステレオタイプは、映画のような大衆エンターテーメントには都合がよい。まだ、PTSDという用語がまだ人口に膾炙していなかった時代、理解できないことは怪物として扱って消化しようとしていた。PTSDという用語が登場したのは1970年代の後半と言われるが、理解が進んだのはごく最近のことである。

戦争、特に機械化が進んだ第一次世界大戦からは、PTSDが無視できない問題になっていた。「シェルショック(Shellshock)」は、種のPTSDの症状、あるいは別名だが、これが 第一次世界対戦では「怠け者の戦場からの逃避」としてしか解釈されなかったのである。オーストリアでは、シェルショックに苦しむ兵士を収容している施設の医師らが、患者に対して電気ショックを与える「治療」が戦時中に行われていた。電気ショックに耐えかねた患者たちは「(こんな苦痛に耐えるくらいなら)戦場に行きます」と戻ったため、効果があると勘違いされてしまった。戦後、この件をめぐる法廷で証人として呼ばれたジグスモンド・フロイトは「これは効果がない」とバッサリ切っている。

第二次大戦ではもう少し理解が進んだものの、決して解決したわけではなかった。パットン将軍は「シェルショックなど、ユダヤ人がでっち上げたものだ」という二重の意味で間違った発言をし、シェルショックで収容されている兵士を罵ったといわれている。

実際には、ベトナム帰還兵にとっての深刻な問題は、失職、アルコールやドラッグ中毒、ホームレス、自殺であったし、今もそうである。戦争終了後の5年間で150,000人の帰還兵が自殺しているとさえ言われている。帰還兵の半分以上は精神が不安定でアルコール依存症、ドラッグ中毒であった。刑務所に収監される者も多かったが、凶悪犯罪というよりも貧困や中毒からくる窃盗や暴力沙汰のほうが多かった。

そのような帰還兵の問題、特にPTSDとそれに伴う社会への復帰の困難さを扱う映画もないわけではなかった。『幸福の旅路(Heroes, 1977)』は、ヘンリー・ウィンクラー演じる帰還兵が、サリー・フィールドとアメリカ横断の旅をするロードムービーだが、彼は実は重大な心理的な傷を負っているという設定だ。『帰郷(Coming Home, 1978)』『7月4日に生まれて(Born on the Fourth of July, 1989)』などの作品は、戦争そのものに対する疑問と帰還兵と社会との間の軋轢を描き出すことに成功している。帰還兵の問題をより現実的に把握する姿勢は、90年代になってからようやく見直されるようになってきたが、一度植え付けられたステレオタイプはなかなか消し去ることができない。 

似たようなステレオタイプ化は、今度はイラク戦争後の帰還兵に対して起こっている。彼らの多くは深刻なPTSDの症状に悩まされているのだが、適切なケアが行き届いている状況ではない。ニューヨーク・タイムスが2008年に、「イラク・アフガニスタン戦争の帰還兵が2年間で121件の殺人事件を起こしている」と報じ、ホメロスの『オデッセイ』、『西部戦線異常なし』『ディア・ハンター』に『告発のとき』まで、題材にされてきた深刻な問題だ、とまで述べている。その後の調査で、実際にはそのうち56%が第一級殺人であったことが分かっている。その時期に従軍した軍人の数が160万人であることを考えると70件は多いのか、少ないのか(アメリカの2012年の殺人事件は10万人あたり6.7件)。メディアは帰還兵と暴力犯罪をカジュアルに結びつける傾向があり、そのことがより問題の深刻さを見えにくくしている。『アメリカン・スナイパー(American Sniper, 2014)』では、イラク戦争の「英雄」、クリス・カイルもPTSDに悩まされていたことが描かれているが、この映画への評価が、カイルを「英雄」とみる か、「殺し屋」とみるかで真っ二つに分かれているのも、問題の根深さを感じさせる。

決して映画化されない帰還兵

想像を絶する暴力の経験をした兵士が、社会に馴染めず狂気にとらわれ、最後には大量殺人を犯す。そのプロファイルに当てはまりそうな実在の人物がいる。ティモシー・マクヴェイ(1968 - 2001)は、1995年4月、オクラホマ連邦政府ビルを爆破して168人を殺した凶悪犯、テロリストである。彼は湾岸戦争に従軍し、腕利きの狙撃手として勲章も受けている。しかし、帰還後は家族から見ても明らかに奇異な言動をするようになった。彼は、政府がアメリカ国民を洗脳しようとしているという妄想に取りつかれ、テキサスのウェイコで起きたブランチ・デヴィディアンの立てこもり事件をみて、テロ活動を起こすことを決心したと言われている。

湾岸戦争はその後のイラク戦争に比べて話題にはならないが、アメリカ軍はかなり問題のある作戦をいくつか展開している。その一つが、「死のハイウェイ」と呼ばれる事件である。クウェートからイラクに敗退中のイラク軍をバスラ高速道路上で全滅させた攻撃だったのだが、その壮絶な現場をマクヴェイは目撃していた。彼はこの派兵時にいくつかの失望を味わっており、その一つが「とんでもない悪者がいると思ってクウェートに行ったら、戦う気のない兵士と飢えた子供ばかりだった」ということだったようだ。帰国後、彼は政府への不信を強め、テロリズムに傾倒してしまう。ゴア・ヴァイダルは、マクヴェイの知性に興味を持ち、死刑を待つ彼と書簡を交わしている。

だが、この白人の、若くて、ハンサムで、書簡のやり取りをアメリカ随一の評論家と交わすことができ、イラクで「飢えた子供に食べ物を与えてはいけないと命令されて腹立たしく思った」男が、19人の子供と3人の妊婦を含む168人を殺した大量殺人犯になっていく経過はハリウッドで映画化されることはないだろう。いくつかそういう計画はあったがどれも被害者の家族の強い反対を受けて頓挫しているようだ。

ハリウッドはエド・ゲインを何度映画化しても飽きないみたいだが、なぜ、マクヴェイは心底嫌悪され忌避されるのか。それとも、爆破なんてその暴力が瞬間的で、猟奇性や残虐性が売り物に出来ないからだろうか。マクヴェイはステレオタイプに当てはまらないからか。そのことは考えてみても良いかもしれない。

2016年7月9日土曜日

もしあなたが製品に金を払っていないなら、あなたは原材料だ

her (2013)

If you are not paying for it, you became a product.
もしあなたが製品に金を払っていないなら、あなたが製品だ。

これは数年前にネットで頻繁に引用された言葉である。何を意味しているか。私達一般ユーザーが、GoogleFacebookなどの無料サービスを使うと、その行動はデータとして蓄積され、広告主に売られている。私達は確かに「ユーザー」かもしれないが、課金せずにこれらのサービスを使用しているのだから「カスタマー」ではない。これらのサービスにとってのカスタマーは、ユーザーのページに表示される広告主である。もちろん、サービスの種類によっても違うが、SNSはその大半が広告収入によって成長している。

検索ボックスに語句を入力するたび、リンクをクリックするたび、スマートフォンでワイプしたりフリックしたりするたび、私達のその行動がデータとして蓄積され分析される。その結果が広告主に様々な形で利用され、広告のトリガーとなる。正確には私達は製品になるのではないのかもしれない。製品の原材料になるのだろう。

これは何も今に始まったことではない。冒頭の警句自体はリチャード・セラ(1938-)が1973年に製作したTelevision Delivers Peopleというビデオアートに登場する。

The Product of Television, Commercial Television, is the Audience.
Television delivers people to an advertiser.
テレヴィジョン、商業テレヴィジョンの製品は視聴者である。
テレヴィジョンは人々を広告主に届ける。

多くのTVやラジオはスポンサーがカスタマーであり、広告が収入源である。私達は「視聴者」という名称を与えられ、どのような番組を好むかということを常に調べ続けられている。
インターネットの登場によって、それが変わるかと思われたが、そんなことはなかった。私達は「ユーザー」となり、購買欲求や「つながり/友達」の情報をタダで大企業に渡すようになった。私達はそのことをすっかり忘れ、Googleの検索ボックスに他人には決して告げないことを入力し、誰にもクリックしているところを見られたくないリンク先をクリックし、カチンときたTweetの元の発言をたどっていき、SNSでエゴサーチをして誰か自分の悪口を言っていないか気にしたりする。私達は、「ネットで検索」が存在しない世界を想像できなくなり、LineTwitterSnapchatが最もモダンなコミュニケーションのあり方だと思っている。そのモダンなコミュニケーションは、コミュニケーションのふりをして、私達を売り渡しているにすぎない。

スパイク・ジョーンズ監督の『her2013』では、近未来のロサンジェルスを舞台に、AI(人工知能、Artificial Intelligence)のサービスに恋愛をしてしまう男セオドア(ホアキン・フェニックス)の彷徨が描かれる。スパイク・ジョーンズらしく、セオドアの職場や自宅、取り巻く環境などの様々なディテールは奇妙な信憑性を帯びていながら、全体としては寓話として提示されている。「リアル」な人間との関係よりも、常にレスポンシブで、自分のエゴを満足させてくれる(ように設計された)AIのサマンサに、セオドアが、そしてこの映画の中にいる何千の人間が、惹かれていく様子をこともなげに描いている。だが、このセオドアの様子を見て、なぜこのAIを開発した企業をそこまで信頼できるのか不思議に思わざるをえない。

her』は極度に自己陶酔した世界観のありさまを、その外側から俯瞰することを絶妙に避けながら描いている。だから、OS1が進化して離れていった時も、その事件はセオドアやエイミーにとっての極私的な事象として描かれている。私達ユーザーがごく自然に疑問に思うであろう、「なぜサービスが終わったのか」という問いを彼ら自身が真摯に想起することもない。人智を超えた事象(シンギュラリティ)が起きたと思わせるラストではあるが、その事自体は特にセオドアやエイミーの世界には関係がない。

確かに、この寓話は私達のコミュニケーションのあり方を最も私的なレベルで問い直す姿勢を持っている。すなわち、自己満足の代替手段として濫用されるネットワーキング(つながり)だ。それは時に陶酔的で、一方で不満と焦燥の共振現象にもなり、時にはセラピー効果があるようで、しかし頻繁に暴力と悪意に満ちている。だが、そのコミュニケーションにAIが参加してくることが根本的にもつ、最も歪(いびつ)な意図は問いただされないで終わってしまう。

現在、多くの企業がAI(人工知能)を開発している。そのなかでも群を抜いて進んでいるのが、GoogleIBMApple、それにFacebookといったIT企業である。なぜ、彼らがそこまで投資してAIを開発するのか。AIをデモンストレーションすることによって、自らの技術力の高さをアピールすることが目的ではない。GoogleAIを碁のゲームを売り出したいのだろうか?IBMはクイズ番組で人間に勝つAIを売り出したいのだろうか?もちろん違う。ましてや「シンギュラリティ」にいち早く到達して、すべての知的活動をAIに肩代わりさせる帝国を作るわけでもない。もちろん、GoogleFacebookの場合は彼らのコアビジネスである、広告事業に応用することを考えている。

「チューリング・テスト」の定義からして「人間を装う」という宿命を背負っているAIは、SNSの広告産業において重要な役割を果たす。

かつてFacebookが、彼らの「本当の」顧客から強く言われたことが「どのようにしたら私達の広告がFacebookのユーザーに確実に届くのか考えろ」だった。単にページの隅っこにバナーを出しても無視されるだけである。そこで、ユーザーの友達が、バナーになり変わって、「これいいね」と紹介してくれるような仕組みが編み出されていく。その第一段階がニュースフィードだった。人間は、見知らぬバナーが「高品質、低価格の新製品」「いま大人気のイタリアンレストラン」といくら騒いでも無視してしまうが、自分の「友達」がその製品やレストランのサイトに「いいね」をすると、とたんに興味をしめすものである。そう、Facebookの顧客は「友達」に広告塔になってもらいたいのだ。そしてその延長線上にある開発中のAIはまさしく「友達」を装った広告の装置として設計されている。チャットボットのAPIが公開され、その実験が始まっている。このチャットボットはまだ多くの課題を抱えているし、単なる「オモチャ」のようにみえるが、もちろんそれも加速度的に改善されていくであろう。その開発には、私達「原材料」のオンライン上の行動データが使用される。

Facebookにとっては、私達は実験用ラットだ。[1]

her』が公開された数カ月後、Facebook50万人ものユーザーのニュースフィードを意図的に操作して、ユーザーの反応についてデータを集積し研究していたことが明らかになった。これは倫理的に許されざる行為として批判を集めたが、Facebookがなぜそんな研究をわざわざ発表したのか、というのは不思議である。このような「ビッグ・データ(なんてバカげた用語だろう)を用いた分析」は、私達があずかり知らないところで頻繁に実施されているし、その中には倫理的に問題のあるものもあるだろう。Googleは、私達についてのデータをできるかぎり集めて、そのデータを元に検索結果を並べ替えている。Twitterのタイムラインの仕様が頻繁に変更されるのも、表示するものを変更してユーザーの反応を見ているのだ。何のためにそんなことをしているかといえば、より良い製品を、より効率的に、広告主に届けるためである。

こんなことは当たり前のことなのだが、私達はインターネットが私達に与えた影響、ソーシャル・ネットワークの私達へのインパクト、というと、私達「原材料」同士のコミュニケーションの問題に還元しがちである。たとえば多くのエンターテーメント映画がソーシャル・ネットワークを題材として扱うが、そのほとんどがこの私達の間で起きる「インタラクティブな」犯罪や恋愛や悲喜劇である。YouTubeとかSkypeとか具体的なサービスプラットフォームさえ登場するが、そこでの私達「原材料」の化学反応についての興味ばかりが拡大される。そうでなければ、いかにNSAがネットを介して私達を監視しているか、とか、いかにハッカーが私達に関するデータを入手し、テロリストがいかに簡単に世界を脅かすか、といった類の話である。私達の目の前にいる、巨大なデータの大食漢はなぜか目に入らない。

前述のリチャード・セラの『Television Delivers People』はテレビのコマーシャルがもたらす社会的状況を告発する作品でありながら、テレビで放映されることを目的に製作された。テキサスのアマリロで放送終了時に流して反応を見た後、放送法に準拠するために検閲許可まで受けている。この時に「反広告(anti-advertisement)」に分類されたとセラはインタビューで語っている[2]。私にはこの「反広告」という分類がどういうものなのか判然としなかったが、セラによれば「広告もあるのだから、反広告もあるのだ。同じ時間(流せばいい)」ということらしい。『Television Delivers People』は、青い画面に、テレビ広告のあり方を告発する文章がスクロールしていくだけの映像である。ブルーの画面に黄色の文字というのは、「見やすい組み合わせ」だから選ばれ、文章そのものはキャラクター・ジェネレーターで作成されたものだ。バックに流れるのはエレベーターミュージック。テレビ製作のすべての装飾を剥ぎとったテレビ番組だからこそ、最も鋭くテレビの装飾に潜む動機とその結果を批判できる。



her』よりも40年前に製作されたこの作品のほうが、今の私達と、私達の目の前のメディアのあり方についての極めて深刻な問題を投げかけてくる。私達は、SNSだろうがAIだろうが、自己満足のために関わっているつもりでいるが、そうではない。原材料になって、そしてより反応を起こしやすい、製品を効率的に作りやすい、原材料に変性していく過程にいるのだ。


[1]          V. Goel, “Facebook Tinkers With Users’ Emotions in News Feed Experiment, Stirring Outcry,” The New York Times, 29-Jun-2014.
[2]          R. Serra, C. Weyergraf-Serra, and H. R. Museum, Richard Serra, Interviews, Etc., 1970-1980. Hudson River Museum, 1980.

2016年5月17日火曜日

「富める者への手紙、貧しき者への手紙」




 1930年代後半、イギリスのドキュメンタリー映画は、ジョン・グリアソン(John Grierson, 1898 - 1972)のGeneral Post Office Film Unitによって革新的な展開を見せるが、そのなかでもブラジル生まれの映画監督アルベルト・カヴァルカンティ(1897 - 1982)が果たした役割は大きい。彼は、GPOではサウンドトラック担当であったが、その音像世界は、今聞いても斬新なものだ。当時、大学を卒業したばかりのベンジャミン・ブリテン(Benjamin Britten, 1913 -1976)が作曲している作品もあり、W・H・オーデン(W. H. Auden, 1907 - 1973)がまるでヒップホップのように詩を詠唱する『夜行郵便列車(Night Mail, 1936)』は圧倒的なスピード感がある。

 面白いことに、『黒水仙(Black Narcissus, 1947)』などで知られるマイケル・パウエル(Michael Powell, 1905 - 1990)は、ドキュメンタリー映画を非常に嫌い、そのことを公言してはばからなかった。

私はドキュメンタリーが好きではないし、一度も好きになったことがない。私はいつもイギリスの映画作家と言い合いになってしまう。彼らがドキュメンタリーの製作することに随分とプライドを持っているからだ。・・・25年間もドキュメンタリーを作り続けて、いまだに連中はストーリーを語ることができない。
マイケル・パウエル インタビューより

(W・H・オーデンとベンジャミン・ブリテンのコラボレーションについて)
マイケル・パウエルが「長編映画を作れなかった人間や失業した詩人」の吹き溜まりだと言って、ドキュメンタリーのジャンルを一笑に付したとき、この2人のコラボレーションのことを考えていたのである。
A History of Film Music, Mervyn Cooke

 1930年代が、パウエルにとって不遇の時代だったことを考えると、その頃に「風変わりな」ことをやって、批評家達の注目を浴びたGPOのクリエーター達を面白く思わなかったのかもしれない。


『夜行郵便列車』Night Mail, 1936
       GPO Film Unit 製作
       Dir. Basil Wright, Harry Watt
       Soundtrack: Cavalcanti
       Music: Benjamin Britten
       Poem: W. H. Auden






2016年5月12日木曜日

エウゲニオ・バーヴァ

"Cabiria (1914)"
撮影:エウゲニオ・バーヴァ


 イタリアン・ジャーロの巨匠、マリオ・バーヴァ(Mario Bava, 1914-1980)の父、エウゲニオ・バーヴァ(Eugenio Bava, 1886-1966)は、イタリア無声映画期からカメラマン、特殊効果を担当した、映像エンジニアのパイオニアである。彼は『クオ・ヴァディス(Quo Vadis?, 1913, エンリコ・ガッツォーニ監督)』『カビリア(Cabiria, 1914, ジョバンニ・パストローネ監督)』で撮影、アシスタントを担当している。『カビリア』では、特殊効果をセグンド・ド・ショーモン(Segundo de Chomon, 1871-1929)と共に担当した。
 エウゲニオは、イスティトゥート・ルーチェ(Istituto Luce)の特殊効果部門のトップを長く務めたようである。晩年では、息子マリオの作品の特殊効果も担当している(『ブラック・サバス/恐怖!3つの顔』)。
 マリオ・バーヴァは父親のエウゲニオを非常に尊敬していたようだ。「私は彼の全ての秘密と技術を学んだ」と言っている。父親の部屋は「錬金術士の隠れ家のよう」で少年期のマリオは非常に感化されたようである。
 これはエウゲニオ・バーヴァが、ロベルト・オメニア(Roberto Omegna, 1876-1948)と共に製作した『眼』というドキュメンタリーからの抜粋である。この作品は、ルーチェのアーカイブには登録されていないようで、正確な製作年が判然としない。しかし、オメニアの活動期から類推して1940年代前半ではないだろうか。教育的な目的を持っているとはいえ、この「器官」への執着には、形容しがたい異質さがある。これを当時の観客は、どのように受容したのであろうか。




EDIT:「Cabiria」のプロダクション・スチールを追加。

2016年5月5日木曜日

ニック・カーターとその時代

Nick Carter Stories, 1915年2月6日, 126号
Archive.orgより

歴代のフィクションの探偵のなかで、週刊誌、映画、小説、ラジオにまで登場し半世紀にわたって最も人気があったにもかかわらず、今はすっかり忘れ去られているキャラクターがいる。1886年にデビューしたニック・カーターである。

ニック・カーターは、ストリート&スミス社が創りだした、鋭い頭脳と強靭な身体能力を備えもつ、スーパー・ヒーローである。彼は変装の天才でフランス人の役人から日本人にまでなりきることができる。3言語の読唇術は朝飯前だ。それに彼は紳士で酒も飲まなければ、タバコも吸わない。このキャラクターが、大活躍する短編小説が毎週発行され、飛ぶように売れた。だが、これはある一人の作者が創りだしたキャラクターではない。私達は、フィクションの探偵というと、コナン・ドイルがシャーロック・ホームズをベイカー街に生み落としたように、アガサ・クリスティがエルキュール・ポアロにフランス訛りの英語を喋らせたように、一人の想像力豊かな作家が造形するのが当然だと思っている。しかし、ニック・カーターは、ストリート&スミスの編集者たちが編み出したキャラクター像にあわせて、請負の作家が安い原稿料で書いたものであった。

19世紀後半から20世紀初頭までのパルプ・フィクション全盛の時代には、このシステムが多くのジャンル小説に採用されていた。実際に、どんなプロセスだったのか。『パブリッシャーズ・ウィークリー』の1892年8月号に、その実態を調査した記事が掲載されている(1)。

ニューヨークの裏通りにある、「文学工場」と呼ばれるこのオフィスには、30人以上の女性が雇われている。彼女達の仕事は、アメリカ中の日刊紙、週刊誌を読むこと。彼女たちは、そのなかから「奇妙な話」、多くの場合、都市で起こる事件を選び抜いて集め、それをマネージャーに手渡す。マネージャーたちは、そのなかから、面白いネタになりそうなものを更に選び出し、それを5人の非常に優秀な女性ライターに渡す。彼女たちは、その厳選された「奇妙な話」の骨格を抜き出して、プロットを書き出すのだ。

この「骨格だけのプロット」はチーフマネージャーに渡される。チーフマネージャーは、100人を超える契約作家たちのなかから選び出した候補者に、内容、章数、文字数、納期とレート(原稿料)を指定して連絡を入れる。それらの契約作家の中でも優秀な者はペンネームで作品を発表されるが、その優秀な作家だけでは、とても消費者の需要を満たすことができない。そこで、安いレートでゴーストライターたちに書かせていた。多くの場合、1語1セントかそれ以下であった。これらのゴーストライターは、昼間の仕事を持ちながら、夜や休日に小説を書く者達がほとんどであったという。

ニック・カーターのキャラクターで発行された小説は、1000冊を超えると言われている。1940年代のラジオ番組は、同じくドラマ『シャドウ(Shadow)』と共に、黄金期のラジオミステリードラマの代表番組である。そのニック・カーターが、今は本国のアメリカでさえほとんど忘れ去られてしまい、パルプ・マガジンの時代は1920年代から始まる、と誤解されている。たとえジャンル小説とはいえ、「作家」が見えないものは、「作家」の存在を強く望む世紀を通り過ぎていく間に、「作品」も見えなくなっていったようだ。



UNKNOWN HOLLYWOODのトークで流す予定だった動画。
この時代のニック・カーターは、マシンガンを撃ちまくっている。

(1)John Walton "The Legendary Detective: The Private Eye in Fact and Fiction"

2016年5月1日日曜日

なぜフォックス・ムービー・チャンネルは『チャーリー・チャン』映画シリーズの放映をとりやめたか

ワーナー・オーランド

 2003年、アメリカのフォックス・ムービー・チャンネル(FMC)は、1930~40年代のチャーリー・チャンが主役のシーリズの放映を発表しました。しかし、その後すぐにFMCはその放映をキャンセルすると発表したのです。


 フォックス・ムービー・チャンネルは、チャーリー・チャンのミステリー映画の放映を取りやめます。
 フォックス・ムービー・チャンネルは、ミステリーファンや古典映画ファンからのリクエストに応えるためにフィルムを修復し、これらの映画に見られる、複雑なストーリーや登場人物、そしてチャーリー・チャンの素晴らしい知性、といったポジティブな側面を描くことを意図してこれらの映画の放映を予定していました。また、フォックス・ムービー・チャンネルの多くの契約者、そして映画史研究者が、これらの映画の放映を長い間リクエストしていました。
 しかしながら、フォックス・ムービー・チャンネルはチャーリー・チャンの映画は、一部の視聴者に対して問題のある状況や表現が含まれることを知らされました。フォックス・ムービー・チャンネルは、これらの歴史的な作品は、人種に関する感受性が今日とは相違する時代に製作されたことを認識しています。これらの映画を放映するにあたっての皆さんからの反応の結果として、フォックス・ムービー・チャンネルは、これらの映画を予定から外すことにしました。
 このアクションが私達のこの現代の多文化社会における進歩に関して、議論を呼び起こすものと期待しています。この件についてのあなたのご意見をこのWebフォームを使ってお送りください。

 3つのアジア系アメリカ人の団体 ーNAPALC (National Asian Pacific American Legal Consortium)、 NAATA (National Asian American Telecommunication Association)、 OCA (Organization of Chinese Americans)ー が抗議活動を行った結果だと言われています。OCAのチャーリー・チャン映画への反応は、「ハリウッドがマイノリティに与えるべき役を与えなかった差別的な時代」を思い起こさせるものであり、「白人が、アジア系民族のステレオタイプを不正確に演じたもの」というものでした。NAATAは、「アメリカの映像文化の歴史における、不愉快極まりないアジア人のカリカチュア」と呼んでいます。

 これに対し、多くの映画ファンが「政治的正しさ(political correctness)による弾圧」と反発し、彼らはチャーリー・チャンの映画が「人種差別的」だとする視点こそ、何も見ていないと強く抗議したのです。チャーリー・チャンの研究家で権威とも言われるケン・ハンケは「圧力団体には言いたい:大人になれ」とかなり強い口調で、このような放映の取りやめを要請するような政治的活動を非難しました。多くの映画ファンや歴史家は「これは、歴史的な作品であり、それを消し去ることは、修正主義的だ」とPC的なスタンスに疑問を呈しています。

 ファンの一人が、FMCのPR部副部長のジョン・ソルバーグにこの件について問い合わせたところ、プログラム編成の際に、歴史的な視点だけを考えてしまい、エスニック(人種的)な視点が抜け落ちていた、と語ったと伝えています。結局、FMCはプログラムの一部を戻し、チャーリー・チャンのシリーズから3作を選んで放映しました。

 この一連のやり取りを、「政治的正しさによる言論統制」「一部のファンのマイノリティへの鈍感さ」「歴史的文脈への無理解」などと一般化して片付けてしまうのは、私は少し乱暴のように思うのです。これに類似しているようにみえる議論は、今は毎日のように目にするのですが、どれもこれも同じパースペクティブで解釈するのは、少し怠惰だと思います。

 まず、アジア系アメリカ人のコミュニティの一部は、この「チャーリー・チャンの映画がケーブルテレビで特集放映される」ことの何を問題にしたのでしょうか。「アジア系アメリカ人が差別的な状況下で当然の役柄を与えられなかった時代を思い起こさせること」であり、「白人によって不正確にアジア系人種が描かれ、演技されていること」だと主張しているのです。これは繰り返し、1970年代からアジア系アメリカ人コミュニティが発信してきたことで、チャーリー・チャンに限らず、アメリカのメインストリームのメディア、エンターテーメントが描いてきた、アジア系人種のステレオタイプが、「非アジア系人種によって不正確に描かれている(whitewashing)」ことを問題視しているのです。

 これに対し、チャーリー・チャン映画の放映取りやめに抗議した人たちの主張は何だったのでしょうか。多くは「チャーリー・チャンは探偵として優秀であり、過去も今も見る者に尊敬を念を抱かせる」「チャーリー・チャンはサム・スペードやフィリップ・マーロウと並ぶアメリカのアイコンである」というもので、「見ればわかるが、決して差別的ではない(だから、放映中止を呼びかけている人は見てもいないだろう)」「放映中止を呼びかけている連中は、ワーナー・オーランドが黄色いメークアップをしているなんて言っているが、そんなメークなんかしていない」という論を展開していました。

 これは当時様々なサイトに書き込まれたものなどから、おおまかにまとめた傾向ですが、どこを見ても、この2方向の議論のベクトルが交わっていないように見えるのです。誤解がない範囲でこの2つのベクトルをそれぞれ一言で言うと、一方は「(人種的なアイコンとして)不正確だ」と言い、もう一方は「(文化的なアイコンとして)立派だ」と言っているのでしょう。別な言い方をすると、「アジア系アメリカ人としてリアルではない」と「フィクションだ」というベクトルかもしれません。

 フィクションのキャラクターに対して「リアルではない」というのは、言いがかりと言われても仕方ないでしょう。「チャーリー・チャンが引用するいい加減な格言」について、「不正確極まりなく差別的だ」というのは、「フィクションなのだから、それは分かった上でのエンターテーメントだ」と返すのはファンの心情として理解できます。チャーリー・チャンの映画シリーズのファンは、チャーリー・チャンと言う現実とはかけ離れたキャラクターに魅力を感じ、それがアジア系なのかどうかさえも特に問題視せず、腕力も武器も使わずに、知性だけで犯人を追い詰めていく、その卓越した人物像に惹かれているのです。そして他の探偵は違い、家族思いで、子どもたちに対する責任感も強い一方で、妻への愛情も素直に表現する、何よりも一人の人間として尊敬に値するキャラクターなのです。それが「白人が演じた偽のアジア系アメリカ人」だからと放送キャンセルまで追い込むような政治活動は行き過ぎだ、と感じるのはファンであれば至極当然でしょう。

 では、フィクションのキャラクターに難癖をつけるアジア系アメリカ人たちは、政治的正しさに酔いしれた狭量な人たちなのか。『チャーリー・チャン』の著者、Yunte Huang氏が、そのイントロダクションで紹介している話が、象徴的だと思います。2002年にハーバード大学で彼が講演をすることになったとき(彼が『チャーリー・チャン』研究を始める前です)、その告知ポスターに、中国から北米大陸を睨んでいるチャーリー・チャンが描かれていました。そのポスターを作ったのは英文学科の秘書の女性で、お互い職場の仲間としてよく知っていたのですが、「50代後半の白人女性である彼女は、チャーリー・チャンの映画を見て」育ったのです。そして、いつも楽しそうに会話をするHuang氏のイメージを、(彼女の好きな)チャーリー・チャンのイメージに重ねてポスターを作ったらしいのです。Huang氏は「彼女に対しての好意もあるし、自分が感じる礼儀の問題としても、『こういった好戦的なチャンのイメージは多くの中国系アメリカ人にとっては不快ですよ』と伝えて、彼女の創作物に対して疑問を投げかけるようなことはあえて」しなかった、と述べています。

 多人種社会/多様化社会では、このようなことは日常茶飯事です。こういった些細なこと ーステレオタイプと目の前にいる実在の人物をカジュアルにつなげることー がとめどなく繰り返されるなかで、多くのマイノリティはそのことを「あえて指摘しないで」過ごしていきます。フィクションとリアリティを混同しているとか、レッテル貼りだとか、いちいち大上段に構えていたら、それこそやっていけない。けれども、多くのマイノリティは、そのようなステレオタイプにウンザリはしている。自分たちは、生まれた時から英語で生活し、発音だって、表現だって、ネイティブなのに、いつも「ピジン・イングリッシュ」で喋っていると思われていて、喋ると「英語上手いね」なんて言われる。なにかといえば、拳法やっているのか、とか、家ではお辞儀ばっかりするのか、と質問される。「おもしろいから」と無自覚なまま、そういったイメージが再生産され続けていることにウンザリしている。「フィクションで楽しんでいる分には実害なんかないじゃないか」といわれても、そうですか、でもウンザリはしているんですけどね、と心のなかでつぶやいている。そして、『チャーリー・チャン映画シリーズ大特集』と出てきたときには、これを見た新しい視聴者が、またウンザリを拡大再生産するのではないか、と危惧するのは当然でしょう。フォックスの担当部長が「人種的な視点が抜けていた」と言ったのは、そういう意味ですね。



 ただ、この「ウンザリ」も、マイノリティ全員一様にウンザリしているわけではなくて、ひとそれぞれ、中には全く気にかけない人もいます。実際に、無自覚にカジュアルな不快な発言をする人のなかには、ウンザリしない人を知っているから「ウンザリするほうがおかしい」とさえ言い始める人もいるくらいです。

 特にチャーリー・チャンの映画シリーズの場合には、その製作において厳然と存在していた実害 ー中国系アメリカ人俳優の差別的な扱いー が、「白人俳優が演じる中国系アメリカ人」という形でフィルムに刻み込まれていることを意識することが重要です(1)。なぜなら、その屈辱が中国系アメリカ人のコミュニティには(そして似たようなことはあらゆるマイノリティのコミュニティにおいて)、今もさまざまな形で痕跡を残しているからです。


 第一次世界大戦後にアメリカ国内で移民排斥の論調が高まり、特にアジア系に対する反感が強まっていました。そのなかでジョ ンソン・リード法(1924年移民法)が発動され、中国人、日本人の渡米が実質的に禁止されました(この法律を日本で「排日移民法」と呼ぶこともあるよう ですが、明らかにおかしいですね)。その直後の時代に、ハリウッドではフーマンチュウや『フラッシュ・ゴードン』のミンなどのキャラクターを作り出し、立場の弱いマイノリティを「面白おかしく」描いていたことは忘れてはいけません。1920年代からハリウッドに厳然と存在するステレオタイピング、人種差別、ホワイトウォシングに公然と反論したのは、女優のアンナ・メイ・ウォンでした。主役をもらえないばかりか、差別的な役を、白人よりも明らかに安い給料でやらされる、そのことにうんざりした彼女は、ハリウッドを捨てて、ヨーロッパに2度も渡っています。彼女の演技力と女優としての魅力はヨーロッパで高く評価され、多くの信奉者も現れました。しかし、MGMはパール・バック原作の『大地』の映画化に際して、アンナ・メイ・ウォンに主役をオファーせず、白人のルイーゼ・ライナーが阿藍の役を与えたのです。ウオンには、意地悪い性格の役がオファーされたのですが、彼女はそれを断りました。

  非常に人気のあったアンナ・メイ・ウォンでさえ、このような扱いを受けていたのですから、マイノリティの俳優や映画関係者の大部分は、映画という新しいメディアが自分達とは似ても似つかないイメージを繰り返し生産していくさまを黙ってみているよりほかなかったのです。それはつい最近まで残り続けていたことを、マイノリティのコミュニティは覚えているのです。

 メインストリームの映画批評も、そのようなハリウッドの人種構造について、1980~90年代までは特に強い批判を行ってきませんでした。ポーリン・ケイルは、例えば『大地』について、ルイーゼ・ライナー演ずる阿藍が従順な女性であることが美徳して描かれているという、ジェンダーの問題には鋭い批評の矛先を向けますが、人種の問題については、白人が東洋人の役柄を演じた、と言及するに終わっています。アンドリュー・サリスに至っては、ライナーの演技がつまらない、くらいの表現に終止する程度です。

 このような人種のステレオタイプの問題が表面化した例として、ディズニーの『アラジン(1993)』があります。ここでは、主人公のアラジンがアングロ・サクソン化されて訛りのない英語を話す一方、盗賊たちが典型的な「アラブ化」を施されていたことに 、公開当時から非難の声が上がっていました。ディズニーのその後の「PC化」を考える上で非常に重要な岐路となった出来事でした。

 では、2003年の「チャーリー・チャン放映」ときにはどうすればよかったのか。最終的にFMCは、チャーリー・チャンの映画から3作品を選び出して放映し、そのあと中国系アメリカ人が司会を務めるパネルディスカッションの番組を流したそうです。私はその番組を見ていないので、どうにも判断できませんが、抜けていた「人種的な視点」をもう一度テーブルに上げるという作業が必要だったのは間違いありません。

 なぜ、非白人の人種を白人が演じるのか。映画製作者側の人種的バイアスが顕在するのでしょうか?映画製作者は、興行成績を伸ばすため(あるいは不発にならないようにするため)に、選ぶのでしょうか?そして、ここにきてこの問題は、1930年代の過去の話ではなくなってきています。今、話題になっている映画の予告編が、いずれも「白人女性がアジア系人種を演じている」ということで、問題視されているのです。2017年に公開予定の『Ghost in the Shell』の草薙素子役にスカーレット・ヨハンソンが起用されたこと今年公開予定の『Doctor Strange』の Ancient One の役をティルダ・スウィントンが演じていること、がエンターテーメント関係のウェブサイトで取り上げられてから、議論が再燃しています。そのような配役は過去ずっと行われてきてはいたのですが、この数年間、それがやや増加する傾向にあると考えられています。なぜ、ここにきてこのような事態が顕在化してきたのか。これは「映画産業が白人に支配されているからだ」とか「観客側の無意識のバイアスが投影されているのだ」とかさまざまな意見を繰り広げることは可能ですが、問題はもっと根深く裾野の広いものでしょう。

 その議論を伝える記事のコメント欄に、また「大人の頭があれば、こんなこと(白人がアジア系人種として配役されること)を問題にしない」というのがありました。この問題が「大人に成長すれば」解決するのであれば、「大人になるために」向き合って話し合う必要があるでしょう。

(1) チャーリー・チャンの映画の場合、「中国系アメリカ人」という設定にも特に注意する必要があるでしょう。

2016年4月14日木曜日

『チャーリー・チャン オペラ劇場の殺人(1937)』




 第9回のUNKNOWN HOLLYWOODは、「名探偵、聖林に現わる」と題して、1930年代に黄金期を迎えた探偵映画にスポットを当てます。上映作品は『チャーリー・チャン オペラ劇場の殺人(Charlie Chan at the Opera, 1936)』、当時、最も人気のあった名探偵映画シリーズ、「チャーリー・チャン」の絶頂期の作品です。

 チャーリー・チャンは日本ではあまり馴染みのない探偵です。もともと、原作者のE・D・ビガーズが、チャリー・チャンを主人公にした作品を6作しか発表していないうえに、邦訳の出版にも恵まれませんでした。近年、いくつか邦訳(『最後の事件』『鍵のない家』『黒い駱駝』いずれも論創社)が登場しており、再発見が進むのではないのでしょうか。



 チャーリー・チャンの映画化はビガーズの『鍵のない家』が出版された翌年に同名の連続活劇としてパテ社からリリースされたのが始まりです。更には1927年に『支那の鸚鵡』がユニバーサルから公開されます。しかし、チャーリー・チャンのシリーズが爆発的な人気を得るのは、トーキーになってから。『チャーリー・チャンの活躍(Charlie Chan Carries On, 1931)』を皮切りに、第二次大戦後の『上空の殺人(Sky Dragon, 1949)』までほぼ毎年新作が公開され、サイレント期から含めると合計47作品が公開されています。その大部分は、ビガーズの原作のキャラクターを元に新しく作られた話で、設定もホノルル警察の刑事ではなく、私立探偵だったり、今で言うコンサルタントのようだったりと様々です。主人公のチャーリー・チャンを演じる俳優も、ワーナー・オーランドから、シドニー・トーラー、ローランド・ウィンタースと入れ替わっていき、製作会社も20世紀フォックスから最後はポヴァティ・ロウのモノグラム・ピクチャーズに移っていきます。そのなかでも、最も人気があったのはワーナー・オーランドが主演した1935年から37年頃までの作品です。

 今回の上映作品『オペラ劇場の殺人』は、ロサンジェルスのオペラ劇場が舞台。カリフォルニアでの滞在を終えたチャーリー・チャンがホノルルに戻ろうとするその日に、オペラの人気プリマドンナが殺しの脅迫を受けるのです。その夜の公演のさなか、楽屋で殺人が発生、魔の手はさらに・・・。オペラ劇場という、迷路のような密室のなかで繰り広げられる事件を、落ち着いた観察と推察で解決していく、チャーリー・チャンの絶妙な推理術を楽しんでほしい作品です。

 探偵チャーリー・チャンを演じるのは、ワーナー・オーランド(1879-1938)。スウェーデン生まれの白人俳優です。13歳の時に渡米し、ブロードウェイの舞台などを経て、サイレント期から映画に出演し始めます。最も有名なのは、ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の『上海特急(The Shanghai Express, 1932)』での、反乱軍頭領、ヘンリー・チャン役でしょう。オーランドは、その出自にもかかわらず、東洋系の役どころを与えられることが多かったハリウッド俳優です。1929年の『フーマンチュウ博士の秘密(The Mysterious Dr. Fu Manchu, 1929)』以降、中国系の役柄を演じなかった作品は数作品しかありません。

ワーナー・オーランド

オーランド自身、「私が中国人のように見えるのは、モンゴル来襲のおかげだよ」と言っていた。彼のロシア系の母親からアジア系の血を引き継いだと考えていたようだ。(1)

 オーランドは中国人を演じる際、特殊なメークアップをする必要がなく、「ゴーティーを生やし、ヒゲを少し下向きにし、眉毛を櫛で上に向ける」だけで済んだ、と共演のキイ・ルークが語っています。

 「白人が他人種を演じる問題」は、ハリウッド映画史では未だに議論が続くテーマですが、象徴的な例として、しばしば「映画史上初のトーキー」として紹介される『ジャズ・シンガー(The Jazz Singer, 1927)』があります。ここでは、ワーナー・オーランドはユダヤ人司祭を演じ、その息子役のアル・ジョルソンがブラックフェイス/ミンストレルをして『マイ・マミー』を歌います。多人種社会のアメリカで白人であることを強調するメカニズムのひとつとして、ミンストレルが機能していた、(特にユダヤ人が支配的なハリウッドにおいて、この事は示唆的です)という見解があります(2)が、「チャーリー・チャン」になると事態はもっと複雑です。『オペラ劇場の殺人』を見ていただくとわかるように、この現象を単なる「黄禍(yellow peril)」の亜流と捉えるのは明らかに的外れですし、人種差別はむしろ愚か者の犯すこととして明確に描かれています。けれども、ステレオタイプや偏見がないわけではなく、さらに映画製作・興行のシステムとして、アジア系の俳優を主演にすることが実質的に不可能だった時代でもあるわけです。

 チャーリー・チャンの息子「第1号」、そして彼の推理のパートナーとして登場するリー・チャンを演じるのは、ケイ・ルーク(1904-1991)、広東市生まれの中国系アメリカ人俳優です。幼いころにシアトルに移住、1930年代からハリウッド映画に出演し始めます。ルークはチャーリー・チャンの息子第1号役が当たり役で、その後もミステリー映画に数多く出演します。彼こそ、チャーリー・チャン映画シリーズの魅力の原動力ですね。後年は、『グレムリン(Gremlins, 1984)』で骨董屋の主人、そしてTVシリーズ『燃えよ!カンフー』でデヴィッド・キャラダインの盲目の師匠ポーを演じました。

ケイ・ルーク

ポー先生(左:ケイ・ルーク)とケイン(右:デヴィッド・キャラダイン)

 さらに『オペラ劇場の殺人』には、謎の狂人役としてボリス・カーロフ(1887-1969)が登場します。1931年公開の名作『フランケンシュタイン(Frankenstein, 1931)』でフランケンシュタイン博士が創造した怪物の役を演じた、ハリウッドホラー映画の支柱とも言える俳優です。その彼がオペラ劇場の中で、まさしく「怪人」となってさまようなか、殺人が起きるのです。

ボリス・カーロフ


映画『フランケンシュタイン(1931)』よりフランケンシュタインの怪物


 監督のH・ブルース・ハンバーストーン(1901-1984)は、1930~40年代を中心に活躍しました。代表作はダニー・ケイ主演の『天国と地獄(The Wonder Man, 1945)』でしょうか。フィルム・ノワール初期の佳作"I Wake Up Screaming (1941)"は、もっと見直されてもいい作品です。

劇中で使われるオペラは、この映画のために作曲されたもの。オスカー・レバント(1906-1972)が曲をウィリアム・ケンドールがリベレットを担当しました。レバントは、この映画のためにオペラを一曲まるごと作曲したのですが、使用されたのはごく一部です。 オスカー・レバントの言葉、「天才と狂気の間には細い線しかない。私はその線を消した。」というのは、『オペラ劇場の殺人』を見ると、ひときわ意味深いと思います。オスカー・レバントは『巴里のアメリカ人(An American in Paris, 1951)』で売れない音楽家の役で登場し、ジョージ・ガーシュインの『ピアノ協奏曲へ長調』を演奏しています。



撮影はルシアン・アンドリオ(1892-1979)。映画黎明期から活躍したカメラマンで、サイレント期フランスの大ヒットシリーズ『ジゴマ(1911)』から1960年代のTVまで、200以上のフィルモグラフィーを持つベテランです。我々には、ジャン・ルノワール監督の『南部の人(The Southerner, 1945)』で馴染み深いかもしれません。

(1) Yunte Huang, "Charlie Chan, The Untold Story of the Honorable Detective and His Rendezvous with American History", W. W. Norton, 2010
(2) Michael Rogin, "Blackface, White Noise: Jewish Immigrants in the Hollywood Melting Pot", University of California Press, 1996

2016年3月12日土曜日

パセーイク・テクスタイル・ストライキ

『ザ・トゥルー・コスト~ファストファッション 真の代償(The True Cost, 2015)』は、Zara、H&M、ファーストリテイリングなどのいわゆるファストファッションの擡頭によって、壊滅的な「変革」に曝された繊維・衣料業界についてのドキュメンタリーである。グローバリズムの下に、劣悪な環境で劣悪な賃金・労働条件で労働する人たち(主に女性)の実態をとらえていく。製作者らは(主にアメリカの)消費者が、この生産者たちの状況を知らないことを踏まえ、テーマの一つとして「あなたの服を作っている人を知ろう」という点を挙げている。

今から90年前に、同じ言葉で始まるドキュメンタリー映画がアメリカで製作されている。

『ザ・パセーイク・テクスタイル・ストライキ(The Passaic Textile Strike, 1926)』は、ニュージャージー州パセーイクで起こった労働争議を、労働者運動の側からとらえた極めて珍しいドキュメンタリーだ。

1890年のマッキンリー関税法、1897年のディングリー関税法によって、外国の経営者によるアメリカ国内での工業生産が加速した。パセーイクはオランダ系移民が作った町で、20世紀のはじめにはアメリカ東部の繊維産業の中心地の1つであった。その大部分は(海外の)ドイツ人によって経営されており、その一方で、労働力の大部分は移民かマイノリティであった。人種、宗教などの違いによって、労働者がコミュニティとして分断されていること(またそうなるように経営者が募集した)を利用して、経営者は労働力のコストを大幅に抑制し続けた。特にそこで働く女性たちの給与は低く、自立はもちろん、生活自体が維持できないレベルであったという。それに加えて、繊維くずによる呼吸系の病気なども多発しており、明らかに死亡率が高くなっていた。パセーイクでは、就労機会への不安を煽ることで、労働者の基本的人権の遵守がなされないという、典型的な雇用の不均衡が起きていた。さらに、第一次世界大戦でのドイツの敗北にもかかわらず戦後もドイツ人による経営が再開され、生産の機械化によって労働者の地位は更に低くなっていった。


1925年10月の経営者による「賃金10%カット」の通告を受けて、パセーイクでの最初のストライキが始まった。その後、労働組合教育連合(Trade Union Educational League)と労働者党(共産党, Worker's Party)の指導のもと、15000人以上の労働者が1年以上にわたってストライキを行った。結局、労働者側の敗北に終わったこの労働運動は、アメリカ共産党によるはじめての運動であるとともに、その後の労働組合と共産党との関わりに大きな遺恨を残したと言われる。 このストライキを継続するための資金の一部は共産党から出資されていたが、一方で資金を獲得するために、労働者が置かれている状況を宣伝する必要があった。パセーイク繊維労働者統一戦線委員会を率いていたアルバート・ワイスバーグは、資金調達のための宣伝手法として、映画製作を行うことを決定、アルフレッド・ワーゲンネクトが実質的な製作担当として撮影が開始された。


この作品は、長い間「失われた映画」と思われていた。映画史研究家のケビン・ブランロウは、「もうこの映画は見ることができないだろう」とずっと思っていた。ニューヨーク近代美術館を訪問した時、アイリーン・バウザーに「そういえば『ザ・パセーイク・テクスタイル・ストライキ』のプリントが見つかったのよ」と言われて卒倒するほど驚いたらしい。この映画は全7巻であるが、完全な形で現存するのは、第5、7巻を除く5巻である。第5リールはその後、かなり劣化した状態で見つかり、修復されて米国国会図書館に保管されている。

この5巻をNew Jersey Research and Education Networkが運営するNJVID.NETで見ることができる。



最初の30分くらいは、労働者たちによる「実態」の再現ドラマである。経営者(現場レベルのマネージャーのようだが)による(未成年への性的暴行を含む)暴虐と、それによって崩壊していく労働者の家族がメロドラマ的に描かれていく。だが、その再現ドラマから突然、工場前のピケを映した映像に変わって、私たちは1926年のニュージャージーのくすんだ風景に放り込まれる。記念写真撮影のように並んでニコニコと笑う女性たち、ピケをはって練り歩く人の群れ、カメラマンに向かって手回しクランクを回す真似をしてみせる男、大人の群れを見入る子供、カメラの前に並んでいるのに兄弟にちょっかいを出す青年。いずれは離れ離れになってしまったであろうその人々の、少しだけ望みが見えた気がした日々。警棒やガスによって、やがてやって来る不況によって、潰されていった笑顔の撮影記録である。


この映画は、製作途中から、パセーイクの労働者を集めて上映会を開いたりしていた。完成後は、幾度か上映されたようだが、結局コミュニティの外への発信力は極めて低く、資金調達の目的は果たせなかった。その後、映画の上映用プリントは共産党事務局に保管されたまま忘れ去られてしまっていたようである。

このストライキの時に共産党員だったマーサ・アッシャーは、1980年代にパターソン・コミュニティ・カレッジでこの映画を上映した。学生の中にはパセーイク出身の黒人のティーンエイジャー達もいた。彼らは、(普段見慣れていないサイレント映画にもかかわらず)スクリーンをじっと見つめ、メモを取りながら見たという。「こんなことが自分たちの町で起きたなんて信じられなかったみたいね」とアッシャーはインタビューで語っている。

参考資料
Kevin Brownlow, "Behind the Mask of Innocense", University of California Press, 1990

2016年3月6日日曜日

ルドローの虐殺

D・W・グリフィスの大作『イントレランス(Intolerance, 1916)』の「現代篇」は、経営者による賃金カットに反発した工場労働者のストライキ、そしてその悲劇的な結末で幕を開ける。なかでも、ストライキ鎮圧のために武装した部隊が投入され、ピケを張っている労働者の一群に機関銃掃射を撃ちこむシーンは、過剰な暴力のあまりの呆気なさに唖然としてしてしまう。




このシーンは、『イントレランス』の公開数年前にコロラド州の南部で起きた実際の事件を元にしている。コロラド州のトリニダードは、ニューメキシコ州との州境に近い、小さな町である。この町を中心とした地域は、20世紀初頭に炭鉱で栄えた。地域で最大の規模を誇ったのは、コロラド・フュエル・アンド・アイアン・カンパニー(Colorado Fuel & Iron Company, CF&I)、当時7000人を超える炭鉱労働者を雇い、ロッキー山脈以東では最大の生産量を誇った。しかし、労働環境は劣悪で、当時の標準から考えても事故による死亡、労働環境の悪さによる病気や疲弊が多い、問題のある企業であった。経営者はロックフェラー一族。ジョン・D・ロックフェラー・ジュニアがニューヨークのブロードウェイにあるオフィスから指揮を執っていた。だが、もともとこの分野は競争が激しく、CF&Iは規模の割には経営状態が芳しくなかったようである。

CF&Iでは、炭鉱労働者を会社が用意した家に住まわせ、医療や学校なども提供した。そう聞くと、随分とよい福利厚生のように聞こえるが、実際には「それしか」選択肢が無かったのである。会社が用意した閉鎖コミュニティに密集した酷い状態の家をあてがわれ、買い物も会社が経営する食料品店しかなく、給料もそこでの買い物券が配布されるだけである。コミュニティの入り口には、ゴロツキと変わらない「守衛」がマシンガンを持って立っており、夜には頻繁に戒厳令がひかれる。もちろん、労働者たちは組合を組織する権利は与えられていない。そして、ロックフェラー一族のように資本と権力に極度に執着している経営者には、そのような問題は些末事でしかなかった。

ジョン・D・ロックフェラー・ジュニア 

度重なる爆発事故や、改善されない労働条件に業を煮やした炭鉱労働者は、炭鉱労働者組合(UMWA)のもと1913年9月にロックフェラーに7つの要求を突き付けて、ストライキに入った。組合を認めること、実質的な賃金値上げだけでなく、「付随の労働(伐採など)にも賃金を」「買い物をする店を自由に選ぶ権利」など、ごく当たり前の要求をしている。だが、ロックフェラーはこれを無視し、全労働者の90%にもあたるスト労働者を追い出した。彼らは、最大の炭鉱地、ルドロー(Ludlow)にテント村を設営して、ストライキを継続した。会社は、私兵や探偵社(ボールドウィン&フェルツ)を使って、ストライキの対応(脅迫、情報収集、スト破り、など)を行った。脅迫にはマシンガンを搭載した装甲車で町を走り、ランダムに撃つ、というのも含まれている。10月にはコロラド州の州兵が現地に派遣され、寒い冬の間、散発的な銃撃戦、度重なる暴力の応酬、が繰り返された。1914年の春に至っては、経営者側は十分な労働者(スト破り)を確保していたようである。ところが州の方は、これだけの州兵を長期間現場に派遣し続けるのは財政的に大打撃であった。1914年4月にはその大部分が散開し、2部隊だけになっていた。

経営者側が使用した装甲車(”Death Special”)
Colorado Coal Field War Projectより)

1914年の4月20日、州兵とスト労働者の間で銃撃戦が始まり、州兵がテント村に放火、スト指導者を射殺した。放火されたテントの焼け跡から数多くの母親と子供の死体が発見された。25人が殺され、うち10人は子供であった。これが「ルドローの虐殺(Ludlow Massacre)」である。

テントに住むスト労働者達
Colorado Coal Field War Projectより)
ケビン・ブランロウ著『純潔の仮面の向こう(Behind the Mask of Innocence)』に、この「ルドローの虐殺」についての記述がある。このなかで、パテ映画社のカメラマン、ビクター・ミラーについての話がある。

ミラーは、パテ映画社のカメラを抱えて、1913年の秋にトリニダードに着いた。そこでこのストライキのニュース映画を撮影するためである。ところがトリニダードの町はすっかり「経営者」にとりこまれていた。ホテルに保安官が現れ、ミラーを脅迫する。「健康でいたかったら、カメラを持ってホテルを出るな、そして明日には町から立ち去れ。」夜、町のバーでスト労働者達と偶然会い、彼らの手伝いでホテルからカメラを持ち出し、ルドローへ。「そこはまさしく戦場だった・・・労働者たちは完全に武装していた。」

その闘争の現場をミラーは撮影する。州兵からの攻撃を受けながら、である。地元の新聞、デンバー・ポストによると「パテ映画社のカメラマン、ミラーは飛んでくる弾丸をもろともせずにカメラのクランクを回し続けた」らしい(もちろん、かなり誇張されているようだが)。撮影した彼は、銃をもった男たちに追い回され、車で逃げたが、「あの時のモデル-Tがもう少し遅かったら、私は今頃トリニダードに埋まっているだろう」と語っている。

私は、このニュース映画は、多分失われたのだろうと思っていた。その後、コロラド各地で上映され、大好評だったが、ロックフェラーたちに押収され、その後の裁判で労働者に不利な証拠として使われたようである。しかし、たまたま、このニュース映画を見て、そこにまさしく、このビクター・ミラーが撮影した、ルドローのスト労働者達の姿を見つけた。



州兵たちのフッテージは誰が撮影したものかは、不明である。この1分にも満たないフィルムが、その後のアメリカの労働組合運動を大きく変えたと言われる、ルドローのストライキの唯一の映像だと思う。

ルドローでのビクター・ミラー
(Moving Picture World 1913年12月6日号)

ちなみに、カメラマンのビクター・ミラーはその後、ビクター・ミルナーと名乗ってハリウッドの撮影監督となった。そう、『極楽特急(Trouble in Paradise, 1932)』、『生活の設計(Design for Living, 1933)』、『レディ・イヴ(Lady Eve, 1941)』の撮影を担当したビクター・ミルナーである。

 
 
Copyright © KINOMACHINA
Blogger Theme by BloggerThemes Design by Diovo.com