みずみずしい。

ギオルギー・ダネリヤ監督の『私はモスクワを歩く(Я шагаю по Москве, 1964)』はよく「みずみずしい」という形容詞とともに紹介される。ソ連の新しい世代の若者達が、輝く陽光に包まれて走りまわり、突然雨に洗われて裸足で散歩する。恋にためらい、突然不安になり、そしてまた将来の夢を探しはじめる。ラストの地下鉄のシーンの清々しさは、あの歌とともに、観たあとしばらく漂っている。

独特の爽やかさはヌーヴェルヴァーグのようだと言われ、ソ連の「雪解け」の時期を謳歌している作品と言われる。

しかし、「みずみずしい」と言い切ってしまうのもためらわれる。

ふとしたシーンでソ連の「まがまがしさ」が顔をのぞかせ、雪が解けたと思ったらまた雪が降り始めている。だいたいキューバ危機の1年後に、何事もなかったかのような「みずみずしさ」がスクリーンをおおっているのだから、すこし疑ってかかったほうがいいに決まっている。

しかし、もう半世紀以上も前のことだから、何を疑うべきなのかもよくわからない。私の場合は、チャイコフスキーのピアノ協奏曲のレコードを買いに来た青年のセリフが疑うきっかけだった。

グム百貨店のレコード売り場で働くアリョーシャに客の男が尋ねる。

客の男

チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番のレコードはある?

アリョーシャ

ネイガウス、リヒテル、それともクライバーン?

客の男

あの・・・ヒゲの男。

(?)

 

オグドンだよ。1)

アリョーシャが挙げる3人の名前は当時のソ連で最も人気があったピアニストたちだ。そのなかでもヴァン・クライバーンは、冷戦のさなかの1958年にモスクワで行われた第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝したアメリカ人ピアニスト、ソ連にとってはフルシチョフ第一書記の「雪解け」政策の象徴的存在と言ってもいいだろう。ソ連国民はこのテキサス州から来たひょろっとした青年のピアノに魅了されてしまっていた。そして、ジョン・オグドンも、1962年の第2回のチャイコフスキー国際コンクールで第1位をとったイギリスのピアニストである。ソ連国民は、今度はクマのようにノソノソと歩く、ヒゲの青年ピアニストに夢中になっている。このシーンでは、モスクワ市民たちが自国ソ連のピアニストたちよりも、西側のピアニストのレコードを買い求める様子が描かれているように映るだろう。

だが、実は第2回のコンクールでは第1位は2人いた。ジョン・オグドンとウラジーミル・アシュケナージである。アシュケナージは生粋のソ連国民だ。なぜ彼の名前が出ないのか。

クラシック音楽をそれほど聞かない人でも、ウラジーミル・アシュケナージの名前はどこかで耳にしたことがあるのではないだろうか。ピアニストとしてだけでなく、指揮者としても有名で、20世紀を代表するクラシック音楽家だ。彼はソ連邦、ヴォルガ川河畔のゴーリキー(現在のニジニ・ノヴゴロド)出身のユダヤ人である。1962年にチャイコフスキー・コンクールで優勝、将来のソビエト音楽界での<スター>を嘱望された存在だったが、1963年にイギリスに<亡命>している。彼の<亡命>の実情は、政治的な亡命ではなく、アイスランド人の妻と暮らすための<移住>といったほうが良いだろう。フルシチョフ第一書記は「アシュケナージは自由に出入国しても良いことにしていた」と回想録で述べているが、それまでのアシュケナージ夫妻の行動を見ていれば、モスクワに戻るつもりがないことは明白だった [1]。おそらくソ連文化省もほぼ確信していただろう。アシュケナージが国外で<反ソ連>の発言をしない限り、彼の両親や妹を収容所に送るような真似はしない、といったところだった。

だが、ソ連を捨てた人間であることにはかわりはない 2)。映画の脚本で、人気ピアニストとして名前をあげるわけにはいかなかったのではないだろうか。当時の文化省の立場としては、ソ連にのこのこやってきて、フルシチョフに「そのヒゲを引っ張ったら国際問題になるかな」とからかわれたイギリス人のほうがよっぽど良い、と見ていただろう。

https://assets.classicfm.com/2015/26/tchaikovsky-competition-history-12-1435595746-view-0.jpg
第二回チャイコフスキー国際コンクール
ウラジーミル・アシュケナージ(左から2人目)、ニキータ・フルシチョフ第一書記(真ん中)、ジョン・オグドン(右から2人目)
classicfm.com

 

もちろん、西側諸国の文化がモスクワの市民のあいだに浸透している様子を描いているだけだと見てもよいだろう。しかし、このセリフに登場するピアニストたちは、フルシチョフ第一書記の文化外交政策の<成果>といった趣があり、いかにもそつなく選んでいるように思えてならない。スヴィアトスラフ・リヒテルはソ連随一のピアニストだったが、スターリン時代は、ドイツ人の血をひくという理由から国外での演奏活動は禁じられていた。それをフルシチョフが破り、西側諸国でのリヒテルのツアーはセンセーションを巻き起こした。クライバーンとオグドンは、たとえ西側の演奏家であっても、優れた才能を平等に評価するというロシアの懐の深さを世界に示した象徴だった。(ゲンリフ・ネイガウスは、ソ連のピアノ界の大御所なのだが、やはりドイツ系ということで戦時中は危険人物としてみなされ、モスクワから追放されていた。)

このレコード店がはいっているグム百貨店そのものが、「雪解け」の象徴だ。スターリンの時代にはオフィスビルになっていたものを、ミコヤンが物資的豊かさの象徴としてのショッピング・モールに再生した。

同じレコード屋のシーンで、「ロベルティーノ」のレコードを買い求める客が二人も現れる。ロベルティーノ・ロレッティは1960年代初頭に一世を風靡した少年歌手で、特にソ連でなぜか人気があった。レコードは瞬く間に売れ尽くし、入手できなかったのだ。「わたしはカモメ」のワレンチナ・テレシコワが初の女性宇宙飛行士として1963年6月にヴォストーク6号で地球を周回しているときに、地上の交信係にロベルティーノの曲をリクエストしたという。しかし、そこまで人気がありながらロベルティーノのエージェントはソ連へのツアーを取りやめる。熱狂的に迎えられるかもしれないが、ビジネスとしては損しかしないからだ。ソ連で得られる興行収入はありえないほど少なく、しかもその大部分をソ連政府に巻き上げられてしまう。レコードを出しても、ソ連では著作権というものが尊重されないために、模造品が出回ってしまう。エージェントは「ロベルティーノは成長して声変わりした」といってツアーをキャンセルしたと言われている。ヴォロージャのセリフ(「成長したんだよ」)は、そんな出来事を指している。 

 

ロベルティーノ「ジャマイカ」1961年

西側諸国から外貨を稼ぐために、優秀なアーティストをツアーに出し、優れた芸術作品を貸し出す。一方で西側諸国から流入する文化には、なるべく対価を払わない。おそらく監督や脚本家はそんな意図でこのレコード店のシーンを作らなかったと思うが、しかしそこには、「雪解け」のそんな側面が見え隠れしている。

雪解けの終わり

スターリンが亡くなって間もない1956年にフルシチョフ第一書記が激烈なスターリン批判を行い、ソ連共産党の政治路線の変更が決定的になった。それから「雪解け」と呼ばれる時期が始まり、文化の面でもスターリン時代の硬直から解放され始めていた。映画の分野では新しい世代が登場し、ミハイル・カラトーゾフ監督の『鶴は翔んでゆく(Летят журавли, 1957)』、グリゴーリ・チュフライ監督の『誓いの休暇(Баллада о солдате, 1959)』などの作品が国際的にも評価された。

1961年10月、文科大臣エカテリーナ・フルツェワは以下のように述べている [2]

映画製作は大きく変化した。1950年代のはじめには、映画スタジオは年平均6~7本しか公開していなかったが、去年1年間だけでも100本を超える映画が公開されている。若い、才能のある映画監督や俳優たち、つまりソビエトの芸術の将来を担う人たちが、映画スタジオで育ったのだ。最近では遠隔地の人も映画を見るようになった。昨年の観客動員数は40億人となり、これにはテレビで放映される映画の視聴者の数は含まれていない。

スターリン時代から映画を作り続け、若い映画監督たちからも慕われていたミハイル・ロンムは、保守系雑誌「オクチャーブリ」───すなわち、スターリン主義を温存し、西側諸国の文化を否定する側───からの攻撃に対し、さらなるスターリン批判をくりひろげると宣言した。1962年の秋のことである [2]

いま、(フルシチョフ第一書記によるスターリン批判)だけでは十分ではないということが明らかになった。これからは私達自身が考え、語り、書くことが必要なのだ。スターリンとスターリン主義だけでなく、スターリン主義によって残された遺産の虚偽を暴くことも重要だ。我々の周りで起こることに注意をはらい、芸術の社会的活動で起きる出来事について判断を下すことがより重要になっているのだ。

このとき、ロンムは「オクチャーブリ」の保守派たちがユダヤ人差別のニュアンスを含ませて批判を展開していることを指摘していた。

だが、フルシチョフの<自由化>路線を転覆させる事件が1962年12月に起きる。マネージ展覧会で展示されていた抽象芸術作品をフルシチョフがこきおろしたのだ。「マネージ展覧会事件」と呼ばれるこの出来事によって、抽象芸術の絶対否定が公式政策として復活し、それにともなって<保守派>による<自由化派>の追い出しが始まった [3]。これは方針転換というよりも、フルシチョフが内政の失敗への批判をかわすために、文化政策の自由化にブレーキをかけたという側面が強い。

翌年1963年の3月、ソ連映画界は大打撃を受ける。フルシチョフは600人もの芸術家や作家をクレムリンに招き、そこでマルレン・フツイエフ監督の『イリイチの砦(Застава Ильича, 1963)』を徹底的に批判した。この作品は、モスクワで暮らす若者たちの姿をロケーション撮影を駆使して、極めて誠実に描き出した力作だった。しかしフルシチョフは、この作品が「どうやって生きていくかもわからず、何を目指すべきかも知らない」怠け者たちを描いているとして糾弾した。最もフルシチョフが反応したのは、主人公のセルゲイが、戦死した父親の亡霊と話をするシーンだった。セルゲイが父に助言を求めると、父親の亡霊は自分が死んだのは21歳で、今のお前より若かった、と言い残して消えてしまうのだ。フルシチョフは「こんな馬鹿なことがあるか、猫でも子猫を見捨てたりはしない!」と罵った [4]

『イリイチの砦/私は20才』

 

このフルシチョフによる攻撃の最中、脚本を担当した、当時25歳のシュパリコフが挙手して発言を求めた [5], [6]

フルシチョフ

誰だ、君は?

シュパリコフ

いま議題にあがっている映画の脚本を書いたものです。

フルシチョフ

じゃあ、ニヤニヤ笑ってないで、どうしてあんなくだらないものを書くほどのバカに成り下がったか説明しなさい。

シュパリコフ

そんなことを説明するつもりはありません。というか、こんなこと、どうだっていいじゃないですか。それより私を祝福してください。みんなで祝ってください!私に娘が生まれたんです。ダーシャって言うんです!

このあと、フルシチョフが拍手をし、それに続いて出席者全員が拍手喝采をしたと言われている。

ちなみにイゴール・イエルツォフによると、フルシチョフは『イリイチの砦』を実際に見たことはないという。彼の部下の報告をもとに批判を展開したらしい [7]

拍手喝采はともかく、『イリイチの砦』は大幅な修正を求められることになる。編集につぐ編集の末、1965年に『私は20才(Мне двадцать лет, 1965)』というタイトルで大幅に短縮されて公開された。その後、ソ連崩壊後にフツイエフ監督自身の手で再編集されてほぼもとの形で再公開された。

この『イリイチの砦』批判は、ソ連映画界が<世代>の問題に対してふたたび神経質になるきっかけとなった。

『イリイチの砦』の次にシュパリコフがとりかかったのが『私はモスクワを歩く』である。シュパリコフのイメージは、ひとつだけだった。夏の午後、突然降り始めた激しい雨のなか、裸足の女性が傘もささずに通りを歩いている。彼女のそばを自転車に乗った若い男がついてまわる。彼が傘を差し出すが、彼女は幸せそうに雨に濡れている・・・。監督のギオルギー・ダネリヤは、これだけでは映画にならないので、シュパリコフに様々なエピソードの断想を書かせ、それをもとに脚本を仕上げていった。『私はモスクワを歩く』が「他愛もないエピソードの寄せ集め」となったのも、こういった構想の経緯から生まれた作品だからである。

しかし、製作途中に撮影所の所長が「意味のあるエピソードがない」と批判した。つまり登場人物が「葛藤」する話がない、ということだ。その応答として<床磨き>のエピソードが生まれた。また、ゴスキノの首脳陣は、この物語が登場人物構成やその扱いの点において『イリイチの砦』と似ていることに不安を感じていた。ゴスキノの副委員長ウラジーミル・バスカコフは、撮影にとりかかる監督のダネリヤに『イリイチの砦』の轍を踏まないよう注意したという。

おそらく、この「葛藤のない物語」という点が、シュパリコフとダネリヤの狙いだったのだろう。完成した作品を見る限り、シュパリコフがフルシチョフに言い放った言葉が、『私はモスクワを歩く』の<狙い>そのものなのかもしれない。つまり「もう政治のことなんかどうでもいいじゃないか、生きていることを祝おう」と。『イリイチの砦』が若い世代の自由への渇望と葛藤を扱おうとしたが、それを政府首脳が意図的に捻じ曲げて解釈し文化政策の道具に仕立ててしまった。ならば、そういった<物語>を漂白して、まだ見ぬ新しい世界への憧れという点に映像を収斂させる、そういったアプローチが功を奏したのではないだろうか。

シュパリコフとダネリヤが脚本執筆に没頭していた頃、ソ連映画界を震撼させるもう一つの事件が起きていた(なかなか、激動の時代である)。第3回モスクワ映画祭で、グランプリの選出をめぐって審査員たちが対立し3)、映画祭の危機にまで陥っていた [8]。その年の候補作のなかでは、誰が見てもフェデリコ・フェリーニの『8 1/2』がグランプリだと思われた。しかし、開催国ソ連のメンツを潰していいものか、特に共産圏の国々の審査員が渋ったのである。同年のソ連からのエントリ『Знакомьтесь, Балуев』はいつもの社会主義リアリズムのぱっとしない作品で、贔屓目に見てもグランプリには値しなかったという。イタリアのセルジオ・アミデイは「チェコの審査員は『8 1/2』が一番優れているが、票を入れることはできないと言っている。なんだこれは」と怒って出ていってしまった。アメリカからの審査員、スタンリー・クレーマーも審査を放棄して自身の作品の上映会場に向かっていた。ブラジルからの審査員、共産党員でもあるネルソン・ペレイラ・ドス・サントスが共産圏の審査員を説得して『8 1/2』に投票してグランプリにする代わりに声明を発表しよう、と説得していた。結局、共産圏側が折れて『8 1/2』にグランプリが与えられた。一説には首脳部がフルシチョフ第一書記に状況を説明し、ソ連の国際的なメンツを保つためにも『8 1/2』に賞を与えなければならないだろうという指示があったと言われている。

ところが、このグランプリの結果がさらに波紋を呼ぶ。この結果をみた若いソビエトのインテリたちが間違った考えを起こさないようにと「プラウダ」紙が『8 1/2』をこき下ろし始めるのだ。この攻撃を指揮したのは、文化大臣のフルツェワだと言われている。さらに興味を持ったフルシチョフが『8 1/2』を鑑賞、30分で激怒して出てきて「なんとかしろ」とわめきはじめた。政府の映画委員会のアレクセイ・ロマノフが、ソ連政府は映画祭とは無関係だと声明を発表し、『8 1/2』はソ連国内では公開されないと示唆した。このあと、国内で製作中の13本の映画がいったん中止となったという。このなかに『私はモスクワを歩く』が含まれていたかどうかはわからない。

モスクワという被写体

スターリン体制からの脱却は、モスクワという都市にも変化をもたらした。都市開発、新しい居住空間の登場、そして観光地としての機能である。この変化を具体的に紹介するドキュメンタリーがある。『偉大なる運命の都市(Город большой судьбы, 1961)』は、雪解けによって現れたモスクワの姿をカラーでとらえている。この映画をみると、『イリイチの砦』や『私はモスクワを歩く』で描かれる若者たちの生きる場所としての<モスクワ>の文脈がもう少し明るくなってくる。例えば、『イリイチの砦』に登場する若者の一人がビルの解体作業の労働者だったが、当時のモスクワにとってスターリン時代の老朽化した集合住宅を解体して新しい住居を建設することがいかに重要な改革の一部だったかがわかる。地下鉄の建設はまさしく労働の喜びと直結していることが示されているし、百貨店は商品で溢れかえっている。観光客が世界中から集ってきて赤の広場を見学している。様々な人種の留学生が共産主義の中心地で学んでいる。

このドキュメンタリーは、特に『私はモスクワを歩く』の手本になったのではないかと思われるほど類似点が多い。一方はカラーでスタンダード比、もう一方は白黒でワイドスクリーンという差はあるにせよ、望遠レンズで夜の車のヘッドライトの列をとらえたり、俯瞰で街路をとらえる構図は共通している。導入部を比較してみると興味深い。どちらの作品もまず、俯瞰でモスクワをとらえるショットからはじまる。そして街路の喧騒を映し出すのだが、『偉大なる運命の都市』は歩道を歩く人達に焦点をあて、ときには移動カメラも用いてダイナミックに街をとらえているのに対し、『私はモスクワを歩く』は大通りを埋め尽くす自動車を固定カメラでとらえている。やはり『私はモスクワを歩く』は歩く人間の視点の映画なのだ。『私はモスクワを歩く』の試写の際、この俯瞰ショットにケチが付いた。政府が細心の注意を払っている<写ってはいけないもの>が写っているのではないか、と危惧したのだ。

冷戦時のソ連映画は、非常に厳しい検閲を受けて公開にたどりつく。その全容はなかなかわからないものの、映画関係者の証言などから興味深い状況を知ることができる。映画監督のイゴール・イエルツォフは「(政治に関わる映画委員会の検閲よりも)軍の検閲のほうが楽だった」と述べている [7]。軍はあらかじめ、フレームに入ってはいけない建造物などを指摘してくれるからだ。軍の検閲でなくても、実際の土地に関する情報はすべて誤魔化すか、偽の情報にする必要があった4)。理由は不明だが、正確な日付のカレンダーも撮影禁止だったようだ。イエルツォフは、ある映画の撮影で正確な日付のカレンダーが写り込んでいたために結局お蔵入りになってしまったことがあると証言している。

『私はモスクワを歩く』が、実際にどのような検閲を受けたかは調べた限りではわからなかった。前述のように、この映画にはモスクワのドキュメンタリーのような感触がある。しかし、冒頭の地下鉄の場面でヴォロージャが尋ねる場所は実在せず、ラストの地下鉄の駅は「大学駅」のホームでの別れのシーンも辻褄が合わない(当時の大学駅はソコーリニチェスカヤ線の終点)[9]。コーリャの家の前にある印象的なカフェも映画のために作られたセットだった。観光要所以外は、<本当の>モスクワをはぐらかしているような印象を受ける。

この<はぐらかし>が『私はモスクワを歩く』の底に流れているような気がしてならない。<狙い>は、鬱陶しい政治的なテーマは漂白して「生」を祝福することではなかったか、と述べたが、その<狙い>自体が極めて政治的だったように思えるのだ。たとえば、夜のモスクワを写していくモンタージュで、プーシキンの像、ゴーゴリの像、マヤコフスキーの像、と順番につなげている。1961年に、このマヤコフスキーの像の下でゲリラ的な詩の朗読会が繰り広げられ、KGBによって弾圧された事件が起きている。すると、このモンタージュは、ロシアの文学の歴史───プーシキン、ゴーゴリ、マヤコフスキー───の延長線上に若い詩人たちの活動があることを暗に示していると思うのは、深読みしすぎだろうか?

この映画が公開されたとき、登場人物たちの<考えの浅さ>を批判する批評家たちもいたという(I・S・レヴシナなど)。しかし、何を考えているかわからない当局の考える通りに考えないと600人のインテリの前で激しくこき下ろされ、作品をズタズタにされるような環境で、どんな物語を語ることができるのだろう?何も考えていないような登場人物たちにモスクワ案内をさせつつ、<はぐらかした>向こうにうっすらと、詠みたい詩を詠み、行きたいところに自由に行きたいと願う若い世代がみえるような、そんな作品をねらったのではないだろうか。

そういえば、この映画で検閲を受けた箇所についてダネリヤ監督が自伝でエピソードを紹介しているらしい。あの印象的な主題歌の歌詞の一節「だれと行くかまだわからない」は、もともと「どこに行くかわからない」だったという。文科省の役人が「どこに行くかわからない」では、亡命を示唆していることになると指摘したそうだ。

 

 

エデュアルド・ヒーリ「私はモスクワを歩く」 1967年

フルシチョフ時代の終焉とホロコースト

『私はモスクワを歩く』でコーリャが向かいのアパートを指差して「あそこにプーシキンが昔住んでいたんだよ」というシーンがある。実際にプーシキンの住んでいた家の近所で育った映画監督がいる。ミハイル・カリク監督だ [10]

カリクは1949年にVGIK(全ソ国立映画大学)に入学、しかしすぐに強制労働収容所(グラグ)に送られてしまう。ユダヤ人だからである。1953年、スターリンの死後に解放されて、VGIKに戻った。1958年に監督としてデビュー、『太陽を追う男(Человек идёт за солнцем, 1961)』で注目された。その次の作品、『グッドバイ・ボーイズ!(До свидания, мальчики!)』は1960年代のソ連映画のなかでも最も叙情的でかつ実験的な優れた作品のひとつだと言ってよいはずだ。しかし、公開時の検閲問題に加えて、ソ連崩壊後もカリクとロシア当局のあいだでトラブルが続き、結局カリクが望んだかたちで日の目を見ることもなく、また現在でもロシア以外の国ではほとんど知られていない映画となっている。

これも、3人の少年、ヴォロージャ、サーシャ、ヴィーチャ(『私はモスクワを歩く』と紛らわしい)が主人公たちだ。舞台は黒海沿岸のリゾート地、エフパトリア、時代は1930年代なかばである。この3人が軍事学校に推薦され、本人たちは行く気満々なのだが、それぞれの親が(なにかを察して)行かせまいとする。特にユダヤ人のサーシャは困った事態になってしまう。だが、最後には親を説得して、陸軍学校に旅立つ───それだけの話だ。このストーリーに、少年たちの大人への通過儀礼、ヴォロージャとガールフレンドの不器用な恋愛、黒海のリゾートでののびやかな風景が重なっていく。その一方で、この青年たちがやがて行くことになる第二次世界大戦の序章がドキュメンタリー・フィルムとして挿入されていく。母親がヴォロージャを見つめていると、『意志の勝利(Triumph des Willens, 1934)』が突然挿入される。ヴォロージャとガールフレンドが将来について語り合っていると、ユダヤ人の絶滅収容所のフィルムが入ってくる。挿入されるフィルムは、青年たちの未来を暗示するフラッシュ・フォワードとなり、その絶望的な事態がのどかな海岸の風景と衝突していく。そして少年たちの陸軍学校行きが決定したとき、悲劇的な字幕が挿入される。ヴィーチャは戦死し、サーシャは「1956年に死後名誉回復」。この字幕は本当にみごとだ。この映画で語られた物語の結末としても、そして歴史の記憶としても、油断していた鑑賞者を床にたたきつけるような衝撃がある。

ボリス・バルターの原作をもとにした脚本をカリクがモスフィルムに持ち込んだのは1963年のことだった [10]。前述のようにこの年はソ連映画界にとって激動の年だ。そこにユダヤ人粛清を糾弾する内容の脚本を持ち込んだのだから、騒ぎになった。オリジナルの脚本では、サーシャの死に関しては「1952年に医師の粛清の際に逮捕され、収容所で死んだ」と更に直接的に表現されていた。これにはモスフィルムの評議会も頭を抱えてしまった。アンドレイ・タルコフスキーもこの字幕はまずいと助言した。結局、アレクサンドル・アロフとウラジーミル・ナウモフの二人が現在の「1956年に死後名誉回復」の字幕にしてはどうかと示唆した。これならば「わかる人にはわかる」。脚本はゴスキノで了承され、撮影に入った。

カリクはドキュメンタリーのフィルムをアーカイブから取り寄せて検討したが、「ソビエト国内でのホロコーストを記録したフィルムは存在していない」ことに気づく。実際、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害・虐殺にしても、その様子を撮影したフィルムが存在するわけではない。あくまで強制収容所や絶滅収容所が解放された際に連合軍によって撮影されたフィルムのみが存在する。『グッドバイ・ボーイズ!』に含まれるフィルムは、大部分がナチス・ドイツの収容所の解放時のものだ。

『グッドバイ・ボーイズ(1965)』

 

1964年9月にモスフィルムの評議会で『グッドバイ・ボーイズ!』の試写が行われた。概ね良い反応だったが、やはりドキュメンタリーのフィルムの挿入部分に懸念が示されたのと、労働者たちが一輪車を走らせるシーンが問題視された。これはスタハノフ運動に代表されるソ連の<労働賛美>を揶揄していると解釈されるのでは、と心配したのだ。もちろん、それがカリクの狙いそのものだった。このシーンに関してはカリクはあちこち少しずつカットして諧謔のトーンを抑えたという。そうしてフィルムはゴスキノに承認を得るために送られた。

ゴスキノでは、ドキュメンタリーのフィルムに現れるフルシチョフ第一書記の部分を削除するように求められた。カリクはすぐに応じ、『グッドバイ・ボーイズ!』は10月8日にゴスキノの承認を得た。

そのおよそ1週間後の10月14日に、フルシチョフは降格され、ブレジネフが権力の座についた。

ゴスキノは新しいブレジネフの政権にどう対応したら良いのか見当もつかないまま、とりあえず「新政権が気にいらない可能性があるものはすべて削除する」という方針で動き始めた。そして<労働賛美>を揶揄するシーンは削除するようカリクに求めたのである。だが、カリクは「一度承認したじゃないか」と反論、ゴスキノとカリクのあいだにできた溝は埋まらず、映画の公開は宙に浮いてしまう。

ゴスキノはカリクとその作品を公開の場で弾劾することにした。1965年6月17日に、自動車工場の労働者を集めて『グッドバイ・ボーイズ!』の試写会をおこなった。上映後、おそらくあらかじめ準備されていた発言者たちが口を揃えて「労働をバカにしている」と述べ、失敗作と罵った。カリクはその場は耐えたものの、問題のシーンの削除については同意せず、結局モスフィルムでナウモフが編集し直してなんとか公開にこぎつけたという。

この一件で、カリクの映画監督としての生命は極めて危ういものとなってしまう。リガの映画スタジオにコンサルタントとして左遷され、それでもいくつかの作品を撮った後、1971年にイスラエルに移住した。

この『グッドバイ・ボーイズ!』は、どこかで『私はモスクワを歩く』と重なっているように思われる。もちろん、エフゲニー・ステブロフがどちらの映画でも存在感を放っているのだが、名前も同じ少年たち、そのうちの一人は徴兵される身であること、近所にあるプーシキンの家、夜のコンサートで聞く異国の音楽、ひとつ無駄になるアイスクリーム、など、シュパリコフとカリクの描く物語はあちらこちらでつながっているようだ。しかし、一方の若者たちは戦争と独裁で悲劇的な結末を迎えるが、もう一方の若者たちは将来に希望をもっている。





私には、1950年代から60年代にかけて東欧とソビエト連邦で作られた映画について「ヌーヴェルヴァーグ」と呼ぶのはためらわれる。チェコのヌーヴェルヴァーグ、ポーランドのヌーヴェルヴァーグ、ソ連のヌーヴェルヴァーグ・・・それは、あのフランスの、フランス国内でも恵まれた男たちが作った映画とひとくくりにしていいものなのか。ひとくくりが言い過ぎなら、なにか似通ったものと考えていいのだろうか。若者たちが前の世代に反抗して、新しい、みずみずしい映像を撮り始めた、という図式だけで、フツィエフやヘルツ、ダネリヤ、メンツェル、カリクを見ていいのだろうか。ジャック・タチの『プレイタイム(Playtime, 1967)』のオープニングショットが、『私はモスクワを歩く』のオープニングショットへのオマージュだと言われているように、フランスからソ連、ソ連からフランスへの影響もあっただろう。だが、見えているものが「似ている」ような気がするのは、ただ気がするだけに過ぎないのではないだろうか。「雪解け」と言っても、本当に溶けて消えたわけではなくて、ただ溶けてまた凍っただけではないか。

しかし、まだまだわからないことのほうが多い。『グッドバイ・ボーイズ!』にしても私は描かれていることの半分もわかっていないみたいだ。この撮影をつとめたレヴァン・パタシヴィリがグルジアで撮影した作品群は興味をそそられるものが多いし、音楽を担当したミカエル・タリヴェルディエフはソ連の映画音楽においては重要な存在だ。『私は20才』の撮影監督マルガリータ・ピリキナの技術は壮絶だ。にもかかわらず、いろんなことがわからない。

ひとつひとつ解きほぐしていくしかなさそうだ。

 



 ところで、『私はモスクワを歩く』に登場した日本人「ウノ・マサアキ」はどういう人物で、どういう経緯で出演したのだろう?知っている方がいたら教えてほしい。



 『私はモスクワを歩く』の製作背景や経緯についてはロシア語のWikipediaが詳しく記載しているようだ。これらの記述の大部分は、最近出版されたゲオルギー・ダネリヤ監督、ニキータ・ミハルコフ監督の自伝、ゲンナギー・シュパリコフの伝記などに負うところが大きいようだ。興味深いエピソードも多い。例えば、有名な「夏の雨の中を裸足で歩く女性と自転車の男性」のシーンは、3日間にわたって撮影され、3人の女性が演じていること、また、ミハルコフが俳優未経験にも関わらず、高いギャラを要求してダネリヤがクビにしようとしたことなど、意外なことが書かれている。 




ここに挙げた映画のいくつかはオンラインで視聴可能である。

『私はモスクワを歩く』と『グッドバイ・ボーイズ!』はモスフィルムのYouTubeチャンネルで視聴可能である。

『私はモスクワを歩く』(英語他字幕あり)link

『グッドバイ・ボーイズ!』(字幕なし)link

Vimeoに英語字幕付きバージョンがある。

『グッドバイ・ボーイズ!』(英語字幕あり)link

『偉大なる運命の都市』は字幕はないが、非常に楽しい映画だ。

『偉大なる運命の都市』(字幕なし)link

 

 

Footnotes

1)^ この最後のセリフがだれのものなのか、はっきりしない。アフレコで入れられたセリフなのだが、誰の口も動いていないからだ。

2)^ アシュケナージの名前が、ソ連の公式記録から抹消されるのはこの映画の数年後である。1970年頃からアシュケナージはメディアでソ連批判をはじめた。すると、チャイコフスキー国際コンクールの歴代優勝者のリストから名前が消えたという。

3)^ このとき日本から参加していた審査員は牛原虚彦。

4)^ ソ連当局が国内外に向けて発行していたソ連地図は意図的に都市、道、鉄道、河川などをずらして記載してあった。一方で軍が保持していた地図には、世界中の都市や要所についての情報が極めて正確に記載されていた。

References

[1]^ J. Parrott, Beyond Frontiers. New York : Atheneum, 1985. link

[2]^ L. H. Cohen, “The Cultural-Political Traditions and Developments of the Soviet Cinema,” Carleton University, 1973. link

[3]^ P. Sjeklocha and I. Mead, Unofficial Art in the Soviet Union. Berkeley, University of California Press, 1967. link

[4]^ W. Taubman, Khrushchev: The Man and His Era. W. W. Norton & Company, 2004. link

[5]^ “Студия СВС - Завершенные проекты,” Mar. 18, 2017. link

[6]^ G. B. Miller, “Reentry Shock: Historical Transition and Temporal Longing in the Cinema of the Soviet Thaw,” University of Oregon, 2010. link

[7]^ M. Dewhirst, The Soviet Censorship. Metuchen, N.J. : Scarecrow Press, 1973. link

[8]^ Priscilla Johnson and Leopold Labedz (Eds.), Khrushchev and the Arts: The Politics of Soviet Culture, 1962–1964. MIT Press, 1965. link

[9]^ “Walking the Streets of Moscow: City in Georgy Daneliya’s films,” Moscow City Web Site. link

[10]^ O. Gershenson, The Phantom Holocaust: Soviet Cinema and Jewish Catastrophe. Rutgers University Press, 2013.