前回前々回に引き続き、G.W.パブストの”Abwege (1928)”について考えていきます。


無声映画を見間違える


以下のシーンは、トーマスとアイリーンのやりとりです。アイリーンは、夫のトーマスに愛想を尽かし、画家の男と駆け落ちしようと、駅で待ち合わせていたのですが、画家は現れません。代わりにトーマスが現れ、アイリーンを家に連れて帰ります。トーマスはすでに画家に会いに行き、アイリーンと分かれるように迫って、その旨の手紙を書かせていたのです。このシーンは、トーマスがアイリーンを家に連れて帰って、その画家の手紙をわたすところです。


夫を呼びにきた男性と、アイリーンが夜のベルリンにくりだしていくところで、この動画は終わります。夫は「クラブに行かなければならないことは、君も知っているだろう」とアイリーンに言ったものの、いざとなって妻との関係を悩んで、行くのを止めて、2階の自分の部屋に戻るのです。さて、アイリーンは、夫が外出しなかったことを知っていて、くりだしたのでしょうか?

実は、私は、はじめてみたときはそう見ていました。そう思った人も多いのではないでしょうか?アイリーンは、グジグジしている夫を家に残して、当てこすりのように遊びに行ったのだと。しかし、よく見てみると実はそうではないのかもしれないのです。下の動画は、上の動画を編集して、画面左に夫が映っているシーン、右に妻が映っているシーン、真ん中に両方が映っているシーンに分けたものです。


夫と妻の間には仕切りがあり、お互いの行動を直接見ることはできません。ですから、お互いの物音がカギになります。夫が玄関のドアに手をかけるところまでは、アイリーンがその物音を聞いていることを、彼女の目の動きと表情から読み取ることができます。しかし、夫が戻って階段を上がっていく場面では、どうでしょうか。彼女のショットは、夫が階段を上がりきるまで出てきません。そしてその前後で彼女の表情は変わっていないのです。夫がクラブに行くのを止めたことは、彼女に届いていないのです。

ここで、つじつまの合わないことが起きていますね。夫が扉のところに行くまでは、アイリーンには物音が聞こえているのに、彼が引き返して仕切りの前を通り、階段を上がっていく足音は聞こえていないことになります。この差異は、アイリーンが目で追ったかどうかと言うところに集約します。無声映画の場合、画面に映っている人物が、周囲で起きていることを「音で聞いた」という場合には、視覚的に表すことが不可欠です。もし視覚的に表していない場合には、それは「聞こえていなかった」ということです。


敵の蒸気機関車なのに誰も気がつかない

 

バスター・キートンの"The General (1926)"[邦題:キートン将軍]では、このルールが効果的に使われています。舞台はアメリカ南北戦争、キートンは南軍の機関車を走らせて、北軍のスパイの機関車を追跡します。この追跡の最中に南軍は退却してしまって。キートンの機関車が爆走する周囲を北軍の部隊が進んでいきます。けれども、キートンは機関車の燃料の薪割りに忙しく気づかない。あれだけの部隊が周囲で移動しているのですから、その騒音や行進に気づかないわけがないのですが、サイレント映画だと、キートンにとっては無音の状態が維持できるのです。彼がようやく気づくのは、彼の視線が北軍の進む様子をとらえるときです。あくまで、視線の確認が画面で表現されて、はじめて存在が確認されるのです。


面白いのは、伴奏音楽はたいていの場合、キートンが気づいていない間も、北軍の行進曲のメロディを挿入するのです。観客は、北軍の進軍に気づいている。そして、キートンがそれに気づいていないことをおかしく思う。もっと興味深いのは、北軍が機関車の進行に全く反応していない、という点ですね。これは実際にはありえないことですが(進軍している方角から、機関車が来れば、部隊としてはそれを停止させますよね)、その疑問が観客に浮かばないように、視点が選ばれているんです。キートンのことを客観的に見ながらも、キートンに寄り添って、没頭している視点を、フィルムをつなげるだけで作っているんです。


窓に映った本当のこと


クラレンス・ブラウン監督の"Smoldering Fires (1925)"[邦題:燻ゆる情炎]のクライマックスのシーンは、さらに複雑な視線のやり取りで「気づく」ことがカギになります。ヒロインのジェーンは成功したビジネス・ウーマンで、年の離れた若い部下のボビーと結婚しています。ボビーは、ジェーンとどこか住む世界が違うことを感じ、ジェーンの妹のドロシーに魅かれ、ドロシーもボビーに魅かれていきます。これは、ディナーが終わった後の場面です。ボビーは庭でタバコを吸いながら物思いにふけっている。ドロシーは、ひとりベッドルームで泣いている。廊下を歩いているジェーンが、それを聞きつけるところから展開します。



非常に見にくい動画ですが、もともと16mmの状態の悪いプリントから起こした素材です(コマの揺れはあまりにひどいので補正処理し、字幕も入れなおしました)ので、ちゃんとした修復が望まれる映画です。ジェーンが「ボビー」と、庭にいる夫に呼びかけたときに、ガバッと起きるドロシー。窓に映ったドロシーで気づくジェーン。ひとりひとりの「声」への反応が、しっかりと演技され、撮影され、編集されています。サウンドトラックの効果音も、呼吸の音もない世界です。無声映画にとって、編集のリズムがいかに重要か、よくわかる例です。


「気づかない」という表現


「気づく」というのは、反応を見せることで表現できるのですが、「気づかない」というのは「反応しない」という動作で表現するしかないのです。”Abwege"のアイリーンの例が厄介なのは、アイリーンが「画面の外で起きていること」に「気づかない」という、かなり表現しにくい状況だからです。キートンの場合は、「画面の中で起きていること」に「別のことをやっていて」「気づかない」という構造にしていますから、後景と前景でアクションを並行させて、表現しています。ジェーンとドロシーの場合は、ジェーンは「気づいた」が、ドロシーはジェーンが気づいたことに「気づいていない」、そしてさらに、ジェーンは、ジェーンが気づいたことにドロシーが気づいていないことに「気づいて」、ごまかし始める、という瞬間を、窓に映った像を介して表現するという、離れ業をやってのけていると思います。

アイリーンとトーマスの場合は、なるべく二人を同じフレームに入れないことが前提です。二人が一緒にフレームに入っているのはごく数ショットです。完全に二人は別の空間にいて、別の空気を吸っているのです。ハリウッドの監督だったら、もう少しショットを短くして、「気づかない」ための仕掛けを用意するでしょうね(手紙をもう一度読ませたり、電話をかけさせたり・・・)。そういう「動作」を使わず、ジリジリと押し切った。余韻というか、重い気体に包まれた空間を感じます。トーマスは、アイリーンが気づかなかったことに気づいていたのでしょうか?それは実は読み取るキューが画面には出ていないと思いますが、どうでしょう。