ハンス・シュタインホフ

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男對男
Mensch gegen Mensch
1924
 
ハンス・シュタインホフ 監督
Hans Steinhoff
 
アルフレッド・アベル、オルガ・ベラジェフ、トゥリオ・カルミナティ 出演
Alfred Abel, Olga Belajeff, Tullio Carminati
 
ノルベルト・ジャック、アドルフ・ランツ 原作・脚本
Norbert Jacques, Adolf Lantz
 
ヴェルナー・ブランディス 撮影
Werner Brandes
 
アルフレッド・ユンゲ、オスカー・フリードリッヒ・ヴェルンドルフ 美術
Alfred Junge, Oscar Friedrich Werndorff
 
ハンス・リップマン、グロリア・フィルム 製作
Hanns Lippmann, Gloria-Film GmbH
 
ウーファ 配給
Universum Film
 
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この映画については、スチール写真どころか情報らしい情報を何ひとつ見つけることができませんでした。(「男對男」というよりは「人間對人間」のほうがしっくりくるタイトルだとは思いますが、元の広告の表現のままにしておきます。)わずかに”Filmland: Deutsche Manatsschrift“の19251月号に意味不明な記述がある限りです。

・・・ここで、一人目の「男(人間)」はノルベルト・ジャック、この原作者であり、もう一人の「男(人間)」は観客のあなたである。そして、「ドクトル・マブゼ」の発明者であるノルベルト・ジャックはこの戦いであなた方を皆殺しにして勝ち誇っているのだ。・・・

原作は「探偵小説」らしいのですが・・・。

ノルベルト・ジャック(1880 - 1954)は、ルクセンブルグ生まれのジャーナリスト・小説家。最も有名な作品は「ドクトル・マブゼ」シリーズです。フリッツ・ラングが3度にもわたって映画化した作品は、すべてノルベルト・ジャックが原作です。彼はジャーナリストとして第一次世界大戦中に有名になりました。ルクセンブルグ国籍であることを利用して、イギリスの政治家にインタビューをしたり、ベルギーやフランスを旅して各地の様子をルポして、ドイツで出版したのです。これにはルクセンブルグの皇室も迷惑しましたが(まるでドイツの国益にルクセンブルグが加担しているように見えるからですね)、ドイツ国内では彼の「取材力」が高く評価されたのです。大戦が終わったころから、「マブゼ」シリーズを執筆し、これが時代の雰囲気とも共鳴して、ベストセラーになりました。1924年から映画会社のコンサルタントとして雇われ、映画界と深いかかわりを持つようになります。また、世界各地(アンデス、エジプト他)を取材して回って、その見聞録を出版していましたが、ナチスが政権をとった当初は軽視していましたが、1939年にゲシュタポに逮捕され拘留されます。これが彼の態度を変えました。いわゆる「転向」をしたのです。ユダヤ人の夫人と離婚(彼女はアメリカへ亡命)し、ゲッベルスの要請で「フリードリッヒ・シラー:天才の勝利(Friedrich Schiller Der Triumph eines Genies, 1940)」の原作を担当しています。戦争末期には、ベネルクス地域でドイツのプロパガンダを積極的に展開し、そのことが原因で戦後フランスの警察に逮捕され、ルクセンブルクに強制送還されています。戦後はハンブルグと自宅のあるレイク・コンスタンスに引きこもっていたようです。彼は若いころからジャーナリストとして世界中を旅行して、「ヨーロッパ中心主義の弊害」を目の当たりにし、そのような政策には反対する立場をとっていました。「ドクトル・マブゼ」のキャラクターも、新しい世界を担う人物像、当時のヨーロッパに対するアンチテーゼと彼は考えていたようです。しかし、その「新秩序」への憧れがナチスへの傾倒となってしまったことも、彼の思想の限界だったと言わざるを得ません。

この映画の監督、ハンス・シュタインホフ(1882 - 1945)は、絵に描いたようなオポチュニスト(機会便乗型の人物)です。もともと医学部にいたのですが、1903年に役者の道へ、第一次大戦前にはベルリン・メトロポール劇場で監督をしていました。1921年に映画界へ転身し、様々な映画を監督します。1931年にはビリー・ワイルダーの脚本で「街の子スカンポロ(Scampolo, ein Kind der Straße, 1931)」を監督しますが、一方でその二年後には有名なナチス党の宣伝映画「ヒトラー青年(Hitlerjunge Quex, 1933)」を世に出します。これは、ナチス党員だったハイニ・ヴォルカーが暴力沙汰で死亡した事件を美化した映画で、最初期のナチス・プロパガンダ映画のひとつです。シュタインホフは、この映画で勲章も授与され、名実ともにプロパガンダ映画の旗手となります。彼はナチスが政権をとる前から支持者でしたが、意外にも最後まで党員にはなりませんでした(レニ・リーフェンシュタールも、ファイト・ハーランも党員にはなっていません)。彼はゲッベルスのもとで大作を数多く手がけます。

民衆の敵(Ein Volksfeind, 1937
コッホ伝(Robert Koch, der Bekämpfer des Todes, 1939
世界に告ぐ(Ohm Krüger, 1941


街の子スカンポロ(1931)
dw.de

彼の評判は芳しくありません。

「大嫌いだ」(ゲザ・フォン・ツィフィラ)
「ゲッベルス並みに茶色で、ヒムラー並みに真っ黒だ」(OW・フィッシャー)
「今世紀最大の馬鹿野郎だ」(ハンス・アルバース)
「あれは才能の無い男だった。ナチだからじゃない。・・・あれは馬鹿だから。」(ビリー・ワイルダー)
「ゲッベルス大臣が、そうおっしゃっているんだから、言うとおりにしろ!」(ハンス・シュタインホフの口癖)
「豚野郎だ」(ハンス・アルバース)

彼は戦争末期に「Shiva und die Galgenblume」と言う映画をプラハで撮っていましたが(どうやら戦火を逃れる口実だったようです)、ドイツが降伏したと聞くと、ベルリンに舞い戻り財産をカバンにつめると国外へ飛び立つ飛行機に乗り込みました。長い間、「シュタインホフは逃げ延びて、南米にいる」といった話が語られていましたが、この飛行機はソビエト軍に撃ち落されていたのです。今世紀になって、西イングランド大学のホルスト・クラウス博士が、その事実を確認しました。1945420日、ルフトハンザ航空のユンカースJu52は、ベルリンの飛行場を飛び立って、ウィーンに向かおうとしていましたが、すぐにソビエト軍の対空高射砲の集中砲火を浴び、ベルリンの郊外にあるグリーニッヒの森に墜落しました。乗客20人が亡くなりましたが、たった一人、生き延びたクルト・ルンゲ氏をクラウス博士は見つけ出したのです。ルンゲ氏は事故現場から見つかった腕時計を見て、「ああ、これはシュタインホフが、高級腕時計だ、と私に自慢げに見せたものですね。」と確認しました。最後まで評判どおりの人物だったようです。