「インドの墓(1921)」撮影風景

インフレーションとウーファ

第一次世界大戦が終結し、ベルサイユ条約で決められた賠償金と戦時中の負債が原因で、ドイツ経済が急速に破綻をきたします。約4年間にわたるハイパーインフレーションの時代です。なぜこの時代にドイツ映画が成長したのでしょうか。これは、映画史家たちが好んで題材にしますが、いくつか重要な事柄があります。

ひとつは、ドイツ貨幣の急落によって生じた極端な貿易不均衡です。これはもちろん輸入原材料の高騰をもたらしますが、一方で輸出にとっては非常に有利になります。映画の場合、特に問題になる「原材料」はフィルム・ストックですが、ドイツは第一次大戦中にコダックからアグファに供給元を切り替えていた。フィルム・ストックの原料でも最も高価な銀は、第一次世界大戦中まではハンガリーから輸入していると思われますが、戦後は生産がストップしているので、アメリカから輸入していたかもしれません[2]。一方、ドイツ映画の輸出は戦争が終わると盛んに始まりました。エルンスト・ルビッチの「パッション」はアメリカで1920年の12月に公開され、その後、「カリガリ博士」、「インドの墓(Das indische Grabmal, 1921)」と怒涛のようにアメリカを中心に公開されます。もうこのときにはすでにドイツでは貨幣の暴落が始まっていて、これらの輸出作品によってウーファには外貨(ドル)がもたらされたのです。

一方で、国内に流れ込む外国映画(特にハリウッド映画)は規制されました。政府によって、外国映画はドイツで公開される全作品の10パーセントと決められたのです[3]。このような保護政策は一般的には質の劣化を呼ぶと考えられやすいですが、必ずしもそうではありません。映画の作品の質の向上は、市場の競争によってだけもたらされるわけではないからです。

急激なマルクの低下は、当時のドイツ企業や投資家にとって有利に働きました。融資を受けても、あっという間に貨幣価値が下がるので、放っておけば負債額がどんどん減る。だから融資を受けられる大企業は投資や買収競争に出たのです。ウーファはドイツ銀行が株主ですから、どんどん買収に打って出ました。デクラ・バイオスコップもそういう経緯で吸収されたのです。そのほかにも、中小の製作会社を買収、また配給チェーンも拡大しました。同時に製作側もウーファの資金力と配給網で公開映画の質と量を向上させることができる、という関係が築けたのです。ウーファは、吸収した製作会社にはかなりの自由度を与え、ブランドとしての地位を与えました(たとえば、デクラ・バイスコップ/ウーファという肩書きで映画を配給しました)。このマネージメントのもとで、フリッツ・ラング、F・W・ムルナウ、ヨーエ・マイ、ゲオルグ・ヤコビーなどが監督しました。

もちろん、当時のドイツ映画界に創造力豊かな、若い人材が集まってきたことは最も重要な点の一つです。大きな流れとして、演劇界からの人材の流入が映画界の才能の蓄積に寄与したことは特筆すべきことでしょう。ルドルフ・クライン=ロッゲとテア・フォン・ハルボウが舞台での仕事を辞めて映画に転向したことなどは、典型的な例です。そのほかにも美術監督のアルフレッド・ユンゲ、ロフス・グリーセ、俳優・監督のラインホルト・シュンツェルなど、多くの映画人のキャリアの出発点は舞台でした。これは、サイレント期に舞台芸術を取り入れようとしてなかなかうまくいかなったハリウッドと対照的です。

「カリガリ博士」と「パッション」

第一次世界大戦直後にドイツで製作された映画作品で非常に対照的な二つの作品があります。ローベルト・ヴィーネ監督の「カリガリ博士」とエルンスト・ルビッチ監督の「パッション」です。前者はすべてスタジオで撮影され、歪んだセット、不気味なキャラクター、陰惨で悪夢のようなプロットの作品、後者は膨大な人数のエキストラと壮大なオープンセット、豪華な衣装と美術の壮大な歴史物語です。前者はデクラ=バイオスコップ(エーリッヒ・ポマー)製作、後者はPAGU/ウーファ製作です。これこそ、当時のドイツ映画界、そしてウーファの状況を良くあらわしている一例です。

「カリガリ博士」はカール・マイヤーとハンス・ヤノヴィッツという二人の作家・脚本家が催眠術と夢遊病という無意識の世界に焦点をあてて作り出した脚本に、ロベルト・ヴィーネ・ルドルフ・マイナート監督が様式的な演技と特徴的な美術を導入して完成させた作品です。セットの書割は執拗にゆがめられ、陰影が塗りこめられている。ジークフリート・クラカワー[4]によれば、「カリガリ」の美術は当時注目を集めていた表現主義芸術やアヴァンギャルド芸術との直接的な関係があり、事実、セットを担当したヘルマン・ヴァルム、ヴァルター・リーマン、ヴァルター・レーリッヒらはアヴァンギャルド芸術家グループ「シュトルム」に参加していたと「カリガリからヒトラーへ」で述べています(注) 。あるいはそれ以前からドイツ文化の底流としてある、E・T・A・ホフマン、ノヴァーリスなどのゴシック・幻想文学、19世紀後半からのロマンチシズムの流れを汲んでいるとロッテ・アイズナーなどは考えています[5]。美術史的な出自とは別に、この映画のセット美術にはエーリッヒ・ポマーの思惑もありました。コストダウンです。当時のドイツ国内は戦後の混乱で電力供給が不安定で、また電気料金が高騰しつつありました。事実、多くの工場は生産を停止しているか、さもなければ手作業で生産をしていたくらいです。映画撮影のスタジオ内で強い陰影のデザインがある画面を造るためには、強力な照明が必要ですが、もし、陰影をセットに描いてしまえばその必要がない。弱小プロダクションの低予算映画の懐をひっくり返して「視覚芸術」として見せる、という仕掛けがあったのです。

一方、エルンスト・ルビッチ監督の「パッション」は桁外れの大作です。実は、この時期にはエルンスト・ルビッチだけではなく、ウーファとその傘下の製作会社では大作が軒並作られていました。これは、外貨獲得のためには国際市場に打って出なくてはならない、ハリウッドやフランス映画に対して競争力のあるのは観る者を圧倒する「超大作」だ、という考えがウーファの経営層と製作者・監督たちで一致したからに他なりません。なかでも、「ワイマールのスティーブン・スピルバーグ」と呼ばれる、ヨーエ・マイは東方趣味の大作を次々と手がけていました[6]。戦時中に低予算連続活劇を矢継ぎ早に出していた監督と同じ人物とは思えないくらい、細部にこだわり、誇大妄想的なビジョンで大作映画を精力的に監督し、「世界に鳴る女(Die Herrin der Welt, 1919)」、「インドの墓(Das indische Grabmal, 1921)」などのヒット作を出しています。ルビッチも「パッション」のほかに「ズムルン(Sumurun, 1920)」「デセプション(Anna Boleyn, 1920)」などを製作、ここでも紹介したクセレピィの「フリードリッヒ大帝(Friedricus Rex, 1921/22)」もそのような流れの中の作品のひとつです。これは、貨幣価値の下落と、それを上回る勢いの労働賃金の下落のなか、外貨獲得を担保にして莫大な投資をする仕組みがあったからです。

当時、映画製作の方向を模索していた当時のドイツ映画界では、この対極的な映画製作は議論の的だったようで、「『カリガリ』か『世界に鳴る女』か」という論争もあったそうです。しかし、大作は売り上げが伸びないと批判の槍玉に挙がってしまいます。ウーファの経営陣は大作の予想を下回る売り上げに批判的になり、それがもとで、ポール・ダヴィットソン、エルンスト・ルビッチ、ヨーエ・マイはウーファを飛び出してEFAを立ち上げます。これは、ハリウッドのフェイマス・プレーヤーズ・ラスキー(パラマウント)が出資して作った会社です。「パッション」のアメリカ市場での成功におののいたハリウッドがドイツ映画界の弱体化を図った、その最初の一歩でした。そして、ハイパーインフレーションと要人の暗殺やストライキといった相次ぐ政情不安が市民の生活を襲い、ウーファの大作至上主義は歯車が狂い始めました。

[つづく]

(注) しかし、近年の研究で、これら美術家と「シュトルム」には直接の関係は無かったことが指摘されており、むしろ彼らはそういう「高尚な芸術」を大衆エンターテーメントに組み込んだのだ、という意見もあります。

[2] US Geological Survey 1920. Gemstones, Metals. .
[3] K. Kreimeier, The Ufa Story: A History of Germany’s Greatest Film Company, 1918-1945. University of California Press, 1999.
[4] S. Kracauer, From Caligari to Hitler: A Psychological History of the German Film. Princeton University Press, 2004.
[5] L. H. Eisner, The Haunted Screen: Expressionism in the German Cinema and the Influence of Max Reinhardt. University of California Press, 2008.