「ドクトル・マブゼ」

「時代の雰囲気」

「ドイツ表現主義映画」に関しては「ワイマール期の暗い時勢を反映している」とか「第一次世界大戦後の政情不安や文化的な危機を捉えている」といった、「時代の雰囲気」とのかかわりに言及する表現が良く見られます。私も使いました。しかし、実際に「時代の雰囲気」を反映しているとはどういうことなのか、本当に反映していたのか、という点は一度立ち戻って考えないといけないでしょう。

フリッツ・ラング監督の「ドクトル・マブゼ(Dr. Mabuse, der Spieler - Ein Bild der Zeit, 1921)」は、原題が示すとおり「時代を映すもの」という触れ込みで公開されました。1921年から22年のドイツでは、インフレーションが日々深刻さを増し、失業者、あるいは職があっても貧困にあえぐ大半の民衆と、闇取引や投資で極端な富をかき集め、その金でギャンブルに興じる者たちの二極化が起きていました。当時のベルリンで生まれた言葉で「Raffke」というのがあります。これは新興成金、特に戦後の混乱に乗じて儲けた者たちを指しており、フリッツ・ラングは、マブゼをこのRaffkeをイメージして造形したとインタビューで述べています[3]。Gerald D. Feldmanによれば、

(Raffkeと呼ばれる新興成金は)ルーベンスの絵を「中古」といって買い叩こうとし、オペラ観賞中でも瓶ビールをラッパ飲みし、ベルリンの夜の下品な遊びの合間に高尚な芸術らしきものを漁る人物だ。表現主義絵画を税金対策か投資目的で購入し、家の書棚は読みもしない本がつまっている。[10]

Gerald D. Feldman

当時の流行歌には「(Raffkeは)シャンペン、ロブスター、女、なんでも買える男、家のトイレに飾る絵を注文できるけど、ボッティチェリってコニャックかチーズかも分からない… 儲けた金は全部ドル建てで英国銀行に預金してますよ」と皮肉られています。

ラング自身は「ドクトル・マブゼ」は「表現主義映画」ではないと繰り返し述べています。この映画の中で表現主義絵画のコレクターであるグラーフ・トールトとマブゼの間でこんなやり取りがあります。

トールト:博士、表現主義についはいかがお考えですか?

マブゼ:表現主義なんてゲーム(Spielerei)にすぎません。しかし、どうでしょう?今日ではすべてゲーム(Spielerei)です。

トールト:すべてゲームと言えば、博士、ポーカーを始めてもかまいませんかね?

Mabuse

Spielereiは英語のPlayにあたり、遊び、ゲーム、ギミック、そしてギャンブルといった意味を含んでいますが、この映画のタイトル自体が、マブゼをSpielerと呼んでいる事も考え合わせると非常に示唆的です。実際、表現主義とはどんな運動だったのでしょうか。表現主義詩人のエルンスト・ブラスの言葉にこんな一節があります。

何があの空気を支配していたのだ?とりわけ、ヴァン・ゴッホ、ニーチェ、フロイトも、そしてヴィーデキンドもだ。望まれていたのは、ポスト理性主義のディオニソス。ヴァン・ゴッホは燃え上がるように凝縮し、若々しい誠実さ、親近感、深遠さに満ち、印象主義や自然主義に対抗して、表現と強烈な経験を意味したのだー露出と幻惑[…]自分を表現する勇気。ニーチェ、それは自分自身であることの勇気。フロイト、それは自分自身に隠された深遠と問題。ヴィーデキンド、それは爆発する人間関係の問題(しかも美しいヴィジョンだ)。

表現主義はその起源に自然主義への懐疑と反発があります。「あるがままに表現する」という外部からの視点に対し、あるいは印象主義の「外見を描写する」という姿勢に対して、「自らの主観」を表現することを目指しました。当時の芸術活動は様々なアヴァンギャルドの流派が生まれては消え去っており、表現主義はその中でも境界が曖昧で、他の芸術活動とも密接に関わっています。ブラスの詩にもあるように、表現主義はヴァン・ゴッホ、ニーチェ、フロイトに強い影響をうけていますが、さらに大きくは、ヨーロッパ文化を支配していた理性主義の崩壊を第一次世界大戦に見ていたのです。マブゼが「幸福などない、あるのは『力への意思』だ!」というのも、彼の思想の下敷きはニーチェにあることを示唆しています。しかし、マブゼが、-そしてフリッツ・ラングやテア・フォン・ハルボウがー どこまでニーチェを理解しているかと言うと、それはかなり怪しい。ましてや、当時は、ニーチェの妹、エリザベートによって編集された「力への意思」がポピュラーであったことを考えると、今現在我々が考える「ニーチェ」とはずいぶん違うとらえ方がされていたのでしょう。むしろ、ラングは表現主義、そしてその根底に流れる「文化」と呼ばれていたものが当時、投資の対象であったり、ステータスを示唆するものであったりしたことを認識していて、それを「対象」としてあらわしていたのではないかと思うのです。ラングからすれば、「ドクトル・マブゼ」は表現主義の映画ではなく、表現主義についての映画だったということもできると思います。

1920年代から30年代におけるフリッツ・ラングの軌跡(あるいはテア・フォン・ハルボウの軌跡)は、当時の社会状況の鏡像ともいえます。「ニーベルンゲン(Der Niebelungen, 1924/25)」は第一次世界大戦終盤で起きたと論争されていた「背中からの一刺し」を背景のコンテクストとしてもっていますし、「メトロポリス(Metropolis, 1927)」はワイマール期に顕著になった支配層と労働者層の分断をテーマにしたものの、結局、それは解決されえないことであることをあらわにした作品でした。保守派も共産党も、支配層も労働者層も、当時のワイマール政権には裏切られたという感情では一致していた。その不満は様々な形で噴出するけれども、保守派は自分たちが主導権を握ることを極力避けようとしたし、プロレタリアートは政権を狙えるほどの力にはまだ程遠かった。その状況で、「力への意思」を味付けに使い、「背中からの一刺し」でドイツ伝統のドラマを現代に焼きなおし、「指導者と労働者の和解」をテクノ・フェチの言い訳に使った、のが彼らの軌跡ではないでしょうか。フリッツ・ラング自身はナショナリストだったと言われていますが、決して一貫した主張を持っていたわけではないようです。そして、それはウーファのスタッフや技術者にも共通に見られる性格のものでした。象徴的なエピソードとしてクライメイヤーは、「メトロポリス」に関わったスタッフが、一方で非常に高度な芸術性とそれを達成する技術を持っていながら、この映画のもつ「哲学性」についてはラングやハルボウのうわついた発言を無味乾燥に繰り返すだけであったことを指摘しています[3]。このエピソードは、もともとマックス・ラインハルトの表現主義演劇が、政治的志向を持たない、新しい流行好きの中産階級を観客としてターゲットにしていたことを思い出させます[11]。どのような政治的なスタンスにもコミットしない(あるいはしたくても出来ない)けれども、主観的な世界を投影することで「自意識の問題」を投げかけているかのように見える、けれども、それはいったいどんな問題なのかは、実は明示されない、という仕掛け。「カリガリ博士」はいったい何を問いかけているのか?第一次世界大戦時のドイツ帝政と国民の関係の比喩、ドイツの理性主義と無意識の関係の比喩、さまざまな解釈は成り立つけれども、それらはあくまで観た者の意識の投影でしかない、という仕掛け。それは意識的にラインハルトやカール・メイヤーらが編み出した手法なのか、それとも無意識的な模索の結果なのか、あるいは当時まだ幅を利かせていた検閲をかいくぐるためだったのか。おそらく、いろんなことが同時に起こっていたのでしょう。そして、数年で表現主義と言うスタイルは廃れたけれども、ウーファの作品群、-「ニーベルンゲン」、「メトロポリス」、「最後の人」、「ファウスト」などー のなかにはその仕掛けは残り続けたように見えるのです。裏を返せば、これらの映画の視覚的な数々の試みは、そういう「仕掛け」のもとで可能になった、ともいえるかもしれません。ことドイツでは「高尚な芸術」と「低俗な芸術」の区別は現前としていて、映画を「高尚な視覚芸術」として、その消費者である中産階級にアピールする、最良の、あるいは唯一のアプローチだったのかもしれません。

直線からの距離

最初に戻って、このシリーズの発端となった広告に載った九つの映画は、ウーファの「拡大路線」の頃(1920~1925)に作られた映画ばかりです。その中には「海賊ピエトロ」や「沈黙の塔」のように、スチールを見るかぎり、ハリウッドに対抗して作られた、輸出品目としての役割を担っていたものもありました。おそらく他の作品もそうでしょう。同時代に世界の映画史上を席巻していたチャップリンやキートン、MGMやパラマウントの作品から較べれば、本当にこれらの映画が人を呼べたかどうかは分かりません。しかし、エーリッヒ・ポマーが言ったように「新しいことをやる」ことがドイツの輸出映画として必要だったことは間違いありません。しかし、これらの輸出映画でさえ、その半分以上のプリントが存在せず、ましてやドイツ国内で大量に生産されていた国内市場向けの映画はさらに残っていない。私は最初、この九つの映画のうち少なくとも七、八本はプリントがあるんじゃないかくらいに思っていました。しかしプリントの存在が分かっているのはどうやら三本だけのようです。ウォーレンベルグの言うように「この時代の傑出した映画だけを見て、ドイツ映画を一般化するのは間違い」でしょう。「メトロポリス」でシュフタン・プロセスが使われていますが、あそこまでテクノロジーを投入して製作された映画は、あの映画だけなのです。1920年代のドイツではまだガラス・ステージ(天井までガラス張りのスタジオ)が大半を占めていて、太陽光に左右される撮影をしていたし、アグファのフィルムは粒状がひどいからコダックを使いたいとエーリッヒ・ポマーは言っていたそうです。ハリウッドのスタジオでは、日割りのスケジュール管理が一般化していたのに、ウーファでは誰が何を撮っているか、おおまかしか把握していない。ポマーが、ウーファの社内にスケジュール管理ボードを導入したのが1920年代の終わりだそうです。ハリウッドは産業として映画をみていたし、映画製作に対して、(意識的かどうかはわからないけれど)ヘンリー・フォードのように生産管理・品質管理のエンジニアリングを適用していた。マックス・ファクターがハリウッドに第一号店を構えるのが1908年。1920年代にはグロリア・スワンソンのメークアップからルドルフ・バレンチノの眉まで面倒を見ていました。トーキーになって、タングステン灯とパンクロマチック・フィルムの組み合わせに最も映えるメークアップを開発したのもマックス・ファクターです。同じ頃、ドイツではどこかの女優がウーファの映画で着た衣装を別の会社の映画で着用したのしないので訴訟騒ぎです。それくらい、総合芸術、総合産業としての映画産業の構えに差があったようです。衣装の流用について騒ぎ立てたのも、パラマウントがウーファの経営に参加していることが影響しているのではないかと思うのですが。むしろ、ハリウッドのように映画産業のあらゆる側面がすべてコントロールされていることが稀なことなのですが、その感覚で当時のドイツ映画を見ると「メトロポリス」や「最後の人」、あるいは1920年には「カリガリ博士」でさえ、ドイツ映画界の「飛び道具」だったことが意識されないかもしれません。1920年代に多くのヨーロッパの映画人たちが電灯に群がる虫のようにハリウッドに集まっていくのも「より芸術的な作品を作れる」からというよりは「合理的な映画製作」に惹かれてのことかもしれません。

同時に、これらのウーファの映画に関わった映画人たちが、その後たどった道のりは非常に興味深いものがあります。ドイツに残った多くの映画人が1945年までは精力的に映画製作に関わるものの、戦後はすっかりペースが落ちてしまう。年齢のこともありますが、あまりに断絶が大きい。これは戦後もほぼ継続的に映画製作がされていた日本とは対照的です。日本では、良きにつけ悪しきにつけ無声映画期からの映画人たちが戦後もすぐに映画を撮り続けていました。ドイツの場合は、戦後の連合国側によるプロセス、その中で特に強調されたゲッベルスと宣伝省の影についての解釈が、「わかりやすい部分」に集中してしまったのは否めません。「ユダヤ人ズース(Jud Süß, 1940)」や「永遠のユダヤ人(Der ewige Jude, 1940)」、「意思の勝利(Triumph des Willen, 1935)」や「オリンピア(Olympia, 1938)」といった作品と、アウシュビッツやダッハウの収容所が直線で結ばれて、そこで話が完結してしまった。むろん、そんなに話は単純ではないのですが、当時も今もその直線からの距離と言う点で、映画やそこに関わった人たちが語られるし、あるいは逆にその直線をさっぱり消し去って映画だけを評論しようとしたりするわけです。ナチス政権下の「娯楽映画」も、ゲッベルスによって特に強化されたわけではなく、もともと娯楽映画が主流の映画産業だったし、ワイマール期の厳しい経済状況からの逃避と第三帝国期の戦争やファシズムからの逃避は決して無関係ではないでしょう。

おそらく現実はなんかもっとねばっとしたやりきれないものがたくさんあったのではないでしょうか。ドイツを出る直前のビリー・ワイルダーと「豚野郎」ハンス・シュタインホフは一緒に仕事をしたこともあれば、ドイツ映画界きってのスター、ハンス・アルバースはナチ党員ではあったものの、ナチスが嫌いで、ユダヤ人の恋人がいた。カール・リッターはプロパガンダ映画の巨匠だと言われ続けてきたけれども、ゲッベルスは彼には嫌気がさしていて映画を作らせたくなかったという。フリッツ・ラングはゲッベルスとの会見の後、すぐにベルリンを脱出したと嘯いているけれど、彼はナチスが結成した労働組合NSBOの委員長の一人で、ドイツを脱出したのはもっと後になってからということも分かっています。彼の「ドクトル・マブゼ」が反ナチ映画という位置づけになったのも、「死刑執行人もまた死す(Hangmen Also Die, 1943)」の公開とほぼ同時に「ドクトル・マブゼ」が米国で公開されたときのPRだった可能性もあります。エドガー・G・ウルマーにいたっては、何がなんだか分かりません(本当に15歳で「カリガリ博士」や「ゴーレム」に参加したのか、とか、「タブウ(Tabu, 1930)」と「日曜日の人々(Menschen am Sonntag, 1930)」をタヒチとベルリンで同時期に参加できたのか、とか)。多くの記述が、あとになってから書かれたものであり、都合よく誇張されたり消去されたりしている面が多いのです。それは、ナチスとの関係だけでなく、「だれそれと私は仕事をした」とか「あの映画には私も関わった」といった類の話も、誇張されているものが多いのです。「なにが本当だったのかは、もうよくわからない」というこの状況は、それでも永年多くの映画史家や批評家が地道に様々な資料を紐解いた結果でもあるのです。この「よくわからない」けれど、わずかながら遺された映画がもう一度遠く離れた時間で見直されることで、いままでずっと支配的だった、直線的な「枠」みたいなものから逃れられるのかもしれません。

References

[1] シネクラブ時代: アテネ・フランセ文化センター・トークセッション. フィルムアート社, 1990.

[2] US Geological Survey 1920. Gemstones, Metals.

[3] K. Kreimeier, The Ufa Story: A History of Germany’s Greatest Film Company, 1918-1945. University of California Press, 1999.

[4] S. KracauerとL. Quaresima, From Caligari to Hitler: A Psychological History of the German Film. Princeton University Press, 2004.

[5] L. H. Eisner, The Haunted Screen: Expressionism in the German Cinema and the Influence of Max Reinhardt. University of California Press, 2008.

[6] C. Rogowski, 「Movies, Money, and Mystique」, Weimar Cinema: An Essential Guide to Classic Films of the Era, Columbia University Press.

[7] T. Elsaesser, Weimar Cinema and After: Germany’s Historical Imaginary. Routledge, 2000.

[8] H. H. WollenbergとR. A. Manvell, Fifty Years of German Film, by H. H. Wollenberg. [Introduction by Roger Manvell. Translated by Ernst Sigler.].the Falcon press, 1948.

[9] U. Hardt, From Caligari to California: Erich Pommer’s Life in the International Film Wars. Berghahn Books, 1996.

[10] G. D. Feldman, The Great Disorder: Politics, Economics, and Society in the German Inflation, 1914-1924. Oxford University Press, USA, 1993.

[11] W. Grange, Historical Dictionary of German Theater. Scarecrow Press, 2006.