透明で無形な媒介
アメリカの美術史家、ジョナサン・クレーリーは、19世紀にフォトグラフ(写真)が社会に認知されていく経緯を「(カメラが)観察者と世界の間の透明で無形な媒介として偽装した」と記述しています(「観察者の技術(Techniques of the Observer, 1988)」)。しかし、フォトグラフが「透明で無形な媒介」に偽装したと言うのは、進化したフォトグラフに飼いならされた私達の感覚のせいで「昔からそうだったに違いない」と思っている部分が多分にあります。初期のフォトグラフが白黒写真だった時点で、「透明で無形な媒介」であるわけがなく、後から後から「偽装」させるために様々なトリックを導入してきたに過ぎません。デジタルや3Dも含めた進化は、人間が「透明で無形な媒介」を欲しがっている今も続く長い歴史です。そして、観察者の不信をぬぐうべくヴァーチャル・リアリティやホログラフィまで進んできています。
そういうふうに進化してしまった「偽装」を享受してしまっている私達が、20世紀前半の白黒のフォトグラフ/シネマにおける「偽装」について考えるというのは、実は非常に困難なことかもしれません。
たとえば、白黒映画における「ブロンド」というのは、どういうことなのでしょうか。「生きるべきか死ぬべきか(1942)」のキャロル・ロンバードを見て、ブロンドだと分かる(あるいは感じる)のはなぜなのでしょうか。彼女の髪としてフィルムに映っているのは、グレースケール上の薄い色です。ブロンドの髪と呼ばれるバリエーションの色ではありません。でも、なぜか我々はブロンドだと思っているのです。我々は、あるいは当時の人々は、白黒のイメージを頭の中でカラーに変換している(していた)のでしょうか?
サイレント期に最も人気のあった女優の一人、メアリー・ピックフォードについてこんな話があります。彼女の(白黒)映画を観ていたファンの中には、彼女は「ブロンドで青い眼」と思っている人も大勢いました。彼女の髪はダーティー・ブロンドという、茶色に近い色です。しかし、彼女の出演作品では金髪の少女の役柄が多いため、撮影のときに髪の毛の向こうから強いライトを当てて白く飛ばしてしまって、「ブロンド」の錯覚を起させる手法をとっていたのでした。1920年代に入ってからは明るいブロンドに染めていたようです。一方で眼の色は「ヘーゼル(栗色)」だと彼女自身もインタビューで答えています。状況をややこしくしたのは、彼女が出演した2-ストリップ・テクニカラーの映画「ダグラスの海賊(1926)」です。彼女が現役時代に唯一出演したカラー映画ですが、この映画で彼女の眼は緑色に見えるのです。そして今でも「2-ストリップ・テクニカラーは色が正確に反映されないから、青い眼が緑色にシフトした」と言われるのです。彼女が1976年にオスカーを特別受賞した際の映像では、彼女の眼は濃いヘーゼルに見えます。さあ、彼女の眼の色は何色だったのでしょうか。
パンクロマティック・フィルムと南海映画
初期の(白黒)写真感光層は、可視光のスペクトルの中で、青い側には反応しやすいのですが、赤いほうは感度が悪いという欠点がありました。このようなフィルムを「オルトクロマティック(Orthochromatic)」と呼びます。このフィルムで撮影すると、青い眼は白く飛んでしまい、赤い唇は黒く写ってしまい、空は白く写って雲と見分けがつきません。不思議なことにカラーをグレースケールに変換するという経験が大してあるわけではないのに、この特性を人々は異様ととらえました。初期の映画はこのフィルムの特性に苦労しています。クローズアップが映画で重要な役割を果たすようになると、スクリーンに映った顔が異様でないように見せるメークアップが必要となります。ブロンドの髪は暗く映ってしまうので、強力なバックライトで白く飛ばすしかありません。一方で黒い髪を美しく表現する為に、ヘンナで褐色に染める場合もあったようです。そういったメークアップや染色を考案したのがマックス・ファクターでした。役者達の顔はメークアップで調整できますが、空だけは調整できません。いつまでも空は曇った(Overcast)ままでした。
1920年代に市場に現れたパンクロマティック(panchromatic)フィルムは、赤い側の可視光に対して感度を向上させたものです。空の雲がはっきり写るフィルムですが、高価だったこともあり、なかなかハリウッドの中では浸透していきませんでした。
このパンクロマティック・フィルムの普及に重要な役割を果たしたのが、「南海映画」、南太平洋を舞台とした映画です。ロバート・フラーハティーが南太平洋サモアで監督した「モアナ(1925)」は全編パンクロマティック・フィルムで撮影された作品です。この作品で主役となるのは、サモアの人々であり、その背景の青い空に浮かぶ雲です。水平線の向こうに浮かぶ雲がここまでヴィヴィッドに映し出された作品はそれまでほとんどなかったのです。「モアナ」のビジュアルは当時話題となり、南海映画はどれもパンクロマティック・フィルムを使うようになりました。「Aloma of the South Seas(1926)」はやはり南太平洋を舞台とした娯楽作品ですが、1920年代の歴代興行成績4位という人気を得ます。この作品も(プエルトリコやバミューダでロケしていましたが)水平線の向こうの美しい雲を映し出していたと言われます(プリントは現存しません)。それらの中でも、最も美しい映像として評価されたのが、「White Shadows in the South Seas (南海の白い影)」です。この映画は第2回アカデミー賞撮影賞を受賞しました(撮影監督:Clyde De Vinna)。
肌の色、髪の色
ロバート・フラーハティーの妻、フランシスによると「初期の段階でオルトクロマティック・フィルムを試したが、現地の人の肌がニグロのように真っ黒になってしまい不快であった。パンクロマティック・フィルムによって彼らの薄い褐色の肌を美しく見せることに成功した」と書いています。フラーハティー夫妻は民俗学的映画の専門家と当時見られていたのですが、この人種観は非常に示唆的です。「南海の白い影」撮影時に、W・S・ヴァン・ダイク監督が危惧したことのひとつが、ヒロインのフェイアウェイの役を演じたラケル・トレスの肌の色でした。ヴァン・ダイク監督は、このメキシコードイツ系アメリカ人の肌の色が白すぎるので、日焼けをするように指示を出していたのですが、彼女は言うことを聞きませんでした。現地で彼女の肌を暗くメークアップしてタヒチの島民と肌の色が大きく食い違わないようにごまかす必要があったのです。このパンクロマティック・フィルムによって生まれた「褐色の肌」への執着の一方で、肌の色が薄い「黒人」は敬遠され、30年代のハリウッド映画では肌の黒い「黒人」のみが描かれています。肌の色による「分類/区別/差別」が存在しながら、肌は褐色でも白人の顔立ちをしたヒロインへの憧憬がドライブになる、という倒錯した人種/性の観点が、南海映画と言う混濁したファンタジーの基盤でもあるのです。
パンクロマティック・フィルムは主にロケーション撮影で威力を発揮しましたが、そのうち、マックス・ファクターがパンクロマティック用のメークアップを開発して売り出したあたりからスタジオでも使われるようになります。トーキーの導入と共に、パンクロマティック・フィルム、白熱電球の組み合わせが標準となり1930年代のハリウッド黄金期を迎えるのです。「ブロンド女優」への執着もこの頃から始まり、ブロンドを売りにした若い女優がハリウッドに集まってきます。さらには髪を脱色したメイ・ウエストやジーン・ハーローがプラチナ・ブロンドと呼ばれて一世を風靡します。このようなブロンドの「分類/区別/差別」にもパンクロマティック・フィルムが大きく貢献しているのです。
今、私達が見ている最新のハリウッド映画で、ブロンドの女性が出てきたとき、褐色の肌の色の俳優が出てきたとき、その色はどうやって出てきたのでしょうか?カメラのCMOSセンサーが決めたのでしょうか?後にカラー補正の担当が決めたのでしょうか?なぜその色になったのでしょうか?それは、あなたの眼が見た「本当の」色でしょうか?
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