1976年。ニューヨークのセントラル・パーク近く。深夜の3時過ぎに、巨体の男がメソメソ泣きながら早足で歩いている。その後を二人の男が息せき切りながら追いかけている。その横を三台のリムジンがゆっくりと三人を追い越さないようについてきている。

メソメソ泣いているのは、レッド・ツェッペリンのマネージャー、ピーター・グラント。追いかけているのは、アトランティック・レコードの会長、アーメット・アーティガンと映画監督のピーター・クリフトンである。彼らは、つい先ほど、レッド・ツェッペリンのコンサート映画『永遠の詩(The Song Remains the Same,1976)』のラフカットの試写を見終わったばかりだ。試写はアーティガンが映画の公開にゴーサインを出すかどうかを決める重要なものだった。アーティガンがOKを出さない限り、ワーナーにフィルムを渡すことが出来ない。三年もの年月をかけたフィルムだけに、試写の前からグラントはかなり神経質になっていた。ところが、アーティガンは試写の途中、幾度も居眠りをしていたらしい。グラントはこれでかなり参ってしまっていた。とどめの一撃は試写の直後にやってきた。試写室が明るくなって、アーティガンが最初に言った言葉が「あの馬に乗ってたのは誰だ?」だったのである。その一言がグラントの張り詰めた神経の糸を切った。グラントはそのまま試写室から飛び出してしまった。監督のクリフトンが「あれはロバート・プラントですよ」と答えると、アーティガンは自分の失言に気づき、二人でグラントを追っかけたのである。この話は、ピーター・クリフトンが語るその夜の出来事だが、いささか誇張も混じっているかもしれない。なにせ、クリフトンはグラントに随分と嫌がらせを受けていたからだ。グラントは、クリフトンが勝手にフィルムを編集しているのではないかと疑って、彼のオフィスや自宅を捜索するなど、常軌を逸した行動をとっていた。『永遠の詩』が紆余曲折を経て公開にこぎつける経緯は様々なところで書かれているので、そちらを参照していただきたい。

ピーター・グラントは、おしなべて、レッド・ツェッペリンの「映像」を公開したり、放映したりすることについてかなり神経質だった。1969年に、BBCとフランスのTVでツェッペリンが出演した際の出来事が、グラントの映像、特にTVに対する態度を硬化させたと言われている。TVスタジオでの録音のクオリティが低いことや、番組の構成などが、レッド・ツェッペリンの神秘性を失わせると感じたようだ。確かにフランスでのTV番組(Tous En Scene TV Show)は音も悪いし、途中で悪ふざけの連中が映ったりしていて、かなりまとまりのない、いい加減なものだ。ピーター・グラントが、自分の考えるレッド・ツェッペリンのイメージが損なわれると感じたとしても当然だろう。

ミュージシャンとTV出演のあいだには、常に微妙な摩擦が存在してきた。特に1960年代は、TVの製作が大衆向けの保守性とカウンター・カルチャーのあいだで揺れ動いた時代でもある。数多くのポピュラー音楽の歌手、演奏家、ロックバンドが(あるいはそのマネージメントが)、TVへの露出を望むとともに、その危うさに不安や反感を抱いていた。ローリング・ストーンズはエド・サリヴァン・ショーに出演する際、「夜をぶっとばせ(Let's Spend Night Together)」の歌詞を強制的に変更させられた。ドアーズは同じくエド・サリヴァン・ショーで「ハートに火をつけて(Light My Fire)」の歌詞の変更を要求されたが、拒否してオリジナルの通り「Girl, we couldn't get much higher」と歌ったため、二度と同番組には出演できなかった。何をやっても平気だったのはキース・ムーンくらいである。1967年のアメリカCBSのスマザーズ・ブラザーズ・ショーにザ・フーが出演、「マイ・ジェネレーション(My Generation)」の最後で、キース・ムーンがバスドラムに大量の火薬を仕込んで爆発させたのは伝説になっている。もともと、この番組はコメディ番組なので、実はすべて筋書き通りだった。実際、バスドラムに火薬を仕込んで爆発させるのもリハーサルでテストしていたという。本番で違ったのは、キース・ムーンが特殊効果の人間に金と酒を渡して勝手に火薬の量を増やしたことだった。この爆発で出番を待っていたベティ・デイヴィスが失神したのは有名だが、実はその横で、ミッキー・ルーニーは飛び上がって大喜びしていたらしい。すべて筋書き通りだったとは言え、この録画を見ると、独特のシュールさと微妙にずれた感じが痛ましく感じる。

当時のロックバンドのTV出演には、この居心地の悪さ、痛ましさがずっとつきまとっている。その痛ましさが、かなり鮮明に現れているフッテージがある。プロコル・ハルムが1967年にBBCのトップ・オブ・ザ・ポップスに出演して「青い影(Whiter Shade of Pale)」を演奏した際のビデオである。オシロスコープの映像が何か哲学的な意味を持つとでも考えたのか、中央にすえられたスクリーンにずっと映されている。バンドは明らかにボーカル以外録音で、演奏する格好だけしている。スタジオのフロアでは全く健康的な男女が大勢踊っている。そこに一人だけ修道僧の格好をしたマシュー・フィッシャーが顔を見せずにオルガンを弾いている(フリをしている)。局側もあまりに場違いと感じたのだろう、なるべくこの修道僧を映さないようにしている。1992年にフィッシャーはインタビューに答えて「ずっとTVに出演する度に、オルガンを弾く手しか映さないから、頭にきてたんだ。どうせ顔が映らないんだったら、修道僧の格好でもかまわないじゃないか、と思ったのさ」とその動機を述べている。

プロコル・ハルムの「青い影」には今で言うPVが存在する。有名なのは「スコピトーン」版で、ロンドンで撮影されたものだ。ゲイリー・ブルッカーを中心に、出来の悪いビートルズのビデオのような味わいがある。ところが、これは、最初のPVがBBCによって放送禁止になったために、改めて製作されたバージョンなのである。放送禁止になったPVは、前述の『永遠の詩』の監督、ピーター・クリフトンが監督していた。このバージョンは三つのセグメントから成り立っている。ウスターシャーにあるウィットリー・コートという古い邸宅の敷地内でうろつくプロコル・ハルムのメンバー、ロンドンのサヴィル・シアターでの演奏風景、そしてベトナム戦争のニュース映画である。BBCのプロデューサー、ジョニー・スチュワートはこのベトナム戦争のフッテージを問題視して、放送禁止にした。


この最初のバージョンのPVは二つの点において興味深い。

ロケ撮影の場所となったウィットリー・コートは、イギリスでも有数の歴史的建造物だ。起源は16世紀、その後100年以上にわたりフォーリー家が邸宅を拡張し続け、19世紀にはダドリー卿が買い取った。それからヨーロッパでも最も華やかな社交場のひとつとなる。ところが、20世紀初頭に二代目のダドリー卿は、妻の溺死をきっかけに、ウィットリー・コートをカーペット工場主のハーバート・スミスに売却してしまう。それ以降はこの広大な邸宅は寂れていく一方だったが、さらに1937年の大火で邸宅は全焼してしまった。その後は荒れ果てるままに放置されてしまい、30年以上にわたって破壊や盗難が繰り返されていた。英国の過去の遺産を保護する目的で、ウィットリー・コートも1972年に政府の管理下に置かれ、現在はイングリッシュ・ヘリテッジによって復元作業が進んでいる。

プロコル・ハルムのPVの撮影が行われたときには、ウィットリー・コートは完全に廃墟と化し、朽ち果てた場所となっている。こういった場所には必ず「幽霊が出る」といった伝説がつきまとうようになるものだが、ウィットリー・コートも「犬を連れた男の幽霊が敷地内をさまよっている」といった噂が流れていた。PVが撮影される前年の1966年、ツアーでイギリスを訪れていたボブ・ディランはその噂を耳にして、スティーブ・ウィンウッドたちと夜中に「廃墟ツアー」を敢行したと言われている。同行したメルヴィン・ウィンウッドによれば、バーミンガムでのコンサートが終わった後、ディラン達は四台のリムジンでウィットリー・コートに乗りつけた。そのときには既に深夜零時を過ぎていて、「廃墟ツアー」にはもってこいの時間帯である。焼け落ちた建物は外壁しか残っておらず、その壮大な石の壁に蔦が這っている。建物の前の巨大な噴水のアンドロメダの像を霧がおおっていく。その時、遠くで犬の吠える声がした。メルヴィン・ウィンウッドは述懐している。「ディランは、もう幽霊の犬だと信じて疑わなかった。彼のことを僕はすごく尊敬したんだが、この時のディランと言ったら、子供みたいにはしゃいで、走り寄ってきて、僕の腕をつかんで言うんだ。『信じられるかい?!』」

この頃の、廃墟になったウィットリー・コートが、プロコル・ハルムのPVには映し出されている。当時、流行していたレンズ・フレアを多用した撮影や色調のせいもあり、よりこの場所の劣化と荒廃が増幅されて記録されているように思う。ウィットリー・コートはその後修復されていくため、もうこの景色はない。むしろ、丁寧に手入れされた芝生や、苔を削り落としたアンドロメダ像に囲まれ、観光スポットとして管理されたスペースになってしまった。この事は、「時間が経過する」ということ、そしてそれに抗うことの不均衡な関係を表していると思う。イングリッシュ・ヘリテージによって、19世紀の栄光を蘇らせようという努力は、20世紀における没落と荒廃の歴史を埋め戻して見えなくしてしまう作業なのだ。また一方で、観光スポットにすることで、復興をさらに進め、さらに集客を目論むという、21世紀の現在にふさわしい「管理型アミューズメント・パーク化」とも呼べる。対してディランやプロコル・ハルムに見られるのは、「没落と荒廃のアミューズメント・パーク」に遊ぶ精神とも言えるかもしれない。歴史的な建造物として「復活」させるのは、適切な資金と運営主体があればかなり迅速に実行することが可能である。一方で、廃墟を作るには何十年もの月日がかかる。そういう意味で、プロコル・ハルムのPVは、何十年もかかって完成した廃墟を映した、歴史的な記録フッテージとも言える。

もう一つの興味深い点は、ベトナム戦争のフッテージである。密林に投下されるナパーム弾や、南ベトナム兵の都市部での戦闘の様子が映し出されている。ところが、「青い影」という曲自体は反戦のメッセージどころか、なんらかのメッセージがある曲ではない。つまり、曲の詩自体と映されている映像のあいだに乖離があるのだが、「なんとなく」「時代に対してメッセージを投げかけている」ような「イメージ」が醸成されている。このようなミュージックPVはここ30年間、さんざん製作されている。曲自体と映されているイメージの間には、直接的な関連性が見られないが、映像が音のつくる空間の意味を客体化することによって、別の次元の関係性を作り出すケースである。こういった映像と音楽の関係を作り出して提示すると、下手をすると、「幼稚」「青い」「素人くさい」といった批判を浴びかねない。特に、その時はクールな映像と音楽の組み合わせだったかもしれないものが、時が経つと、風化してしまい、色あせたものになってしまうことは実に多い。

1979年、ピーター・クリフトンは、ピンク・フロイドの「狂気(The Dark Side of the Moon)」のTV用特別番組のアイディアを練っていた。そのデモを製作する際に、アポロ11号の月面着陸の映像を編集して入れ込むことを考えついた。そこで、ワシントンDCにあるスミソニアン・インスティチュートにアポロ11号の映像の使用を申込んだところ、180ドル払えば、月面着陸時の16mmフィルムの映像を送ってくれるという。数分程度のクリップだろうと思っていたら、届いたのは30分もの全編フィルムだった。クリフトンはアイディアを試してみたものの、結局計画は頓挫、スミソニアンのフィルムは彼の倉庫に放り込まれ、彼自身すっかり忘れてしまった。

2006年に、NASAが「アポロ11号の月面着陸の映像は、元のビデオテープが行方不明」という衝撃の事実を発表した。月面のカメラから送信されてきたビデオ映像は、主にオーストラリアのパークス天文台の基地でテープに記録されていたのだが、これを受け取ったNASAや米国公文書保管局が「失くして」しまったというのである。残されているのは、当時の中継TV画面そのものをビデオ撮影したものだけだ、というのである。このTVニュースをオーストラリアの自宅で見たクリフトンは、突然自分が16mmのフィルムを所持していることを思い出し、名乗り出た。確かにアポロ11号計画の後にパークス天文台からスミソニアン・インスティチュートにもテープが送付されており、恐らくそれをフィルムにプリントしたものをクリフトンが入手したようだ。アポロ11号の月面着陸とピンク・フロイドのアルバムの間には、直接の関係はない。曲も歌詞も狂気や人間の欲望を描いたものであって、科学技術の粋を集めた事業や夢とは程遠い。「月(Moon)」が契機となって思い描かれるイメージとして、アポロ計画が流用されているのである。実際の月の表面の不気味な静けさや、機体や宇宙服に奇妙に反射する光とその向こうの闇の対比が、ピンク・フロイドのけだるい音と混在して凝集する効果をねらったのだろう。興味深いのは、そのようにして集められたフッテージが、時代の証人として残ったという点である。クリフトンがフィルムを入手した当時、アポロ11号の月面着陸の映像とは、既に十年が経過してアイコニックなイメージとして大衆のなかに刻まれているものだった。それを別のコンテクストに移行して、ピンク・フロイドの音楽のプロモーションとして使おうとしていた。ところが、さらに時間が経過したのち、アポロの映像とピンク・フロイドの音楽のマッシュアップというアイディアそのものが風化し消滅した後で、映像が再び蘇ろうとしているのである。

PBSが先日公開したケン・バーンズとリン・ノヴィックのドキュメンタリー・シリーズ「The Vietnam War」は、全十回、総時間十八時間の大作である。このドキュメンタリー・シリーズは、時間軸に沿って、ベトナム戦争が激化して行く様子を、当時のフィルム、ビデオ、スチール写真と、関係者のインタビューをはさみながら追っていく作品だが、そのサウンドトラックに当時のヒット曲を採用している。プロコル・ハルムの「青い影」は第六回のエンディングに使用されている。

ケン・バーンズが関わったドキュメンタリーは、スチール写真を効果的に使用することで評価が高いが、このエンディングでも、視る者の想像力を掻き乱すスチール写真が何枚も使用されている。それらは、第六回がカバーした1968年の悲劇を静止した時間に閉じ込めて、更に深刻化し耐え難いものになるその後のベトナム戦争の入り口として、実に上手く機能している。ニクソンの話を聞く兵士たちの顔の中にとらえた、カメラ目線の兵士の筆舌に尽くし難い表情のアップから始まり、お互い言葉を呑み込んで見つめ合っているウェスト・モーランド司令官とジョンソン大統領、、あまりにあどけない顔をした兵士がM-16を携えてベトナムの子どもたちを見張っている様子、そういったイメージの上に、「青い影」の音が重ねられている。これは、前述の放映禁止になったPVと鏡像関係にある。一方は音楽にシンクロした時代を想起させるためにベトナム戦争のフィルムを使用し、もう一方はベトナム戦争とシンクロした時代を表現するために「青い影」を使用している。しかもドキュメンタリーのほうは、使用したスチール写真のインパクトを最大限引き出すために、プロコル・ハルムの曲の方を編集、印象的なハモンド・オルガンのフレーズを繋いで映像の長さに合わせているのである。

前述のエド・サリヴァン・ショーに出演したローリング・ストーンズの映像では、ミック・ジャガーが変更を強要された歌詞のところで目をぐるぐるさせるのが映っている。近年になって、このエド・サリヴァン・ショーのDVDコンピレーションが発売された際のプロモ・ビデオでは、まさしくこの目をぐるぐるさせるミック・ジャガーの部分だけが使用されている。歌詞の変更に呆れた顔をするミック・ジャガーこそ、エド・サリヴァン・ショーを代表する顔になったのだ。このアイロニーは、「時」を表すものが時間とともに変わっていき、ウィトリー・コートやベトナム戦争の政治性や、歌詞の検閲、行方不明になったフィルムといった「失われたもの」がシンボルとなって行く過程を表している。だが、それらが多くの人にとって「失われた」という、ノスタルジーにも通じる感覚として共有される必要がある。今はどうだろうか。「今」という「時」を表す映像や音楽があるだろうか。今から50年たって、2017年の映像と音楽を重ね合わせて、その効果が得られるだろうか。SpotifyとYouTubeの世紀に、そんなことを考えるのはただのアナクロニズムなのか。むしろ、なぜ音楽も映像も「今」という「時」を失いつつあるのだろうか。ロングテール・マーケットとか、プレイリストや、おすすめのアルゴリズムが、そういった「大衆(マス)の共通項」や「シンクロニシティ/同時性」を破壊したという、それだけが理由なのか。決して昔が良かったということではない。問題は、なぜ「今」は、私たちから失われたようにみえるのか、という点である。その喪失は、消費者が選んで進んでやってきたことなのだろうか。そして、そのことに自覚的であるのだろうか。1968年のウィトリー・コートとベトナム戦争の映像をプロコル・ハルムに重ねることが羨ましいわけではない。そうあるべきだとも思わない。だが、今は、そういったものを喪失した状況であることの意味を問う必要はあると思う。