『市民ケーン(1941)』

「映画史上偉大な映画100」とか「批評家が選ぶ映画100本」とかのランキングの上位に必ず入っているが、一般の映画評価サイトにいくとそれほど星の数が多くない映画がある。たいてい古い映画だ。オーソン・ウェルズ監督の『市民ケーン(Citizen Kane, 1941)』は、映画評論家たちのあいだでは極めて評価が高いのだが、FilmarksやYahoo映画あたりにいくと「Mank見るので予習のために」「古臭い」「当時はすごかったのかもしれないけれど」ということで、平均で星4つに到達しない。まあ、仕方がないことだろう。

誰かに「あの映画のどこがすごいんですか?」なんて聞かれようものなら、私達シネフィルくずれは、腕をまくって、フラッシュバックだの、ディープフォーカスだの、話したくなってしまうのだが、結局「当時はすごかったのかもしれないけれど」を抜け出すことができるわけではない。

実際のところ、あの映画は当時すごかったのだろうか?


ここでは、『市民ケーン』について言われている数多くの革新性のなかから、ある一つの革新的な技術について考えてみる。その結果『市民ケーン』が優れているとか、そんなことはない、とかいった結論には至らない。なぜなら、物事はそう単純ではないからだ。あくまで、曖昧に「革新的」と呼ばれている事柄のひとつをもう少し紐解いて見ようというそれだけである。

『市民ケーン』の革新性───レンズ・コーティング

ここで問題にするのは、レンズ・コーティングである。具体的には、反射防止コーティングである。

監督のオーソン・ウェルズと撮影監督のグレッグ・トーランドは『市民ケーン』で、感度の高いフィルムを使い、コート・レンズと広角レンズを使って様々な映像の革命を起こした。そう一般的に言われている。

なぜ、反射防止コーティングが画期的だったのか。それまではカメラのレンズの表面はなんの処理もされていなかった。そのためにレンズの表面(レンズと空気の界面)でレンズを透過する光の一部が反射してしまう。つまり、レンズを通すと光が減少してしまうのだ。必然的に被写体を明るくしないといけなくなる。暗いシーンや奥行きのあるシーンは撮りづらくなってしまう。さらにカメラのレンズは複数枚がセットになっているので、すべてのレンズの表面で反射が起きる。反射した光はレンズのあいだで散乱してしまう。結果的に写る像が全体的にぼんやりと白くなってしまう。

この問題を解決するためにレンズの表面に「反射防止コーティング」を施すのだ。どれほど効果があるのだろうか。

ウィリアム・C・ミラーの論文[1]にその効果が実例とともに紹介されている。これを見るとコーティングのもたらす効果が一目瞭然だろう。まず、設計図を撮影した写真を見てみよう。左がコーティングなし、右がコーティングされたレンズで撮影された写真だ。コーティングによってコントラストが改良されているのがわかるだろう。左の写真では斜線が薄くなって見えにくくなってしまっている。これは、レンズのあいだで反射して散乱してしまった光が全体の白のレベルを上げてしまっているからだ。

レンズの反射防止コーティングの効果 (左)コーティングなし (右)コーティングあり [1]より


太陽を直接撮影した写真では、レンズ・コーティングがないといわゆるフレアがいくつも発生している。これはレンズ同士の光の反射でいくつも像ができてしまうからである。実際にモデルの女性を撮影した写真は、同じ光量、同じ感度のフィルム、同じ絞りで撮影してある。わざと照明を不足気味にしているのだが、コーティングによってフィルムに届く光量が増加したのは一目瞭然だ。

レンズの反射防止コーティングの効果 (左)コーティングなし (右)コーティングあり [1]より

 
レンズの反射防止コーティングの効果 (左)コーティングなし (右)コーティングあり [1]より

『市民ケーン』ではこのレンズ・コーティングの効果はどこに現れているのだろうか。ローキーの映像や、少なめの光量でもディープフォーカスで撮影しているシーン等、さまざまなシーンがあるが、レンズ・コーティングの効果として映画公開当時から話題になっていたのは、スーザンが主演をつとめるオペラのオープニングのシーンだ[2]。舞台照明の光源にレンズを向けて直接撮影しているがフレアが起きず、乾いたステージの上にたつスーザンの孤独を際立たせる効果をもたらしている(このページの一番上を参照)。

では、このレンズ・コーティングの技術はどのようにして『市民ケーン』にもたらされたのか。三浦哲哉氏の「サスペンス映画史」にある、『市民ケーン』の撮影監督グレッグ・トーランドに関する記述を見てみよう[3]

トーランドはたんなる撮影監督であっただけではなく、自らキャメラとフィルムの改良に携わる技術者でもあった。彼は一九三〇年代末に開発された高感度フィルム、光の透過率を格段に向上させるレンズのコーティング理論をいち早く取り入れ、そこから新たな撮影の可能性を引き出した。驚くべき鮮明さで画面の手前から奥までの広範囲に焦点をあてるディープーフォーカスの技術もその一つだった。高感度フィルムとレンズの改良によって、照明を大胆に節約することができるようになり、有名な極度の早撮りが可能になった。

三浦哲哉

トーランドが「光の透過率を格段に向上させるレンズのコーティング理論をいち早く取り入れ、そこから新たな撮影の可能性を引き出した」とは、具体的にはどういうことなのだろうか?これを読むと、トーランドが「キャメラとフィルムの改良に携わる技術者」だったのだとすると、レンズのコーティングを自ら発明したのだろうか?三浦氏はロバート・L・キャリンジャーの研究を参照しているので、そこを見てみよう[4]

1939年に、研究者たちはレンズ・コーティングの原理を発表した。レンズの表面を弗化マグネシウムの超薄膜の層でコーティングすることによって、光の透過率を向上させたのだ。

ロバート・L・キャリンジャー

この「研究者たち」とは誰で、どうしてそれがグレッグ・トーランドにつながったのだろうか?これは、トーランド自身に答えてもらおう[5]

カリフォルニア工科大学で開発されたヴァード(Vard)のオプティコート・システムは私達の照明の問題解決に役立ったもののひとつだ。オプティコートは屈折(refraction)を除去し、光を散乱させずに透過させる。このおかげでレンズ・スピードをストップいっぱいまで向上させることができる。光源にカメラを直接向けると、今までは必ず酷い絵になっていたが、このコーティングを施したレンズのおかげでそれが起きなくなったのだ。

グレッグ・トーランド

撮影監督たちの挑戦

レンズの表面に処理を施して反射を抑えようというアイディアは以前からあった。それが、1940年頃に革新的な変化を遂げたのである。

もともとレンズの反射を抑える方法は熱心な写真好きの個人たちによって探求されていた。1892年にイギリスのハロルド・デニス・テイラーが、使い古して変色してしまったレンズのほうが実は光の透過量が多いということを偶然発見し、同様の<侵食>を再現するためにレンズ表面をアンモニアと硫化水素で処理する方法を提案した。これはレンズガラスの侵食された部分がガラスと空気の中間の屈折率をもつからで、他の光学研究者やレンズ設計者たちもさまざまな薬品でレンズ表面を処理しようと試みた。だが、この方法はレンズの仕上げの状態やレンズ材質、処理(エッチング)の条件に強く左右されるために安定した品質が得られなかった[6]

それが1935年にほぼ同時に新しい手法がアメリカとドイツで発明されたのである[7]。これは真空蒸着と呼ばれる方法で、真空下でコーティングの材料を蒸発させてレンズの表面に薄く付着させる方法である。この手法がねらったのは、レンズ表面に屈折率の低い材料を薄く(光の波長の4分の1に相当する厚み、2000Å)付着させて光を反射させない、というものである。カリフォルニア工科大学のジョン・D・ストロングが、屈折率の低いフッ化カルシウムの薄膜をレンズに蒸着して光の反射を抑制する方法を考案する。一方、ドイツではカール=ツァイスのアレクサンダー・スマクラがやはりフッ化カルシウムの薄膜を蒸着する手法の特許を申請している。

ストロングの発表のあと、アメリカではすぐに材料の探索がはじまり、フッ化マグネシウムが有望だといわれるようになった。この真空蒸着によるコーティングは、レンズガラスの性質や組成に影響を受けにくい。1939年を境に数多くの企業がこの分野の研究開発に乗り出した。グレッグ・トーランドが記している「ヴァード・メカニカル・ラボラトリー(Vard Mechanical Laboratory)」はカリフォルニアのパサデナにあった民間企業で、このレンズ・コーティングを請け負っていた。1940年の4月には「American Cinematographer」誌にレンズコーティングを請け負うという広告を出している。ヴァード社はこれを「オプティコート(Opticote)」と呼び、「あなたが今使っているレンズや光学システムにオプティコートを施すことができます」と宣伝している。グレッグ・トーランドは自分が使っているレンズをこのヴァード社に出してコーティングさせたのである。彼はこのレンズを使って、1940年の6月の第1週から『市民ケーン』の撮影に入った。

ヴァード・メカニカル・ラボラトリーの広告 American Cinematographer 1940年4月号

 

その3ヶ月前の1940年3月に発行された「American Cinematographer」誌にウィリアム・スタルがパラマウント・スタジオでのコート・レンズの導入について論じている[8]。それによれば、ストロング博士の新技術をパラマウントの光学技術者やカメラマンは数ヶ月前から注目し、さまざまなテストを繰りかえしていた。指紋がついたものを洗浄してもコーティングは剥がれないか、コーティングによって他の光学特性に影響が出ていないか、コーティングの化学特性はレンズに影響を及ばさないか、といったことを調査していたという。通常はガラスー空気界面で5.22%の光が反射で失われるため、アナスチグマートの「アストロ・パン=タッカー」レンズのように4枚レンズ、計8つのガラス=空気界面があると41%も光が反射で失われてしまうが、その表面すべてにこのコーティングを施すと、光量損失はほとんど無視できるようになる、と述べている。ストロング博士の研究がほぼ完成したと見たパラマウントでは、実製作でこのレンズを使い始めた。最初に使用したのはジョージ・マーシャル監督、チャールズ・ラング撮影、ボブ・ホープ、ポーレット・ゴダード主演の『ゴースト・ブレイカーズ(Ghost Breakers, 1940)』である。これは「猫とカナリア」系の幽霊屋敷コメディで、幽霊屋敷の暗い内部が舞台となっている。たしかにローキーでもコントラストがはっきりとあり、蝋燭などの光源がフレーム内にあっても反射によるフレアや白曇りがない。

1940年7月に同じく「American Cinematographer」誌[9]に発表されたスタルの調査(5月18日から6月16日にかけて実施)では、コート・レンズを使用していた撮影監督は、パラマウントのセオドア・スパークルとワーナー・ブラザーズのL・ウィリアム・オコネルの2人だった。翌年の1月の同誌記事「昨年の進歩」[10]のなかで、ヴァードで従来のレンズにコーティングをしてもらうことに加え、新品のコート・レンズをクック、ボシュロムなどから入手できるようになったと記載がある。20世紀フォックスは自社開発のカメラすべてにボシュロムのコートレンズを搭載している。同年4月の同誌[2]では20世紀フォックスの撮影監督チャールズ・G・クラークがコート・レンズの現状を報告、そこではコート・レンズを使用して撮影された映画として、アーネスト・パルマーが撮影した『トール・ダーク・ハンサム(Tall, Dark and Handsome, 1941)』、レオン・シャムロイが撮影した『ティン・パン・アレイ(Tin Pan Alley, 1940)』とともに『市民ケーン』が挙げられている。『トール・ダーク・ハンサム』はシーザー・ロメロ主演のコメディの要素の強いギャング映画、『ティン・パン・アレイ』はアリス・フェイ主演のミュージカル映画だが、いずれの作品もコート・レンズの効果が発揮できるような場面は特にない。

つまり、グレッグ・トーランドは一人だけ最先端を突っ走っていたわけではなく、レンズのコーティングの効果についてハリウッドのカメラマンたちが確信を持ち始めた頃に『市民ケーン』で使用した、ということになる。だが、トーランドはアマチュア向けの写真雑誌を含め数々の媒体に寄稿し、『市民ケーン』における自らの功績を喧伝しているように見える。他のカメラマンたちはコート・レンズをつかっていても、とりたてて宣伝するようなことはしていない。これはトーランドがほぼフリーランスで働くカメラマンだったこととも関係しているだろう。当時、トーランドは、ジョン・フォードやウィリアム・ワイラーら、ハリウッドの有名監督のあいだで、新しい映画を撮るときにリストのトップに載っていた撮影監督だ。彼は低予算の「プログラムピクチャー」など撮る必要はなく、常に話題作を撮っている。フリーランスのように働いている以上、宣伝は重要だ。<異端児>オーソン・ウェルズと型破りな話題作『市民ケーン』を撮ったのだから、「私はハリウッドの掟をどうやって破ったか」という宣伝もして当然だし、実際それが彼の名声につながっている。

むしろ興味深いのは、レンズ・コーティングの技術を使いこなすために、パラマウントなどのスタジオが大学の研究と並行でテストを繰り返し、実際の製作に活かしていく基盤にしていることである。そして、ヴァードのような会社が存在してハリウッドの技術革新に貢献していたという点である。

だが、実はそれは「映画」の視点からしか見ていない。ヴァード・メカニカル・ラボラトリーの重要顧客はバーバンクにあった映画スタジオではなかった。バーバンクにあったもう一つの大企業、ロッキードだったのである。

拡散ポンプ

1943年の10月、ニューヨークのブルックリンである会議が行われた。この会議はフランクフォード兵器廠が中心となり、ボシュロム、ベル&ハウエル、イーストマン・コダックなどの企業、160社が参加した[11]。会議は「光学素子への金属フッ化物反射減衰膜の応用」という、極めて狭い分野を扱っていた。つまり、反射防止のレンズコーティングについての会議なのだが、これだけ大規模な産業になっていたのである。

フランクフォード兵器廠 1934年(National Archives Photo

 

この会議は、真空ポンプ、手入れ法、原材料、不良品解析、オペレーターの教育など、真空蒸着によって反射防止コーティングを作るためのすべての実務的問題をカバーして議論している。例をあげれば、原料のフッ化マグネシウムの純度をいかにあげるかのマニュアルを、名前と住所を書いておけば後で送ってもらえるといった具合だ。この会議に参加し資料をもらって帰った技術者たちは、日々自分たちが困っている問題を解決する方法の緒を得られたに違いない。

この会議の議事録に、真空蒸着によるレンズコーティング技術が数年で発展してきた様子が述べられている。フランクフォード兵器廠のウェルチ大佐がいかのような興味深い経緯を語っている。

第一次世界大戦までは研究室の領域を出なかったと思うのですが、その頃からここにも出席していらっしゃる企業の方々が光学素子の性能向上をねらって反射防止の技術を試し始めていました。フレッド・ライトも戦争中この膜について研究していました。たしか彼はボシュロムにいましたよね。・・・(中略)・・・1939年、K&E社がフランクフォード兵器廠に高度測定追跡型望遠鏡を見せてくれたのです。この望遠鏡は反射防止コーティングがされていて、当時フランクフォードで設計部にいて今はワシントンの兵器省にいるウェルズ将軍が、軍事利用の可能性を見出したわけです。すぐに性能と耐久性の調査を始めました。1940年に兵器廠の研究所はこの計画をすすめるよう報告書を提出しました。そのなかで耐久性についてまだ疑問があり、推薦するには至りませんでした。

G・B・ウェルチ大佐(フランクフォード兵器廠)

兵器の開発で当時最も必要とされていた分野の一つに、光学装置の性能向上があった。望遠鏡でより遠くを精確にみる。レンジファイダーでより正確に距離を割り出す。夜や霧の状態でも視認性を改良する。そういったことが求められていた。彼によれば、1941年に海軍が反射防止コーティングの普及のために大掛かりなテストを始めたという。翌1942年の暮れ頃から戦車などのスコープに応用することが検討され、RCAが大量生産を始めた。

ボシュロムのピーターソンは真空蒸着法がなぜ工業的に利用できるようになったか端的に説明している。

真空技術の利用は大学の「珍しいもの」から抜け出しました。大学にあった設備はだいたい小さく、真空に到達するまで非常に時間がかかったのです。しかし高速の油拡散ポンプの登場ですべてが変わりました。

スタンリー・ピーターソン(ボシュロム)

拡散ポンプは1915年にヴォルフガング・ゲーデによって発明されたとなっているが、これが「珍しいもの」だったのである。当時は水銀を使用しており、極めて扱いにくいものだった。それを一般的な低蒸気圧合成油で使用できるようにしたのが、イギリスのセシル・レジナルド・バーチだった。1928年のことである。イーストマン・コダックの研究者がこのアイディアをイギリスから持ち帰り、自社で油拡散ポンプの開発を始めた[12]。1930年代にRCAとコダックが油拡散ポンプの開発に注力し、これが工業的利用につながっていった。イーストマン・コダックの子会社ディスティレーション・プロダクツ・インクはビタミンを製造していたが、拡散ポンプの製造も始めるようになった。

イーストマン・コダックの特許 ガラス用非反射コーティング 米国特許 第2,260,471号

 

前述のヴァード・メカニカル・ラボラトリーズもロッキード用に部品や器具を開発、製造していた。社長で創業者のヴァード・ウォレスは南アメリカで宣教活動をしていたが、1930年代にカリフォルニアに移ってきて、航空業界向けに工作技術の開発を始めた。1940年には98人の従業員を抱え、設備をさらに拡充している[13]。ヨーロッパの戦争もあり、顧客のロッキードが増産にはいったからだ。そんななかで、飛行機に搭載するスコープの性能向上、すなわちレンズのコーティングもロッキードを顧客として開始したようである。ハリウッドの映画スタジオにレンズ・コーティングの機会も見つけ出してきたのだろう。ヴァードのビジネスはあくまで既存のレンズへのコーティングだったが、ボシュロムはコーティングした新品のレンズの販売をおこなっていた。前述の会議でもボシュロムは中心的な存在であり、当時の主なビジネスはやはり軍事向けだった。

見方を変えると、オーソン・ウェルズがハリウッドに行くのが1年早かったら、レンズ・コーティングの技術はまだできておらず、『市民ケーン』のいくつかのシーンはあそこまで印象的なものにはなり得なかったのである。偶然ではあるが、1939年にヨーロッパで第二次世界大戦が始まってしまい、それを機にアメリカ国内の産業が軍事に舵を切っていたときだった。その<おこぼれ>をハリウッドは頂戴していたとも言える。

アヴィエーター

この記事のタイトルには「将軍マッカーサー」とある。勘の良い方ならお気づきだろう。ダグラス・マッカーサーのトレードマークのサングラスのレイバンは、ボシュロムのブランドだった。

ダグラス・マッカーサー 1944年 レイテ島 (National Archives Photo)
 

もともとサングラスの開発は、飛行機操縦士と密接に関係がある。陸軍のパイロット、ジョン・マクレディが1920年代におこなった最高度到達記録挑戦のさい、ゴーグルが太陽光を直接透過してしまうため、眼を痛めそうになってしまった。彼はボシュロムに相談して新しい操縦者用の新しいメガネの開発をうながした。それが有名なレイバン3025「アヴィエーター」というサングラスとして結実した。1938年のことである。その後、海軍で飛行中の操縦士が視界の上方の太陽によって敵機の視認が悪くなることへの対策として、レンズの上半分をインコネル(クロム=ニッケル合金)の薄膜でコーティングする技術を開発した[14]。特許は1944年にボシュロムから出願されている[15]。マッカーサーは、屋外ではこのアヴィエーターのサングラスをかけていることが多かった。

このインコネルのコーティングは、飛び抜けた耐久性が求められた。レンズの反射防止のフッ化マグネシウムのコーティングは、いくら実地とはいえ、それでも光学器械として丁寧に扱われる対象だったが、サングラスは日常で遭遇するありとあらゆる衝撃、擦過、温度変化などに耐えなければならない。幸い、インコネルの薄膜は極めて強い薄膜だった。

米国特許 第2,409,356号 ゴーグル

 

前述のように、真空蒸着の技術をレンズコーティングに応用したのは、カリフォルニア工科大学のジョン・ストロングだったが、彼が最初に試験したのは実はレンズではなく、ミラーだった。反射型天体望遠鏡に必要な大口径のミラーを製作する方法として、アルミの蒸着を検討し、1933年に18インチのミラーの表面にアルミニウムの薄膜を蒸着した[16]

いま、あなたが食べているそのポテトチップスの袋の内側には、このアルミ蒸着が施されている。このアルミ蒸着膜は、酸素、水分の透過を防ぎ、光も遮断する。ポテトチップスがおいしいのは、ジョン・D・ストロング博士が始めた研究が発端である。

何がすごかったのか

『市民ケーン』の話にもどそう。アンドレ・バザンは「奥行きの深い画面」についてこう述べている[17]

だからこそ、ウェルズはグレッグ・トーランドにこの難題を解決するように求めたのだ。実際、周知のように、少なくとも人工照明を使った撮影の場合、非常に深い被写界深度[profondeur de champ]を得るのはほとんど不可能だ。レンズの絞りを陽光の下で撮るときよりも大きく開かなければならないのと、柔らかくて作り込まれた照明をたびたび追求する必要があることが、技術面でのその主要な理由である(1920年以来の光学的な探求が、まったく別の写真的特質に促されて進んできたことも、おそらく付け加えておくべきだろう)。理論的には、この問題を解決するのは、アマチュア写真家にとって同じくらい簡単だ。十分にレンズを絞ればよいだけなのだから。だが、実際には、この操作は照明の技法全体を転覆させ、柔らかな光のスタイルとあまねく実施されている明暗法を放棄するように仕向ける。この技法に内在するリスクを受け入れるには、グレッグ・トーランド級の撮影技師が必要だった。というのも、奥行きの深い画面がフィルムの感度とレンズの絞りの問題にすぎないと考えるとしたら、それはあまりにも単純だからである。

アンドレ・バザン

ここで、バザンがいう「奥行きの深い画面」は、写真技術で言われる「ディープ・フォーカス」とは若干違うことがわかるだろう。なぜなら、「十分にレンズを絞るだけ」ではなく、照明の技法全体を転覆させて、「柔らかな光のスタイルとあまねく実施されている明暗法を放棄」することが必要だと言っているからだ。これはトーランド自身が言っている「ハリウッドのルールを破った」ということとほぼ同じことだろう。つまり、MGMのグレタ・ガルボの映画や、パラマウントのマレーネ・ディートリッヒの映画に見られるような、ソフト・フォーカス、「ガーゼのかかったような画面」のスタイル、つまり「ハリウッドのルール」を破って、新しいスタイルに挑戦したということだ。それは、まあそうかもしれないな、と言ったところだろうか。

だが、ウェルズやトーランドの前に「ルール」を転覆させようとした演出や撮影が皆無だったわけもなく、また同時代に彼らだけがその挑戦をしていたわけでもない。ハル・モーアが苦労してクレーンを使った長回しを1929年に挑戦し、ジェームズ・ウォン・ハウが、シーンが必要とすれば、ひたすらローキーでディープ・フォーカスに挑んでいたことも、トーランド自身が30年代にもずっと三次元的な造形を意識した撮影を試みてはそれほど注目を浴びなかったことも、忘れてはいけないだろう。

トーランドが長いあいだ「弟子」としてついていた撮影監督のジョージ・バーンズについて、『悪の力(Force of Evil, 1948)』を監督したエイブラハム・ポロンスキーがこういっている。少し長くなるが引用する[18]

カメラマンはジョージ・バーンズだった。知っているだろうけど、この町にいるカメラマンで最も優秀なうちの一人だ。彼は、ウェルズとトーランドがやるずっと前にディープフォーカスをやってたしね。バーンズはちょっと年齢の高い女優を若く美しく見せるような撮影をずっとやっていた。どうやっていたかは皆さんご存知だろう。

(『悪の力』の撮影を)何日かテストをして、ラッシュを見たら、全部美しくてぼんやりしているんだ。つまり、彼がずっとやっていた普通のロマンティックな写真になっていたんだね。だけど、この映画で僕たちがやろうとしていたことの正反対なんだ。『ボディ・アンド・ソウル』を撮ったジミー・ハウ(注:ジェームズ・ウォン・ハウ)はあんな撮り方をしなかった。ハウはクリアに、正確に、反ロマンティックに撮ったんだ。僕はそれに慣れてしまっていたんだね。『ボディ・アンド・ソウル』の現場にずっといてハウの仕事を見ていたからね。

なんとかジョージに自分が探していることを伝えようとしたんだけど、うまく言うことができなかったんだ。なんと言えば良いのか分からなかった。外に行って、(エドワード・)ホッパーの画集を買ってきた。三番街、カフェテリア、バックライト、誰もいない通り───。そこに人間がいても、見えない。なぜかまわりの風景が人間を呑み込んでいる。僕はバーンズのところに行って「これがほしいんだ」と言った。「なんだ、それか!」すぐにバーンズは「それ」がわかったんだ。そして「それ」で映画を全部やってくれた。一度、僕がほしいトーンがわかったら、彼はブレることはなかった。

エイブラハム・ポロンスキー

バザンのいう「グレッグ・トーランド級」の撮影監督は、当時のハリウッドには数多くいた。このポロンスキーの言葉からもわかるように、バーンズは「それ」を知っていたし、「それ」をどうやれば撮れるかも知っていたし、「それ」を全編ブレないで撮る技術をもっていた。バーンズは「綿のようにぼかしたままにしておく」撮影ばかりしていたが、いざとなれば「照明の技法全体を転覆させ、柔らかな光のスタイルとあまねく実施されている明暗法を放棄する」ことなど造作なかったのだ。彼が1930年代に撮った映画のなかでも「これはいったいどうやって撮ったんだろう」と思うものもすくなくない。だが映画そのものが他愛もない作品が多く、題材として、いまの私達の鑑賞に耐えうるものではないものがほとんどだ。時代の流行を追っていたり、当時の文化状況に深く埋め込まれた題材(よくハイ・コンテクストとも呼ばれる)だと、いったんコンテクストが取り除かれると(古くなると)、もはや「何が良かったのか、さっぱり見当がつかない」ことになりかねない。バーンズがヒッチコックの下で撮った作品も、スターの撮影が優先されているために「綿のような」シーンが目立つかもしれない(実際にはそんなことはないのだが)。そういう作品ばかりだと、革新的な技術をもっていたカメラマンとしての評価を受けにくいということにもなるだろう。

いまや、スマートフォンのカメラのレンズでさえ何重ものコーティングがされており、センサーは極めて感度が高く、暗いところでも平気で撮れてしまう。そういった時代に「これは当時すごかったんだ」ということだけを言い続けていても、先人たちの仕事について評価を再検討していくのはもう難しくなっているのだろう。『市民ケーン』でさえそうなのだから、なかなか難しい。

一つ言えるとすれば、映画みたいなメディアを考えるときに、「天才オーソン・ウェルズ」とか「グレッグ・トーランド級」といった言説から離れて、あるいは「ルールを破った」とか「初めて挑戦した」といった具合の考え方から距離を置く必要があるだろうということだ。トーランドが、『市民ケーン』でヴァードのオプティコートを使えたのは、(少なくとも)パラマウントの技術者達がストロング博士と共同で、何ヶ月にもわたって基礎的な実験やテストを繰り返したことが背景にある。ボシュロムがほぼ同時期に技術を導入できているところを見ると、20世紀フォックスでもテストや実験が行われていた可能性は高い。つまり、ハリウッドの産業全体が底上げを図っていた、その小さな小さな一例なのだ。そして見てきたように、その底上げの小さな一例は、悲しいことながら、戦争が背景にあったのだ。そのなかで、多くの、今となっては名前もわからない人々の仕事の総体として、映画作品のある側面が形成されている。そういった距離で、一つ一つのシーンを分析し、全体の流れを再度把握し、<テクノロジー>と<テクニック>を出来得る限り分解してみたときに、『市民ケーン』なり『トール・ダーク・ハンサム』なり『ゴースト・ブレイカーズ』なりの作品としての位置づけが少しなりともわかってくるのではないだろうか。

 

コーエン兄弟の『ミラーズ・クロッシング(Miller's Crossing, 1990)』の<森の中で処刑したふりをする>のアイディアは、『トール・ダーク・ハンサム(Tall, Dark and Handsome, 1941)』にヒントを得たものである。

ポン・ジュノ監督は『パラサイト・半地下の家族(기생충, 2019)』で、雨の中、階段を降りていくシーンは『悪の力』へのオマージュだと語っている

ジョージ・バーンズが1930年代に撮影したミュージカルは、あまりに荒唐無稽なためにシュールな映像になっているものがある。"Dames(1934)"からのこのシーンや"Golddiggers of 1935"からのこのシーンなどはその例である。

 


 

参考文献

[1]^ W. C. Miller, “Speed Up Your Lens Systems,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 35, no. 7, p. 3, Jul. 1940.

[2]^ C. G. Clarke, “Are We Afraid of Coated Lenses?,” American Cinematographer, vol. 22, no. 4, p. 161, Apr. 1941.

[3]^ 三浦哲哉, サスペンス映画史. 東京: みすず書房, 2012.

[4]^ R. L. Carringer, The Making of Citizen Kane, Reprint版. Berkeley: Univ of California Pr, 1996.

[5]^ G. Toland, “How I Broke the Rules in Citizen Kane,” Popular Photograph Magazine, p. 55, Jun. 1941.

[6]^ U. S. N. D. B. of Ordnance, Optics Filming. U.S. Government Printing Office, 1946.

[7]^ “AVS Thin Films History.” http://www2.avs.org/historybook/links/tfexh96.htm (accessed Sep. 12, 2021).

[8]^ W. Stull, “Non-Glare Coating Makes Lenses One Stop Faster,” American Cinematographer, vol. 21, no. 3, p. 108, Mar. 1940.

[9]^ W. Stull, “Surveying Major Studio Light Levels,” American Cinematographer, vol. 21, no. 7, p. 294, Jul. 1940.

[10]^ “Technical Progress in 1940,” American Cinematographer, vol. 22, no. 1, p. 6, Jan. 1941.

[11]^ “The Application of Metallic Fluoride Reflection Reduction Films to Optical Elements,” Frankfird Arsenal, Oct. 1943.

[12]^ P. A. Redhead, Vacuum Science and Technology: Pioneers of the 20th Century. Springer Science & Business Media, 1997.

[13]^ C. King, “Pasadena Factory Making Essential Airplane Parts,” The Pasadena Post, p. 5, Oct. 04, 1940.

[14]^ J. L. Matthews, “Physiological Effects of Reflective, Colored, and Polarizing Ophthalmic Filters: Basic Consideratinos in the Selection of Sunglasses for Flying Personel,” USAF School of Aviation Medicine, Randolph Field, Texas, Project No. 21-02-040, Report No. 1, Aug. 1949.

[15]^ C. F. Hutcings, “Goggle,” US2409356A, Oct. 15, 1946 [Online]. Available: https://patents.google.com/patent/US2409356A/en?oq=US2409356

[16]^ J. Strong, “The Evaporation Process and Its Application to the Aluminizing of Large Telescope Mirrors,” The Astrophysical Journal, vol. 83, p. 401, 1936.

[17]^ アンドレ・バザン, 堀潤之訳, オーソン・ウェルズ, 四六変型版. 東京: インスクリプト, 2015.

[18]^ A. Dickos, Ed., Abraham Polonsky: Interviews. Jackson: University Press of Mississippi, 2012.


 本文中の引用における翻訳は、アンドレ・バザンの「オーソン・ウェルズ」は堀潤之訳、それ以外は拙訳である。