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ラジオドラマの時代

オーソン・ウェルズが、デビュー当初、演劇とともにラジオドラマで注目を浴びるようになったのはよく知られている。特に1938年のハロウィンに放送された「宇宙戦争」の際のメディアの狂乱ぶりは有名だ。この「宇宙戦争」は、「マーキュリー放送劇場(Mercury Theatre on the Air, 1938)」というラジオドラマ番組枠で放送されたエピソードのひとつである。だが、この「宇宙戦争」は実際に聞いてみると、当時のラジオドラマの質と比較して特に秀でているとは言い難い。物語の導入部と終盤をモノローグで縁取るという構成はオーソン・ウェルズらしいアプローチだが、本編にあたる部分のインパクトをかなり弱めているのは否めない。ポール・スチュアートが効果音の制作(大砲の音や群衆の声など)を担当しているが、例えば当時人気だったホラードラマ番組「ライツ・アウト(Lights Out)」などと比べると独創性はあまり感じられない。「宇宙戦争」が極めて特殊なのは(そして、制作に関与していたジョン・ハウスマン、オーソン・ウェルズ、ポール・スチュアートらもリハーサルのあとで痛感していたことだが[1 p.393])<ニュース速報>というフォーマットで物語が駆動されるという点だ。それは、<ニュース速報>そのものだけでなく、<ニュース速報>が通常の番組に割り込むというダイナミクスや、<ニュース速報>のあとの空白の時間にショパンやドビュッシーのピアノ曲が流されるという不可抗力の不穏さも含む、駆動力である。マクルーハンの「メディアはメッセージである」という言明を先取りして実践していたと言ってもよいだろう。

オーソン・ウェルズは、自ら率いるマーキュリー劇団のこの番組をCBSで担当する前から、ラジオドラマの人気俳優だった。タイム誌が製作した「ザ・マーチ・オブ・タイム(The March of Time, 1936 - 1938の期間出演)」のナレーションや、ミステリー番組の「ザ・シャドウ(The Shadow, 1937 - 1938)」の主人公ラモント・クランストン役などCBSラジオの人気番組を受け持っていた。

そのCBSは1930年代初頭から、実験的なラジオ番組を手掛けており、30年近くにわたって音の可能性に挑戦する演出家、脚本家、俳優、作曲家などを数多く輩出してきた[2]

The Columbia Experimental Dramatic Laboratory, Season 1 1931
The Columbia Experimental Dramatic Laboratory, Season 2 1932
Columbia Workshop 1936-1947
CBS Forecast 1940-1941
26 By Corwin 1941
An American In England 1942
Columbia Presents Corwin 1944-1944
Once Upon A Tune 1947
CBS Radio Workshop 1956-1957

このなかでも1936年からはじまった「コロンビア・ワークショップ(Columbia Workshop)」は、その革新的な実験性で最も成功したシリーズである。このシリーズを創り出したのは演出家のアーヴィング・ライス(1906 - 1953)だ。これ以前の「The Columbia Experimental Dramatic Laboratory」の録音は現存しないようだが、「コロンビア・ワークショップ」の録音は現存しているエピソードもあり、そのなかに1937年4月11日に放送された「都市の没落(The Fall of the City)」がある1)。アーチボルド・マクリーシュ原作の詩劇で、ハウス・ジェイムソン、オーソン・ウェルズ、バージェス・メレディスらが出演、アーヴィング・ライスが製作・主監督、バーナード・ハーマンが音楽を作曲、指揮している。この「都市の没落」がウェルズに多大な影響を与えたという指摘は多い[3][4 p.196][5 p.32]

「都市の没落」はマクリーシュによる民主主義喪失の寓話である。これは当時ヨーロッパを覆い始めていたファシズムに対する警鐘として書かれた作品だ。<どこにでもある都市>の広場からのラジオの実況中継(オーソン・ウェルズがアナウンサー)という形式をとっている。物語は、<死から蘇った女性>の言葉を聞こうと広場に1万人もの市民が集まっているところから始まる。<死から蘇った女性>が現れ、言葉を発する。

支配者のいない者たちの都市に支配者が現れるだろう!

この<死から蘇った女性>が消えたあとも、市民たちの混乱と熱狂は止まない。そこへ<メッセンジャー>が到着する。<メッセンジャー>は<征服者>がこの都市に襲来すると告げ、「征服者にすでに征服された人々は恐怖におののいている」と警告する。次に預言者が現れ「征服者を平和的に受け入れよ」と告げる。市民たちはこの<征服者>の到来を待ち望んでいる。2人目の<メッセンジャー>が到着し、「征服された者たちは征服者を歓迎している」と告げる。やがて<征服者>が都市に入城し、市民たちは顔を覆い屈み込む。ラジオのアナウンサーだけが<征服者>が覆面を上げるところを目撃し、「覆面と鎧の下には何もない」と報告する。だが、もうすでにこの都市は<征服者>の手に落ちたのである。

このラジオドラマの制作は、当時としてはかなり大掛かりなものだった[5 p.30]。200人以上の出演者を擁して広場に集まる市民たちの声を再現した。この出演者の大部分はニュージャージーの高校やニューヨーク州立大学の演劇部の学生たちやアマチュアの俳優たちで、学生はボランティア、俳優には最低限のギャラが支払われたという。市の広場に集まった群衆の<音>を作り出すために、演出のアーヴィング・ライスはマンハッタンにある第7連隊武器庫(現在のパーク・アベニュー・アーモリー)のドリル・ホール(5000平方メートル)を貸し切り、その巨大な空間の音響を利用した。さらに、この学生たちが作り出す<群衆の声>を4枚のアセテート盤に録音、それぞれを武器庫内で異なる場所に配置して、生放送実演時に少し遅らせて再生した。このようにして、巨大な広場に1万人が集まっているという音の効果を編み出した[6]

「都市の没落」より 広場に集まった人々とラジオアナウンサー(オーソン・ウェルズ)

最初のメッセンジャーを演じたのはバージェス・メレディスだが、彼の声は武器庫のドリルホールによく響いていて、十分な残響がある。この残響のおかげでメレディスが広い広場の市民に向かって発言しているように聞こえる。この「都市の没落」にみられるように、ラジオドラマでは、反響音を人工的に操作して、場所の大きさを想像させる手法がすでに確立していた。

「都市の没落」より メッセンジャー(バージェス・メレディス)
「都市の没落」第7連隊武器庫での収録の様子(Billy Rose Theatre Collection

「コロンビア・ワークショップ」を取材した「ポピュラー・メカニクス」誌の記事では、アーヴィング・ライスが<エコーチェンバー>を用いて他のエピソードも演出していることが記されている。エコーチェンバーは広い何もない部屋で、一方の端にスピーカー、もう一方の端にマイクを設置して、スピーカーから発せられた音が部屋の中で反射する様子をマイクで拾う仕組みである。元の音にこの反響音をミックスして、聴取者がセリフの内容を容易に判別しつつ、音の発生している場を容易に想像できるような音設計がなされていた。

「コロンビア・ワークショップ」で使用されていたエコーチェンバー[6]

エコーチェンバーとリバーブの歴史

多くの文献や記事で、リバーブを人工的に作り出した最初の例として挙げられるのが、1947年にリリースされたハーモニキャッツの「ペグ・オ・マイ・ハート(Peg 'o My Heart)」という曲だ(YouTube)。これは、ビル・パットナムのユニバーサル・スタジオで録音された。スタジオのトイレにスピーカーとマイクを設置してリバーブの効果を作り出したと言われている。だが、この曲の場合、リバーブは<自然な音響>を模倣するためではなく、明らかに<人工的な音響>を作り出す目的で使用されている[7 p.143]。<自然な音響>を模倣するという目的が達せられたかどうかは別にしても、リバーブを人工的に作り出すことはすでに1930年代にはおこなわれていた。前述のようにラジオ業界では、1930年代にすでにエコーチェンバーを用いてリバーブの効果を得るのはすでに一般的になっており、楽曲の録音でさえ、リバーブを人工的に作り出した例は、1937年にさかのぼることができる。ジャズ・バンドのレイモンド・スコットがやはりスタジオのトイレを使ってリバーブ効果を作り出している[8]。レイモンド・スコット・クインテットの1937年発表作「Reckless Night on Board an Ocean Liner」の導入部と終盤のピアノはこの方法で録音されたものだろう2)

レイモンド・スコット「Reckless Night on Board an Ocean Liner」の導入部

お気づきの方もいるだろうが、<リバーブ>と<エコー>は現代の音響工学においては違う現象を指している。だが、20世紀前半にはエンジニアのあいだでも<リバーブ(reverberation)>と<エコー(echo)>は相互互換的に使用されていて区別されていない。ここでは現在使用されている<エコー(音が反射によって遅延して戻ってくること)>の意味ではなく、<リバーブ(音が構造物などによって反射を繰り返し、連続的な遅延時間と減衰をともなって響くこと)>として記述していく。そのため、ドライ(原音)とウェット(効果音)という用語も、リバーブのそれを指していると思ってほしい。

では、空間をもちいて人工的にリバーブを作り出す方法、エコーチェンバーはいつ頃から登場したのだろうか。

私が調査した限り、ラジオ放送におけるエコーチェンバーの使用に関する最も古い記述は、1926年9月にロンドンのイブニング・スタンダード紙に掲載されたBBCに関する記事だ。

数ヶ月前、スタジオの音響実験の実施中にある発見があった。それまで不可能と思われていたことの多くが、新スタジオの隣に設置された「エコーチェンバー」によって可能になったのである。さらに、この<エコー>の具合はエコーチェンバーの大きさによって制御できる。場合によっては元の音よりも大きくすることもできるのだ。

イブニング・スタンダード紙 1926年9月21日[9]

この記事からおよそ4年後にマンチェスター・ガーディアン紙がより詳細に報じている[10]。この記事によれば、リアリズムを達成するために<エコー>の長さを音楽の種類によって調整しなければならないという。例えば、楽器独奏や室内楽の場合は1秒から1秒半ほどの<エコー>をかけて、大きな部屋で演奏しているような錯覚を作り出すことができる。交響楽の場合には、同様の効果を得るためには2秒から3秒が必要で、もし大聖堂で演奏しているような効果を必要とする場合には5秒から6秒が必要になるという。BBCでは放送時にエコーチェンバーを用いてこのようなリバーブを作り出していた。「もちろん大ホールの音響効果を複製することはできないが、この模倣は錯覚を作り出し聴取者をだますには十分だ」とくくっている。

このBBCの技術がアメリカに輸入されたのは1931年から32年のことである。

きっかけは、ラジオ番組の国際化だった。コロンビア・ネットワーク(CBS)のトップ、ウィリアム・S・パーレーが、大西洋を超えたラジオ番組放送網を準備するためにヨーロッパ各国のラジオ放送局を訪問した。イギリス、フランス、オーストリア、ハンガリー、ドイツ、イタリアの各国から番組を輸入する一方で、アメリカのラジオ番組もヨーロッパで放送されるようになるとAPが報道している[11]。この段階では生放送ではなく、「再放送」が計画されていたようだ。この訪問のなかで、イギリスとドイツのエコーチェンバー技術が紹介されている。

翌年の1932年、ニューヨーク・ワールド=テレグラムのラジオ制作編集担当、ジャック・フォスターがロンドンのBBCを訪問、BBCラジオの番組制作状況を報告している[12]。BBCでは、ラジオドラマ制作の際に、4つの別々のスタジオを用いて、俳優の演技、オーケストラの生演奏、効果音、アセテート盤による追加音再生がそれぞれ同時におこなわれ、エンジニアがその4つの音源をコンソールでミキシングして放送に送出していた。この際にエコーチェンバーも利用され、コンソールからリバーブ効果を制御できるようになっていたという。フォスターは、演技者、効果音、音楽の生演奏がすべて一つのスタジオでおこなわれているニューヨークの放送局との違いに驚いている。

1933年にニューヨークのラジオ・シティが完成するが、それに先立って、NBCのエンジニア達がエコーチェンバーを開発したことが報じられている[13]。これは1932年の新技術として、リボンマイク、パラボラマイクとともに紹介されている。このエコーチェンバーは、ラジオ・シティに移る前の旧スタジオに設置されたものだろう。ブロードキャスティング誌によれば、12平方フィートのエコーチェンバーにスピーカーとマイクが設置され、リバーブ効果を施すことができるようになっていたようだ[14]

このNBCの旧スタジオでのエコーチェンバーによるものと思われる録音が残っている。当時、NBCラジオの人気番組だった「ターザン(Tarzan of the Apes, 1932 - 1934)」の第52話である3)。「ターザン」は当時最も人気のある番組のひとつで、NBCのネットワークはアメリカ全土の提携局に生放送ではなく、アセテート盤による録音(electrical transcription)で配給していた。背景には、各地方で番組のスポンサーが異なり、そのスポンサーのニーズに合わせて放送時間帯を選択できるようにする、という事情があった[15]。問題の第52話は、ターザンたちが洞窟のなかに逃げ込んだシーンである(1932年11月22日放送)。洞窟の音響を再現するためにエコーチェンバーが使用された。現存する録音は針飛びが激しく、聞き取りにくいが、リバーブの効果はよく分かると思う。

エコーチェンバーによるリバーブ(「ターザン」第52話から抜粋)

もちろん、新しいラジオ・シティにもエコーチェンバーが設置された。しかも3部屋も設置されたようだ。エコーチェンバーへの音の供給はマイクではなく、ダクトによっておこなわれていたと報道されているのは興味深い[16]

この後、ラジオの業界ではエコーチェンバーは必須の設備となっていく。1940年に出版された「Radio Directing」にはエコーチェンバーについての記述がある[17 p.17]

エコーチェンバーはトンネルのような構造をしており、90フィートの長さにわたって湾曲や捻りが加えられた迷路のような形状をしている。その一方にはスピーカー、もう一方にはマイクロフォンが設置されている。声はスタジオからエコーチェンバーのスピーカーに供給され、そこから迷路の湾曲や捻りを通過しながらだんだんとリバーブを強めていく。それがマイクロフォンに到達して、エンジニアのところに戻され、進行中の番組の音声にミックスされる。マイクロフォンの位置を変化させ(すなわち、スピーカーからの距離を近くしたり、遠くしたりして)、マイクとスピーカーのあいだの時間の遅延を変えてエコー効果の大小を調整することができる。

Radio Directing

1930年代から1940年代をとおして、エコーチェンバーは巨大化していく。クリーブランドのNBC系列放送局WTAMでは、スタジオがあるビル内の使われなくなった排気シャフトをエコーチェンバーに改造している[18]。6平方フィートの広さで16階分の高さ(200フィート、60メートル)のシャフトを使ったエコーチェンバーがどのように使用されたのか興味深い。

ラジオ放送でのエコーチェンバーのプロセス[19 p.64]

このエコーチェンバーの技術は、もちろんハリウッドにも到達している。MGMではリレコーディングで<エコーパイプ>を使ってリバーブを導入していたこともあるようだ[20]。これは90メートルもあるパイプで、一方の端にスピーカーを設置、パイプの途中いくつかの箇所にマイクを仕込んで、リバーブのレートを選べるようになっていたと報告されている。前述の1938年の「Motion Picture Sound Engineering」にもエコーチェンバーに関する記載がある[21 p.173]。ワーナー・ブラザーズのレオン・ベッカーは「物語にリアルに、劇的に語るためのもの」として音響係の<エコーチェンバー>を挙げている[22]。リパブリック・ピクチャーズはダビング/スコアリング/リレコーディングのためのスタジオに2つのエコーチェンバーを設けていた[23]。また『市民ケーン』の4年後に、おそらくRKOのものと思われるエコーチェンバーについてRCAのエンジニアが報告している4)[24]。ロバート・ミクリティッチの「Siren City」には、RKOのエコーチェンバーが『3階の見知らぬ男(Stranger on the Third Floor, 1941)』などのフィルム・ノワールの音響効果に寄与したと記されており、当時の映画製作において広範に使用されていたと推測される[25 p.33]

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Notes

1)^ 現存している「コロンビア・ワークショップ」のエピソードはarchive.orgで聞くことができる(link)。

2)^ 全曲はarchive.orgで聞くことができる(link

3)^ 現存している「ターザン」のエピソードはarchive.orgで聞くことができる(link

4)^ これは1945年5月に開催された「Hollywood Technical Conference」で発表された論文だが、その際のプログラムではRKOのジェームズ・スチュワートとの共同発表となっている。

References

[1]^ J. Houseman, Run-Through: A Memoir. Simon and Schuster, 1972.

[2]^ "The DefinitiveThe Columbia Workshop Radio Log with Georgia Backus. William N. Robson and Norman Corwin," The Digital Deli Too, Nov. 08, 2014. (link)

[3]^ C. O’Dell, "‘The Fall of the City’ (‘Columbia Workshop’) (April 11, 1937); Essay [Added to National Registry: 2005]," Library of Congress, 2005.

[4]^ J. Naremore, Orson Welles’s Citizen Kane: A Casebook. Oxford University Press, 2010.

[5]^ P. Heyer, The Medium and the Magician: Orson Welles, the Radio Years, 1934-1952. Rowman & Littlefield Publishers, 2005.

[6]^ "Broadcast Gives ‘Sight’ to the Ears," Popular Mechanics, vol. 69, no. 1, pp. 90–92, 128A, 1938.

[7]^ P. Doyle, Echo and Reverb: Fabricating Space in Popular Music Recording, 1900-1960. Middletown, Conn. : Wesleyan University Press, 2005.

[8]^ I. Chusid, Reckless Nights and Turkish Twilights (CD): Liner Notes. Columbia (CK65672), 1992.

[9]^ "Listening to a Fountain," Evening Standard, London, p. 14, Sep. 21, 1926.

[10]^ "Inserting the Echo," The Manchester Guardian, Manchester, p. 10, Aug. 09, 1930.

[11]^ "Radio’s Exchange of Programs to Link Continents," AP, New York, Aug. 13, 1931.

[12]^ "Writer Marvels at B.B.C. Centre: Finest Broadcasting Headquarters in the World is His Opinion," The Montreal Daily Star, Montreal, p. 26, Sep. 26, 1932.

[13]^ "Completion of Radio City Crowns Achievements of Microphone World in ’32," Quad-City Times, Davenport, Iowa, p. 19, Jan. 01, 1933.

[14]^ "NBC Uses Echo Room to Make Voice Sound Hollow in Radio Drama," Broadcasting, vol. 4, no. 1, p. 26, Jan. 01, 1933.

[15]^ B. A. Stebbins, "‘Tarzan’: A Modern Radio Success Story," Broadcasting, vol. 4, no. 2, p. 7, Jan. 15, 1933.

[16]^ Z. Palmer, "ON THE AIR," Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 13, Sep. 06, 1934.

[17]^ E. McGill, Radio Directing. McGraw-Hill, 1940.

[18]^ "Echo Chamber 16 Stories High Utilized by WTAM," NBC Transmitter, vol. 10, no. 1, p. 4, Oct. 1944.

[19]^ K. S. Tyler, Modern Radio. Harcourt, Brace, 1944.

[20]^ "Progress in the Motion Picture Industry: Report of the Progress Committee for the Year 1938," Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 23, p. 119, Aug. 1939.

[21]^ Research Council of the Academy of Motion Picture Arts and Sciences, Ed., Motion Picture Sound Engineering. D. Van Nostrand Company, Inc., New York, 1938. Accessed: Dec. 21, 2021.

[22]^ L. S. Becker, "Technology in the Art of Producing Motion Pictures," Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. XXXIX, p. 109, Aug. 1942.

[23]^ D. J. Bloomberg, W. O. Watson, and M. Rettinger, "A Combination Scoring, Recording, and Preview Studio," Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 49, no. 1, p. 3, Jul. 1947.

[24]^ M. Rettinger, "Reverberation Chambers for Rerecording," Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 45, no. 5, p. 350, Nov. 1945.

[25]^ R. Miklitsch, Siren City: Sound and Source Music in Classic American Noir. Rutgers University Press, 2011.