「バトル・オブ・ロサンゼルス」(1942年2月26日未明)で、ブラックアウト発令下、敵機を探すサーチライト(Los Angeles Public Library Photo Collection) |
第二次世界大戦期のハリウッド映画製作について調べていると、<blackouts and dimouts>という表現に頻繁に遭遇する。どちらも<灯火管制>のことだろうと思い、最初は余り気にしていなかったのだが、どうもはっきりしないことが積み上がっていった。調べていくと、<blackouts>と<dimouts>は、それぞれ違う規制を意味していて、それらがハリウッドに与えた影響も異なっていた。ここでは、その成り立ちの違いを見てみる。
ブラックアウト
ハワイのオアフ島現地時間で1941年12月7日午前8時前、日本軍がアメリカの太平洋艦隊に対して攻撃をおこなった。真珠湾攻撃である。この日を境に、アメリカ国民は戦場において血を流し、命を失う覚悟を決めなければならなくなった。国民の生活も、それまで想像もしなかった方向へ大きく変化する。ハワイは本土から遠く離れた太平洋の島とはいえ、アメリカの国土である。その自分たちの土地に地球の裏側に住んでいる民族が攻めてきたのである。
アメリカ国民はその日のうちに反応した。
真珠湾が攻撃された夜、ハリウッド北方のバーバンクにあるロッキード空港(現ボブ・ホープ空港)が完全に闇に沈んだ [1]。全部の灯火を消灯 したのである。なぜ消灯したのか尋ねても空港側は回答しなかったが、噂では敵機が来襲したと判断したからだという。翌日8日の深夜、シアトルでは3,000人もの人たちが街の中心部に繰り出し暴徒と化した。前日に軍が発令した<消灯令>に従わず、明かりをともしている店舗のショーウィンドウやネオンサインを破壊し続けたのだ [2]。警察は暴徒のリーダーの1人、19歳のエセル・チェルスヴィグを勾留した。海軍兵士の妻であるチェルスヴィグは「消灯しないのは裏切り、戦争が始まったんだ」と堂々と答えた [3]。
こうやって、アメリカ本土でも、戦争がはじまった。カリフォルニア州からオレゴン、ワシントン州にかけての西海岸では、ほぼ毎晩消灯令が発令されていた。変調のかかったサイレンが2分間鳴り響く。これが消灯を命ずる警報である。消灯令が発令されると、屋外の照明をすべて消し、屋内の光が外部に漏れないように窓を遮蔽する必要がある。車の運転中であれば、すべてのライトを消して停車しなければならない。行動は制限され、外出は極力してはならない [4]。街のなかを<消灯指導員>が巡回している。光が漏れている家があれば、ただちに注意を受けてしまう。場合によっては違反者は逮捕される。
1941年12月12日のシアトルの夜の写真がある。一枚の写真は<消灯令>に定められた消灯時間前のシアトル市内の様子、そしてもう一枚の写真は消灯した後の様子である。
消灯令発令直前のシアトル 1941年12月12日(SeattlePI) |
消灯令発令直後のシアトル 1941年12月12日(SeattlePI) |
ネオンサインやビルボードだけでなく、室内灯や街燈も消されている。誰も住んでいない街のように街路が漆黒に包まれ、数時間前の夜の喧騒が嘘のように消え去っている。
スティーブン・スピルバーグ監督の『1941』に登場するロサンゼルスは、ビルボードやネオンサインが煌々と輝いていたが、戦時下のロサンゼルスの夜はひたすら暗く、一度屋外に出てしまうと極めて危険な状況になることさえあった。
伊号潜水艦の攻撃と灯火管制
真珠湾攻撃の影響もあったのだろう、アメリカ西海岸は当初、空爆に備えた防空体制をとっていた。消灯令もその一環だ。だが、すぐに別のかたちの脅威が襲ってきた。
真珠湾攻撃から2週間も経たない12月20日、日本の潜水艦伊17が、サンフランシスコから北200kmほどにあるメンドシノ岬沖でタンカーのエミディオ号を砲撃して破壊した [5]。12月23日には、潜水艦伊21がカリフォルニア州カンブリア沖でタンカーのモンテベロ号を撃沈、伊17がユーリカ沖でラリー・ドヘニー号を攻撃するなど西海岸付近での攻撃が続いた [6]。
年が明けて1942年の2月23日、伊17がカリフォルニア州サンタ・バーバラにあるエルウッド精油所に向けて攻撃をおこなった [7]。第二次世界大戦に参戦したアメリカにとって、はじめての本土攻撃だった。断続的に太平洋からやってくる敵の影にカリフォルニアは怯え、パラノイアがロサンゼルスの街を覆った。翌24日の深夜から25日の未明にかけて、海軍情報局は<敵機襲来>の警報を発令して消灯令を敷く。上空に<敵機襲来>を見た第37沿岸砲撃隊が高射砲を撃ち始め、計1440発の対空射撃をおこなった [8]。この夜、消灯令下でロサンゼルス市民に5人の死者が出ている。うち3人は交通事故、2人は心臓発作だった。犠牲者の一人、ズーラ・クラインは夫の運転する車がトラックと衝突した事故で亡くなった。どちらの車も消灯令下、ヘッドライトを消して運転していた。その他にも暗闇で転倒した人などが病院に担ぎ込まれた。この「バトル・オブ・ロサンゼルス」は、気象気球を「日本かドイツの飛行船だ」と言い張った若い将校が砲撃を命令、その後はパラノイアが連鎖的に広がったと当時から報告されていた [9]。
伊17がサンタ・バーバラの沿岸を攻撃したことを伝えるデイリー・ニュース紙(ロサンゼルス) 1942年2月24日 |
さらに同年の6月には潜水艦伊25がバンクーバー(エステヴァン・ポイント) [10]、オレゴン州のシーサイド(フォート・スティーヴンス) [11]を攻撃している。
伊号潜水艦による本土への攻撃は、確かにアメリカ国民への心理的な効果は大きかったが、物理的な被害そのものは大したものではなかった。一方で、潜水艦による船舶への攻撃の被害はあきらかに甚大だった。沿岸警備の考え方として、危険を察知して警報を鳴らして全てを完全に消灯する<消灯令>に効果がどれだけあるのか疑問視する声が上がり始める [12]。ロサンゼルスを含む西海岸の都市部の灯りは、海上150マイル(約241キロメートル)からでも見ることができるという。これらの灯りは、夜間に海洋を航行する船舶そのものを照らさなくても、そのシルエットを浮き上がらせる。むしろ、この都市部の灯りを総合的に統制する仕組みのほうが効果的だとエンジニアたちが言いはじめた。この助言を受けて、まず5月に沿岸部に<灯火管制>が敷かれ [13]、その後、8月20日にメキシコからカナダまで、メキシコからカナダまでの太平洋岸全域に<灯火管制>の規則が適用された [14]。灯火管制下では、夜間のスポーツ試合の禁止、劇場などの広告照明の禁止、戸外の照明(例えばガソリンスタンド)は1フートキャンドル(約10ルクス)以下、信号や街燈は上向きの光を遮蔽すること、海上から視認できる窓はすべてカーテンなどで遮蔽すること、車のヘッドライトはわずか250ビーム・キャンドルパワーまで、と決められた。そしてこれが毎晩日没から日の出まで行われる。各新聞は毎日第一面にその日の<灯火管制>開始時間と終了時間を掲載していた。
<消灯令>と<灯火管制>の違いを説明する広告 Los Angeles Times 1942/5/23 II p.6 |
すなわち、伊号潜水艦の攻撃が引き金となって、アメリカの西海岸の人々は毎夜、灯火管制の独特の暗さのなかで過ごすことになったのである。
<灯火管制>下のロサンゼルス(1943年)UCLA Library Digital Collections |
この管制下では、毎日のように灯火管制規則違反で逮捕されたり拘束されたりした人々のニュースが報道されている。イースト・ロサンゼルスのハリー・トリガーは、経営するクリーニング屋の窓のカーテンをせずに屋内の光を漏らしていたという違反で逮捕された。ダウニーのカフェのオーナー、マニュエル・ガルシアは、ネオンサインを点けたままにしていたので、やはり逮捕された [15]。宝石店を営むナタリー・シェルドンは、やはり灯火管制の時間帯に店の灯りを煌々と点けていて警察に違反を指摘された。彼女は裁判で、灯火管制の開始時間を忘れないようにセットしていた時計のアラームが鳴らなかったからだと主張したが、判事は$15の罰金を課した [16]。交通事故も極めて多い。ヘッドライトを暗くしているために、間違ったレーンを走っていたり、対向車が見えなかったり、歩行者が見えないという事態が頻発し、正面衝突、ひき逃げ、ひき逃げされた後にさらに別の車に轢かれるというケースも多かった。マインズ・フィールドの部隊の軍警察官クリストファー・スピンドラーは、マンハッタン・ビーチのそばのセプルヴェダ大通りで、轢き逃げされたあと、さらに別の2台の車に轢かれて死亡した [17]。こういった事故は日常茶飯事だった。
<消灯令>下のロサンゼルス、カクテル・ラウンジの<トミーズ・ジョイント Tommy's Joynt> 「中は消灯してないぜ!」とサインを出しているが、店の前で躊躇する客たち (サンタ・クルーズ・センチネル紙、1942年1月3日) |
消灯令も灯火管制も、レストランやナイトクラブのビジネスにはうれしくないルールだった。西海岸は自動車が移動手段として定着していたため、ヘッドライトを点灯できなかったり、暗くしたりしなければならないのは、夜の外出には不自由極まりない。タイヤの消耗を防ぐためのガソリン価格の規制も手伝って、一般人は夜の移動を控えざるを得なかった。
<消灯令>で、信号の光が拡散しないように覆いをかぶせている。(1941年)UCLA Library Digital Collections |
もちろん、それでも夜の町に繰り出したい人たちはいる。女性たちのための「ブラックアウト・ファッション」や「ディムアウト・ファッション」も登場した。ブラックアウト・バッグは、普通の女性用ハンドバッグにブラックアウトに便利な小物が入った少し大きめのバッグだ。非常用に懐中電灯、暗闇で怪我をしたときのファーストエイド・キットなどが入っている。懐中電灯が装備されて足元を照らす靴、帽子も蛍光塗料で処理してあって、暗闇で歩行者だと視認できるようになっている [18]。フレドリック・モセルがデザインしたブローチは、ハリウッドの街燈をかたどっているが、暗闇でも光る [19]。
家の照明が外に漏れないように、黒くて分厚い布の<ブラックアウト・カーテン>や<ディムアウト・カーテン>はすぐに売り出された。だが、カリフォルニアの夏の気候では黒いカーテンで窓を覆うと過ごしにくい。そこでベネチアン・ブラインドが流行した。これならブラインドを開ける方向さえ気をつければ、窓を開けたまま灯火管制のルールに従うことができる。
ネオンサインや照明広告はご法度だが、自分で発光しなければ問題ないだろう、と考えた人たちがいた。これはニューヨークのブロードウェイだが、<フレックスグラス>という材料を使って、灯火管制下でも周囲の少しの光を反射して広告の文字が光る、という巨大看板が劇場に使われた。
ニューヨーク・ブロードウェイ、アスター劇場の<フレックスグラス>を使った巨大看板 Better Theaters 1942年9月19日号 |
こうやって、人々は<非常事態下>でも、生活を続け、商売を編み出し、楽しみを作り出していた。やがて、この灯火管制は、日本軍の前線の後退とともに不要になっていく。1943年10月12日にゾーンの見直しがあった後 [20]、同年11月1日に撤廃された [21]。
References
[1]^ “City’s Airfields Blacked Out,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. E, Dec. 08, 1941.
[2]^ “Rioters Smash in Pike St. Windows,” The Seattle Star, p. 1, Dec. 09, 1941.
[3]^ “Rioters Enforce Seattle Black-out,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 9, Dec. 10, 1941.
[4]^ “L. A. Blackout Regulations,” Daily News, Los Angeles, p. 2, Feb. 26, 1942.
[5]^ “Jap Subs Raid California Ships,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, Dec. 21, 1941.
[6]^ “Jap Sub Sinks L. A. Tanker,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, Dec. 24, 1941.
[7]^ “Submarine Shells Southland Oil Field,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, Feb. 24, 1942.
[8]^ “California in World War II: The Battle of Los Angeles.” http://www.militarymuseum.org/BattleofLA.html (accessed Apr. 23, 2022).
[9]^ Col. John G. Murphy, “Activities of the Ninth Army AAA,” Antiaircraft Journal, vol. LXXXXII, no. 3, p. 2, Jun. 1949.
[10]^ “Japanese Craft Shell B.C. And Oregon Coasts; Navy, RCAF Hunt Enemy,” Vancouver Sun, Vancouver, p. 1, Jun. 22, 1942.
[11]^ “Oregon Fort Undamaged in Sub Attack,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, Jun. 23, 1942.
[12]^ “No Blackouts Till Necessary,” The Spokesman-Review, Spokane, p. 5, Jan. 27, 1942.
[13]^ “Move Designed to Protect Ships,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, May 23, 1942.
[14]^ “Drastic Dimout Ordered for Coast, Inland Areas,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, Aug. 05, 1942.
[15]^ “Dupities Seize Two on Dimout Charges,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 9, Nov. 09, 1942.
[16]^ “Clock Blamed for Lights,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 5, Jan. 01, 1943.
[17]^ “Traffic Takes Lives of Two Adults and Baby,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, Mar. 15, 1934.
[18]^ Dorothy Roe, “Blackout Styles,” Metropolitan Pasadena Star News, Pasadena, p. 10, Feb. 24, 1942.
[19]^ “Luminous Coat Doo-dads Very Chic,” San Fernando Valley Times, p. 10, Feb. 20, 1942.
[20]^ “Angelenos Study New Lighting Regulations,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, Oct. 12, 1943.
[21]^ “Dimout Darkness Ends Tomorrow,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, Oct. 31, 1943.
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