『大空の戦士(Thunder Birds, 1942)』 アリゾナ州にある陸軍のサンダーバード第1飛行場でロケーション撮影された |
真珠湾攻撃から4ヶ月後、政府による物資の統制がハリウッドの映画製作そのものを直撃する。1942年4月に軍需生産委員会(WPB)が、L-41という政令を発表した。これによれば、いかなる建造物(私有、公共関わらず)でも、費用が$5,000を超える場合は許可が必要となった[1]。当初、この<建造物>に映画のセットは含まれないのではないかとハリウッドは期待したようだが[2]、戦争による物資の統制政策は甘くなかった。WPBは映画の種類にかかわらず、セットの材料費に$5,000の上限を設けたのである。セットに対する材料統制は、ハリウッドの映画スタジオの価値観と大きくずれていた。MGMからリパブリック・ピクチャーズまで、どこのスタジオでも<超大作>と<低予算映画>の両方が製作されているが、同じものではない。こんなコストでは、製作可能な映画のレベルが子供向けの低予算西部劇しかなくなってしまう、と反発する者たちも多かった。物資の民間消費を問題にするのだったら、なぜフィルムそのものを規制しないのか。むしろ二本立てを止めさせて、誰も見ない低予算B級映画そのものをなくしてしまう方が、フィルム材料の節約にもなるだろう、という意見もあった[3]。しかし、WPBはその方針を曲げなかった。
映画史の見直し
従来のハリウッド映画史では、戦時下の映画製作の変化を単純でわかりやすい物語に押し込む傾向がある。例えば、第二次世界大戦中のハリウッドについて「ブラックアウト」などを著しているシェリ・チネン・ビーゼンは、戦前のMGMのテクニカラー大作『北西への道(Northwest Passage, 1940)』に見られたような、潤沢な資金をつぎ込んでロケーション撮影を行うことは、開戦とともに下火になったと述べている[4]。特にテクニカラー作品は、尋常ではない照明を必要とし、生フィルムの使用量も単純に3倍必要になるために少なくなったと主張している。しかし、これは端的に言って間違っている。
テクニカラーの作品は、戦時中に製作本数が増えている。1940年には12本(そのうち1本はパートカラー)、1941年には17本だったが、1942年に13本、1943年に20本、1944年には29本にまで増加する(1942年にいったん減少しているように見えるが、『誰がために鐘は鳴る』や『マーク・トウェインの冒険(The Adventures of Mark Twain, 1944)』のように、この年に製作されたにもかかわらず、公開が先延ばしになった作品が少なからずある)。ウォルター・ラング、アーサー・ルービン、アーヴィン・カミングス、デヴィッド・バトラーといった監督がほぼ毎年テクニカラー作品を担当していた。また、これらの映画はロケーション撮影をふんだんに利用して、広大な景色をカラフルに見せることを主眼としている。例えば、『海の征服者(The Black Swan, 1942)』は、(そんなふうには見えないかもしれないが)ジャマイカ、メキシコ、キューバ、フロリダで、『大空の戦士(Thunder Birds, 1942)』はアリゾナで、『森林警備隊(The Forest Rangers, 1942)』はオレゴン、モンタナで、『マイ・フレンド・フリッカ:緑園の名馬(My Friend Flicka, 1943)』はユタでロケーション撮影をしている。戦争開始とともに、パラマウント、20世紀フォックス、ワーナー・ブラザーズは、低予算映画の計画を取りやめ、積極的に大作主義に路線を変更していった。テクニカラー作品を含む<大作>、<話題作>は、劇場での上映期間延長(ホールドオーバー)になりやすく、歩合制レンタル料が圧倒的に興行収入を押し上げていった。つまり、政府に言われるまでもなく、低予算B級映画の製作を止めたのである(5大メジャー・スタジオの中で、最終的に二本立て用の低予算映画を作り続けたのはMGMだけだった)。
また、前述のビーゼンは、さらに続けて以下のようにヒッチコックを称賛する。
ヒッチコックはロサンゼルスのスタジオを離れて、北カリフォルニアでロケーション撮影するという、当時としては珍しい、革新的なやり方で『疑惑の影(Shadow of a Doubt, 1942)』を監督した。
シェリ・チネン・ビーゼン Sheri Chinen Biesen[4]
『疑惑の影』をロケーションで撮影した動機のひとつが、前述のWPBが設定した材料費の上限$5,000だったのは間違いないだろう。安いセットで撮影するよりも、サンタ・ローザという実在する町で、実在する家や通りを利用した撮影のほうが効果的だと考えたのだ。しかし、それは『疑惑の影』に限ったことではなかった。後世の私達が映画史を振り返るとき、どうしてもヒッチコックのような象徴的な監督に<革新性>を見出しがちである。『疑惑の影』とほぼ同じ時期に、サム・ウッドやジョージ・マーシャルが監督した『誰がために鐘は鳴る』や『森林警備隊』も<ロサンゼルスを離れて>、ほぼ<ロケーションで撮影>されたことは忘れられ、<普通ではない、革新的なやり方>をしたのはヒッチコックだけだったということにされてしまう。ロケーション撮影は珍しくもなければ、革新的でさえなかった。ヒッチコックが『疑惑の影』を撮影した1942年には、寧ろあまりにロケーション撮影が多くなりすぎて、様々な問題が噴出していたのである。
戦時下のロケーション撮影
ハリウッドは、ロサンゼルス近郊が軍による統制(消灯令、海岸地域の立入禁止、駅や空港などでの撮影禁止、軍用機以外の飛行機の飛行制限など)が厳しくなったために、南カリフォルニアから離れた場所でのロケーション撮影に計画を切り替えていた。1942年4月29日のVariety紙によれば、20世紀フォックスが撮影に入る作品のうち、8作品は「この地域の戦争による統制を避け、ストーリーにあった自然の背景を利用するために」大部分をロケーションで撮影すると報じている[5]。
戦時下で、ハリウッドのスタジオがロケーション撮影をしようとする際にまず最初に遭遇する問題が<タイヤ>だった。当時は日本が天然ゴムの原産地であるインドネシアなどの地域を占領していたため、アメリカではゴムの入手が極めて困難になっていた。戦争開始直後から、タイヤの消費を抑制するために、政府はガソリンを配給制にした。さらに輸送に関して様々な規制を設けたために、ハリウッドが自由気ままに車を走らせてロケーションに向かうわけにはいかなくなった。
20世紀フォックスは『大空の戦士』をアリゾナ州のグレンデールにある操縦士訓練施設でロケーション撮影した。ハリウッドから車で一晩ほどの距離だが、<ゴム節約のために>人員、機材、そして録音用車両を鉄道で輸送したという[6]。パラマウントも『森林警備隊』をサンタクルーズでのロケーション撮影には鉄道を使用して移動した[7]。6月には、トラックなどの輸送車が貨物を積まずに走行することに防衛輸送局(Office of Defense Transportation)が難色を示し、ロケーション撮影で使用したトラックがハリウッドに戻って来るときには、野菜であろうが、鉄道のレールであろうが、現地で輸送貨物を積んで戻ってくることになった[8]。映画スタジオの輸送走行距離は全体で35%削減され、従業員用のバスも廃止された[9]。
軍が戦略的にクリティカルとみなした地域は映画撮影の許可がさらに厳しくなった。『The Great Northwest Frontier』という題名の映画で、アラスカでのロケーション撮影を計画していたリパブリック・ピクチャーズは、撮影の許可が下りずに苦労している[10]。日本軍の侵攻が続いていた北太平洋に近いアラスカはカリフォルニアよりもさらに軍の統制が厳しかったのである。さらに、西海岸の沿岸地域で撮影する場合には、撮影クルー、出演者含めてすべてアメリカ市民である必要があった[11]。特にヨーロッパからナチスの脅威を逃れてきた映画人にとって、これは厳しい決定だっただろう。
軍の要請だけではない。ハリウッドから300マイル以内でのロケーション撮影の場合、全米映画俳優組合との取り決めでエキストラを現地で雇うことができず、ハリウッドからエキストラを連れていかなければならないことになっていた[7]。戦時下で多くのエキストラがロサンゼルスを離れることができないといった問題もあった。
こういった数々のハードルがロケーション撮影にはつきまとった。しかし、スケールの大きな戦争映画や、テクニカラー作品のミュージカルなどで、ロケーション撮影を敢行して<大作>として公開するメリットは、これらのハードルをはるかに上回ったようだ。
『マイ・フレンド・フリッカ:緑園の名馬(My Friend Flicka, 1943)』 |
参考文献
[1]^ “Ban Placed on Building,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 6, Apr. 09, 1942.
[2]^ “Studios Wary of Set Building Under WPB Rules, Despite D. C. Assurance,” Variety, vol. 146, no. 9, p. 6, May 06, 1942.
[3]^ Paul Harrison, “Paul Harrison in Hollywood: Moviemakers in Quandry Over WPB Set Restrictions,” Ventura County Star, p. 3, Jul. 07, 1942.
[4]^ S. C. Biesen, “Chapter 2. The Classical Hollywood Studio System, 1928–1945,” in Hollywood on Location: An Industry History, J. Gleich and L. Webb, Eds. Rutgers University Press, 2019.
[5]^ “Wartime Rules Spread 20th-Fox Locations,” Variety, vol. 146, no. 8, p. 6, Apr. 29, 1942.
[6]^ “Casey Jones’ Comeback,” Variety, vol. 146, no. 1, p. 7, Mar. 11, 1942.
[7]^ “Inside Stuff - Pictures,” Variety, vol. 146, no. 1, p. 18, Mar. 11, 1942.
[8]^ “Bring-Back-a-Load Dictum to Film Cos. May Mean Radishes or Rail Ties,” Variety, vol. 147, no. 3, p. 3, Jun. 24, 1942.
[9]^ “Studios Cut Mileage 35%,” Variety, vol. 147, no. 5, p. 6, Jul. 08, 1942.
[10]^ “Army Regulations Hobble Rep’s Filming in Alaska,” Variety, vol. 146, no. 1, p. 27, Mar. 11, 1942.
[11]^ “Studios Must Vouch for Troupes in Zoned Areas,” Variety, vol. 146, no. 1, p. 22, Mar. 11, 1942.
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