『誰がために鐘は鳴る(For Whom the Bell Tolls, 1943)』の爆撃シーン

前回、真珠湾攻撃とその後に続く伊号潜水艦の攻撃が、アメリカ西海岸に<消灯令(ブラックアウト)>と<灯火管制 (ディムアウト)>をもたらした経緯をみてみた。

では、それらがどのようにハリウッドの映画製作に影響を及ぼしただろうか。

これは映画の撮影で、日本軍による本土爆撃ではない

ハリウッドが最初の<消灯令(ブラックアウト)>を経験したのは1941年12月10日の夜だった。

7:45 p.m. 丘の上の窓から見ていると、町はクリスマスツリーが横たわっているみたいだった。RKOスタジオの貯水タンクの三角のネオンから、ラ・ブレア・アベニューのナイトクラブ街の電気まで、赤、白、緑、青のカーペットがチカチカしていた。サイレンが鳴り響き、電気会社は損失を出しはじめた。15分以内に、何マイルにもわたって街燈が暗くなった。赤い電光表示もほとんど消えてしまった。30分もすると、まったく何も見えなくなった。真っ暗になったが、白熱電球の列が1マイルほど伸びている。あれはハリウッド大通りのサンタクローズ・レーン、マツダ・ランプで飾られたクリスマスツリーの列だ。だが、そのスイッチもようやく見つかったようだ。

フレデリック・C・オスマン[1]

このサンタクローズ・レーンのクリスマスツリーも次の日には撤去されてしまったようだ。

開戦の影響を最初に受けた映画の一つが、サム・ウッド監督の『誰がために鐘は鳴る(For Whom the Bell Tolls, 1943)』だった。この作品は、正式な製作開始が1942年夏ということになっているが(よって、イングリッド・バーグマンにとっては『カサブランカ(Casablanca, 1942)』の撮影と重なっていた)、背景のシーンなどの撮影は、ゲーリー・クーパーとイングリッド・バーグマンの配役が決定するはるか前の1941年11月に始まっていた。サム・ウッドと撮影クルーは、12月前半にハイ・シエラで爆撃機による攻撃のシーンを、陸軍の爆撃機を使用して撮影する予定だった。ところが、真珠湾攻撃の後、アメリカ全土で航空規制が敷かれ、軍用機の使用はもちろん禁止、民間機の飛行も制限された。パラマウントは軍から特別な許可を得て、近隣住民に「これは映画の撮影で、日本軍による本土爆撃ではない」とあらかじめ通達を出して撮影に臨んだ[2]。撮影にはボーイングの民間機を軍用にカモフラージュした。ところが、飛行の許可が下りたのは、撮影のあいだだけだったようで、撮影後は現地で飛行機を解体し、貨物車で運搬してハリウッドに戻ったという[3]

この爆撃のシーンのために、パラマウントは構造力学のエンジニア、ハロルド・オムステッドをコンサルタントとして呼んでいた。彼はノルウェイでナチスによる爆撃を実際に経験していたからである。オムステッドは爆撃シーンの協力だけでなく、パラマウント・スタジオに近代的な防空壕を作るように助言もした[4]

他の映画の製作も、戦時下の体制に強く左右されていく。

まず、<消灯令(ブラックアウト)>によって、従業員が帰宅できなくなる可能性を考えて、多くのスタジオは標準稼働時間を1時間繰り上げた。それまで午前9時から午後6時までだった勤務を、午前8時から午後5時にした[5]。こうして、大部分の映画撮影がセット内で、昼間に行われることになった。特にオープンセット(バックロット)での夜間撮影は、消灯令のために難しくなり始めていた。突然、サイレンが鳴り始めると撮影を中止しなければならないからだ。

ハリウッドの映画館は「Show Must Go On」を合言葉に、「外の明かりは消していても、中では映画をやっているよ」と強調して、業界が今までと変わらず、安定してエンターテインメントを供給しているとアピールした。

時流に乗るのが早いハリウッド業界人たちは、すぐに戦争をモチーフにした映画の製作(あるいはタイトルだけ)を発表した。それまで製作していた映画でも、敵をナチスから日本に切り替えたり、真珠湾攻撃によって主人公たちが主体的に日本軍をやっつけるという物語に書き換えたり、といったことが行われるものもあった。例えば、MGMの『A Yank on the Burma Road (1942)』では、当初の脚本が真珠湾攻撃後に書き換えられ、主人公のアメリカ人ジョー・トレーシー(バリー・ネルソン)が日本軍と派手に銃撃戦を交わす、高揚的なエンディングになった。

『A Yank on the Burma Road (1942)』のエンディング
日本兵をマシンガンで倒すバリー・ネルソン

カリフォルニアに居住していた日系アメリカ人が戦時中に強制的に収容所に入れられたが、それは当時の白人を主体とするアメリカ社会が彼らを<アメリカ人>と考えずに<ジャップ>と考えていたからにほかならない。ハリウッドのように移民が多い社会でもそれは変わらない。多くのハリウッド映画人が、日系人が追放されると「腕の良い庭師がいなくなる(彼らの大邸宅の庭師の多くが日系人だった)」くらいにしか考えていなかったのもその表れである。

戦争協力への道のり

戦争が始まる2週間ほど前の11月24日、20世紀フォックスはフリッツ・ラング監督を擁して『夜霧の港(Moontide, 1942)』の撮影を開始した。ジャン・ギャバンのハリウッド第一作であり、アイダ・ルピノにとっても重要な作品になるはずだった。だが、撮影に入る前からすでにヨーロッパの戦争が製作を思わしくない方向へ引きずっていた。ロケーション撮影を予定していたサン・ペドロの港は海軍の要塞化が始まり、ラングたちは仕方なくフォックスの敷地内に大型のプールを$45,000で作って、海辺のセットを構えることになった。ラングはこの妥協がきっかけになってやる気をなくしたと言われている(その他、ジャン・ギャバンとの不仲、脚本の変更も原因として挙げられている)。真珠湾攻撃の直後、12月12日を最後にラングは監督を降板し、アーチー・メイヨが残りの監督を引き受ける[6, p. 6463/13753]

開戦後の撮影はすべてフォックスのセットでおこなわれたが、決して順調だったわけではない。アーチー・メイヨは撮影中に上空を通過する陸軍の爆撃機の騒音に悩まされている[7]。この『夜霧の港』は、幻のような霧に包まれた海辺のセット撮影やサルバトール・ダリ原案の酩酊のシーンなど魔術的な映像とともに、前述の大型プールのセットを使った海岸のシーンの、とてもセットとは思えないリアリズムが印象的な作品だ。近年、<プロト・ノワール>として再評価もされている[8], [9]

『夜霧の港(Moontide, 1942)』

ハリウッドの映画人たちも、それぞれの形で戦争に参加しはじめる。応召する者、志願する者、さまざまだ。ハリウッドの監督のなかでいち早く軍に志願したのは、フランク・キャプラとウィリアム・ワイラーだった。こういった環境の変化は、不思議な人間関係も生み出す。『深夜の告白(Double Indemnity, 1944)』、『郵便配達は二度ベルを鳴らす(The Postman Always Rings Twice, 1946)』の原作者のジェームズ・M・ケインは、ハリウッドの消灯指導員に志願した。彼とチームを組んだ消灯指導隊員は映画監督のセシル・B・デミルだった。ケインとデミルは、ヘルメットをかぶり、毎晩ハリウッドの坂道を車で行ったり来たりした。二人は窓から灯りが漏れている家を見つけてはドアを叩いて注意するという仕事を極めて真面目にやっていた[10, p. 320]

ハリウッドは、政府との関係を急速に深めていった。生産管理局(The Office of Production Management)や軍需生産委員会(War Production Board)などの組織が、ハリウッドが有する才能や技術、影響力を駆使して、戦時下における民衆の社会、経済活動を<統制>しようと試みた。そして、その多くは成功したといってよいだろう。『ダンボ(Dumbo, 1941)』を公開したばかりのウォルト・ディズニーは、政府が製作するプロパガンダ映画やトレーニング用映画のアニメーションを受託しはじめた。

『Four Methods of Flush Riveting (1942)』
ディズニー・スタジオがロッキード社のために製作したアニメーション
フラッシュリベットの方法を説明している

ハリウッド映画がもつファッションへの影響力は、政府にとって好都合だった。ワシントンは、ハリウッドのファッション・デザイナーたちに戦時下の新しいデザインを依頼したのである。ハッティー・カーネギーは、それまでのプリーツ、バルーン・スリーブといった<余分な布>を必要とするデザインを廃し、布地の使用量を最小限にするスタイルを作り出した。男性用のサスペンダーに使われていたゴム、ベルトに使われていた革も貴重な軍需物資だ。デザイナーのドリー・ツリーは、ジーン・ティアニーの衣装をシルクではなく、コットンで作成した[11]。こういった衣装デザインの変化は戦時中を通じて、より顕著になってゆくが、その原動力はハリウッドのスタジオ・デザイナーたちだった。

だが、戦争開始当初のハリウッドの全体的な状況を俯瞰してみると、戦時体制への協力はごく一部にとどまり、少なくとも数ヶ月のあいだは<エンターテイメントの提供者>として振る舞おうとしているのが分かる。当初は消灯令(ブラックアウト)で従業員が帰宅できなくなることを心配していたスタジオの重役たちも、すぐに従業員のことを忘れ、夜間の撮影を再開した。20世紀フォックスは、真珠湾攻撃の3週間後には『Sundown Jim (1942)』と『To the Shores of Tripoli (1942)』の夜間撮影を再開している[12]。年が明けて、1月にはハリウッド全体で40本もの映画が撮影に入っており、その大半は戦争という現実からの逃避(エスケーピスト)を大衆に提供していた。そればかりではない。「映画を見に来る観客は、戦争を忘れようとしているのだ」と主張して、戦争に関するニュース映画の数さえ減らそうとしていた[13]

ハリウッドは、自分たちはアメリカの基幹産業で特別だ、という奢りがあったようだ。

誰がために鐘は鳴る(For Whom the Bell Tolls)

監督・製作:サム・ウッド
製作総指揮:B・G・デシルヴァ
原作:アーネスト・ヘミングウェイ
脚本:ダドリー・ニコルズ
撮影:レイ・レナハン
編集:シャーマン・トッド、ジョン・F・リンク
音楽:ヴィクター・ヤング
出演:イングリッド・バーグマン、ゲーリー・クーパー
製作:パラマウント
1943

A Yank on the Burma Road

監督:ジョージ・B・サイツ
製作:サミュエル・マルクス
脚本:ヒューゴ・バトラー、デヴィッド・ラング、ゴードン・カーン
撮影:レスター・ホワイト
編集:ジーン・ルジエロ
音楽:レニー・ヘイトン
出演:ロレイン・デイ、バリー・ネルソン
製作:MGM
1942

夜霧の港(Moontide)

監督:アーチー・メイヨ、フリッツ・ラング
製作:マーク・ヘリンジャー
原作:ウィラード・ロバートソン
脚本:ジョン・オハラ
撮影:チャールズ・G・クラーク
編集:ウィリアム・レイノルズ
音楽:デヴィッド・ブトルフ、シリル・J・モックリッジ
出演:ジャン・ギャバン、アイダ・ルピノ
製作:20世紀フォックス
1942

参考文献

[1]^ Frederick C. Othman, “Hollywood Turns ’em Off,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 5, Dec. 11, 1941.

[2]^ Frederick C. Othman, “Behind the Scenes Hollywood,” Santa Rosa Republican, Santa Rosa, p. 16, Dec. 11, 1941.

[3]^ Harrison Carrol, “Behind the Scenes Hollywood,” The Times, San Mateo, p. 6, Dec. 24, 1941.

[4]^ Virginia Wright, “Virginia Wright,” Daily News, Los Angeles, p. 27, Dec. 10, 1941.

[5]^ James Francis Crow, “Theaters Map Plans To Fight Drop in Box Office Business,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 6, Dec. 12, 1941.

[6]^ P. McGilligan, Fritz Lang: The Nature of the Beast. U of Minnesota Press, 2013.

[7]^ E. Johnson, “Desert Sandstorm High Spot in Tour of Hollywood Film Sets,” Daily News, Los Angeles, p. 19, Jan. 14, 1942.

[8]^ M. Bamber, “Moontide (Archie Mayo & Fritz Lang, 1942) – Senses of Cinema.” (Link).

[9]^ “The Making of Moontide — a Noir Fairy Tale,” Let Yourself Go ... To Old Hollywood. (Link).

[10]^ R. Hoopes, Cain: The Biography of James M. Cain. Carbondale : Southern Illinois University Press, 1987.

[11]^ Sara Hamilton, “Films to Aid War Clothes Style Drive,” San Francisco Examiner, San Francisco, p. 25, Apr. 05, 1942.

[12]^ James Francis Crow, “Jane Wyman Teamed With Kay Kyser In RKO-Radio Film,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 4, Dec. 29, 1941.

[13]^ Sidney Skolsky, “The Week in Review,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 5, Jan. 10, 1942.