ここからは《フィルム・ノワール》についての重要な映画批評について、1970年代までの流れを俯瞰したい。

『殺人者(The Killers, 1946)』
監督:ロバート・シオドマク
撮影:ウディ・ブレデル

ボルド&ショームトン(1955)

“A Panorama of American Film Noir, 1941-1953” English Version (Internet Archive)

まず、最も古典的な《フィルム・ノワール》論である、レイモン・ボルドとエティエンヌ・ショームトンの「アメリカン・フィルム・ノワールの展望」“Panorama du film noir américain : 1941-1953” を見てみる[1]。ハリウッドの《フィルム・ノワール》と呼ばれる作品について、初めて総括的に批評した著作である。ここで、ボルド&ショームトンは、1946年の7月後半から8月にかけてフランスで上映された5本の作品(『マルタの鷹』『ローラ殺人事件』『ブロンドの殺人者』『深夜の告白』『飾窓の女』)を挙げ、さらにその後に次々と輸入されたいくつかの映画を列挙して《セリエ・ノワール série noir》と呼んだ。この《セリエ série》とはどういうことだろうか。ボルド&ショームトンは、これらの映画に共通する《必須の特徴》を見つけ出すとなると「それはまた別の問題だ」と述べ、明確な《ジャンル》ではなく、ある種の特徴を緩く共有しているもの、という認識を示している。すなわち、ハリウッドのある時代に属している一群の映画という意味で《セリエ série》(シリーズ)と呼んだのである。そして、ある種の線引きをして《セリエ・ノワール》に属さない映画と差異を見つけ出すことで、《セリエ・ノワール》を分析する。すなわち、1940年代後半に現れたドキュメンタリー・スタイルの刑事捜査映画(例えばジュールズ・ダッシン監督の『裸の町(The Naked City, 1948)』)をフィルム・ノワールではない(・・・・・・・・・・・・・)として、それらとの比較を通して《フィルム・ノワール》を定義しようとした。

彼らによれば、《セリエ・ノワール》に属する映画とそうでない映画では、2点の差がある。まず、《焦点》の差だ。ドキュメンタリー・スタイルの作品は「外側から」、つまり警察の視点から描かれるのに対し、フィルム・ノワールは「内側から」、すなわち犯罪者の視点から描かれている、という。もう一つの差異は《倫理》だ。ドキュメンタリー・スタイルの作品の主人公は正義であり、そのテーマは警察の賛美である。一方でフィルム・ノワールで描かれる警察は腐敗しており、私立探偵が頻繁に登場して、法治社会と犯罪世界との橋渡しとなる。

この差異をもとにして、彼らはフィルム・ノワールを《曖昧さ》の体現としてとらえている。それ以前のハリウッド映画には見られない、被害者の曖昧さ、主人公の曖昧さ、女性の曖昧さ、が常に立ち現れてくるものが《セリエ・ノワール》だ。暴力も陰惨だ。フェアな戦いは消え去り、弱い者をいつまでも蹴り回し、感情なく殺人を犯し、あるいは心を病んだ男が人を殺していく。クライマックスも、残酷さと痛ましさの表現において類を見ない。

ボルド&ショームトンは、視覚的表現の特徴については深く探ることをせず、あくまで物語のレベルで《セリエ・ノワール》を成立させようとしている。「暴力性」「奇妙さ」「異常性」をノワールの構成要素として考え、その主な源流をアメリカのギャング映画、ホラー映画、探偵映画に求めている。さらにはカートゥーンの「サディスティックな想像力」、アメリカのコメディ映画の「奇妙さ」と「諧謔性」も挙げて、重要な役割を果たしているという。一方で、ヨーロッパ映画界の影響は限定的だとしながらも《ドイツ表現主義》と《シュールレアリスム》との関連を挙げている。ロバート・シオドマクとカーティス・バーンハートが、ドイツで映画監督となり(表現主義の洗礼を受け)、ナチス政権掌握後、亡命先のフランスで映画を撮り続け(シュールレアリスムを会得し)、1940年からハリウッドで映画を監督し始めたことに注目している。

ボルド&ショームトンは、純粋に《フィルム・ノワール》と呼べる作品は一握りしかなく(巻末のリストによれば21作品)、その周辺に《フィルム・ノワール》と相関関係を持ちながら発展してきたジャンル ───《犯罪心理映画》《犯罪歴史映画》《ギャング映画》《警察ドキュメンタリー》《社会派映画》─── が存在するとした。また、彼らの定義によれば、《フィルム・ノワール》は1948年にその全盛期を終え、その後は他の周辺ジャンルに、そのスタイルを波及していったという。

ボルドとショームトンによる《フィルム・ノワール》のリスト

彼らの議論を受け入れがたいと感じる後世のフィルム・ノワールのファンも多いだろう。『深夜の告白(1944)』を「現実離れ」、『夜の人々(1947)』を「ありきたり」、『殺人者(1946)』はギャング映画に分類して、彼らの《フィルム・ノワール》のリストに入れない一方で、『恐喝の街(1949)』を《フィルム・ノワール》として高く評価しているのは、不思議に思う人も多いかもしれない。ボルドとショームトンのフィルム・ノワール論の問題点のひとつは、当初《フィルム・ノワール》を《シリーズ série》と呼んでいるが、論の途中から《ジャンル》や《スタイル》と表現される箇所もあり、揺れながら進んでゆくことだ。また《リアリズム》という言葉も、《フィルム・ノワール》を語る上で重要な概念として登場しているにも関わらず、明確な定義を欠いたまま用いられている。こういった表現の曖昧さが、後世の《フィルム・ノワール》に関する議論における概念の揺れを引き起こしてしまったのではないだろうか。デール・E・エウィングは以下のように彼らの分析を評価している。

ボルドとショームトンによれば、フィルム・ノワールは、ジャンルの影響を折衷的に借用して、社会的メッセージ性を帯びた独特なジャンルとして発展した。そして、恐慌期と1930年代のギャングの時代の余波、第二次世界大戦への参戦、そして戦後に市民生活に戻る際に生じた混乱に関わる、極めて悲観的なテーマを表現したものがフィルム・ノワールなのだという。

Dale E. Ewing

ここでもボルドとショームトンが、フィルム・ノワールをジャンルと呼んでいるかのごとく記述されている。

ボルド&ショームトンの功績は非常に大きい。彼らのこの著書は《フィルム・ノワール》をハリウッド映画史のなかに位置付け、その性格を記述しようとした最初の試みと言ってよいだろう。

ハイアム&グリーンバーグ(1968)

“Hollywood in the Forties (1968)” (Internet Archive)

英語圏において《フィルム・ノワール》についてほぼ初めて包括的な記述に挑んだのが、チャールズ・ハイアムとジョエル・グリーンバーグの 「40年代ハリウッド」“Hollywood in the Forties” である。第2章は “Black Cinema” と題され、著者たちが思い描いた《フィルム・ノワール》のイメージが描かれている[2]

早朝の暗いストリート、突然の雨で濡れている。灯は薄闇にぼんやりと光輪をつくっている。安アパートの部屋が、向かいのネオンサインの点滅で照らされている。そこにいるのは殺す側か、それとも殺される側か・・・闇と暴力の世界、そこに棲む主人公はたいてい欲望、セックス、野心に突き動かされ、その世界は恐怖に包まれている。そんなフィルム・ノワールの独特の雰囲気は40年代に、その完全な姿を現した。19世紀の残酷なロマン主義の流れをくむジャンルは、UFAと戦前の茫漠とした霧に包まれたフランス映画を経て、ハリウッドで開花した。ラング、シオドマク、プレミンジャー、ワイルダーといった偉大なドイツ、オーストリアの亡命者たちが、ここにやってきて、自由に彼らの幻想を解き放つことを許されたのだ。

Hollywood in the Forties

ハイアム&グリーンバーグは、多くの作品を挙げて、その映像や音を軸に描写していく。『トゥルー・クライム殺人事件(The Unsuspected, 1947)』『潜行者(Dark Passage, 1947)』『飾窓の女(The Woman in the Window, 1944)』『スカーレット・ストリート(Scarlet Street, 1945)』『疑惑の影(Shadow of a Doubt, 1942)』『ロープ(Rope, 1948)』『幻の女(Phantom Lady, 1944)』『クリスマスの休暇(Christmas Holiday, 1944)』と次々と例を引いている。彼らの記述は、ミゼンセーヌ mise-en-scène を中心に映画の特徴を列挙していくことに終始していて、特に《フィルム・ノワール》を概念として定義しようという意図は感じられない。アラン・シルヴァーはハイアム&グリーンバーグのこの文章について「この印象主義的(impressionistic)な文章には、定義として使えるものは何もない」と述べている[3]。むしろ、多くの作品に見られる印象的な見せ場や象徴に満ちたアイコンを語って、そこから浮かび上がる共通したトーンを、読者に感じてもらおうというのが狙いなのかもしれない。ハイアム&グリーンバーグの“Black Cinema”は、フィルム・ノワール論というよりも、紹介文といったほうがよいだろう。

レイモンド・ダーグナット(1970)

レイモンド・ダーグナットがイギリスの映画誌 “Cinema” に寄稿した 「黒く塗りつぶせ:フィルム・ノワールの系統図」“Paint It Black: The Family Tree of Film Noir” は、英語圏で初めてフィルム・ノワールを本格的に分析しようと試みた、重要な論考である[[4]][5]。ダーグナットは、ハイアム&グリーンバーグのような印象論的なアプローチではなく、分析的な視点から、《フィルム・ノワール》が共有する特徴を抽出する作業をおこなった。

ダーグナットは、《フィルム・ノワール》を「モチーフ」または「トーン」だとした。

フィルム・ノワールは、西部劇やギャング映画のようなジャンルではない。モチーフとかトーンといったものによる分類、といった領域に踏み込むことになる。

The Family Tree of Film Noir

そして、11の項目を使って「不完全ながらも」図式を描き出す。その11の項目とは「社会批判としての犯罪」「ギャング」「逃走中」「私立探偵と冒険者」「中流階級の殺人」「肖像とドッペルゲンガー」「性の病理」「サイコパス」「人質と金」「黒人と共産主義者」「ギィニョール、ホラー、ファンタジー」である。ダーグナットは、モチーフというものは異種交配するものだから、どんなフィルム・ノワールもこれらの項目のうち、最低二つは該当するだろうと述べている。そして、それぞれの項目に対して多数の作品名を挙げつつ、彼の議論の基盤を強化しようとしている。

例えば、「逃走中」の項目はこのように説明されている。

ここでは、犯罪者も罪をなしりつけられた無実の者も、本質的に受動的になり、逃げるしかなくなっている。この者たちは、悲劇的に罪を背負っている場合もあれば、まったく卑劣な罪人の場合もあるだろう。いずれにしても、観客は、この者たちに同情し、一方で哀れみ、一体化、後悔 を感じ、もう一方では道徳的に許せず、運命に流される態度にいらだつだろう。

The Family Tree of Film Noir

そして、『暗黒街の弾痕』『ハイ・シエラ』『殺人者』『夜の人々』など10作を例として挙げている。

これらの項目の議論のなかで、ダーグナットは社会的背景についても言及する。例えば「人質と金」の項目では、映画の流行サイクルとして、犯罪者が人質をとる物語が流行する時期があるが、1940年代には、その背景として朝鮮戦争がある、としている。

この(流行の)サイクルは、朝鮮戦争直後、平和時に召集されるというショックをアメリカ人が経験したときに、クライマックスを迎える。

The Family Tree of Film Noir

ダーグナットのこのフィルム・ノワール論は極めて影響力があったようだ。さらに、この発表の4年後に、Film Comment 誌のフィルム・ノワール特集(1974年11/12月号)のトップを飾った「フィルム・ノワールの系統図(The Family Tree of Film Noir)」は、数多くの作品を《分類》して、一目で見てわかりやすいダイアグラムにしたもので、映画ファンやシネフィルにとっては極めて興味深いものだったに違いない[6]

ロバート・ダーグナットによる「フィルム・ノワールの家系図」(Film Comment Archive)

ダーグナットのフィルム・ノワール論は、引用されている映画作品が非常に多い点が目立つのだが、それゆえに議論が「単純(アラン・シルヴァー[7])」だととられる場合が多い。ポール・シュレーダーは、フィルム・ノワールのテーマ分析において、ダーグナットの論に多くの部分を依拠しながらも、《時間》がフィルム・ノワールにおいて果たす役割について見落としている点を指摘している[8]。ロバート・ポーフィリオは、ダーグナットが『キング・コング』や『2001年宇宙の旅』まで含めて300以上の映画名を挙げていながらも、「彼の概念は何も解決しないし、答えよりも疑問のほうが多くなってしまう」と述べている[9]。最も厳しい批判を加えたのは、ジェームズ・ダミコだ。ダーグナットの「1940年代後半のハリウッドのほうが、30年代よりも真っ黒なのは、観客を元気づける必要がないからだ」という記述を引用して、「こういう口から出まかせの、何の裏付けもない、頭のなかが全く整理されていないダーグナット主義」が全体を覆っている、と言い放った[10]

実際、ダーグナットのフィルム・ノワール論は、冒頭から、根拠のない社会分析や文芸論が展開され、かなり面食らってしまう。個々のモチーフの議論も、大部分が映画の題名を挙げることに費やされ、それ以外の分析の部分は首を傾げざるを得ないような、いい加減な話が書かれている。上に引用した、「人質」のモチーフと朝鮮戦争の関係についても、唐突に挿入されるだけで、根拠も何も提示されないし、それ以上詳細に議論されることもない。かなり穿った見方をすれば、映画をたくさん見た人が、あまり調査せずに思い付きで書いた文章という印象をぬぐえない。そのような文章が、物珍しさから注目を浴びた時代だった、ともいえるかもしれない。

ポール・シュレーダー(1972)

Paul Schrader “notes on film noir” (Film Comment Archive)

ポール・シュレーダーが、1972年に Film Comment 誌に寄せた「フィルム・ノワールの覚書」“notes on film noir” は、この時期に書かれたフィルム・ノワール論のなかでも最も重要な論考だ[8]。シュレーダーは、ボルド&ショームトンやダーグナットの論を下敷きにしつつ、フィルム・ノワールに関する議論を整理して、見通しのよいものにした。

まず、彼は、1940~50年代の一連の映画が、なぜ同時代性をもっているのかを、きわめてシンプルに説明する。

最近のアメリカ映画は、再びアメリカの汚れた部分に眼を向けるようになってきた。しかし、『キッスで殺せ』や『明日に別れの接吻を』のような、容赦ないシニカルさに満ちたフィルム・ノワールに比べると、『イージー・ライダー』や『アメリカを斬る』のような新しい自己嫌悪の映画は青臭く、ロマンチックに見えてしまう。現在の政治状況が厳しくなるにつれ、観客も製作者も40年代後半のフィルム・ノワールに魅力を感じるようになってきているのだ。

Paul Schrader

シュレーダーは、70年代の政治的状況、すなわち保守タカ派が冷戦構造をエスカレートさせるなか、ベビーブーマーの世代が左派を形成して世代的な《反抗》を扇動している状況が、シニカルでモラル的に曖昧な40年代の《フィルム・ノワール》を再検証する背景にあると考えている。さらに、彼は《フィルム・ノワール》を取り巻く批評の状況にも言及し、コンセンサスを形成しないまま、個人的な見解が散乱している様子を述べている。

ほとんど批評家一人一人が、自分のフィルム・ノワールの定義を持っており、どんなタイトルの何年製作の映画がそれに該当するかという個人的なリストさえ持っている。フィルム・ノワールは、ジャンルではなく、トーンによって定義されるものだ。だから、ある批評家の定義を、別の批評家の定義と議論するのはほとんど不可能である。

Paul Schrader

この認識を基盤として、シュレーダーは《フィルム・ノワール》についての分析を、背景、スタイル、テーマ、そして時代区分の4つの側面から行っていく。

まず、シュレーダーは、まず《フィルム・ノワール》が生まれてきた背景について4つの条件があったという。戦時中から戦後にかけて人々が感じた幻滅、戦後のリアリズム、ドイツの影響、ハードボイルドの伝統の影響、である。

第二次世界大戦を契機にアメリカ国民が感じた《幻滅 disillusionment》とは、どういうものか。シュレーダーによれば、もともと1930年代後半からすでにハリウッドでは暗い犯罪映画(『暗黒街の弾痕』『彼奴は顔役だ!』)に現れてはじめており、戦争がなければフィルム・ノワールはもっと早くスクリーンを覆っていただろう、という。しかし、第二次世界大戦が勃発し、連合軍側のスクリーンは愛国心を煽るプロパガンダで占められ、実際にその役割を見事に果たす。それがゆえに《フィルム・ノワール》は登場が遅れた。戦争が終わる頃、戦場に赴いていた兵士たち、中小事業主、工場労働者、主婦たちは、幻滅を感じていた。それが堕落した都市を舞台とする犯罪映画、すなわち《フィルム・ノワール》に反映されているという。

戦後のリアリズムとは、ロケーション撮影によってもたらされた、背景としての都市のリアリズムのことを指している。ルイ・ド・ロシュモン、マーク・ヘリンジャーらが製作したロケーション撮影中心の作品(『Gメン対間諜』『出獄』『殺人者』『真昼の暴動』)は、戦争直後のハリウッド映画にリアリズムを持ち込み、それ以前の映画のヴィジュアルを、退屈な時代遅れのものにしてしまったと述べる。

《フィルム・ノワール》とドイツの関係は頻繁に言及されるが、シュレーダーの議論は極めて典型的なものだといってよいだろう。「黒く塗りつぶすとしたら、ドイツ人ほどキアロスクーロに精通した者はいない」と宣言し、フィルム・ノワールの成立に貢献した人々として、フリッツ・ラング、ロバート・シオドマクに始まって、18人の監督、カメラマン、作曲家の名前を挙げている。ドイツ表現主義の作り物的な照明と、戦後リアリズムが見事に溶け合い、一見すると矛盾するスタイルが、統一されたものになった、と論じている。

もちろん、ハードボイルドの伝統は、フィルム・ノワール論には欠かせないポイントだが、シュレーダーは、ダシール・ハメット、レイモンド・チャンドラー、ジェームズ・M・ケイン、ホレーショ・マッコイ、ジョン・オハラなどのハードボイルド作家の名前を挙げつつ、40年代に暗い犯罪映画が流行し始めたとき、「主人公、脇役、プロット、会話、テーマにおけるルール」がすでにハードボイルドでは確立されていたことが重要な役割を果たした、と述べる。《ドイツ表現主義》のように、ハードボイルドは、《フィルム・ノワール》のために作られたような犯罪物語だったのだ、とその必然性を強調した。

次に、シュレーダーは《スタイル Stylistics》という側面から、《フィルム・ノワール》の特徴を7つ挙げている。その特徴とは、「多くの場面は夜の照明」「ドイツ表現主義のように、斜めや縦の線が強調される」「役者とセットに同等の照明が用いられる」「物理的・身体的アクションよりも構図による緊張が好まれる」「フロイド的な水への執着」「ロマン的なナレーション」「複雑な時系列」である。しかし、《フィルム・ノワール》のスタイルについての研究はまだこれからだとして、それぞれのポイントについても、比較的シンプルに論じるにとどまっている。

そして、《フィルム・ノワール》が扱うテーマについては、「ダーグナットの素晴らしい論考があるので、それを繰り返すことはしない」とし、それに加えて《時間》 ───過去と現在への情熱と未来への恐れ─── を重要なテーマとして挙げている。

アラン・シルヴァーは、このシュレーダーのフィルム・ノワール論が「多くのアメリカの読者にとって初めてのフィルム・ノワールの分析」であり、また「スタイルと特徴について論じた初めてのもの」だったと評価している。特に、作家主義的批評との比較において「作家主義批評は監督がいかに異なっているか、に興味があるが、フィルム・ノワール批評はいかに共通点があるかに興味がある」というシュレーダーの考察に注目している[3]。だが、他の同時代のフィルム・ノワール論と比べると遥かに優れているものの、ここでも《印象に基づいた》論の展開が目につくと指摘されている[7]。また、シュレーダーはフィルム・ノワールの展開(時代区分)を3つのフェーズに分けて考えている(1941~46年、1945~49年、1950~50年代中盤)が、これについても異論を示す論者は多い。

シュレーダーのフィルム・ノワール論は、この分野においては古典的な批評であり、様々な欠点はあるものの、1940~50年代のハリウッド映画を見通すうえでは、現在でも読み応えのある分析だろう。フィルム・ノワール批評の歴史のなかでも、統一的なスタイルについて初めて模索しようとしたものとして評価されている。彼は、こののち『ヤクザ(The Yakuza, 1974)』『タクシー・ドライバー(Taxi Driver, 1976)』などの脚本を手がけ、現在も脚本家、監督として活躍している。シュレーダーの多くの作品のテーマやスタイルが、この論考であらわされた精神とどこかで通底しているのは間違いないだろう。

プレイス&ピーターソン(1974)

Film Comment誌は1974年11/12月号でフィルム・ノワールの特集号を組んだが、その年の1/2月号でも重要なフィルム・ノワール論を掲載していた。ジェニー・プレイスとローウェル・ピーターソンによる「フィルム・ノワールのいくつかの視覚的モチーフ」“Some Visual Motifs of Film Noir”である[11]

プレイス&ピーターソンのフィルム・ノワール論は、フィルム・ノワールの視覚的特徴を具体的に作品の映像を引用しながら論じるものである。彼らの論点は2つの点に集約されている。ひとつは「ノワールの撮影スタイル:反伝統的な照明とカメラ」、もうひとつは「ノワールの演出スタイル:反伝統的なミゼンセーヌ」である。

まず、《フィルム・ノワール》の撮影・照明の「反伝統性」として挙げられているのが、1940年代までに確立されていたキーとフィルの光量比が小さい「ハイ・キー」照明法を「伝統的な照明」と位置づけ、それに比べてキーの比率が非常に高い「ロー・キー」照明の使用である。また、焦点深度の深さ、広角レンズによる歪みなどが挙げられている。

プレイス&ピーターソンは、この撮影法を補完するかたちで、フィルム・ノワールに特徴的な演出が認められると述べる。それは「ノワールの主人公が感じる失調」と関連して「観客が不安になり、動揺し、方向感覚が失われるような」ミゼンセーヌの存在である。それは「奇妙でズレた構図」や「スクリーン・サイズ(クローズアップ、ミディアム・ショット、ロング・ショット)の反伝統的な使用法」など、様々なかたちで登場している。またカメラはあまり動かず、フリッツ・ラング、ニコラス・レイ、オットー・プレミンジャーは短いトラッキングショットを使う程度である。

これらのテクニックは、登場人物たちが堅牢な道徳的基盤を持たない世界を、視覚的に顕しているのだと述べる。物語が混乱と不条理に踏み込んでいくとき、これらの視覚的なスタイルが機能するのだと結論付けている。

プレイス&ピーターソンの分析の最大の特徴は、映画のフレームを実際に掲載して、そのシーンの照明法や構図を論じている点である。印象論が主体だったそれまでのフィルム・ノワール論から一歩進んで、個々の映画のスタイルが具体的に論じられた初めての例と言ってよいだろう。

プレイス&ピーターソン “Some Visual Motifs of Film Noir” (Film Comment Archive)

ちなみに、このFilm Comment誌の同号には、ポール・シュレーダーによる日本のヤクザ映画の包括的な分析が、相当のページ数を割いて掲載されており、それまでレーダーにかかっていなかった映画を批評が取り上げるようになった時期であることがわかる。

References

[1]^ R. Borde, E. Chaumeton, and M. Duhamel, "Panorama du film noir américain: 1941-1953." (Paris): Les Éditions de Minuit, 1955.

[2]^ C. Higham and J. Greenberg, "Black Film," in Hollywood in the Forties, 1st edition., London: A S Barnes & Co, 1968.

[3]^ A. Silver, "Introduction," in Film Noir Reader, 1st edition., A. Silver and J. Ursini, Eds. New York: Limelight, 1996.

[4]^ R. Durgnat, "Paint it Black: The Family Tree of Film Noir," Cinema, no. 6/7, Aug. 1970.

[5]^ R. Durgnat, "Paint it Black: The Family Tree of Film Noir," in Film Noir Reader, A. Silver and J. Ursini, Eds. Limelight Editions, 1996. Available: https://books.google.com?id=QHe_SWJmzhMC

[6]^ R. Durgnat, "The Family Tree of Film Noir," Film Comment, vol. 10, no. 6, pp. 6–7, 1974, Available: https://www.jstor.org/stable/43451264

[7]^ A. Silver and E. Ward, Eds., "Film Noir: An Encyclopedic Reference to the American Style." Woodstock, N.Y. : Overlook Press, 1992.

[8]^ P. Schrader, "Notes on film noir," Film Comment, vol. 8, no. 1, pp. 8–13, 1972, Available: https://www.jstor.org/stable/43752885

[9]^ R. G. Porfirio, "No Way Out-Existential Motifs in the Film Noir," Sight and Sound, vol. 45, no. 4, pp. 212–217, 1976.

[10]^ J. Damico, "Film Noir-Modest Proposal," Film Reader, no. 3, pp. 48–57, 1978.

[11]^ J. A. Place and L. S. Peterson, "Some Visual Motifs of Film Noir," Film Comment, vol. 10, no. 1, p. 30, 1974.