フィルム・ノワール批評の広がり

1970年代後半から、一気に多くの映画批評家がフィルム・ノワールについて活発に語るようになる。「実存主義」というキーワードからフィルム・ノワールを読み解こうとする試み(ロバート・G・ポーフィリオ[1])、フィルム・ノワールをジャンルとして再定義しようとする論考(ジェームズ・ダミコ[2])といったものは、それまでの批評の延長と見てよいだろう。ジャック・シャドイアンの“Dreams and Dead Ends: the American Gangster/Crime Film (1977)”は、ハリウッドの犯罪映画史を展望する力作だが、フィルム・ノワールはあくまでギャング・犯罪映画ジャンル史のなかに登場する分類として位置付けられた。一方で、当時登場し始めた新しい映画批評の潮流と合流するように、新しいパースペクティブから論じられたものもある。映画の産業史的見地から、いわゆる《B級映画》とフィルム・ノワールの関係について見通す批評・研究(マッカーシー&フリン[3]、ポール・カー[4])、同時期に隆興しはじめたジェンダー映画批評(リチャード・ダイアー[5]、E・アン・キャプラン[6]等)などが挙げられる。

『恐怖のまわり道(Detour, 1945)』
監督:エドガー・G・ウルマー
撮影:ベンジャミン・H・クライン

ロバート・ポーフィリオが1979年にイェール大学の博士論文としてまとめた“The Dark Age of American Film: A Study of American Film Noir 1940 - 1960”は、全2巻、600ページに及ぶ大著だ[7]。このなかでポーフィリオは、フィルム・ノワールが成立する背景、テーマ、スタイル演出の上でのルーツ(ニューヨークの前衛演劇の影響も挙げられている)、物語の構造、視覚的特徴などを詳細にわたって分析している。また、「ジャンルか否か」の問題にも触れ、ジャンルというよりはドイツ表現主義のような《運動 Movement》という位置づけを与えた。このフィルム・ノワール論は、極めて詳細に社会的、経済的背景を論じてフィルム・ノワールの発生を追っており、それまでの印象論的な分析に比べるとはるかに実のある内容のものとなっている。しかし、博士論文という性格のためか、その後のフィルム・ノワールの議論に与えた影響は限定的だった。

E・アン・キャプラン編の“Women in Film Noir”は、その後も改訂を重ねて、フィルム・ノワールにおけるフェミニズム批評の中心的役割を果たした書である[6]。「フィルム・ノワールは、私たちの芸術の大部分がそうであるように、男のファンタジーだ」とジェニー・プレイスが宣言するように、ここでは女性という《セクシャリティ》が、フィルム・ノワールという物語のなかに、映像のなかに、いかに埋め込まれてきたかを分析している。なかでも、クリスティン・グレディルが『コールガール(Klute, 1971)』を中心にすえて、1940年代のフィルム・ノワールにみられる《女性のセクシャリティの制御》がいかに1970年代の一見フェミニスト的にみえる作品の中に棲息しているかを暴き出しているのは、当時のフェミニズム(映画)批評の意識が、男性支配的構造が歴史的背景を持ちつつも継続している状況を見つめることにある点を明確に表している。また、リチャード・ダイアーは『ギルダ』などにみられる、ホモセクシャリティとヘテロセクシャリティの複雑な構造を読み解く分析を通して、《クィア》が立ち現れる場としてのフィルム・ノワールを論じた。“Women in Film Noir”は、いまだに男性批評家に支配されがちな映画批評、特に犯罪映画批評の場において、常に立ち戻るべき位置を示している重要な批評論集である。

“Women in Film Noir” 2019年版(Internet Archive

1970年代最後に、アラン・シルヴァーとエリザベス・ワードが編集した“Film noir : An Encyclopedic Reference to the American Style”が出版された[8]。これは、まさしく百科事典的に《フィルム・ノワール》に関するそれまでの議論と作品批評を総括したものである。この本も再版と改訂を重ねている。アラン・シルヴァーは、フィルム・ノワールに関する著作が最も多い映画批評家のひとりで、この“Encyclopedic Reference”ののちも、包括的な資料集や著作を発刊し続けている。

“Film noir : An Encyclopedic Reference to the American Style (1979)”(Internet Archive

デヴィッド・ボードウェル(1985以降)

デヴィッド・ボードウェルは、ジャネット・スタイガー、クリスティン・トンプソンとの共著、“The Classical Hollywood Cinema: Film Style and Mode of Production to 1960”のなかで《フィルム・ノワール》について言及した[9]。“The Classical Hollywood Cinema”は、黎明期から1960年までのハリウッド映画を、産業、技術、興行といった面を通して、その形式やスタイルを俯瞰した書籍であり、このなかで当時、人気を集め始めていた《フィルム・ノワール》について論じるのは当然の成り行きだっただろう。ボードウェルは、《フィルム・ノワール》とは《事後的に ex post facto》構築されたカテゴリーであるにも関わらず、批評家たちがその成り立ちを忘れて《フィルム・ノワール》という語を使って議論していると述べた。 

フィルム・ノワールとは何か?ジャンルではない。ジャンルなら、プロデューサーや観客のいずれも、はっきりと認識できるはずだからだ。人々は意識的に選択して、西部劇、コメディ、あるいはミュージカルを製作するだろうが、そういう意味合いで、フィルム・ノワールを作るぞ、見るぞといって作ったり見たりする人はいない。では、フィルム・ノワールはスタイルなのか?批評家たちは、ノワール独特の視覚的技法を定義することもできないし(例えば『ローラ殺人事件(1944)』と『黒い罠(1957)』の両方ともを含むことのできる技法)、物語構造を定義することもできない(刑事・探偵もの、メロドラマ、そして『秘密指令(1949)』のような歴史ものを含むことができるもの)。

The Classical Hollywood Cinema

また、《フィルム・ノワール》を取り巻く批評の状況を、美術史における《新古典主義》の位置づけになぞらえている。メインストリームからの差異として生まれた《フィルム・ノワール》という概念は、ジャンルやスタイルを定義するようなものとして機能せず、アメリカ映画の中に「主流の価値観に対する挑戦」を見つけ出すものとして機能した。主流の価値観に《従わないこと nonconformity》とは具体的には何を指すのだろうか。ボードウェルは、一般的には①心理の因果律への挑戦、②ヘテロセクシャルな恋愛を重んじることへの挑戦、③ハッピーエンドへの挑戦、④古典的技法の批判、の4点が、その挑戦だと考えられているとした。

これらを踏まえたうえで、フィルム・ノワールが挑戦したとされているものは実は先例がある、と指摘した。①、②、③で挙げられているような点はすでに、アメリカの犯罪小説が1930年代に取り組んでいたことであり、視覚的なスタイル(ローキー照明、ロケーション撮影等)はハリウッドにおいて常にテクニックとして広範に行われてきていた、と論じている。すなわち、《フィルム・ノワール》として独立した概念を称揚する動きを牽制したのである。

この批評は、多くの映画批評家を刺激した。典型的なのは、アラン・シルヴァーだろう[10]。《フィルム・ノワール》が事後的に与えらえた名前であり、これらの映画が公開された当時は、誰もそのような意識をもって見ていなかった、という指摘に対して、「『三階の見知らぬ男』を、世界初のフィルム・ノワールを見に行こうぜ、と言って見に行った者なんかいない、そりゃあそうだろう。だからどうした」と述べ、「ボードウェルはジョン・オルトンの撮影法の本を読んだことがないのか」と罵倒している。J・P・トレッテもことあるごとにボードウェルの論を引き合いに出して、いかに詳細な検討が足りないかを宣言してから、自らの論を展開している[11][12]

“The Classical Hollywood Cinema: Film Style and Mode of Production to 1960 (1985)”(Internet Archive

その後も、ボードウェルはこのスタンスを基本的には崩していない[13][14]。《フィルム・ノワール》というカテゴリが《事後的 ex post facto》であることは繰り返し指摘しているし、美術史との比較(西洋美術史における《バロック》《ゴシック》と同じように後世になって名付けられたカテゴリであるという指摘)も常におこなっている。だが、“The Classical Hollywood Cinema”のやや否定的な姿勢はなりをひそめ、フィルム・ノワールという観点が非生産的だとは思わない、ただ、(自分は)《フィルム・ノワール》と呼んでしまうと、すり抜けてしまうような、そういうものを拾い上げていきたいのだ、と述べている[15]

彼の主張が“The Classical Hollywood Cinema”という大著のなかでされたということはいま一度強調しておきたい。彼の《フィルム・ノワール》に関する議論は、あくまでハリウッドの映画史、特に産業と技術の発展の文脈のなかで取り上げられているのである。この骨格があるからこそ、モチーフやスタイルについての微視的な答え合わせではなく、より発展的な論議(ディスコース)の土台になりうるのである。

マーク・ヴェルネ

この骨格を理解していないと、どのように中途半端な議論になるか。その好例がマーク・ヴェルネの“Film Noir on the Edge of Doom”と題された論考である[16]。彼はこの論考のなかでボードウェルとほぼ同じ主張をしている。センセーショナルな書き出しで、《フィルム・ノワール》とは「アメリカが作り、フランスが発明したものだ」と述べ、ある時期のフランス人にのみ意味があるものだったと断じる。そして、次のように締めくくる。

映画の対象、あるいは総体としては、フィルム・ノワールは映画史に属していない。それは映画批評の歴史におけるある種の考え、あるいは、たとえその製作が二流であってもアメリカ映画を愛している者たちが愛したくて、そのイメージを愛する者たちの歴史に属しているのだ。

Film Noir on the Edge of Doom

つまり、フィルム・ノワールとは、映画史に登場するある種の運動でもなければ、ジャンルでもない。それは(フランス)批評が作り出したもので、本のなかだけにしか存在していないものだ、という。

これだけであれば、極めて俗物的なレトリックにあふれていることに目をつぶれば、特に奇怪な論考ではないのだが、問題なのは、映画史の具体的な議論の部分である。ヴェルネは、キアロスクーロやローキーの視覚的スタイルが1940年代以前にもハリウッドに存在していたと主張する際に『命を売る男(The Big Gamble, 1931)』『二秒間(Two Seconds, 1932)』『私立探偵62(Private Detetive 62, 1932)』といった作品のフレームを掲載して、フィルム・ノワール登場の10年以上前に、こんなキアロスクーロのシーンがあった、と例示していく。これは、映画史に関する議論でもなければ、視覚的スタイルの系譜についての考察でもない。なぜ(・・)そのような視覚的スタイル(キアロスクーロ)が訴求され、どうやって(・・・・・)それが達成できたのか、という映画産業の動機と知的、物的資本の流動と蓄積について思い至ることなく、自分が映画史的先例だとみなしたものを論拠に使ったに過ぎない。さらに、当時アクセスしにくい映画のみ(・・)を取り上げて自らの説の補強に使うあたりなど、質の悪いスノビズムが全体に染み込んでいるのを感じる文章である。

《フィルム・ノワール》の議論は、映画史の包括的な追跡が前提としてある。この数年、メキシコやアルゼンチンの《フィルム・ノワール》を発見する動きがあるが、これらに関する批評も横断的なスタイルやモチーフの類似性だけにとらわれることなく、技術や産業の歴史的側面を把握していくことは非常に重要だろうと思われる。

アラン・シルヴァー、ジェームズ・ナレモア、マイケル・ウォーカーほか

1990年代に入ると、フィルム・ノワールを取り巻く環境は一変し、批評のフェーズも大きく変わった。世界中の映画祭でリヴァイヴァル、特集、レトロスペクティヴといったかたちで、それまで知られていなかった作品や、知られていても見る機会のほとんどなかった作品が上映されるようになった。また、ハリウッドのスタジオライブラリからメジャーな作品がVHSで販売・レンタルされ、ファンベースをさらに広げていった。アメリカではTCMなどのケーブルチャンネルがクラッシック映画を24時間放映するようになり、《フィルム・ノワール》はそのなかでも特に人気のあるプログラムになった。

これと並行して、批評も大衆化していく。イアン・キャメロンが編集した“The Book of Film Noir (1992)”、ジョアン・コプチェク編集の“Shades of Noir (1993)”、アラン・シルヴァー&ジェームズ・ウルシーニ編集の“Film Noir Reader (1997)”、“The Noir Style (1999)”、ジェームズ・ナレモアの“More Than Night: Film Noir in its Contexts (1998)”、ニコラス・クリストファーの“Somewher in the Night: Film Noir and the American City (1997)”、エディ・ミュラーの“Dark City: Lost World of Film Noir (1998)”などの書籍が次々と出版された。このなかでも、“The Book of Film Noir”に収められた、マイケル・ウォーカーの“Introduction”はフィルム・ノワールについてそれまで試みられてきた議論を作家主義的な視点を交えて総括するもので、入門的な読み物としては最適であろう。

こうして、フィルム・ノワールを巡る言説は、ボードウェルの指摘を別の次元に持ち越し、「フィルム・ノワールの存在」を所与のものとして、より多くのファンを作り出すために繰り広げられていく。

References

[1]^ R. G. Porfirio, "No Way Out-Existential Motifs in the Film Noir," Sight and Sound, vol. 45, no. 4, pp. 212–217, 1976.

[2]^ J. Damico, "Film Noir-Modest Proposal," Film Reader, no. 3, pp. 48–57, 1978.

[3]^ T. McCarthy and C. Flynn, Eds., "Kings of the Bs: Working Within the Hollywood System: An Anthology of Film History and Criticism." E. P. Dutton, 1975.

[4]^ P. Kerr, "Out of What Past? Notes on the B Film Noir," Screen Education, no. 32/33, Autmn/Winter 1979-1980.

[5]^ R. Dyer, "Homosexuality and Film Noir," Jump Cut, vol. 16, no. 1, pp. 18–21, 1977.

[6]^ E. A. Kaplan, Ed., "Women in Film Noir." British Film Institute, 1978.

[7]^ R. Porfirio, "The Dark Age of American Film: A Study of American Film Noir (1940-1960)," Yale University., 1981.

[8]^ A. Silver and E. Ward, Eds., "Film Noir: An Encyclopedic Reference to the American Style." Woodstock, N.Y. : Overlook Press, 1992.

[9]^ D. Bordwell, J. Staiger, and K. Thompson, "The Classical Hollywood Cinema: Film Style and Mode of Production to 1960." Routledge, 2003.

[10]^ A. Silver, "Introduction," in Film Noir Reader, 1st edition., A. Silver and J. Ursini, Eds. New York: Limelight, 1996.

[11]^ J. Telotte, "The Displaced Voice of" In a Lonely Place"," South Atlantic Review, vol. 54, no. 1, pp. 1–12, 1989.

[12]^ J. Telotte, "The Big Clock of" Film Noir"," Film Criticism, vol. 14, no. 2, pp. 1–11, 1990.

[13]^ D. Bordwell, "Murder Culture: Adventures in 1940s Suspense," Mar. 2013. http://www.davidbordwell.net/essays/murder.php

[14]^ D. Bordwell, "MONSIEUR VERDOUX: Lethal Lothario," Jul. 28, 2017. http://www.davidbordwell.net/blog/2017/07/28/monsieur-verdoux-lethal-lothario/

[15]^ D. Bordwell, "REINVENTING HOLLYWOOD in paperback: Much ado about noir things," Mar. 24, 2019. http://www.davidbordwell.net/blog/2019/03/24/reinventing-hollywood-in-paperback-much-ado-about-noir-things/

[16]^ M. Vernet, "Film Noir on the Edge of Doom," in Shades of Noir: A Reader, J. Copjec, Ed. Verso, 1993.