フィルム・ノワールはフランス語だ
《フィルム・ノワール film noir》という言葉の語源に、ことさら深い意味があるのかどうか、正直なところわからない。だが、フランス映画批評を起源とするこの名詞は、様々な意味を持たされて時代を通過してきた。そして、これからもその意味を変えていくのではないだろうか。
この語の起源がフランスにあるという点が長いあいだ注目されていたのは、1946年から20年以上のあいだ、当のアメリカ人たちが《フィルム・ノワール》なるものを全く認知していなかった、という文化のあやのようなものを象徴しているからだろう。特にハリウッド映画という、本国では非耐久消費財とみなされていたものが、シリアスな批評に値する可能性を具体化してみせたのが《フィルム・ノワール》だった。
この言葉のその怪しげな出自と、その出自がその後の批評に与えたインパクトを見てみたい。
『デデという娼婦(Dédée d’Anvers, 1948)』 監督:イヴ・アレグレ 撮影:アンリ・アルカン |
ニーノ・フランク(1946)
最初に《フィルム・ノワール》という言葉を使ったのは、フランスの映画批評家、ニーノ・フランク(Nino Frank, 1904 - 1988)だというのは、うんざりするほど、いろんなところで書かれている。問題の文章は、ニーノ・フランクが、レクラン・フランセ誌の1946年8月28日号に寄せた”Un nouveau genre ‘policier:’ L’aventure criminelle”という写真入りの記事である[1]。しかし、この文章を実際に目を通したことのある批評家はどのくらいいるのか、いぶかしく思う。この記事でニーノ・フランクが実際に挙げた映画の題名を正確に引用している者が少ないからだ。確かに第二次世界大戦直後のフランスの雑誌に掲載された文章だから、簡単に近所の図書館で読めるものではないかもしれない。だが、探せばこの記事にアクセスすることはできる。英訳は、1999年に出版されたアラン・シルヴァー&ジェームズ・ウルシーニの“Film Noir Reader 2”に掲載されているし[2]、最近ではネット上にフランス語原文が全文掲載されてもいる。そして、この記事を実際に読むと受ける印象も変わる。
これらの「黒い」映画 films « noirs » は、従来の刑事ドラマとは、もはや何ら共通点を持たないのである
Nino Frank
ニーノ・フランクによれば、1946年の夏、パリのスクリーンに、数年ぶりでハリウッド映画が現れた。『市民ケーン』『偽りの花園』『我が谷は緑なりき』などは傑作だったが、『マルタの鷹』『ローラ殺人事件』『ブロンドの殺人者』『深夜の告白』は見る者を戸惑わせたという。
ニーノ・フランクは1930年代に著作活動をはじめた批評家で、アンドレ・マルローらと深い交流を持っていた。彼のエッセイを掲載したレクラン・フランセ誌は、1943年に発刊された映画雑誌で、アンドレ・バザン、ジャック・ブルニアス、アレクサンドル・アストリュック、ジャン=ジョルジュ・オリオールらが寄稿していた。フランクは主にハリウッド映画の批評、エッセイを担当していたという。戦前からのハリウッド映画に親しんでいた彼にとって、これらの映画は驚きだったのだ。黒い映画 films « noirs »は、その驚きを表す言葉だった。
長いあいだアメリカと行き来がなく、戦争中のハリウッドの製作状況についてはほとんどなにも知らず、ワイラー、フォード、キャプラの記憶にとらわれているフランスの映画批評家たちは、この突然現れた啓示的作品群とどう向き合ってよいのかわからなかった。
Panorama du Film Noir Americain[3]
1946年の7月から8月にかけて、上記4作に加えて『飾窓の女』がパリのスクリーンにやってきていた。これらの作品にフランスの映画ファン、映画批評家たちは、ハリウッドの新しい潮流を見ていた。フランクは、アメリカのミステリ小説、探偵小説の展開にパラレルを見ながら、「S・S・ヴァン・ダインがダシール・ハメットに取って代わられたように」従来の「パイプをくゆらせながら推理をおこなう思考機械」ではなく、「完全なアウトロー」がこれらの映画に登場してきたと述べる。もはや「誰が犯罪を犯したか」が問題ではなく、このアウトローの主人公が「いかに振る舞うか」が物語の中心に位置している。
だが、ニーノ・フランクの記事には《noir》の語は一度しか登場してない。どういうものを指すのか、なぜ《noir》なのかという説明は特になく、ただ“Ainsi ces films « noirs » n’ont-ils plus rien de commun avec les bandes policières du type habituel”、すなわち、いままでの探偵映画、推理映画とは違うということを述べているだけである。果たして、《フィルム・ノワール》という言葉を世に問うたのはニーノ・フランクが最初だといえるのか。
ジャン=ピエール・シャルティエ(1946)
ニーノ・フランクと同じように衝撃を受けたフランスの映画人にジャン=ピエール・シャルティエ(Jean-Pierre Chartier)がいる。彼はラ・ルヴュ・デュ・シネマ誌の11月号に“Les Américains aussi font des films noirs”(アメリカ人もまた黒い映画を作る)と題する記事を寄せた[4]。このタイトルを読んで「ハリウッドがフランスを真似て黒い映画を作った」と考える人たちがいるが、実際に読んでみると、フランスにかつて存在していたと議論されているものと、アメリカから渡ってきたものとでは、決定的に違うのだ、という主張で締めくくられている。
フランスにもフィルム・ノワールの一派があったという議論はあるが、『霧の波止場(Le Quai des Burmes, 1938)』や『北ホテル(L’Hotel du Nord, 1938)』には、暗黒面への墜落に抵抗する僅かな光がある。これらの映画では、より良い世界の蜃気楼、この社会をもう一度見直して希望の扉を開こうとしている。登場人物たちは絶望しているかもしれないが、私達は彼ら、彼女らに悲哀を感じ、同情を寄せている。だが、いま私達の目の前にあるこれらの映画にはそんなものはない。ここに登場するのは、贖罪のそぶりもなく、自らのなかにある悪にとらえられていく怪物、犯罪者、サイコパスたちである。
Jean-Pierre Chartier
ジャン=ピエール・アシュケナージによれば、当時のラ・ルヴュ・デュ・シネマ誌は、アンチ・ハリウッドの文章を掲載することも多かったという[5]。敬虔なカトリックであるジャン=ピエール・シャルティエの立場は、基本的に「ヘイズ・コード(プロダクション・コード)」に近く、突然現れた陰気で不道徳なハリウッド映画、プロダクション・コードを骨抜きにした映画に戸惑っているのがよくわかる。彼はこれらの映画に登場する男女に何の魅力も感じていないようだ。
ピエール・ラローシュ、デニス・マリオン、ジョルジュ・サドゥール
ニーノ・フランクやジャン=ピエール・シャルティエと同様、戦後のパリのスクリーンに登場したハリウッド映画に衝撃を受けた他の批評家としてピエール・ラローシュとデニス・マリオンの批評を見てみたい。
ピエール・ラローシュはパリ=シネマ誌に“Assurance sur la mort: Le crime vient a la fin; le faucon maltais”という記事を寄せている[6]。そのなかで彼は『深夜の告白』『ブロンドの殺人者』『ローラ殺人事件』『マルタの鷹』『偽りの花園』に共通する女性像に驚愕し、アメリカの検閲制度はどうなったのかと訝しんでいる。そして、今のフランスではこんな作品を作り出すのは無理だろうと挑戦的に述べてもいる。特に『深夜の告白』の脚本と演出を高く評価して「見事なロジックと素晴らしいスキルで語られる完全犯罪の物語」だと呼んだ。一方で、「サーシャ・ギトリの『とらんぷ譚』で使用された技法だが」と前置きしたうえで、『深夜の告白』『ローラ殺人事件』『我が谷は緑なりき』『ブロンドの殺人者』でハリウッドがヴォイスオーヴァーの手法を使い始めたことを指摘している。また、ラローシュはフラン=ティレール誌にも『深夜の告白』『ブロンドの殺人者』『マルタの鷹』の映画評を寄稿している[7], [8], [9]。
デニス・マリオンはフランス=イラストレーション誌に“Films Policiers”という題の批評を寄稿した[10]。『深夜の告白』『ローラ殺人事件』『ブロンドの殺人者』『マルタの鷹』の4作品について犯罪小説との関係から分析している。マリオンは、『マルタの鷹』をのぞく3作品は、ヴォイスオーヴァーを使って映像とナレーションを重ね、原作の語りを借りながらも、サイレント映画の頃のように「会話から解き放たれた映像」を達成していると述べている。
この4本に衝撃を受けたのは、批評家だけではない。映画雑誌に寄せられる読者投稿にさえ『深夜の告白』から受けた衝撃があふれている[11]。
ここで強調しておきたいのは、ラローシュもマリオンも《フィルム・ノワール》という言葉を使っていないという点だ。だが、彼らもこれらの作品の《異質さ》に気づいている。テーマの異質さだけでなく、映像技術の側面(例:ヴォイスオーヴァー)にも言及している。
一方で1946年の同時期に『深夜の告白』の評のなかで《フィルム・ノワール》という言葉を使ったにもかかわらず、後世の批評家たちにはほとんど無視されてしまったケースもある。ジョルジュ・サドゥールはレットル・フランセーズ紙に“Grande Saison de Noir”というタイトルで『深夜の告白』について批評を書いているが[12]、映画そのものは高く評価するものの、そのテーマ自体は古臭いと述べ、こういったペシミスティックな映画は一種の流行に過ぎないという。そして、アンリ・ドコワン監督の『弾痕(La Fille du Diable, 1946)』のことを《フィルム・ノワール film noir》と呼び、ジャン・グレミヨン監督の『この空は君のもの(Tandis que Le Ciel est à vous, 1944)』を《フィルム・ロゼ film rose》と呼んで、《フィルム・ノワール》が《フィルム・ロゼ》よりも必ずしも優れているわけではないと断じる。
キャプラの微笑みはスタンバーグの暗さよりも価値がないのか?グリフィスの美徳はシュトロハイムの不道徳より低いのか?ペシミストのカルネとオプティミストのルネ・クレールは?
Georges Sadoul
《フィルム・ノワール》という言葉が指すもの
戦後の混沌のなか、フランスの映画批評家たちがハリウッド映画に対して使った《フィルム・ノワール》という言葉は、明確な定義を欠くものの、毒気を帯びた非道徳的な男女が紡ぎ出す、暴力的で、ペシミスティックな物語の映画を指している。ただ、批評家たちは《フィルム・ノワール》という言葉をまるで既存のボキャブラリのように扱っている。つまり、1946年の夏にパリに現れた『マルタの鷹』『ローラ殺人事件』『ブロンドの殺人者』『深夜の告白』『飾窓の女』というハリウッド映画以前にすでに、その言葉が存在していたかのごとく使っている。
そして、そのとおり、《フィルム・ノワール》の起源について読みすすめていると、1930年代にすでにフランスで《フィルム・ノワール》という言葉が使われていたという話になる。『ピューリタン(Le Puritain, 1938)』の批評で使用されたのが最も古い例だとか[13]、「郵便配達は2度ベルを鳴らす」を原作とした『最後の曲がり角(Le Dernier tournant, 1939)』の映画評で「また《フィルム・ノワール》だ」と言われたとか[14]、『太陽のない街(Quartier sans Soleil, 1939)』は堂々と《フィルム・ノワール》と宣言されているとか[15]、あるいはクリスチャン=ジャック監督の『L’Enfer des anges (1941)』が《フィルム・ノワール》と呼ばれていたとか[16]、そのような例を引いて、戦前から戦時中のフランスにおける《フィルム・ノワール》の歴史 ───たいてい『望郷(Pépé le Moko, 1937)』『霧の波止場(Quai des Brumes, 1938)』『北ホテル(Hôtel du Nord, 1938)』をその証拠として挙げている─── が議論される。このあたりの議論は、中村秀之の著作が詳しく論じている[17]。これらの1930年代末フランスの《フィルム・ノワール》は、どれも破滅する男の悲劇の物語だが、愛する女のために人を殺め、命を落とす、といった定式に沿っている。ジャン=ピエール・シャルティエが指摘するように、戦後のアメリカ映画の頽廃 ───愛するふりをして人を騙し、あるいは人を支配し、金のために人を殺し、その犯人を突き止めるために脅し、嘘をつき、殴り、脅迫する─── とは似ても似つかぬ性格のものだといえよう。
だが、《フィルム・ノワール》の先例はそこでとどまらない。さらに遡って文献を漁ると、《黒い映画》は『望郷』以前から存在していたようである。そして「誰が最初に《フィルム・ノワール》という言葉を使ったか」「この映画が《フィルム・ノワール》と呼ばれていた」といった観点の議論は、慎重になる必要があるのではないかという印象が強くなる。例えば、「また《フィルム・ノワール》だ」と言われたのは、実は『最後の曲がり角』が最初ではない。1935年に『流血船エルシノア(Les mutinés de l’Elseneur, 1936)』も「また《フィルム・ノワール》だ」と言われている[18]。1935年以前にも《フィルム・ノワール》がうんざりするほど語られていたらしい。サドゥールが《フィルム・ノワール》と《フィルム・ロゼ》と色違いで評していたが、オルガ・プレオブラジェンスカ監督の『リャザンの女(Бабы рязанские, 1927)』が“film blanc(白い映画)”、ドストエフスキーは“film gris(灰色の映画)”、そして『嵐(Гроза, 1933)』は“film noir(黒い映画)”だという論評もある[19]、キング・ヴィダー監督、全キャスト黒人の『ハレルヤ(Hallelujah!, 1929)』は《フィルム・ノワール》と呼ばれていた[20], [21], [22]といった例もある。
これらの例を無関係だと断じてしまうのは容易いだろうが、だからこそ、どこで、どんなきっかけで、物語の内容や視覚的スタイル、モチーフに共通性を見出すようになったのかという批評行為の変化点を見極めるのは重要なのではないだろうか。1930年代の末に『望郷』『霧の波止場』『北ホテル』といった作品を《フィルム・ノワール》と呼ぶ習わしが始まったのかもしれないが、それを映画批評の言葉の語源学として見渡すためには、さらなる研究が必要とされるだろう。
La Dépêche紙(1939年7月15日) マルセル・カルネ監督の『陽は昇る(Le jour se lève, 1939)』評が掲載されている。 「 film « noir »の流れをくむ作品、ゾラの時代であれば《自然主義》と呼ばれていたであろう」という表現が登場する[link]。 |
映画批評の政治性
話を第二次世界大戦後のフランス映画批評に戻そう。
戦争直後の政治思想混乱期のフランス映画批評を拾い読みしていて痛烈に感じるのは、第二次世界大戦中のレジスタンス運動が軸となって生まれてきた、共産主義から保守派までのあらゆる政治的ポジションが、映画批評のなかでさえ(あるいは、映画批評だからこそ)覇権を争って顕在化してくるさまである。前述のレクラン・フランセ誌は、戦時中にレジスタンス運動のなかから生まれてきた映画批評誌である。レミー・ルル Remy Roure らが活躍するコンコルド紙、レジスタンス運動を起源とする左翼系のジャーナルのフラン=ティレール紙、共産党の強い影響下にあるレットル・フランセーズ紙、といった共産党系、左翼系の政治機関紙が群雄割拠するなか、映画批評も極めて政治的色彩を帯びていた時期である。その政治的論争の触媒となったのが、戦時中のヴィシー政権の協力者問題と、ブルーム=バーンズ協定である。共産党はヴィシー政権下で映画製作をしていた映画人たちを追放することを目論んでいたが、解放直後に政府は追放にブレーキをかける。これは戦後の映画批評の政治的分断を一層深刻なものにした。一方でブルーム=バーンズ協定によって、フランスの借款を軽減するためにアメリカからの輸入、特に映画の輸入が大幅に緩和された。1946年5月のことである。共産党から保守反動まで、大量のアメリカ映画の流入はフランス映画界に脅威を与えるものとみなしていた。
このような背景で繰り広げられる批評の政治性が如実に現れたのが『市民ケーン(Citizen Kane, 1941)』をめぐる論争だ。戦争によってフランス国内での公開が遅れていたこの作品は、パリの映画ファンのあいだですでに注目されていた。きっかけは、前年1945年8月にジャン=ポール・サルトルが、エクラン・フランセ誌に寄せた極めて辛辣な批評である。アメリカで『市民ケーン』を見たサルトルは、素晴らしい技巧は認めるものの、映画として価値があるものなのかと疑問をなげかける。これは所詮インテリの作品、知的遊戯にすぎないのではないかと批判した[23]。1946年7月にパリのマルブフ劇場で『市民ケーン』が公開され、左翼、特に共産党と深い関わりのある批評家たちはこぞってこき下ろした。共産主義者であるジョルジュ・サドゥールは技巧も認めず「時代遅れのテクニックの百科事典」と罵倒した。ジャン・ロメ Jean Romais はコンコルド紙に「『市民ケーン』は、陰気な映画 film sombre、暗黒映画 film noir、実存主義映画 film existentialiste と呼ばれているが、本当にそうなのか」と書いている[24]。ロメの主張も『市民ケーン』の革新性に疑問を呈し、ヨーロッパ、とくにフランスの文化的優位性を暗に誇示するものである。『深夜の告白』に対して驚きを示していたピエール・ラローシュは『市民ケーン』については「ビキニ環礁の実験を見たソビエトのように『だから何?』という反応になってしまうよね[25]」と嘲笑気味に書いている。こういった流れに真っ向から反対したのがアンドレ・バザンである。彼は、ディープ・フォーカスがもたらすリアリズムの達成を「現実を均質なもの、スクリーンのあらゆる部分において不可分な、等しい密度を持つ」ものとして、新しい映画の時代を宣言した。サルトルとバザンのあいだで繰り広げられた『市民ケーン』論争については、野崎歓の「映画を信じた男───アンドレ・バザン論」に詳しい[26]。
この『市民ケーン』論争については、バザンの映画的言語をめぐる理論と、その革命性を認識できなかった左派評論家、という構図で語られることが多い。だが、冷戦突入前の、文化の主導権をめぐる政治的闘争という文脈でみると、この論争の根源はもっと深いところにあり、その後の時代にわたってフランス映画批評に影響を及ぼし続けたことが明らかになってくる。当時のフランスの共産党は、スターリンのソヴィエト連邦をモデルとした文化政策を目指していた。そこではモダニズム芸術は形式主義と呼ばれて非難され、社会主義的リアリズムによる芸術の民主化が推し進められるべきだと主張されていた。形式よりも内容が重視されるのだ。この見地からすれば、スタイルを重視する批評(例えば、アンドレ・バザンによる『市民ケーン』の評価)は反動的だということになる。事実、アンドレ・バザン、そしてカイエ・デュ・シネマ誌の批評家たちは長いあいだ保守的、反動的だと言われていた。そして、モダニズム芸術は国境を超えるユニヴァーサリズム(そしてそれは資本主義と同義だった)が根底にあるが、社会主義的リアリズムは、地域に根ざした芸術、ローカリズムを骨格にする。アメリカ映画の流入は、資本主義が国や民族が育むべきものを食い荒らすさまであり、フランスはそれに対抗して「良質の伝統」のフランス映画を作りべきだ、というのが共産党、そして大半の左派の立場だった。カイエ・デュ・シネマの批評家たちがアメリカ映画を称賛し、そのなかでも最年少だったフランソワ・トリュフォーがフランスの「良質の伝統」を鋭く攻撃したのが、政治的な振る舞いとして《反動的》と見られたのも、こういう背景があった。戦後のフランス共産党と映画批評の関係についてはローラン・マリーの博士論文が非常にわかりやすい[27]。
Le Figaro紙(1946年7月11日) パリの映画上映広告。『キティ・フォイル(Kitty Foyle, 1940)』『自由への戦い(This Land is Mine, 1943)』『偽りの花園(The Little Foxes, 1941)』など、ブルーム=バーンズ協定によって輸入されたハリウッド映画のタイトルが目立つ。 |
その後のフランス批評での《フィルム・ノワール》
さて、1946年の衝撃ののち、この《フィルム・ノワール》という言葉はどう普及したのだろうか。
ハリウッド映画との関わりという流れでは、後世のフィルム・ノワール論のなかで、この時期のフランス批評がいくつか紹介されてきた[28]。レクラン・フランセ誌に掲載されたアンリ=フランソワ・レイの「フォードが自動車を作るようにハリウッドは神話を作る」では、資本主義のプロパガンダとしてのハリウッド映画という視点から論じられ[29]、Positif誌に寄せられたピエール・カストの批評は映画における悲観主義とは何かを軸にハリウッド映画を論じていた[30]。どれも、アメリカにおける《フィルム・ノワール》という作品群を意識的に論じたものではなく、議論の領域が近く、重なりが見られるという程度のものだ。
ハリウッド映画を《フィルム・ノワール》として批評する活動はモーメンタムを失ったようだが、フランス映画の《フィルム・ノワール》の議論は比較的活発に行われていた。批評家たちは、主にジョルジュ=アンリ・クルーゾーやイヴ・アレグレの監督作品を《フィルム・ノワール》と呼んでいた。そして、前述の政治的な駆け引きはここでも健在である。最もわかりやすい例は、ジョルジュ=アンリ・クルーゾーの『情婦マノン(Manon, 1949)』をめぐる論争である。共産党系のス・ソワール紙が『情婦マノン』を《フィルム・ノワール》と呼んで「原作とはかけ離れたひどいメロドラマ」「シニシズムと腐敗に満ちた作品」「占領時の協力者たちを罰するつもりがあるように見えない」と批判して、暗にクルーゾーの戦時中の行動が作品に反映されているかのごとく匂わすと[31]、ル・シネマトグラフィ・フランセーズ誌がクルーゾーの言葉として「これは《フィルム・ノワール》ではない、希望の映画だ」というコメントを紹介している[32]。『バラ色の人生(La Vie en rose, 1948)』の製作状況のルポでは「この映画は《フィルム・ノワール》と呼ばれているが、パラドックスの映画だ」というラウール・プロカンの発言が引用されている[33]。植民地チュニジアのチュニジー=フランス紙は「フィルム・ノワールの頽廃」という記事でジョルジュ=アンリ・クルーゾーの『犯罪河岸(Quai des Orfèvres, 1947)』『情婦マノン』やイヴ・アレグレの『デデという娼婦(Dédée d’Anvers, 1948)』『美しき小さな浜辺(Une si jolie petite plage, 1949)』『乗馬練習場(Manèges, 1950)』を挙げて「もうたくさんだ」と嘆いている[34]。
これらの批判は頻繁に「観客は《フィルム・ノワール》に飽き飽きしている」という論調をともなっている。前述の「フィルム・ノワールの頽廃」という記事もそういった書き出しで始まっている。新作の紹介で「駄作でもなく、フィルム・ノワールでもなく、バラ水の臭いのする甘ったるい映画でもない、まともな映画がようやくやってきた!」という文句で紹介する記事はいくつかある。興味深いのは、ロバート・フローリーが1950年にラ・シネマトグラフィ・フランセーズ誌に寄せた「アメリカで成功するには作品を厳選しなければならない(Seule une sévère sélection peut assurer des succès français aux U.S.A.)」という記事で、『デデという娼婦(Dédée d’Anvers, 1948)』のような“film « noir »”は人気がない、と伝えていることだ[35]。こういった論調はフランスでは戦前から行われていたが、それがまだ戦後も続いていたのである。
だが、フランスの《フィルム・ノワール》も戦前の『望郷』とは大きくかけ離れたものになり、むしろ『深夜の告白』などのハリウッドの《フィルム・ノワール》に近接しているようにみえる。特にイヴ・アレグレは、女性嫌悪をむき出しにした、退廃的な作品を連作している。
こういった「《フィルム・ノワール》なんて誰も見向きもしない 」という否定的なコメントがあちこちで見られる一方で、肯定的なコンテクストで《フィルム・ノワール》が使われた場合もあった。『赤いカーテン(Le rideau rouge, 1952)』を紹介した批評家は、この映画を“film « noir »”と呼んで、そのローキー照明、ロケーション撮影がもたらす雰囲気が、脚本家のジャン・アヌイと演出のアンドレ・バルザックが求めていたものを忠実に再現していると評価している[36]。イヴ・アレグレ監督『乗馬練習場』の広告にも賛辞として《フィルム・ノワール》が使用されている。この語を使用しているメディアが、非共産党系、ド・ゴール支持派のル・モンド紙とコンバット紙というのも、ひょっとしたら意味があるのかもしれないが、どうなのだろう。
Le Cineopse誌に掲載された『乗馬練習場(Manèges, 1950)』の広告 |
カイエ・デュ・シネマ誌では、1951年の創刊から暫くのあいだ《フィルム・ノワール》への言及は散発的なものだった。結局、ボルド&ショームトンの本がきっかけとなって議論が始まったようである。《フィルム・ノワール》に正面から取り組んだ初期の記事はクロード・シャブロルの“Evolution du film policier”[37]と、エリック・ロメールによるボルド&ショームトンの本への書評[38]になるだろう。シャブロルの論考は、「アメリカ映画の状況」特集号におさめられており、アンドレ・バザンが西部劇、ジャン・ドマーチがミュージカルを担当するといった編集のなかで探偵・刑事映画をシャブロルが担当したという位置づけだ。余談になるが、この号の興味深い文章はエイドリアン・スコットによるハリウッドのブラックリストについてのものだろう。一方、1956年のロメールによるボルド&ショームトンのフィルム・ノワール論考に対する書評は、シネフィルによるマウントそのもので、『マルタの鷹』より前に『ハイ・シエラ』があったとか、『ファルコン』シリーズはどうした、といった、どちらかというと見なかったことにしたいような文章である。
カイエ・デュ・シネマ誌で興味深いのは、1956年に行われた「歴史上最も重要な映画」投票の結果についての報告である。このなかでクロード・ゴティエは「ファンタジー」「フィルム・ノワール」「西部劇」「ミュージカル・コメディ」というジャンル分けで統計を紹介している。結果によれば、フィルム・ノワールは人気がなかったということだ。人気のない中でも最も票を集めたのが『暗黒街の顔役(Scarface,1932)』だったと報告しているが、これを見る限り《フィルム・ノワール》と呼ばれるものに関して、この20年後にアメリカで展開される議論とはかなりかけ離れた認識がされていたと容易に推測できる。
マルキシスト、レイモン・ボルド
レイモン・ボルド&エティエンヌ・ショームトンの「アメリカン・フィルム・ノワールの展望」“Panorama du film noir américain : 1941-1953”も当時のフランス言論界の状況とは無縁ではない。特にレイモン・ボルドは反共産党のマルキシストという政治的な立ち位置を明確にして発言を続けた。《フィルム・ノワール》とは関係ないが、ヌーヴェル・ヴァーグを支持するジョルジュ・サドゥールへの批判を見てみる[39], [27]。
ヌヴェール・ヴァーグはフランス的現象であり、サドゥールは、国家芸術とはその土地に根付いたものだいう共産党のたわごとに洗脳されているのだ。1958~1960年の理論闘争のあいだ、彼は三色旗の布切れにしがみついていた。冷静な頭でフランス映画を判断できる人間ではない。 ヌーヴェル・ヴァーグは体制順応主義で根本的に右翼的現象だ。だから、なんだ!サドゥールからすれば、変化を好まない共産党を糾弾する左翼映画なんかより、ヌーヴェル・ヴァーグのほうが1000倍も好ましいのだ。ヌーヴェル・ヴァーグはフランス・マルクス主義の内部闘争とは対極にあることで優勢に立っている。これこそ(フランス共産党党首の)トレーズの昔ながらの戦術だ。右翼との結託である。
Raymond Borde
ボルドは、アナーキズムとシュールレアリスムの伝統を受け継ぎつつ、映画批評はまず形式よりも内容を重視すべきだという立場だった。しかし、一方では共産党、特にスターリニズムの社会主義的リアリズムを糾弾し、精神分析を用いた批評を推進しようとした。ゆえに、ボルドにとってゴダールの『勝手にしやがれ』は「フィルムの無駄遣い」でしかなかった。彼のフィルム・ノワール論が、精神分析を基調として、スタイル分析を極力避け、それぞれの映画のテーマに共通性を見出すものだったのは、こういった背景がある。20年後のアメリカで、ハリウッド・フィルム・ノワール批評が精神分析に傾倒したのはここが出発点であった。
面白いのは、レイモンド・ボルドは、1968年の《ラングロワ事件》の際には、アンリ・ラングロワのシネマテーク・フランセーズ館長解任を支持する意見を表明した点である。当時のフランス映画人でラングロワ解任を支持する立場に回った者は少ないが、ボルドはその数少ない一人だった。理由は複合的で、ラングロワの留任によってシネマテークが国の援助を受けられなくなること、ラングロワの映画愛がどうあれ、(借りたフィルムを返さない、買ったフィルムの代金を支払わない、自分がすべき仕事をロッテ・アイスナーに押し付ける、等)映画フィルム管理者としては無能どころか有害であること、そして共産党が反ド・ゴールという立場だけでラングロワを支持していること、などが挙げられる[27]。ボルドは当時トゥールーズ・シネマテークの館長だったことを勘案すると、同じ映画のアーキビストとして、ラングロワの無責任な行動とその取り巻きの幼稚さに耐えられなかったというのは理解できる。美学的な批評精神だけでなく、冷戦下における政治的主張、政府の文化政策との距離、さらには個人的な好悪が、編み出される言説の背景にある。ボルド&ショームトンのフィルム・ノワール論もその背景を無視して、単なる芸術批評として評価するわけにはいかないのだ。
私が《フィルム・ノワール》という言葉の語源についての批評的作業にある種のためらいを感じるのも、こういう事情がみえてくるからである。戦前、戦時中、戦後のフランスで《フィルム・ノワール》という言葉がある文脈で語られていた、という論は、ある仮定のもとに取捨選択した歴史の糸を作り出す行為のように思える。その行為が危ういのは、フランス文化人の政治的なアジテーションや策略のやり取りのなかで交わされた議論をいずれは借用せねばならず、はたしてフランス批評界を覆っていた共産主義への傾倒と反発、反アメリカ感情と反ー反アメリカ感情といったものの重さを測量しつつ、それらの議論のなかから彼らが紡ぎだした歴史の糸を正確に見分けることができるのだろうか、という疑問があるからだ。それは、映画批評と政治情勢、特にメディア、業界、そして学術界や文化機関のあいだでの政治的思惑を介した相関関係を論ずるには良いケーススタディになるかもしれない。かつてジネット・ヴァンサンドーが無邪気に戦前フランス映画からフィルム・ノワールへの系譜をたどった論考[40]から、ヨーロッパ中心主義に対するアラン・シルヴァーの呪詛にも近い反論[41]を経て、、あるいはそれと対照的な1946年の言説にのみフォーカスして解明しようとする研究[5]など、これからも絡まった歴史の糸をほぐしては、また別の絡まった糸が発見される、そういった行為が続けられるのだろう。
この状況に深くかかわっているのが《ドイツ表現主義》をめぐる議論である。これについては、後に述べる予定だ。
『乗馬練習場(Manèges, 1950)』 監督:イヴ・アレグレ 撮影:ジャン・ブールゴワン |
References
[1]^ N. Frank, "Un Nouveau genre policier : L’aventure criminelle," L’Écran Français, no. 61, p. 8, Aug. 28, 1946.
[2]^ A. Silver and J. Ursini, Eds., "Film Noir Reader 2." Limelight Editions, 1999.
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