《フィルム・ノワール》の総論的分析には、ドイツとの関係が常につきまとう。ひとつは《フィルム・ノワール》の視覚的スタイルは《ドイツ表現主義》の影響を受けたとする議論である。もうひとつは、ハリウッドでの《フィルム・ノワール》形成には、ナチスから逃れたユダヤ系ドイツ人が重要な役割を果たした、というものである。
総論のなかで何の躊躇もなく述べられるこれらの議論は、それぞれをつぶさに見ていく各論のレベルのなかでは、あきらかに齟齬を起こしている。1970年代にはだれも疑うことのなかった総論を支えていたはず基礎がほころび始めている。その状況をみてみたい。
『カリガリ博士(Das Cabinet des Doktor Caligari, 1920)』 監督:ロベルト・ヴィーネ 撮影:ウィリー・ハマイスター |
ドイツ表現主義とフィルム・ノワール
《フィルム・ノワール》のスタイルの起源に《ドイツ表現主義》がある、という記述は、ほとんど無批判に繰り返されてきた。
(フィルム・ノワールは)ドイツ表現主義と同様、水平線よりも斜めの線や垂直の線が好まれる。傾斜は都市のコレオグラフィーに密着し、グリフィス、フォードのアメリカ的伝統としての水平に真向から対峙するものだ。
Paul Schrader [1]
英語でフィルム・ノワールに関する文献が登場してから10年も経たないうちに、このスタイル分析は《確立》されたことになっている。
もう今では、フィルム・ノワールの外国のルーツと国内のルーツ(ドイツ表現主義とフランス詩的リアリズム、ギャング映画とハードボイルド小説)は明確に確立されている。
Robert G. Porfirio [2]
ところが、《確立》されたはずのルーツは、批評家によって組み合わせが異なっている。ドイツ表現主義は必ず入っているので、良しとしよう。
フィルム・ノワールの映画としての出発点は、1910年代後半から20年代のドイツ表現主義、30年代のアメリカの犯罪映画、そして、決して中心的な役割を果たしたルーツではないが、同時代で、かつ戦後のものとしてイタリアのネオリアリスモがある。
Foster Hirsch [3]
加藤幹郎は「映画ジャンル論」のなかのフィルム・ノワールの項で「4つの水源」について述べているが、その最初の水源がドイツ表現主義である。
FN(注:フィルム・ノワール)第一水源は、ドイツ表現主義である。1920年代のドイツでマックス・ラインハルトを中心に展開していた表現主義演劇はドイツ映画へと導入される。表現主義とは、主に明暗の極端な対照と人工的に歪められた舞台装置と役者演技によって、現実社会の不安や個人の内面的危機を反映させる手法となる。
加藤幹郎 [4]
さて、ここまで多くの批評家が口を揃えて、フィルム・ノワールの源のひとつは《ドイツ表現主義》だと言っているのだから、揺るぎのない事実なのではないか。一概にそうは言えない。
ジークフリート・クラアウアーとロッテ・H・アイスナー
第二次世界大戦が終わるまでのドイツ映画史を記述したもので、今でも広範な影響力をもつ書籍がある。ジークフリート・クラカウアーの「カリガリからヒトラーまで(From Caligari to Hitler: A Psychological History of the German Film, 英語原版:1947年出版)」とロッテ・H・アイスナーの「悪魔の銀幕/憑かれたスクリーン(L’écran démoniaque/The Haunted Screen, フランス原版:1952年出版)」の2冊だ。この2冊が《ドイツ表現主義映画》という用語を映画批評で使用可能なポピュラーな語彙として広めた。「カリガリからヒトラーまで」は戦前のドイツ映画にみられる精神的傾向はナチス・ドイツの到来を予知するものであり、第一次世界大戦直後の「暴政かカオスか」という世界観から「服従」を経てヒトラーというリーダーを求めていくというテーゼが全体を貫いている。一方、「憑かれたスクリーン」は1920年代のドイツ映画の傾向を19世紀のロマン主義に源泉を持ちつつ生まれてきたアヴァン・ギャルド運動として分析するものである。いずれもドイツ映画をドイツ民族の精神に結び付けているのだが、クラカウアーはファシズムの萌芽を、アイスナーは芸術史を見ているといってもよいかもしれない。以下にこの2冊についての懐疑的な記述をするが、だからと言ってこの2冊が意味のない本だというつもりは毛頭ない。むしろ、映画史を知るうえで極めて重要な書籍であり、この2冊のまともな日本語訳が容易に入手できないのは非常に残念であるばかりか、間違っていると思う。
“From Caligari to Hitler (1947)”(Internet Archive) |
映画批評の軌跡として、《フィルム・ノワール》のスタイル、モチーフの議論により貢献したのはロッテ・H・アイスナーの「憑かれたスクリーン」のほうであろう。アイスナーは『カリガリ博士』について、そのセットを覆う奇妙な高揚感が「表現主義は絶え間ない興奮をともなう」という作家カシミール・エドシュミッットの言葉を思い起こさせると言い、G・W・パブストの『心の不思議(Geheimnisse einer Seele, 1926)』の夢のシーンは「表現主義がなければ撮影されることはなかった」と述べた。さらに『カリガリ博士』『ゲニーネ(Genuine, 1920)』『朝から夜中まで(Von morgens bis mitternachts, 1920)』などの、いかにも《ドイツ表現主義映画》のルックをもった作品だけでなく、階段や廊下、吊るされたランプ、暗いストリート、低い天井といったモチーフ、俳優たちの演技、群衆の登場、影の多用とキアロスクーロなどに《ドイツ表現主義》の影響をみて『蠱惑の街(Die Straße, 1923)』『最後の人(Der letzte Mann, 1924)』『ファウスト(Faust, 1926)』『メトロポリス(Metropolis, 1927)』『アスファルト(Asphalt, 1929)』など多くの作品を挙げて論じている。
だが、果たして『カリガリ博士』と『ニーベルンゲン』や『最後の人』を同じスタイルでくくってしまって良いものだろうか?『アスファルト』や『パンドラの匣』は確かに印象的な光と影の造形を作り出したシーンが見られるが、それらが『カリガリ博士』や『ゲニーネ』に登場するセット美術による表現と同類のものだとなぜ言えるのだろうか?
ワイマール期のドイツ映画を研究してきた研究家や批評家は、この点について検証、批判を繰り返してきた。バリー・ソルトは、《ドイツ表現主義》という映画批評の用語を批判的に論述している[5]。
「リアリズム」と同じように、表現主義はあまりに多くの曖昧な意味合いを与えられてしまって、むしろ無意味になってしまい、分析的な概念として利用価値がなくなりつつある。
Barry Salt
そして、ソルトは『カリガリ博士』『ゲニーネ』『朝から夜中まで』『トルグス(Torgus, 1921)』『罪と罰(Raskolnikow, 1923)』『裏町の怪老窟(Das Wachsfigurenkabinett, 1924)』の6作品、そして敢えて追加するならば『メトロポリス』を入れて7作品のみをドイツ表現主義の映画、すなわち表現主義の絵画や演劇に影響を受けたものだとしている。つまり、表現主義映画は1920年からわずか数年で終焉を迎えていることになる。フリッツ・ラングの『死滅の谷(Der müde Tod, 1921)』『ニーベルンゲン(Die Nibelungen, 1924)』、エルンスト・ルビッチの『花嫁人形(Die Puppe, 1919)』などの作品に見られる構図やセットのスタイルは表現主義とはなんの関係もなく、さらにはF・W・ムルナウの『最後の人』『ファウスト』『タルチェフ』の映像スタイルはキアロスクーロとは呼べないと指摘した。ディートリッヒ・シューネマンも「異なるジャンルやスタイルであっても、ワイマール期の映画に表現主義のレッテルを貼ろうとする、アイスナーの行き過ぎた情熱 [6]」と批判している。
一方で、映画批評、特に《フィルム・ノワール》の議論における《表現主義》の定義は違うのだという見解もある。ジャネット・バーグストロムは《ドイツ表現主義》が《フィルム・ノワール》に与えた影響を分析する中で、以下のように宣言している [7]。
ドイツ表現主義はフィルム・ノワールに影響を与えたもののなかでも最も重要なものと呼ばれてきた。あまりに頻繁にそう呼ばれてきたので、もはや自明のこととなりつつある。しかし、これは芸術における表現主義運動を指しているのではない。フィルム・ノワールについて言えば、(ドイツ)表現主義は『カリガリ博士』とその後の1919年から1933年初頭まで、すなわち第一次世界大戦の終わりからナチ政権までのワイマール期に現れた、有名な映画に見られる特徴的な暗黒を意味している。
Janet Bergstrom
バーグストロムの「フィルム・ノワールについて言えば(When it comes to film noir)」と前置きをしたうえでの《ドイツ表現主義》の定義は、映像史の議論として適切なのだろうか。ワイマール期のドイツ映画を研究する研究者たちは、《ドイツ表現主義映画》という呼び名を無頓着に使う傾向を警戒している [8]。なぜなら、ワイマール期のドイツ映画は実に多様で、その多様性を無視し、産業としての映画製作の側面を軽視した、これらの議論は極めて歪んだ映像史観を与えかねないからだ。《フィルム・ノワール》の議論においてのみ利用される定義、のような独りよがりなアプローチの先には、不健全なトートロジーの罠しか見えないように思える。
魔法使いの弟子のほうき
ファシズムの台頭と映画史をほぼ直結させるクラカウアーの戦前ドイツ映画論と、ユダヤ人のマックス・ラインハルトを軸にしたアイスナーのドイツ表現主義映画論の問題の根底は、その分析の手法とロジックにある。クラカウアーはあまりに少ない数の映画に国家の政治的状況の反映を見ようとしたという批判を招き[9]、アイスナーの議論は、細部において印象論に陥っている点を指摘されている[5],[6]。
“The Haunted Screen (2008年 英語版)”(Internet Archive) |
ジークフリート・クラカウアーは、ナチスが台頭する前のワイマール期ドイツで批評家として活躍していた。彼はヴァルター・ベンヤミンやテオドール・アドルノらとともにフランクフルト学派のなかに位置付けられ、大衆文化を分析する知識人の一人として有名だった。ナチスの台頭とともに、ユダヤ人であるクラカウアーは、まずパリに、そしてその後ニューヨークに亡命した。ニューヨークでも、彼は先進的な知識人として迎え入れられ、ニューヨーク近代美術館のプロジェクトに参加、その一環として「カリガリからヒトラーまで」の基盤となる研究を戦時中に発展させた。彼はニューヨーク近代美術館のアイリス・バリーに庇護され、ロックフェラー財団とグッゲンハイムに経済的、政治的恩恵を受けていた。
一方、ロッテ・H・アイスナーはベルリン生まれのユダヤ系ドイツ人で、ナチス台頭前はドイツの業界紙で批評家を目指すも、記者のようなことをやっていた。まだ女性が批評家として活躍できない時代である。ナチスが政権を掌握すると、フランスに亡命するが、ドイツのフランス占領とともに苦境に追い込まれてしまう。収容所にも入れられたが逃亡、偽名を使って迫害を逃れた。この間、彼女をサポートしてくれたのはシネマテーク・フランセーズのアンリ・ラングロアであり、戦後アイスナーはラングロアのもとでアーキビストとして働くようになる。シネマテークの膨大なフィルム・ライブラリにアクセスして、戦前ドイツ映画史を総括したのが「憑かれたスクリーン」だった。
同時に、さらにもっと個人的なレベルで、この二人の亡命者はいずれも庇護を受けており、彼らの著作はそれぞれの支援者への返礼と理解することも可能である。アイスナーはラングロワのもとで働いており、クラカウアーはMOMAのアイリス・バリーと社会研究所への感謝の意を表すとともにアメリカ政府に奉仕しているという意味合いもあった。
Thomas Elsaesser [9]
第二次世界大戦直後、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害と虐殺の衝撃と東西冷戦の始まりの文脈で、ドイツの近代文化の再評価は極めて政治的なものにならざるを得なかった。クラカウアーの著書は、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」と並行して、ナチスの台頭や反ユダヤ主義の広がりを精神分析的に解剖するという目的をもって書かれたものだ。ここには亡命したユダヤ系知識人が戦前ドイツの知的活動をアメリカで引き継いで、アメリカの文化活動の一翼を担うという側面があった。一方、アイスナーはシネマテーク・フランセーズの顔として、映画の芸術性をひたすら謳いあげて広めるという役割を担っていた。彼女の著述は、スターリニズムの周囲を抜き足差し足で迂回するような構成になっている。ナチスが政権を掌握する前のドイツの政治的混乱を肌身で経験したはずのアイスナーが、『三文オペラ』についてのセクションにおいてでさえ、「共産主義」「左翼」といった政治的ポジションをあらわす語彙を一切使用してしないのは、やはり奇妙だろう。「憑かれたスクリーン」執筆当時のフランス映画界を覆っていた政治的な駆け引きから遠い場所に身を置こうとしたのではないだろうか。
そして、個人的なしがらみもある。最近出版されたロッテ・アイスナーの伝記には、クラカウアーとアイスナーのあいだのやり取りについて記述がある[10]。詳細を知りたい方は出典をあたっていただきたいが、このなかでアンリ・ラングロワがいかにジークフリート・クラカウアーを「嫌って」いたかが書かれている。クラカウアーが大して映画を見ずにドイツ映画史を語っていることをおおっぴらに馬鹿にしていた。それに加えて、アイスナー自身がクラアウアーの恵まれた境遇を嫉妬に近い感情で見ていたようである。
興味深いのは、アイスナー自身が「憑かれたスクリーン」の出版後わずか6年で、ドイツ表現主義と呼べる作品はわずか3作品(『カリガリ博士』『朝から夜中まで』『裏町の怪老窟』)だと軌道修正したことである[6]。これは極めてマイナーな出版に掲載された論考[11]であり、私自身、確認できていないのだが、その後のフリッツ・ラング、F・W・ムルナウに関する著作でも《ドイツ表現主義》についての記述は鳴りを潜めている。ディートリッヒ・シューネマンは「魔法使いの弟子のほうきが映画好きの心になかに作ってしまった、ドイツ映画についての歪み」に気づいたアイスナーがそれを軌道修正しようとしたのだろうという。だが、その軌道修正は波及することなく、「憑かれたスクリーン」の誇張された映画史だけがいまだに跋扈している。
さらに起きた悪いこと
さらに悪いことが起きる。1960年代の後半以降、いくつかの本が出版され、「表現主義」のレッテルがワイマール期を乗り越えてフィルム・ノワールや現代の映画にまで広がった。奇抜なセット・デザインや、遠近法を歪めるような照明法や撮影技術が見られれば、そういった映画でも「表現主義」と呼ばれるようになったのだ。
Dietrich Scheunemann
このように《ドイツ表現主義映画》の批評の基盤が実に脆いにもかかわらず、《フィルム・ノワール》についての言説は《ドイツ表現主義映画の影響》について論じ続けてきた。その議論の最も中心に位置するのは、光と影を強調した視覚的表現と、呼応する心理的不安の物語である。つまり、アイスナーが拡大解釈した《ドイツ表現主義映画》の特徴が、《フィルム・ノワール》のスタイルの議論に受け継がれてしまったのである。
ボードウェルやヴェルネ、それ以外にも多くの批評家が、ローキー照明やキアロスクーロとひとくくりにされて呼ばれる光と影を意識した映像手法は、戦間期のドイツにだけ見られたものではなく、ハリウッドでも映画の黎明期から追及されてきた、と指摘してきた。D・W・グリフィスやモーリス・トゥールヌール、レックス・イングラムなどの著名な例だけではない。サイレント期のハリウッドでは広く普及していた手法である [12],[13]。もちろん、ハリウッドだけではなく、映画が産業として発展していた地域、ドイツはもちろん、フランス、イタリア、イギリス、ソ連、ハンガリー、チェコ、デンマーク、ノルウェーなどには共通して見られた現象である。ここでは、その詳細を追うことはしない。
その他にも「斜めや垂直に対する嗜好」「人工的に歪められた舞台装置」について《ドイツ表現主義映画》の影響が言及される。しかし、この点についても留保したほうがよいだろう。1920年代後半から30年代前半のハリウッド映画には、アール・デコを取り入れた舞台芸術(セット)が多く見られるが、それらの大半は「斜めや垂直に対する嗜好」にあふれており、「人工的に歪められた」デザインが際立っている[14]。むしろ、これらはモダニズム、アーバニズムが共有する嗜好である。アメリカの都市部が、そのような意匠を取り入れて発展した結果として《フィルム・ノワール》の舞台となったという側面もあるはずだ。
傾けたカメラ、いわゆる《ダッチ・アングル》が《ドイツ表現主義映画》の発明のように論じられることもある [15]。『暴れ者』のレビューでも書いたが、カメラを傾けるダッチ・アングルは、1920年代後半に世界の各地域で登場したアヴァンギャルド映画、ドキュメンタリーなどで流行した手法であり、《ドイツ表現主義映画》にのみ、その源流を求めるのは無理があるのではないだろうか。ジガ・ヴェルトフの『カメラを持った男(Человек с киноаппаратом, 1929)』、セルゲイ・エイゼンシュタインの『十月(Октябрь, 1928)』、オレクサンドル・ドヴジェンコの『武器庫(Арсенал, 1929)』には極めて印象的なダッチ・アングルのショットが次から次へと登場するのだが、ソ連の映画作家たちが言及されることはほとんどない。ほとんど傾いてさえもいない『メトロポリス』のショットを取り上げて、ダッチアングルの起源を論じているのは、いったいなぜなのだろう。
ワイマール期の映画について少しでも掘り起こし始めると、《ドイツ表現主義映画》という、いかがわしいくせに粘着力だけは強いラベルに悩まされることになる。そして《フィルム・ノワール》を論じる批評家たちは、そのラベルを剥がすことなく嬉々として同じ言葉を言い続けているのである。
亡命ユダヤ系ドイツ映画人たち
もうひとつの《フィルム・ノワール》とドイツの深い関係として人口に膾炙しているのが、ナチスの政権掌握後、ハリウッドに亡命してきた(ユダヤ系)ドイツ人たちが《フィルム・ノワール》の形成に一役買ったというものである。
フィルム・ノワールに貢献した監督たちの何人かは、表現主義運動と直接的、間接的に関わった映画人たちで、ナチスを逃れて亡命してきたオーストリア人やドイツ人である。フリッツ・ラング、ロバート・シオドマク、オットー・プレミンジャー、ビリー・ワイルダーといった人たちである。マイケル・カーティスも1920年代にドイツで映画を監督しており、ジョン・ブラームはウィーンとベルリンで演劇に関わっていた。
Michael Walker [16]
名前の羅列はシュレーダーのほうが多い。
フィルム・ノワールにドイツ人や東ヨーロッパ人の多くが関わっているのも驚きではない。フリッツ・ラング、ロバート・シオドマク、ビリー・ワイルダー、フランツ・ワックスマン、オットー・プレミンジャー、ジョン・ブラーム、アナトール・リトヴァック、カール・フロイント、マックス・オフュルス、ジョン・オルトン、ダグラス・サーク、フレッド・ジンネマン、ウィリアム・ディタール、マックス・スタイナー、エドガー・G・ウルマー、カーティス・バーンハート、ルドルフ・マテ。
Paul Schrader [1]
もう一度、加藤幹郎氏には登場してもらおう。
ユダヤ人同胞がヨーロッパでつぎつぎに絶滅収容所に送られ、厖大に数百万人も殺害された狂気の時代が終わる第二次世界大戦終了期(1945年)にも、ハリウッドに亡命したユダヤ系映画監督たちは、当然のごとく厖大にフィルム・ノワールを制作するのだから、故郷たりうるところから遠く離れた亡命ユダヤ人作家たちが、戦時中から戦後まで何を思って陰鬱なFNを創造しつづけていたかは明白であろう。
加藤幹郎 [4]
引用はこれくらいにしたい。
この議論は、あまりに問題がありすぎて、どこから取り上げるべきなのか悩ましいくらいである。ポール・シュレーダーが羅列した人名のなかで、何を撮ってもフィルム・ノワールっぽくなってしまうくらい、作家的スタイルとして内面化しているのは、ロバート・シオドマクとジョン・オルトンくらいではないだろうか。マックス・スタイナーの名前をここで挙げるなんて、どうかしている。ヨーロッパ、特にドイツで映画産業に実際に関わっていたかどうか、という議論も検証されず(例えば、オットー・プレミンジャーもジョン・オルトンも関わっていない)、ユダヤ人として命からがら亡命してきた者(マックス・オフュルス)とナチス政権下で映画製作を続けていた者(ダグラス・サーク)を一緒の範疇に入れ、政治的、宗教的信条も異なる者たちを同じ文化基盤を持つ者として論じているのである。フリッツ・ラングをユダヤ人としてカテゴライズするのは間違ってはいないかもしれないが、正しくもない。彼にはカトリック信者としての一面もあるのだ。エドガー・G・ウルマーは、確かにドイツで『日曜日の人々』の製作の中心的役割を果たしたが、彼はその前からハリウッドでウィリアム・ワイラーと西部劇の製作に関わっており、むしろ映画製作の経験はほとんどハリウッドで培われたものだ。一人一人の事情を無視して「ドイツ人」「オーストリア人」「ユダヤ人」という括りだけで、その作品のスタイルに共通のものがあると主張する、その議論はいささか乱暴ではないだろうか。
だが、実際にドイツ人やオーストリア人が多いではないかと指摘もあるだろう。1930年代は極めて短い期間にドイツを離れた亡命人が大量にアメリカにやってきた時期である。文化人も非常に多かった。一方で多くのアメリカ人が何らかの形で戦争に参加していた。ハリウッドの映画人、プロデューサーや監督までもが軍服に着替えて前線に向かった。残された亡命人が相対的に多く見えるのは当たり前だ。
この議論が極めて危ないのは、人種と創造的想像力を直結する点にある。フィルム・ノワールにダークな表現主義的モチーフやスタイルが見られるのは、ドイツ人が作ったからだという安直な思考である。かつてアラン・シルヴァーは、少し違う文脈で「ジョン・ファローは初期オーストラリア映画を作ったのか?」と出自と作風をつなげて議論することに警鐘を鳴らした。ドイツ人とダークな作風を結びつけたい人たちは、それこそ、ジョン・ファローの長回しは、オーストラリアの雄大な風景が生み出した時間感覚に由来するとでもいうのであろうか。もしドイツのロマン主義精神が、ドイツ生まれの人々の作る映像に現れていると主張するのであれば、『ボディ・アンド・ソウル』のあまりにも衝撃的なローキーな映像は、ジェームス・ウォン・ハウが生まれた中国の陰陽の思想がその根源にあるからだと主張してもおかしくないはずだろう。出自や人種と創造性を、無批判に直結させることが、いかに荒唐無稽か、わかるだろうか。この《フィルム・ノワール》と《ドイツ表現主義》のあいだに生まれた連係は、あまりに批評的、分析的視点を欠いている。ハリウッド最初のフィルム・ノワールと言われる『三階の見知らぬ男』の監督が、ソ連でエイゼンシュタインのもとで助手をしていたボリス・イングスターなのに、あの作品の出自をなぜ《ドイツ表現主義》だけに求めるのか。ウィーンやベルリン、パリの芸術運動が影響したといえば、素晴らしいヨーロッパ文化の一部だと主張できるが、モスクワやロンドン、ロサンジェルスや東京はダメなのか。そこには明らかに人種や国民と文化を差別的構造のなかに押し込んで優劣を無意識に評価しようとする、間違った姿勢がある。
《フィルム・ノワール》についての批評が、仲間内で同じことを繰り返し繰り返し言い続けて、まったく面白みに欠けたものになっていったその根底には、こういった無惨な思考の貧困があるからではないか。
References
[1]^ P. Schrader, "Notes on film noir," Film Comment, vol. 8, no. 1, pp. 8–13, 1972, Available: https://www.jstor.org/stable/43752885
[2]^ R. Porfirio, "No Way Out: Existential Motifs in the film noir," in Film Noir Reader, A. Silver and J. Ursini, Eds. Limelight Editions, 1996.
[3]^ F. Hirsch, "The Dark Side of the Screen: Film Noir." A. S. Barnes, 1981.
[4]^ 加藤幹郎, "映画ジャンル論―ハリウッド映画史の多様なる芸術主義," 増補改訂版. 文遊社, 2016.
[5]^ B. Salt, "From Caligari to Who?" Sight and Sound, vol. 48, no. 2, p. 119, Spring 1979.
[6]^ D. Scheunemann, "Activating the Differences: Expressionist Film and Early Weimar Cinema," in Expressionist Film: New Perspectives, Camden House, 2006.
[7]^ J. Bergstrom, "Warning Shadows: German Expressionism and American Film Noir," in Film Noir, H. B. Pettey, Ed. Edinburgh University Press, 2014.
[8]^ C. Rogowski, Ed., "The Many Faces of Weimar Cinema: Rediscovering Germany’s Filmic Legacy," NED - New edition. Boydell & Brewer, 2010. Available: https://www.jstor.org/stable/10.7722/j.ctt163tbh4
[9]^ T. Elsaesser, "Weimar Cinema and After: Germany’s Historical Imaginary." London: Routledge, 2000.
[10]^ N. DeCelles, "Recollecting Lotte Eisner: Cinema, Exile, and the Archive." Univ of California Press, 2022.
[11]^ L. H. Eisner, "Stile und Gattungen des Films," in Das Fischer Lexikon. Film. Rundfunk. Fernsehen, Frankfurt am Main: Fischer, 1958, p. 264.
[12]^ D. Bordwell, "Film noir, a hundred years ago," Apr. 18, 2017. http://www.davidbordwell.net/blog/2017/04/18/film-noir-a-hundred-years-ago/
[13]^ D. Bordwell, "Hollywood starts here, or hereabouts," Apr. 23, 2020. http://www.davidbordwell.net/blog/2020/04/23/hollywood-starts-here-or-hereabouts/
[14]^ H. Mandelbaum and E. Myers, "Screen Deco." Hennessey+Ingalls, 2000.
[15]^ "Why Movies Tilt the Camera Like This," (Nov. 11, 2021). Available: https://www.youtube.com/watch?v=SHYfsYQDr6M
[16]^ M. Walker, "Film Noir: Introduction," in The Book of Film Noir, New York: The Continuum Publishing Company, 1992.
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