アイヴィー作戦マイクのキノコ雲(1952年11月1日, マーシャル諸島)
アメリカ初の水素爆弾の実験
[U. S. National Archives]

[この文章は、現在公開中の映画『オッペンハイマー』のネタバレを含みます。]

Oppenheimer

前評判や海外の映画評レビューなどを読んでいて、実はこき下ろす気満々で見たのだが、拍子抜けしてしまった。

平凡な映画だった。特に感想なんかないし、批評的な言葉も思いつかない。最初は3つのタイムラインをクロスカッティングでつないでいく語り方に、「めんどくさいなあ」と思って放棄しようかと思ったが、15分ほどで腹をくくって、頭を使ってみることにした。ただし、この語り方がこのストーリーに必須なのだろうか、と思う部分もあるし(もちろん、分析的に突き詰めていけば、ある種の効果をもたらすとは言えるんだろう)だいたい、物語をぐるぐる動かす支点となるのが、オッペンハイマーのセキュリティ・クリアランスというのも興味を持てない部分で、「めんどくさいなあ」と思って、それでも頭を使って最後まで見た。

見ているうちに痛ましく感じたのは、核エネルギーという、哺乳類が扱うにしては異様に釣り合いの取れないものの話なのに、ずいぶんと呑気な人間群像劇になっている点だ。だから、見ている途中から、「釣り合いがとれるように紹介するとしたら、どんなあらすじになるのだろうか」と考え始めた。

こんな具合だったらどうだろう。

ホモサピエンスの、ある群れ。「白い肌の亜種」のオスが30匹ほど出てきて、どうやって火の玉を手に入れようかと大騒ぎをする。そうして手に入れた火の玉を砂漠で放って大喜びをする。そのうちの1匹は恐ろしくなったらしい。さあてこのオスたちの群れ、「黄色い肌の亜種」の群れに火の玉を2つ落として、縄張りがデカくなったぞと思っていたら、向こうのほうの、別の群れのオスどもが火の玉の秘密を盗み出していた。こっちのオスが「もっと大きな火の玉」を作ろうと言い出す。恐ろしいと感じていた例のオスが反対すると、群れから追い出されてしまった。

「白い肌の亜種」の「オス」が「30匹」なんて、ずいぶんと馬鹿にした冷笑的な言い方だと思われるかもしれないが、私はごくまじめに考えている。原子爆弾というのは、地球上の生物の生存圏に与えるダメージがとてつもなく大きく、それにこの「哺乳類のヒト」という種が釣り合っているとはとても思えないからだ。ましてや、「天才物理学者」とか「ノーベル賞科学者」「ブラックホールを予言した理論物理学者」みたいな設定で、より彼らにグラマラスでセクシーな神話的性格を与えようとする描き方を見ていると、それは軌道修正する必要があるだろうと感じるのだ。この物語の異様さを、より適切なパースペクティブに入れるためには「ロスアラモスの科学者たち」や「原子エネルギー委員会」を「白い肌の亜種のオス30匹」と言い換える必要がある。

だいたい、観客に、この「白い肌の亜種のオス30匹」を見分けろ、というのが、『オッペンハイマー』という映画である。大部分の観客は、アインシュタインを知っているくらいで、アーネスト・ローレンスとか、ニルス・ボーアとか、ましてやレズリー・グローヴスなんて知らないだろう。科学者なのか、政府の役人なのか、ノーベル賞をもらっているのか、いないのか、よくわからないまま、次から次へと新しいオスが登場してくる。おそらく何の予備知識もなく、この「オス30匹」を見分けるのはかなり困難だ。だから、この映画は、最近のエンターテイメントによくある仕掛けを利用している。すなわち、映画の外、特にネット上での「『オッペンハイマー』を見る前にこれを押さえておこう」とか、「『オッペンハイマー』登場人物相関図」とか、「原子爆弾を作った男たち」みたいな記事やポッドキャストやYouTube動画といったものに依存して成立しているのだ。そう、Wikipediaを駆使して、あたかもレオ・シラードとか知ってて当たり前、みたいな顔をして「そうそう、彼は最初は原子爆弾推進派だったんだよね」と言えるように準備してからポップコーンを買う映画なのだ。そして、映画に埋め込まれた様々なイースターエッグを拾って「見つけた!」というのを楽しむようにできている。そうでなければ、何のためにボンゴを叩いている男を映しているのか。彼はこの映画のなかでは・・・・・・・・・・登場する意味があまりない。予習してきた観客のオスが「知ってるかい、あのボンゴを叩いていたのは」とマンスプレイニングできるように登場させているのだ。

さらに、この映画の場合、オスの判別の大部分を《ハリウッドのスターシステム》に依存している。見ている私たちは、ニールス・ボーアをデンマークから間一髪で難を逃れた物理学者というよりも、ケネス・ブラナーとして認識しながら見ているのではないだろうか。デヴィッド・L・ヒルのように登場回数が少ないものの、物語のキーになるキャラクターに関しては、ラミ・マレックのような視覚的に認知性の高い俳優をあてている。私は、『オッペンハイマー』の予告編を見た時から、キリアン・マーフィーの妙にセクシーな風貌にやや違和感をいだいていた。実際のオッペンハイマーの写真を見ると、確かに印象に残る顔立ちやたたずまいだが、あの、映画のキーヴィジュアルで登場する、Midjourneyか何かで生成したような、妙にヌルっとしたキリアン・マーフィのイメージとはかけ離れている。ハリウッドのスターシステムを利用することじたいは批判されることではない。私たち観客が、その見方を自覚していればよいだけだ。

科学者サイエンティストを一種のロマンとして語るストーリーが、21世紀に必要なんだろうか、必要なのかもしれないな、そこまでシニカルになっちゃいけないのかもな、というのが、あえて言えば感想かもしれない。

Kodak

映画『オッペンハイマー』は、IMAX 65㎜ フィルム/65㎜ Large Format フィルムを使って撮影されている。フィルムを提供したのはコダックだ。銀塩フィルムで撮影したり、上映用プリントを準備したりするのは、酔狂というより、シネフォトフィリア向けのビジネスとして企画されていて、クリストファー・ノーランの場合、これが定着した感がある。通常のDTP上映だけでなく、35㎜プリント、IMAX、それにIMAX 70㎜の上映といくつものバージョンを用意して、映画館で見る体験の意味を強調する。

ノーランは、もちろん、トリニティ実験の爆発を《CGIを使わずに》作り上げたことを映画のセールス・ポイントにしている。撮影監督のホイテ・ヴァン・ホイテマ、特殊効果のスコット・フィッシャー、VFXのアンドリュー・ジャクソンとともに、様々な実験を繰り返してアイディアを固めていった。ジャクソンによれば、この爆発のシーンは、実際に爆発と煙を撮影し、それらをコンポジットで重ね合わせて実現したという。全体的に室内の会話劇が中心になっているこの映画で、トリニティ実験は唯一のスペクタクルだ。『オッペンハイマー』をIMAXの20メートルスクリーンで見よう!という理屈が成り立つのは、このシーンがあるからである。

実際に核爆発を起こさずに、いかに再現するか。

以前、私は「馬が走る、猫が落ちる」という文章(「ビンダー」Vol.7所収)でも書いたのだが、核爆発の映像というのは、そのサイズを映像だけから把握するのはかなり難しい。「大きい」というのは分かるのだが、たいてい爆発そのものだけが映し出されていて、サイズを比較対照するすべがない。しかも、高速度カメラで撮影されている場合が多く、見ている映像がノーマルスピードなのか、スローモーションなのかも、映像だけでは判断できない。起きている事象が、どのような《空間》と《時間》で起きているのか判別しにくいのだが、「やたら大きい」という印象だけはなんとなく刷り込まれる。

結局、爆発を何度も起こして、それをできるだけ高速の高速度カメラで撮影することにしたんだ。ポストプロダクションで、このフッテージの速度を落とせば、爆発を極めて大きく見せることができるからね。

Andrew Jackson
quoted in Los Angeles Times

彼らは、実際のトリニティ実験のフィルムを参考にしている。

トリニティ実験では全部で52台の映画カメラが設置された。そのなかのひとつ、グラウンド・ゼロから9,140メートルに設置された、450㎜レンズのカメラで撮影されたフッテージがある。撮影スピードは107fps、通常の撮影のほぼ4倍のスピードだ。『オッペンハイマー』の爆発シーンは、この映像を下敷きにしているのは間違いないだろう。観客はもともと核爆発について、そのサイズが感覚的につかめていない。その観客たちに、規模の小さいガソリン爆発をスローモーションで巨大なスクリーンに投影して見せて「これが、あのトリニティの爆発ですよ、大きいでしょう」と暗示をかける。さらに「IMAXの大きなスクリーンで見ればもっと迫力ありますよ」と小声で言う。

トリニティ実験のフィルム(Atomcentral)

この映画には広島と長崎に原子爆弾を投下するシーンがない、という点がよく議論になる2) 。もし、ガソリン爆発をそれらしく撮影して「IMAXで見た方が、広島の原爆の様子、迫力ありますよ」とマーケティングしていたらどうだっただろう。

ちなみに「アメリカ人は、あれで戦争を終わらせたのだから、原爆を広島と長崎に落としたのは正義だったと思っている」という見解を開陳なさる日本人がいるが、主語が巨大すぎるし、歴史の経過も無視した、あまりにも雑なお話なので、これからの将来のある方は、ああいう言い方を見習わないようにしていただきたい。

『オッペンハイマー』の撮影に使用されたフィルムはコダック製だが、トリニティ実験の撮影に使われたフィルムもコダック製だ。ただし、コダックは自分たちの製品が、トリニティ実験のせいで被害を被ろうとは露も思っていなかった。

トリニティ実験の翌月の1945年8月、コダックは感光写真材料(主にX線写真用フィルム)の製品で不良が起きているのを発見した。未露光にもかかわらず、斑点が見られるのだ。原因は包装に使われていた厚紙で「普通では見られないタイプの放射能汚染」が発生していると結論付けた。これはトリニティ実験で生成された放射性降下物が包装用の厚紙の原料に混入していたのだった。これらの厚紙は、インディアナ州ヴィンセンズ、アイオワ州タマで製造されていたが(実験場までの直線距離は、それぞれ 2,400 km, 2,000 km)、コダックの研究者、J・H・ウェッブはフィルムの汚染物を調査して、ベータ線半減期を約30日と割り出し、セシウム141によるものと推定した[1]。セシウム141は人工的にウランの核分裂によってしか作られない放射性物質であり、原因はトリニティ実験しか考えられなかった。

トリニティ実験による放射性降下物の分布マップ。コダックの工場の位置も示されている[2]

J・H・ウェッブは研究結果を4年間も発表しなかったが1) 、その間もコダックはガイガー計数管を設置するなどして用心していた。1951年1月、アメリカはネバダで核実験を始めた。するとロチェスターのコダック本社のガイガー計数管が通常の25倍もの数値を示し始めたのである[3]。コダックは、かなりアタマに来たらしい。原子力委員会に対して製品の損害賠償訴訟を起こすぞ、とまで息巻いた[4]

(ネバダでの核実験の影響は)ロサンジェルス行きの貨物列車を直撃した。レントゲン用のコダックのフィルムをいっぱい積んでいたんだ。ある朝、ヨセミテにいる知り合いの医者が電話してきて「困ったことになったよ、どうにもならないんだ。ちょっと来て助けてくれないか」と言うんだ。病院に行って見せてもらったら、フィルムにひどい斑点が出ている。「新品を箱から出して、それを現像してみよう」って言って、やってみたら、同じような斑点が出てたんだ。

Ansel Adams [5]

映画『オッペンハイマー』は広島、長崎への原爆投下を描写しなかっただけでなく、放射性降下物、放射性物質による汚染についてもほとんど描いていない。この映画は結局《キノコ雲》という記号に収斂していく話である。《Barbenheimer》というミームに回収されるのも、キノコ雲を大スクリーンで楽しみましょうというマーケティングしているのだから、致し方ないだろう。

Edward Teller,
Linus Pauling

『オッペンハイマー』の物語は、水爆推進派のエドワード・テラーやルイス・ストローズに対する慎重派のオッペンハイマーという平面で進んでいく。クリストファー・ノーランは、この政治的駆け引きを描くなかで、キリアン・マーフィーの《まばたきの少ない、焦点のあっていない眼》をひたすら映し続けていた。そうやって、何を考えているか俄かには判りにくい空洞のような人物造形をしておいて、「私は死神」という有名なセリフを重ね合わせていく。観ている者は、良心の呵責という、都合の良い感情のアーキタイプを空洞の中に埋めやすくなる。そして「反核映画」といった近視眼的な判断に陥ってしまう。もちろん、それがノーランの狙いだったのだろうとは思うのだが、やはり、哺乳類の手には負えない《核エネルギー》というものを語るには、間違った遠近法が使われているように感じる。あるいは、あまりに記号化された《キノコ雲》ばかりを消費していて、《核エネルギー》はもう自分たちの掌の中におさまっている、と勘違いしているのかもしれない。

オッペンハイマーが実際に「私は死神云々(Now I am become Death, the destroyer of the worlds)」という言葉をつぶやいたのは、1965年のTVインタビューである。この言葉は、ちょっと演劇的で、中二病的で、なんだか正直白ける(ええ、もちろん知ってます、クリシュナね)。この言葉の少し前に、彼が言った言葉のほうがもっと大事なことを私たちに伝えていると思う。それは爆弾を落とした時「笑った人もいた、泣いた人もいた、だが大部分は黙ったままだった」という部分だ。

私は、この沈黙した多数という人たちこそ、今の私たちの姿と重なるように思えてならない。

最後に、爆弾を落とした時、沈黙しなかった科学者を2人紹介しよう。

まず、エドワード・テラー。彼は『オッペンハイマー』でも登場する、《水爆の父》である。広島と長崎に原爆を投下した後も、彼は黙っていなかった。「もっと大きく!」と叫んで《テラー・ウラム型爆弾》の設計に携わった。

私がテラーの名前を初めて知ったのはJahn-Teller効果を授業で習ったときである。Jahn-Teller効果は、感覚的にはすぐ分かる話だが、正確に理解しようとすると群論を使って議論しないといけない。私の担当教授(ここではG教授と呼ぼう)が、群論を使った説明を始めた時、エドワード・テラーの名前を紹介して、一息ついて妙な顔をしたのをよく覚えている。それから数ヶ月して、研究室でこのG教授と私の恩師R教授が議論しているときに、やはりエドワード・テラーの名前がでた。実は、G教授もR教授もテラーを直接知っていたのである。G教授が「Teller is …」と口ごもると、R教授はすかさず「brilliant, but an asshole」とついだ。この罵りは、キティ・オッペンハイマーが夫を窮地に追い込んだ男として罵っているのとは少し違う。科学者(それもテラーにとっては後輩たち)が「ケツの穴」と呼んでいるのである。スクリーンでベニー・サフディが、道徳的に爆弾を抱えた「伝説の水爆の父」になりきって《演技》をしているのが、いかにも《映画》らしく、なんだか妙にカリスマまであって、後輩に「ケツの穴」と呼ばれる感じがまったく出てこない。その埋められない《つくりもの感》がどうも気になってしまったのは否めない。

晩年のエドワード・テラーは、科学界の笑い者だった。年々ホラが酷くなり、レーガン政権にホラまみれの「スター・ウォーズ計画」を提唱したときには、彼に近づく科学者サイエンティストは殆どいなくなっていた。ホラの単位として「テラー」が使われていた、というのはWikipedia にさえ記載されている(エドワード・テラー並みのホラを1テラーと定義するが、彼のホラがあまりに大きすぎるので、普通のホラはナノテラーとかピコテラーの単位になるというジョーク)。私が覚えているのは、「意味のない、無駄な、将来性のない」ものを「もっと大きく」しようとしている人に向かって「エドワード・テラーみたいだ」という揶揄を入れるという会話である。

「今度、CERNよりでかい加速器つくるって、ワシントンで息巻いているみたいだぞ」
「エドワード・テラーみたいだな」

「あの教授、今の4倍の出力のレーザーを作るって、NSFにプロポーザル出したみたいだぞ」
「ずいぶんな見通しだなあ、エドワード・テラーかよ」

「あの教授、よせばいいのにキャデラックなんか買うから、駐車場に入りきんないんだよ」
「デカけりゃいいって、なんかエドワード・テラーみたいだね」

「教授、Vax Stationの外部記憶装置を増設したいのですが」
「エドワード・テラーみたいなことをするんじゃない」

もう一人、黙っていなかったのはライナス・ポーリングである。ライナス・ポーリングは、化学者にとって、学部時代の教科書の10ページめくらいに登場する、現代化学の基礎を築いた最も重要な人物である。オッペンハイマーに誘われたが、マンハッタン計画にも参加せず、戦後すぐに反核兵器活動を始めた数少ない科学者の一人でもある。広島に原子爆弾が投下された日から彼はずっと核兵器とその実験に反対し、ノーベル化学賞と平和賞を両方受賞したが、アメリカ政府の一部の者は彼の受賞を呪詛した。

ポーリング夫妻は第二次世界大戦中から、日系人の強制収容に反対していた。「ポーリング家はジャップ好き」と家の外壁に落書きされたとき、ポーリングは、アメリカ社会の中に蠢いているおぞましい憎悪の存在を初めて知って、おののいたという3)

1958年2月、サンフランシスコのTV局KQED-TVで「核爆弾実験 ─── 放射能汚染を怖がりすぎか?」という討論番組が放送される。登壇者はエドワード・テラーとライナス・ポーリング。テラーはもちろん、この冷戦を勝ち抜いて、共産主義を打倒するためには、核実験は不可欠だとする立場、そしてポーリングは放射能汚染は深刻な問題になりつつあり、核兵器開発は即刻モラトリアムにするべきだという立場だった。

科学者サイエンティストのコミュニティで、ポーリングは決して悪く言われることはなかったが、彼が晩年に執着したビタミンC の研究は「なるべく見ないことにしている」人が多かった。G教授もポーリングの話になると、「ビタミンCのタブレットを勧められる」と苦笑いしていた(彼は師のウィリアム・リプスコムを通じてポーリングの知己を得たようだ)。

1994年のある日、私はG教授と大学のキャンパスを歩いていた。G教授が向こうから来る老人を見て「Oh-oh」と小声で言った。それは、大学の名誉副学長で、90歳を超える物理学者だった。30メートルくらい向こういるのに、G教授を見つけて、ふひゃふひゃ笑いはじめている。低い背丈に紺色のスーツ、杖をついて、私たちのほうへ足早に近寄ってくる。まばらな白髪、それでも鋭い眼、そして、頭蓋のありとあらゆる穴から煙が出ている。もうすっかり干からびた唇にタバコが挟まっている。

「聞いだが、ライナスが死んだじょ」

副学長は満面で喜んで、ふひゃふひゃ笑い、笑うと鼻の穴から煙がふひゃふひゃ出てくる。なにせ歯はほとんどないみたいで、言葉もふにゃふにゃと聞き取りづらい。

「ライナス・ポーリング、ええ、聞きましたよ、先週ですね」
「ガンだじょ、ガン」

ふひゃふひゃ

「ええ。そういう噂は聞いていたのですが」
「知っどるが、あいづはわじにタバコをやめろ、ガンになる、どいづも言っどった」

副学長はカリフォルニア出身、大学院時代以来、ポーリングと知り合いだったという。

「たしかに、副学長、吸いすぎですよ」
「あいづは、ガンににゃるのが怖ぐて、ビタミンジーをぼりぼり食っとった」
「ビタミンC」
「わじはタバコを吸ってもガンになっとだんぞ!」ふひゃふひゃふひゃ

身体中のありとあらゆる穴から、喜びの煙がふひゃふひゃ出ていた。

ライナス・ポーリングは93歳で亡くなった。長生きである。それでも、このありさまである。

ロサンジェルスでの平和デモ(1967)。前列向かって右寄り、サングラスをかけてネクタイをした人物がライナス・ポーリング。(University of California, Los Angeles. Library. Department of Special Collections, CC4.0

Notes

1)^ コダックはマンハッタン計画でオークリッジのウラン精製プラントを指揮していたという[6]。また、J・H・ウェッブは《Qクリアランス》を与えられていた[4]。映画『オッペンハイマー』でオッペンハイマーが剥奪されるセキュリティ・クリアランスである。

2)^ ここにあるアンケート結果がある。トリニティ実験が行われた数日後、シカゴの科学者たちに「原子爆弾をどのように使うべきか」という問いを投げかけ、5つの選択肢から選ばせたものだ。

(1) 我々の軍事力がこれ以上人的被害を被らず、日本の迅速な降伏をもたらすうえで最も効果的と思われる軍事的見地から、この兵器を使うべきである。
(2) この武器を実際に使う前に、日本で軍事デモンストレーションを行い、降伏する機会を与える。
(3) 日本からの代表を呼んで、アメリカ国内で実験デモンストレーションを行う。その後、武器を実際に使う前に、日本に降伏する機会を与える。
(4) この武器の軍事利用を停止する。しかし、その効果について公の場で実験デモンストレーションを行う。
(5) 我々の新兵器の開発をすべて極秘にした状態をなるべく維持し、この戦争では使用しないようにする。

アンケートの結果は以下の通りだった。

投票数

%

(1)

23

15

(2)

69

46

(3)

39

26

(4)

16

11

(5)

3

2

 

150

100

このアンケート結果を見て、いろんなことを思ってしまうのは私だけではないだろう。選択肢の言葉遣いにも敏感に反応してしまう。少なくとも5段階のグラデーションがあった議論が、時間とともにぺしゃんこにされていった、という点は重要だと思う。

3)^ ライナス・ポーリングの平和活動の源流は彼の妻のエヴァ・ヘレン・ポーリングの活動である。元々、日系人の強制収容に反対して運動していたのはエヴァだった。ある時、庭師として日系人を雇ったところを見とがめた近隣住人が落書きや脅迫をしたようである。その時にポーリング家に送られた嫌がらせの手紙がオレゴン大学のサイトにある。

References

[1]^ J. H. Webb, "The Fogging of Photographic Film by Radioactive Contaminants in Cardboard Packaging Materials," Physical Review, vol. 76, no. 3, p. 375, 1949.

[2]^ S. Philippe, S. Alzner, G. P. Compo, M. Grimshaw, and M. Smith, "Fallout from Us Atmospheric Nuclear Tests in New Mexico and Nevada (1945-1962)," arXiv preprint arXiv:2307.11040, 2023, Available: https://arxiv.org/abs/2307.11040

[3]^ P. Ortmeyer and A. Makhijani, "Let Them Drink Milk," The Bulletin of the Atomic Scientists, 1997.

[4]^ R. B. Snapp, "Summary of Relations Between the Aec + the Photographic Industry Re: Radioactive Contamination Fr Atomic Weapon Tests, Jan-Dec 1951," Declassified AEC506NO26/NV0072173, Jan. 1952.

[5]^ A. Adams, R. Teiser, and C. Harroun, Eds., "Ansel Adams: Conversations with Ansel Adams." Berkeley, CA: Regional Oral History Office, 1978.

[6]^ J. N. Stannard and J. Baalman, "Radioactivity and Health: A History," Pacific Northwest National Lab. (PNNL), Richland, WA (United States), DOE/RL/01830-T59, Oct. 1988. doi: 10.2172/6608787.