『避暑地の出来事』予告編 |
PILE DRIVER
僕がエムについて今でもいちばんよく覚えているのは、彼女が「エレベーター音楽」を愛していたことだ。よくエレベーターの中で流れているような音楽──つまりパーシー・フェイスだとか、マントヴァーニだとか、レイモン・ルフェーブルだとか、フランク・チャックスフィールドだとか、フランシス・レイだとか、101ストリングズだとか、ポール・モーリアだとか、ビリー・ヴォーンだとかその手の音楽だ。彼女はそういう(僕に言わせれば)無害な音楽が宿命的に好きだった。流麗きわまりない弦楽器群、心地よく浮かび上がる木管楽器、ミュートをつけた金管楽器、心を優しく撫でるハープの響き。絶対に崩されることのないチャーミングなメロディー、砂糖菓子のように口当たりの良いハーモニー、ほどよくエコーをきかせた録音。
村上春樹「女のいない男たち」
なぜ括弧の位置が「僕に言わせれば」の後ろで、「無害な」の後ろではないのか。
カナダ国立映画庁(National Film Board of Canada)は、1959年の夏に“Glenn Gould : Off the Record”, “Glenn Gould : On the Record”という2部のドキュメンタリーを製作する(日本では『グレン・グールド 27歳の記憶』というタイトルで2007年に公開された)1) 。後半の“On the Record”では、グールドがニューヨークの30番街にあったコロンビア・レコードの録音スタジオでJ・S・バッハのイタリア協奏曲 BWV 971を録音する様子が記録されている。このコロンビアの30番街のスタジオは、元々は教会で、極めて広い空間(周囲が30メートル、天井までの高さも30メートル追記 1)))が独特の音響を生み出した。ビートルズのアビーロード・スタジオなど、その後のレコーディング・スタジオの原型になったとさえ言われている。この30番街スタジオの歴史の中でも1959年は特筆すべき録音が数多くあった。マイルス・デイビスの「カインド・オブ・ブルー」、デイブ・ブルーベック・カルテットの「タイム・アウト」は、このスタジオで、この年に録音されている。「タイム・アウト」のなかでも有名な「テイク・ファイブ」は、グールドのイタリア協奏曲の録音(1959年6月22日~26日)の5日後の1959年7月1日に録音された [1][2]。
マックス・スタイナーは、1940年代は『情熱の航路(Now Voyager, 1942)』『カサブランカ(Casablanca, 1942)』『ジョニー・ベリンダ(Johnny Belinda, 1948)』などの作品の音楽で休む間もなく注目を集め、12回もアカデミー賞にノミネートされている。ワーナー・ブラザーズとの蜜月は1950年代半ばまで続いたが、映画そのものの質は急激に落ちていった。スタイナーは70歳に近づき、様々なイベントで「偉大」という形容詞で褒め称えられることも多くなったものの、明らかにビル・ヘイリーやエルビス・プレスリーの時代にはそぐわない《アンティーク》になりつつあった。
一人息子との確執、減らない借金、そして日々少なくなる仕事の打診 ─── スタイナーの生活は決して平穏ではなかった。そんななか、ベテラン西部劇監督のデルマー・デイヴィスの『縛り首の木(The Hanging Tree, 1959)』の音楽担当にスタイナーが起用された。デイヴィスは、この映画の撮影中に心臓発作を起こし、休養せざるを得なくなる。彼は、ロケーション中心の西部劇をあきらめ、スタジオ撮影が中心の作品で仕事するように医師から指示される。そしてデイヴィスが取り組んだ映画が『避暑地の出来事(A Summer Place, 1959)』だった [3]。
ハリウッド映画界は1950年代に入ってから、プロダクション・コードに対する不満が膨張し続け、圧力が上昇していくのをじっと耐えつつ見守っているようなところがあった。『月蒼くして( The Moon Is Blue, 1953)』のような「子犬みたいに汚れのない軽いコメディ2) 」をめぐってプロダクション・コードに反している、いや大したことはない、と大騒ぎになっていた。映画界の自縛プレイをよそに、テレビではエルビス・プレスリーが腰を振り回して物議を醸し、ナボコフの「ロリータ」、D・H・ローレンスの完全版「チャタレイ夫人の恋人」といった小説が話題になっていた。だが、ハリウッドではとても映画化できるとは思えないものばかりだった。いざ問題作がハリウッドにやってきても、まるで違うものにすりかえられてしまう。グレース・メタリアス(Grace Metalious)の小説「ペイトン・プレイス(Peyton Place)」は、米国東部ニュー・イングランドの小さな町を舞台に近親相姦、妊娠中絶、不倫などの問題を容赦ない筆致で描いてベストセラーになったが、これを二十世紀フォックスが映画化(1957年)すると、棘は抜かれ、原作の持っていた「巨大な腐敗」は描かれなかった。それでも興行成績は1100万ドルに達する大成功だった。その様子を横で見ていたワーナー・ブラザーズも同じ戦略をとることにした。それが『避暑地の出来事』である。
二人のティーンエイジャーの男女と、その両親のあいだにおこる恋愛・不倫をテーマにしたこの作品の音楽を、デイヴィスはスタイナーに依頼した。ワーナーにしてみれば、ティーンエイジャーのセックスを扱ったこの作品には、当時71歳の《偉大》なワグネリアンなどよりも、『理由なき反抗』の音楽を担当した35歳のレオナード・ローゼンマンのほうが、よっぽど適任だと思っていたが、デイヴィスが強く推したようである。
スタイナーが作曲した『避暑地の出来事』のメイン・テーマは、正直なところ「いつもの」スタイナーの作品であり、ほとんど記憶に残らない。だが、彼が若い二人のラブシーンのために書いたサブ・テーマ(Molly and Johnny’s Theme)が、「A Theme from “A Summer Place”(邦題:夏の日の恋)」として大ヒットし、連続9週間ビルボードの第1位という記録を残したのである。
この曲を聞くと、もう古臭さくてたまらない、という感じになる。ああ、1950年代。ポリエステルの時代。ミュザックを作曲している奴はまだいるかい?
しかし、この曲を1960年代に聞いて育った人間としては、これは失われた純真の時代の音なのだ。ビーチハウスで過ごした夜の思い出、それは、ディーリー・プラザ、ベトナム、そしてアメリカンドリームをぶち壊したその他すべてがやってくる前の時代だ。
Steven C. Smith [3]
スタイナー自身は、当初からこの「モリーとジョニーのテーマ」をたいして重要だと思っておらず、「使い捨て」の音楽と考えていた。アイディアは極めて単純だった。まず、全体を支えている、8分音符で刻み続ける和音だが、これは、モリーとジョニーという二人の若さ、未熟さを想起させる。
「夏の日の恋(Theme from A Summer Place)」の木管/ピアノのフレーズ |
このモチーフは、例えば子供たちがピアノで弾く「チョップスティック」という曲を連想させる。
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映画『七年目の浮気(Seven Year Itch, )』に登場する「チョップスティック」 |
あるいは、ひたすら鍵盤を叩き続けるファッツ・ドミノのピアノスタイルを意識しているのかもしれない。
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Fats Domino “Blueberry Hill” |
そして、高い音域のストリングスが「流麗極まりない」メロディを奏でる。
「夏の日の恋(Theme from A Summer Place)」の弦楽のフレーズ |
バイオリン・セクションがユニゾンで奏でるこのメロディは、全体を通して主音に戻ることがない。常に属音に戻るだけで、ふわふわと足が地につかない、ティーンエイジャーの夢見心地の恋愛の危うさを表している。このストリングスは、ラジオの電波を占有していたアンドレ・コステラネッツやパーシー・フェイスの《ライト・ミュージック》のスタイルそのものである。
つまり、これはモリーとジョニーの未熟で少し考えの足りない恋愛関係を、やや揶揄するようなモチーフ、スタイルで作られた曲なのだ。
(スタイナーは)「あれはロックンロールを茶化してるんだよ」と言っていた。「ピアノは例の陳腐なやつさ:チャチャチャチャチャチャ…」あの和音を思いついたら、スタイナーはそれに綺麗なメロディをつけなきゃ気が済まなかったんだ。
John W. Morgan
Quoted in [3]
この曲のポテンシャルを見抜いたのは、ワーナーの音楽部部長のヴィクター・ブラウだった[3][4]。映画がポスト・プロダクションに入った1959年の7月、ブラウはこの曲のプロモーションに奔走していた。歌詞をつけたバージョンも準備された。しかし、ブラウ以外は誰もこの曲のことなど気にかけていたなかった。スタイナーも気にかけていなかった。
グレン・グールドの新しいアルバムの録音は、イタリア協奏曲の録音で完了したはずだったが、5月に録音がすんでいたはずの「パルティータ第1番 BWV 825」を再度録音しなおすことになる。そのグールドの録り直しの10日ほど前に、あるオーケストラが1日だけ30番街スタジオを使ってシングル・レコードを録音していた。パーシー・フェイス・オーケストラの「夏の日の恋(Theme from A Summer Place)」の録音は1959年9月11日に行われた [2]。パーシー・フェイスとディレクターのアーネスト・アルトシューラー、エンジニアのハロルド・チャップマンはいくつかのバージョンを録音し、結局「かなりビートの効いたバージョン」を採用することにした [5]。
パーシー・フェイス・オーケストラの「夏の日の恋」は10月に発売された。映画そのものの一般公開の1か月も前で、誰の注意も引かなかった。
『避暑地の出来事』の先行公開は10月22日に行われたが、批評家たちの反応の多くはひどいものだった。特にニューヨーク・タイムズのハワード・トンプソンは容赦なかった。「ここ何年かで久しぶりに見る、最も手の込んだ、派手な、セックス臭い映画」と罵った。
それに、セックスの匂いがするたびに、杭打機のようにぶち込んでくるマックス・スタイナーの音楽は、実に典型的だ。
Howard Thompson
「Molly and Johnny Theme 夏の日の恋」は、天上の音楽とかではない。セックスの匂いがするたびに杭打機のようにぶち込まれてくる音楽なのだ。実際「夏の日の恋」は映画の中で20回以上も登場する。批評家はそんなことを言っているが、もちろん一般の観客はパイル・ドライバーがぶち込んでいるのを喜んで観に行った。
しかし、1959年のPCA公認のハリウッド映画である。「セックス臭い」と言っても、セックスなど、ほとんど、いや全く描かれていないに等しい。
公開当初の11月から12月にかけてはダウンタウンの封切り劇場で興行成績を伸ばしていたが、ここは入場料が高い。年があけて1月からは、郊外の小さな、入場料の安い二番館、三番館での上映が始まり、ローティーンの若者が押しかけ始めた。パーシー・フェイス・オーケストラのレコードが売れ始めたのは、この頃からだった。そして2月22日に売り上げトップにのし上がった。つまり、この曲のヒットを作った主体はローティーンだったのである。パイル・ドライバーの効果は絶大だった。
映画『避暑地の出来事』がチケットの高い中心街地域の映画館を離れ、周辺地域の安い映画館で上映されるようになると、観客層が若くなり、その若い層がテーマ音楽にも接するようになった。これがこのレコードの売り上げ上昇に貢献したのは間違いない。
Harry Bacas [5]
それからビルボード・ホット・100で9週間トップの座を占めていた。この記録はビートルズの「ヘイ・ジュード Hey Jude」も9週間でタイ、1977年に「恋するデビー You Light Up My Life」がようやく10週間トップに君臨するまで破られなかった。パーシー・フェイスのシングルは後年「ロックの時代に最も成功したインストゥルメンタル音楽」と呼ばれ、さらに多くのミュージシャンが録音し、レコードはトータルで700万枚売れた(そのうちパーシー・フェイス版が300万枚)。破産寸前だったスタイナーは、息を吹き返した。
今となっては、まずこの曲のメロディを聞いたことはあっても、タイトルが「夏の日の恋 Theme from A Summer Place」だと知っている人はかなり少ないだろう。そのわずかに知っている人たちでさえ、この曲はパーシー・フェイスの曲だと思っているのではないか。マックス・スタイナーの作曲だと知っているのは、本当に物好きな人だけに違いない。その人たちにしても、大ヒットしたパーシー・フェイスのバージョンのアレンジはパーシー・フェイスの手によるものだと思っているはずだ。ところが、映画で使用されたマックス・スタイナーと編曲者マレー・カッターのオリジナル版とパーシー・フェイス版は、オーケストレーションやアーティキュレーションにおいて、ほとんど変わらないのである。このヒット曲は、マックス・スタイナーがアレンジも含めて作り上げていたものだ3) 。
1950年代にフランスの映画評論家たちに絶賛されたアメリカの映画監督のなかで、いちばん忘れ去られてしまったのはデルマー・デイヴィスだ。なぜだろう?彼の映画作家としての真の業績、才能とは関係ない。不幸にも彼のキャリアの最後はワーナーのメロドラマシリーズ(a string of Warners sudsers)で、どうにも意欲に欠けたものだった(視覚的にはなかなか目を見張るものがあるのだが)。彼の傑作のいくつかは西部劇なのだが、このジャンルは今となっては評判が悪い。彼はノワールの領域にはあまり入り込まなかったが、いざやると型破りすぎて分が悪い。さらに悪いことには、彼は1977年に亡くなるまでインタビューというものをほとんど受けていない。結果的に彼の傑作は上映されることが少なく、DVDにもならない。
Bertrand Tavernier [6]
タヴェルニエのいう、意欲に欠けた一連のメロドラマ(ソープ・オペラ)とは、1959年の『避暑地の出来事』から『湖愁(The Battle of the Villa Fiorita, 1965)』までの作品を指しているが、これらはデルマー・デイヴィスのフィルモグラフィのなかでもすこぶる評判が悪い。横暴なスタジオのせいで、トロイ・ドナヒューを起用せざるを得なかったのだと好意的に見る者はまだ良心的で、ジャン=ピエール・クルソドンは「ほぼ芸術上の自殺行為」と呼び [7 p.87]、アンドリュー・サリスに至っては全部ひっくるめて「知的真空の中で形式性を喜ぶ人向け」と罵倒している [8 p.176]。
デルマー・デイヴィスが「知的真空の中の形式性」を監督していたころ、スーザン・ソンタグが「《キャンプ》についてのノート」というエッセイを発表する。振り返ってみれば、ソンタグが《キャンプ》と呼んでいたものは、デイヴィスの一連のメロドラマそのものだったのかもしれない。「キャンプと(いう感性)は、人工性(artifice)、形式(stylization)という観点によるもの」「形式を重んじて内容を軽んじる」「人工的なものが最大の要素」「キャンプとはすべてを括弧つきでみること、女性、ではなく『女性』」── 例えば『避暑地の出来事』でのトロイ・ドナヒューとサンドラ・ディーのファーストキスのシーンの不自然さ(artifice)は、純度の高い《キャンプ》の結晶だと呼んでいい。スーザン・ソンタグのエッセイを受けて、ニューヨーク・タイムズのトーマス・ミーハンが書いた記事には「ピュア・キャンプ」としてデイヴィスの『二十歳の火遊び(Parrish, 1961)』が挙げられている [9]。デイヴィスが一連のワーナーのメロドラマに極めて真剣に取り組んでいた経緯については、Matthew Carter と Andrew Patrick Nelson が詳しく論じている [10]。
マックス・スタイナーの「夏の日の恋」も《キャンプ》の感性に訴えかける楽曲だ。おそらく、その《キャンプ》が当初の大ヒットを経験した後も長く生き残った理由だろう。冷戦の現実が深刻化するなかで、この曲は無防備な純粋さを、あるいは意図的に現実を欺く能天気さを表象するもののように取り扱われてきた。その後のミュージック・ビジネスが個性、才能、差異、反逆を称揚するなかで、この曲は同化、凡庸、体制への従順を体現しているとあしらわれた。「音楽がわかっている」と自認する人々は、その言葉がどんな含意を持っているかを考えることもなく(あるいは完全に理解したうえで)「エレベーターミュージック」と冷評した。そのねじれた存在は《soundtrack dissonance》を作り出すには極めて有効に作用する。『地球最後の男オメガマン(The Omega Man, 1971)』ではアポカリプス後の世界のBGMとして、カーステレオの8トラックテープから再生される。
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『地球最後の男オメガマン(The Omega Man, 1971)』のオープニング |
かつてティーンエイジャーの衝動的な恋愛を体現していた和音とメロディーが、人類の滅亡を不協和的に強調する。
また、ティム・バートンの『バットマン(Batman, 1989)』では、ジョーカーがヴィッキ・ヴェイルに話しかけるときのBGMとしてブームボックスで再生される。
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『バットマン(Batman, 1989)』 |
ここでも凶暴なキャラクターと不協和的に対置させて、描かれている暴力の強度に別の軸を与える役割を担っている。
『コン・エアー(Con Air, 1997)』のこのシーンになると、明らかに暴力を笑いに変換させるために使われている。
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『コン・エアー(Con Air, 1997)』 |
しかし、近年は《キャンプ》を愉しむ感性も変化しつつあるようにみえる。『シェイプ・オブ・ウォーター(The Shape of Water, 2017)』のなかで、アンディ・ウィリアムズ版の「夏の日の恋」が流れるとき、それはレトロSFの世界をつくるためのピースとしての役割を果たしていて、『コン・エアー』のような露骨で粗末な不協和的対置法はなりをひそめつつあるように感じる。
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『シェイプ・オブ・ウォーター(The Shape of Water, 2017)』 |
実は、大ヒットした「夏の日の恋」を諧謔的な文脈で最初に使ったのは、マックス・スタイナー本人だった。『避暑地の出来事』の一年後、同じくデルマー・デイヴィスと組んだ『スーザンの恋(Susan Slade, 1961)』で、「夏の日の恋」は若者たちのデートパーティのシーンに登場する。ポータブル・ラジオが映し出され、この曲がかかっているなか、複数のカップルが周囲のことなどそっちのけで抱擁しキスしている。スタイナーは、自分の作曲した曲がどのように《消費》されているかに意識的で、それをいち早く示して見せたのである。
そして、この曲がラジオでかかっているというのが、重要である。
Notes
1)^ “Glenn Gould : Off the Record”, “Glenn Gould : On the Record”は、カナダ国立映画庁のYouTubeチャンネルで視聴可能である。
2)^ ボルチモア市裁判所の判事、Herman M. Moser の言葉 [11]。『月蒼くして』を上映禁止にしたメリーランド州の検閲委員会の決定を覆した。
3)^ 前述のように、このテーマは映画全体を通して20回以上登場し、アレンジ/オーケストレーションも複数ある。パーシー・フェイス版のもとになったバージョンはトロイ・ドナヒューとサンドラ・ディーが遠距離電話で会話するシーンに登場する。ほかのシーンで登場するアレンジは、それぞれ楽器の割り当てやメロディーに違いがあり、スタイナー/カッターの(若干意地悪な)意図が透けて見えるようなものもある。後半、ビーチで二人が密会するシーンでは、主旋律をエレキギターが演奏し、ストリングスはC6を長音で50秒も弾き続けるという、…(他に良い言葉が浮かばないが)「えげつない」アレンジもある。
追記 1)^ [2024.12.8 追記]30番街スタジオのサイズについて、この数字が常に引用されてきていたが、おそらくこれは間違いだろうという指摘がある。天井までの高さは15メートルではなかったか、という見解が最近では見られる。
References
[1]^ S. Revel, "Glenn Gould: A Life Off Tempo." NBM, 2016. Available: https://books.google.com?id=vu9uDQAAQBAJ
[2]^ D. Simons, "Studio Stories: How the Great New York Records Were Made: From Miles to Madonna, Sinatra to the Ramones." San Francisco : Backbeat, 2004.
[3]^ S. C. Smith, "Music by Max Steiner: The Epic Life of Hollywood’s Most Influential Composer," Illustrated edition. New York City: Oxford University Press, 2020.
[4]^ "Media Studies at the Crossroads | Arts & Sciences," Mar. 11, 2016. https://web.archive.org/web/20241110114804/https://artsci.washu.edu/ampersand/media-studies-crossroads (accessed Nov. 10, 2024).
[5]^ H. Bacas, "Top Tunes - ’Summer Place’ Theme Is A Big Surprise," Evening Star: Teen, Washington D.C., p. 2, Feb. 14, 1960.
[6]^ B. Tavernier, "The Ethical Romantic," Film Comment, Jan.–Feb. 2003. Available: https://www.filmcomment.com/article/delmer-daves-bertrand-tavernier/
[7]^ J. P. Coursodon, "American Directors," vol. 1, 2 vols. New York, N.Y.: McGraw-Hill, 1983.
[8]^ A. Sarris, "The American Cinema; Directors and Directions, 1929-1968." New York, Dutton, 1968.
[9]^ Meehan, "Not Good Taste, Not Bad Taste - It’s ’Camp’," The New York Times, p. 110, Mar. 21, 1965.
[10]^ M. Carter and A. P. Nelson, "Introduction: 'No One Would Know It Was Mine': Delmer Daves, Modest Auteur," in ReFocus: The Films of Delmer Daves, M. Carter and A. P. Nelson, Eds. Edinburgh University Press, 2016.
[11]^ "Modernization of Production Code Advocated by Goldwyn," Harrison’s Reports, vol. XXXVI, no. 1, p. 1, Jan. 02, 1954.
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