『12人の怒れる男』 1957年映画版の予告編より |
1950年代の有名なハリウッド映画の一つに「十二人の怒れる男(12 Angry Men, 1957)」がある。レジナルド・ローズの原作脚本、ヘンリー・フォンダが主演し、シドニー・ルメットが監督した法廷ドラマで、陪審員室での12人の陪審員の白熱していく議論を描く密室劇だ。「陪審員制度の原則をこれほど明晰に表現したものはない」「密室での緊張を描き切った」「俳優たちの迫真の演技が印象的」と一般的には評価は高い。もちろん、蓮實重彦は「三流以下」と切り捨て、映画の「叛乱」が敗北に終わっていると宣言しているが、多分ほかに論じたいことがなかったからだろう。それよりも川本三郎の「東部知的エリートとアメリカ大衆という構図」に基づいた批判のほうが、あの映画にそこはかとなく流れる《スノビズム》を言い当てているような気がしていた。
この映画は、ヘンリイ・フォンダ、シドニー・ルメットというコンビからわかるように徹底して東部インテリ的視点で作られている、(『ケイン号の叛乱』の)反乱将校たちの映画である。そして、それ故に、非常にヒューマンな映画である。ヒューマンであるが故に、この映画は、(『ケイン号の叛乱』の)ホセ・ファーラー、ハンフリー・ボガートの立場を無視した。
川本三郎 [1,p.186]
川本は、その核心に赤狩りを置く。東部インテリたちがリベラル思想を展開しようとしていたその矢先、アメリカ大衆はマッカーシーに煽られてスケープゴートを探した、それが赤狩りだという。そして、『十二人の怒れる男』は「東部のインテリたち」─── ヘンリー・フォンダ、シドニー・ルメット、レジナルド・ローズによる、赤狩りを支持した大衆へのしっぺ返しとなる。川本はさらに『イージー・ライダー(Easy Rider, 1969)』に論を進め、ニューシネマの現実認識は、前の世代のフォンダやルメットより深いところにあり、「東部のインテリ自身のなかに、加害者意識を感じとっている」という。「そして誰よりもケネディが、ベトナム戦争を遂行した」と指摘する。
この批判は、細部においてはやや強引な印象をぬぐえないが、それでも大筋においてそれほど間違っていないのではないかと私は思っていた。だが、最近、その大筋においても、実は的が外れているのではないかと思うようになった。
日本語版の Wikipedia にも記載されているが『十二人の怒れる男』は最初テレビドラマとして制作され、1954年9月20日に放送された。驚異的なことに、放映は生放送で、スタジオ内でのCMスポットも含めて全てライブで行われた1) 。その完全版のキネスコープが比較的最近になって発見されたことも Wikipedia には記載されている。完全版とは、番組のアタマから最後まで、CMスポットも含めた、当時の放送そのものを完全に記録したものだ。この完全版を見たとき、私は最初から面食らってしまった。番組のスポンサーはウェスティングハウス、番組のタイトルも“Westinghouse Studio One”である。しかも、タイトルのあとに始まるウェスティングハウスのプロモーションCM(これだけはあらかじめ準備されたフィルムを使用している)の最初の映像が戦闘機なのだ。マグダネル社のF3H。ウェスティングハウスは、この戦闘機のJ40というターボエンジンを開発・製造していた2) 。CMのキャッチコピーは、“YOU CAN BE SURE … IF IT’S Westinghouse”(ウェスティングハウスなら間違いない、くらいの意味)で、戦闘機やエレベーターや巨大なジェネレーターを製造している会社だから、ご家庭の冷蔵庫や洗濯機もウェスティングハウス製を買えば間違いありません、ということだ。アメリカの原子力産業の要であり、軍事用原子炉、原子力潜水艦の動力部などを開発・製造していた。つまり「十二人の怒れる男」のオリジナルTV放映は、冷戦のレトリックの枠組みのなか ───言い換えれば、赤狩りを推進する陣営の側─── で行われたということである。
“Westinghouse Studio One” オープニングのプロモーションCMに登場するF3Hジェット戦闘機 |
たかがスポンサーじゃないかと思われるかもしれない。しかし、“Studio One”で取り上げられるテーマについては、ウェスティングハウスが最終決定権を握っていた[2,p.47]。番組制作側のスタッフは、早い段階でスポンサーの意向をくみ取る。レジナルド・ローズによる別のオリジナルTVドラマ脚本“Thunder on Sycamore Street”は、近隣住民から差別され憎悪と暴力を受ける家族の話だが、当初は黒人が差別を受ける主人公だった。しかし、“Studio One”の脚本編集者フローレンス・ブリトンは、ウェスティングハウスのビジネス、特に南部でのビジネスや企業イメージに影響がでることを危惧して、却下した[3,p.516-517]。ドラマ化されたバージョンは、前科者とその家族、という設定になっている。いわゆる《社会反映論 reflectionalism》的なアプローチで映像批評をするのはためらわれるが、少なくともTV番組においては、スポンサーの介入による表象の制御は常に行われてきたし、その制御がスポンサーの考える視聴者の嗜好を反映していたのはよく知られていることだ。
オリジナルのTV放映を見るかぎり、「十二人の怒れる男」が《東部のインテリたち》による赤狩りへのしっぺ返しという読解は生まれにくい。映画版ではリー・J・コッブが演じた陪審員3番を、オリジナルTVドラマでは全く違うタイプのフランチョット・トーン3) が演じている。むしろ、CMスポットも含めて、体制側のスポンサーとTVネットワークの資本の基礎の上に成り立った娯楽だったのだ、ということを再認識させられる。
もう一つ、あまり知られていないが、この作品の政治的立場を考えるうえで非常に重要な出来事がある。「十二人の怒れる男」の放映(1954年9月20日)のわずか2週間後の10月3日に、ほぼ同じストーリー、同じ設定の物語がNBCの“Loretta Young Show”で30分ドラマとして放映されているのである4) 。タイトルは“Beyond A Reasonable Doubt”といい、これも幸運なことに映像が現存している。やはり殺人事件の裁判の話で、陪審員室の陪審員たちの議論のみで展開する。12人いる陪審員の中で、ロレッタ・ヤング演じる女性が1人だけ有罪に投票しない。残りの陪審たちと険悪になりながらもヤングが「合理的な疑い」を軸に譲らない、というところも全く同じである。この番組と「十二人の怒れる男」を比較するうえで重要なのは、ロレッタ・ヤングがハリウッドの共和党勢力の一人であり、赤狩りの推進側にいたことである。つまり、「十二人の怒れる男」の物語自体は、体制側、保守派、反共陣営がアメリカの司法制度について再確認したかったこと ───アメリカの司法制度は最も民主的で、しかも機能しているということ─── を語る物語なのだ。
確かに映画版の『十二人の怒れる男』を、ハリウッド映画界の要約的歴史観 ──ヘンリー・フォンダ、シドニー・ルメットといった《東部インテリ/リベラル派》対《赤狩りを推進した大衆》── で解釈すれば、川本三郎のような論も成り立つかもしれない。しかし、それは映画の政治を映画だけから読み取り、民主党支持者をインテレクチュアルと読み違えた議論のように思える。東海岸のインテリ層(クリスチャン・サイエンスの家庭で厳格に育てられたヘンリー・フォンダがそれに当てはまるのか、はなはだ疑問だ)と、蒙昧な大衆、といった対立的構図では決して見えてこない部分がある。
Loretta Young Show (1954) “Beyond a Reasonable Doubt” Season 2, Episode 6 |
では振り返って、冷戦の時期に、アメリカを代表するコングロマリットがスポンサーのTV番組で、なぜそんな物語を語る必要があったのか。
原作脚本を書いたレジナルド・ローズ(Reginald Rose, 1920 - 2002)は、実際に陪審員として裁判に参加した経験が、このストーリーのインスピレーションだったと語っている[2,p.57-70]。おそらくそのことは本当だろう。一方で「十二人の怒れる男」は「1954年春に行われた下院非米活動委員会(HUAC)の公聴会から生まれた」とする意見もある[4]。この公聴会は、マッカーシーが陸軍のなかに共産党のスパイがいると糾弾して、有権者や他の政治家の支持を一気に失うきっかけとなったものである。確かにこの公聴会がTV中継されたことも手伝って、マッカーシーとロイ・コーンの説得力のない詭弁や中傷に対する反感が国民のあいだに広がったのは事実だ。だが、陸軍公聴会における「魔女狩り」が、そのまま「十二人の怒れる男」の陪審員たちの議論に反映されているとは言い難い。むしろ冷戦のヒステリアの別の側面が、「十二人の怒れる男」やロレッタ・ヤング・ショーの背景に見え隠れしているように思う。
「十二人の怒れる男」のTV放映の前年、ローゼンバーグ夫妻が処刑された。この裁判については、アメリカ国内でも疑問の声を上げる者が少なからずいた。夫妻の無実を訴える者や少なくとも妻のエセルに関しては証拠不十分だろうと主張する者も多く、またアメリカ社会に潜む反ユダヤ主義をメディアや司法が利用したと感じる人々もいたようである(もちろん、ヴェノナ文書の存在が明らかになるのは40年後の事である)。一方で、ローゼンバーグ夫妻の処刑の3か月前に、ソビエト連邦でラブレンチー・べリアが処刑された。彼はスターリン時代に粛清を推進した張本人の一人だが、スターリンの死後にフルシチョフらによって失脚させられ、弁護人もいない特別法廷で一方的に死刑を宣告されたと報道された。この二つの死刑判決の違いは、ローゼンバーグ裁判が陪審員制度に則った民主的な裁判であったのに対し、べリアの裁判は一方的なカンガルー裁判でしかなかったという点だ。
「十二人の怒れる男」は「アメリカの陪審員制度は機能している、多元主義のもとに正義が行われている、だからアメリカの裁判は公平なのだ」という極めて現状肯定的な作品であり、冷戦のロジックを支持するものだ。だからこそ、ウェスティングハウスの番組で放送され、ジェット戦闘機と共存できたのではないだろうか。1950年代に製作された《法廷ドラマ》の数々 ───有名なハリウッド映画だけでも『暗闇に響く銃声(The People Against O’Hara, 1951)』『ケイン号の叛乱(The Caine Mutiny, 1954)』『条理ある疑いの彼方に(Beyond a Reasonable Doubt, 1956)』『検察側の証人(A Witness for Prosecution, 1957)』『或る殺人(Anatomy of a Murder, 1959)』などが挙げられる─── が様々な矛盾を抱えつつも、最終的には法のシステムが機能する様子を繰り返し描いているのは、アメリカの《民主主義》の優位をこのようなかたちで表現することがクリシェとして機能し得たからではないだろうか。
「私たちは武器を作っているのだから、信頼できる企業だ」と高らかに謳う広告と、敵と違って私たちの国は正常に機能している、と語るドラマ。そんな時代を《純朴》と呼ぶのは、どこかで目を背けているからだろう。
Notes
1)^ 当時、ネットワークTV放送の中心地はニューヨークだった。そこで行われる生放送の番組を国内全域に届けるのは至難の業だった。長距離のリレーを通しても生放送を受信できる地域は中西部から山岳部で、西海岸への送出が困難だったこと、また東海岸と西海岸では3時間の時差があること、から、生放送をキネスコープで撮影し、それを現像して、西海岸ではキネスコープを使って番組放映する、ということが行われていた。特にロサンジェルスにマイクロ波を使ってTV信号を送り、それを受信したTV支局がキネスコープを使ってフィルム撮影、すぐに現像して、東海岸と同じ時間枠で(すなわち3時間後に)放映するということが行われた[5,p.25]。これを《ホット・キネスコープ》と呼んだ。初期のTV番組の多くの映像が残っているのは、このキネスコープのおかげである。
2)^ ウェスティングハウスのJ40ターボジェットエンジンは信頼性が低く、トラブル続きだった。結局、このCMが放映された翌年、1955年に海軍がF3Hをすべて飛行停止にし、そのままエンジンの使用が中止された。ウェスティングハウスは、ジェット機のエンジンビジネスから撤退せざるを得なくなった。
3)^ フランチョット・トーンは、ハリウッドで実質的にブラックリストされており、1950年代はニューヨークに移住してTVで活躍していた。
4)^ この奇妙な偶然については、当時の新聞でも取りざたされている。新聞の報道によれば「ロレッタ・ヤング・ショー」はハリウッドで放映の数週間前にフィルム撮影されている番組で、ヤングの番組が“Studio One”の脚本を真似したわけではない、単なる偶然だとしている[6]。
References
[1]^ 川本三郎., "映画の戦後." 東京: 七つ森書館, 2015.
[2]^ P. Rosenzweig, "Reginald Rose and the Journey of 12 Angry Men." Fordham Univ Press, 2021. Available: https://books.google.com?id=Edk6EAAAQBAJ
[3]^ J. Kisseloff, "The Box: An Oral History of Television, 1920-1961." New York : Viking, 1995.
[4]^ R. Munyan, "Reginald Rose: A Biography," in Readings on Twelve Angry Men, Greenhaven Press, 2000. Available: https://books.google.com?id=j97dPgAACAAJ
[5]^ A. Schneider, "Jump Cut!: Memoirs of a Pioneer Television Editor." McFarland, 1997. Available: https://books.google.com?id=E8CA1I9l5QQC
[6]^ "TV Key Mailbag," Brooklyn Eagle, p. 19, Dec. 02, 1954.
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