イギリスのJ・アーサー・ランクはわずか10年で巨大映画コングロマリットを造り上げた。 しかし、アメリカ市場への進出計画は頓挫する。
『老兵は死なず(The Life and Death of Colonel Blimp, 1943)』
監督: マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー
製作: ジ・アーチャーズ
アメリカではイーグル=ライオン・フィルムズが配給した。

J・アーサー・ランク

第二次世界大戦が始まった時、J・アーサー・ランク(J. Arthur Rank, 1888-1972)は、イギリス国内の映画製作と興行において極めて大きな影響力を持っていた。当時のイギリス国内の映画市場は、ABC(Associated British Cinemas)とランク・オーガニゼーション(Rank Organization)の2社によってほぼ独占されていたと言っていいだろう。特にランクの組織は、映画製作、配給、劇場、そして装置販売に至るまで広く映画産業に関わっており、ハリウッドの映画会社に相当する規模といわれていた。下の図は、1944年のモーション・ピクチャー・ヘラルド誌に掲載されたランク・オーガニゼーションの組織図を復元したものである[1]。ランクは、この組織を一から作ったわけではなく、1930年代に買い漁って集めてきたのだ。かつてアルフレッド・ヒッチコックが在籍したゲインズボロ・ピクチャーズ、『ヘンリィ五世(Henry V, 1944)』や『邪魔者は殺せ(Odd Man Out, 1947)』などで知られるトゥー・シティーズ・フィルム、そして独立プロデューサーのマイケル・パウエルとエメリック・プレスバーガーのコンビ、《ジ・アーチャーズ The Archers》などがランクの下で製作を行っていた。配給はゴーモン=ブリティッシュ、ジェネラル・フィルム、劇場チェーンはオデオンとゴーモンが核となってランクの映画帝国を形成していた。

ランク・オーガニゼーション
Motion Picture Herald 1944.12.16 [1]

J・アーサー・ランクの父のジョセフ・ランクは、小麦粉生産の機械化と流通拡大で成功した実業家である。イギリスの小麦粉市場は、安価なアメリカ製品に脅かされていたが、それを「良質な英国産小麦」で守るという使命感に突き動かれて、製粉機の開発に投資していったといわれている。また、ジョセフはメソジスト教会の敬虔な信者でもあり、自分の会社の社員をメソジストに改宗させることにも熱意を燃やしていた。ジョセフの三男であるJ・アーサーは、父の会社を継承しつつ、この布教活動にのめりこんでいった。始まりは、教会の日曜学校のために買った映写機だった。そして1933年頃から宗教映画の製作に関わっていく。

J・アーサー・ランクが乗り込んでいった1930年当時の英国映画界は混沌としていた。いわゆるクォータ・クイッキー1) が氾濫していた時代である。イギリスのドキュメンタリー映画製作の中心的存在だったジョン・グリアソン(John Grierson, 1898-1972)は、英国の映画産業をアメリカの映画会社から保護するために作られた1927年のクォータ制が、当のハリウッドの映画会社によっていかに悪用されたかを次のように端的に表現している。

(クォータ制が導入される前、アメリカの映画会社は)壮大なスケールの帝国商人であり、大英帝国は、アメリカの映画会社にとって、二世代ほど前のベルギー領コンゴに匹敵するほどのおいしい搾取ができる植民地だった。… 彼らは、1927年の保護法の導入に伴って、その法的義務を最低価格でやり過ごしたのである。アメリカの映画会社は、1フィート当たり1ポンド、1作品当たり5000ポンドあまりで(イギリスの映画製作者に)イギリス映画を作らせていた。映画製作の高いコストを考えれば、これがいかに餓え死にしそうな金額かわかるだろう。彼らは、イギリスの技術者たちを意図的に搾取し、嘲笑していたのだ。イギリスの監督たちの顔を、貧しくて過酷な製作環境に擦り付けてグリグリとやっていたのだ。

John Grierson [2]

当時のイギリスの保守的な支配階級からすれば、英国映画界は経営的にも、文化的にも破綻したところだった。ハリウッドの映画会社がクォータ制を表面上は遵守しながら、英国映画製作者を搾取しているクォータ・クィッキーのような映画が氾濫する一方で、アレクサンダー・コルダ(Alexander Korda, 1893-1956)のような外国勢が英国の閉鎖性に守られて好き勝手やっている、そんな風に見えていた。ランクは、製紙業で巨万の富を築いていたウィンダーム・ポータル(Wyndham Portal, 1885-1949)とともに、実業家の常識的な感覚で経営すれば英国の映画産業を立て直せる、と考えていたという。

ランクは、この英国映画界の混乱を利用して、あるいは、混乱を鎮めて統制を敷くべく、数多くの映画スタジオや配給会社、劇場チェーンを買い漁った。その結果、上の図のような巨大なコングロマリットを作り出したのである。

1939年9月の第二次世界大戦開戦は、英国映画界のみならず、英国のエンターテインメント業界全体に深刻なダメージを与えた。英国政府は、開戦とともにエンターテインメント関係の施設を没収した。映画会社、製作スタジオももちろんそのなかに含まれていた。スタジオの敷地は軍需物資の資材置き場と化し、多くの技術者が職を失ってしまう。このように戦争で苦境に陥ったイギリスの映画界の再建のために尽力した者たちがいた[3 Chapter 2]。ガブリエル・パスカル(Gabriel Pascal, 1894-1954)は『ピグマリオン(Pygmalion, 1938)』のあとも、ジョージ・バーナード・ショウの戯曲の映画化を手掛け、『バーバラ少佐(Major Barbara, 1941)』をドイツ軍の爆撃の中で完成させた。サム・W・スミス(Sam W. Smith, 1888-1945)とハーバート・スミス(Herbert Smith, 1901-1986)のスミス兄弟は、デンハム・スタジオやブリティッシュ・ライオン・フィルムズを設立して『軍旗の下に(In Which We Serve, 1942)』などの製作に貢献した。映画監督として有名なアンソニー・アスキス(Anthony Asquith, 1902-1968)の母親マーゴットが政界の有力者たちに助力を求めたという噂もある(マーゴットの夫は元首相のハーバート・ヘンリー・アスキス)。そして、ランクも『老兵は死なず(The Life and Death of Colonel Blimp, 1943)』などの《良質な》プロパガンダ映画を作り出していった。

『天国への階段(A Matter of Life and Death, 1946)』
戦後世界への再生の物語。

アメリカでイギリス映画は売れない

イギリス国内市場の独占を疑われて調査を受けるほどの巨大な映画コングロマリットに成長したランク・オーガニゼーションだが、J・アーサー・ランクはさらに市場を拡大することをもくろんでいた。彼の次の標的は、戦争で荒廃したヨーロッパ大陸と世界中に広がる英語圏の国々だった。英語を公用語としているコモンウェルス(大英帝国圏)に対して帝国の威厳を押し付けるのは、たやすいだろうと踏んでいたが、最大の課題は、ほぼ手つかずの最大の英語圏市場、アメリカだった。だが、ここはハリウッドが映画市場を独占し、海外の作品が入り込む隙は全く無かった。イギリスの映画産業は、一方で国内市場をハリウッドの映画会社に好きなように食い散らされ、もう一方でまったく相手の市場に食い込めないでいたのである。不均衡な産業構造というばかりでなく、これは大英帝国の誇りに関わる問題だった。

この大英帝国が、ハリウッドとかいう場所から教育を受けているとか、考えるだけでも空恐ろしい。

James Parr
British Empire Film Institute [4]

マイケル・バルコン(Michael Balcon, 1896-1977)は「アメリカでイギリス映画を上映するよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とコメントしている。金持ちが神の国に入ることと、イギリス映画がアメリカで公開されることを引喩的に比較する、ずいぶんな皮肉である。プロデューサーのヒュー・スチュワート(Hugh Stewart, 1910-2011)は、第二次世界大戦が終わる直前、ルイ・B・メイヤーが「俺の目の前で、ランクがユニオン・ジャックを振り回すのだけは許さない」というのを聞いている[3 Chapter 3]。このあからさまな反英感情は、ハリウッド全体に蔓延していた。ランク・オーガニゼーションの組織図をモーション・ピクチャー・ヘラルド誌が掲載しているのも、アメリカ市場に乗り込もうとしているランクを警戒している表れであろう。

トーキー導入以降、イギリス映画がアメリカの市場で苦戦している理由として頻繁に挙げられていたのが、アメリカの観客の《英国訛りブリティッシュ・アクセント》に対する拒否感である。

男優、女優、ラジオのアナウンサーが話す、実に不快極まりない英国訛りなんかよりも、メイ・ウェストの純粋なブルックリン訛りのほうを聞いていたい。

Prof. William Greet,
Editor of “American Journal of Speech” [5]

確かに、トーキー導入直後、ハリウッドのメジャースタジオは、発声や発音の訓練を受けた英国俳優と数多く契約を結んだ。しかし、トーキーの目新しさも薄れてきたころには、観客は必ずしも《英国訛り》を好んでいるわけではない、と噂されるようになった。英国俳優たちがいそいそと《脱母語化》に励んでいる、と当時のハリウッド記者が面白おかしく報告している[6]。アメリカ国内の観客が実際に英国訛りを嫌っていたかどうかは伝聞の域を出ない。本当に嫌っていたのならば、チャールズ・ロートン、ジェームス・メイスンやローレンス・オリビエが人気俳優になることもなかっただろうし、シャルル・ボワイエやピーター・ローレの《訛り》の使われ方を見る限り、映画のストーリーや舞台、それに自分たちの(偏見も少なからず含まれている)嗜好にあっていれば、観客は外国訛りを喜んで受け入れていたと思われる。英国訛り嫌いの話も、英国映画の侵入に対する牽制としてハリウッドが作り上げた笑い話の類だったのかもしれない。

ランクのアメリカ進出

だが、ランクの決心は固かったようだ。まず、1944年2月、J・アーサー・ランクは第二次世界大戦後の映画市場を見据えて、二つの配給会社を設立する[7]。一つはイーグル=ライオン・ディストリビューターズ(前記事の表中の①)で、これは大英帝国圏と中央ヨーロッパを市場としてイギリス映画を配給する。もう一つはイーグル=ライオン・フィルムズ(前記事の表中の②)で、これは南北アメリカ大陸と極東を市場として、映画を配給する。アメリカのイーグル=ライオン・フィルムズは全国に31の取引所を設けて主要都市の劇場への配給を可能にする。

だが、このイーグル=ライオン・フィルムズが思ったように機能しなかった。理由の一つは、ランクはアメリカ国内に劇場チェーンを持っておらず、五大メジャーが支配する配給網に簡単に食い込むことが出来なかったことである。もう一つの理由は、アメリカ国内での配給実績がないために、第二次世界大戦中にアメリカ政府が実施していた生フィルムの配給(この生フィルムの配給に関しては拙著「FILM NOIR REVIEW 暗黒映画批評 II」に詳細に記述した)が受けられないという事態だった。結局、ランクは、アメリカの映画会社と提携する必要に迫られることになる。彼は傘下のトゥー・シティ・フィルムズの製作体制、ゴーモン・ブリティッシュ社の配給能力を交渉のテーブルに載せて、英国内での製作・配給と引き換えに、アメリカでの配給パートナーを探そうとしていた。最初に交渉のテーブルについたのは二十世紀フォックスだった[8]。1944年の5月のことである。フォックスは英国内でクオータ映画を製作し、その英国内での配給・興行をランクに依頼する一方で、ランクの映画をアメリカ国内のフォックス系劇場チェーンで上映する、という契約が議論された。ユニヴァーサル、そしてユナイテッド・アーチスツも同様の取引の交渉に入った。結局、フォックスはクオータ映画の製作と配給のみの契約になり、ランクのトップクラスの映画のアメリカでの配給はユナイテッド・アーチスツが行うことになった[9]。マイケル・パウエルとエメリック・プレスバーガーの『老兵は死なず(The Life and Death of Colonel Blimp, 1943)』はカラーのプリントの準備に難航したものの、結局ユナイテッド・アーチスツが配給した2) 。一方、新しく設立されたイーグル・ライオン・フィルムズ②はアメリカ国内での宣伝に従事することになった。

アメリカ国内の市場の参入障壁の大きさを知ったランクは、市場規模は限られるものの、ユナイテッド・アーチスツを通した配給で、しばらく様子を見ようという気になったのではないだろうか。そこにもう一つ、ハリウッドの弱小映画会社からオファーがあった。ロバート・R・ヤングのパテ・インダストリーズである。

Notes

1)^  1928年、国内の映画産業を保護するために、イギリスで施行されたシネマトグラフ・フィルムズ・アクト Cinematograph Films Act によって、劇場は上映する映画の7.5%は英国製にするよう義務付けられた。この比率は1935年には20%まで引き上げられる。それまで、イギリスの映画館のスクリーンをほぼ占有していたアメリカの映画会社は、この法律への対策として、英国内の映画プロデューサーと契約を交わして低予算を映画を製作してもらい、それと抱き合わせで自分たちの映画を公開した。この英国製の低予算映画をクオータ・クイッキー quota quickie と呼ぶ。

2)^  『老兵は死なず』は英語のWikipediaページでは「編集したのち白黒で」公開されたとある。事情はもう少し複雑だったようである。アメリカでは戦時中、撮影用ネガ、上映用ポジプリントを含む生フィルムの供給は、戦争生産委員会(War Production Board, WPB)が管理統制していた。イーグル=ライオン・フィルムズ②とユナイテッド・アーチスツは、戦争生産委員会が1945年第1四半期の供給量を決定する前に『老兵は死なず』のアメリカ国内上映用のテクニカラープリント150本を作成して、統制による緊縮をすり抜けていた[10]。よって『老兵は死なず』のアメリカ初公開(ニューヨーク、ゴッサム劇場、1945年の3月29日)[11]、サンフランシスコ[12]、ロサンゼルス[13]での公開時はカラープリントだった。ニューヨークではタイトルは”Colonel Blimp”に変更され、上映時間も編集で短縮されている(137分[11]、148分[14])。だが、同年12月末のピッツバーグでの公開は白黒プリントに置き換えられている[15]

References

[1]^ "The Widening Rank Empire," Motion Picture Herald, vol. 157, no. 11, p. 26, Dec. 16, 1944.

[2]^ J. Grierson, "The Film Situation," The London Mercury, vol. 36, no. 215, p. 461, Sep. 1937.

[3]^ G. Macnab, "J. Arthur Rank and the British Film Industry." Routledge, 2013. Available: https://books.google.com?id=dd7nhK91j2UC

[4]^ "Education From Hollywood," Liverpool Daily Post, p. 15, Jun. 06, 1930.

[5]^ ""British Accent Offensive"," Evening Despatch, Birmingham, West Midlands, England, p. 3, Apr. 13, 1934.

[6]^ M. Merrick, "Denaturing British Accent Now Is Important Pastime for Many Hollywood Stars," Great Falls Tribune, Great Falls, Montana, p. 20, Feb. 16, 1930.

[7]^ "Rank Plans Branches, Production Here," The Film Daily, vol. 85, no. 33, p. 1, Feb. 16, 1944.

[8]^ "Skouras Announces Deal Around World With Rank," Motion Picture Herald, vol. 155, no. 9, p. 26, May 27, 1944.

[9]^ "Rank Moves to Consolidate World Market Plan," Motion Picture Herald, vol. 156, no. 5, p. 31, Jul. 29, 1944.

[10]^ "War and Foreign Policies Hold Raw Stock Key," Motion Picture Herald, vol. 158, no. 10, p. 25, Mar. 10, 1945.

[11]^ J. Corby, "Screen: ’The Corn Is Green,’ ’Colomel Blimp,’ ’Belle of the Yukon’ New Film Arrivals," Brooklyn Eagle, p. 9, Mar. 30, 1945.

[12]^ H. Morton, "’Col. Blimp,’ the Saga of One Man’s Life, Arrives at Artists," San Francisco Examiner, p. 9, Jul. 20, 1945.

[13]^ P. K. Scheuer, "Age Mellows ’Colonel Blimp’," Los Angeles Times: Part I, Los Angeles, p. 9, Oct. 25, 1945.

[14]^ K. Cameron, "Dramatic British Film Presented at Gotham," Daily News, New York, p. 32, Mar. 30, 1945.

[15]^ H. V. Cohen, "New Film: Life and Death of "Colonel Blimp" At the Art Cinema," Pittsburgh Post-Gazette, Pittsburgh, p. 20, Dec. 26, 1945.