鉄道王ロバート・R・ヤングは低予算映画の製作・配給を足がかりにハリウッド映画界へ参入しようとしていた。そしてイーグル=ライオン・フィルムズが設立される。
Producers Releasing Corporation(PRC)のロゴ
PRCの『デヴィル・バット(The Devil Bat, 1940)』のオープニングに使われているロゴ。

前回まで、第二次世界大戦前から戦後にかけて、J・アーサー・ランクがアメリカ進出を試みるところまでの道程を追ったが、今回はイーグル=ライオンのもう一人の重要人物、ロバート・R・ヤングの映画界への参入を見ていきたい。話を1930年代のアメリカにいったん巻き戻すことにしよう。

ロバート・R・ヤング

ロバート・R・ヤング(Robert R. Young, 1897-1958)は、20世紀前半のアメリカ国内の鉄道事業において、極めて重要な役割を果たした実業家である。彼は、アレガニー・ホールディング(Alleghany Holding Co.)を手に入れてから、チェサピーク・アンド・オハイオ鉄道とニューヨーク・セントラル鉄道を傘下に置いて、真の《アメリカ大陸横断鉄道》の達成をもくろんでいた。彼が映画事業に興味を持ったのは、長時間の列車旅行のアトラクションとして映画上映というアイディアを検討していたのが発端のようだ[1]。そのヤングが、パテ・エクスチェンジ社(Pathe Exchange, Inc.)を実質的に買収して、自身のチェサピーク・インダストリーズの傘下としたのは、1935年のことだった1)

だが、パテ・エクスチェンジ社は、ジョセフ・P・ケネディ(Joseph P. Kennedy, 1888-1969)が1930年に製作部門などをRKOに売却した後の残りの資産(過去作品の権利とデュポン・フィルムの株)を維持する会社でしかなく、映画製作や配給をできるような能力をもった会社ではなかった。ヤングは同時期に、グランド・ナショナルなどの弱小製作会社を買って製作に乗り出そうとしたようであるが、これも頓挫している[2]。1940年にパテ・エクスチェンジはパテ・フィルムズ(Pathe Films Inc.)に社名を変更し、さらにパテ現像所(Pathe Laboratories)を買収して、映画フィルムの現像も事業に加えていた。偶然にも、このフィルム現像事業がヤングに映画製作の足がかりを与えてくれることになる。ポヴァティロウの最下層にあった映画製作会社プロデューサーズ・リリーシング・コーポレーション(Producers Releasing Corporation, PRC)がフィルムの現像代に不渡りを出してしまい、1942年にパテ現像所の子会社になってしまったのだ[3]。PRCは映画製作だけでなく、全国に映画配給の取引所を22カ所も所有しており、それ以外にもフランチャイズで映画配給をしていた。結果的に、パテ・フィルムズはPRCの映画製作と配給を事業として抱えることになる。その後、パテ・フィルムズとパテ・ラボラトリーズは統合されてパテ・インダストリーズ(Pathe Industries, Inc.)となり、いよいよヤングの夢が実現しそうになっていた[4]

ロバート・R・ヤングのように、やはり輸送事業で財を成し、映画製作にも進出した人物としてハワード・ヒューズ(Howard Hughes, 1905-1976)がいる。だが、ヒューズとヤングのハリウッドへの関わり方は極めて対照的だ。ヒューズは『地獄の天使(Hell’s Angels, 1930)』『ならず者(The Outlaw, 1943)』のように、みずから映画製作のプロセスに積極的に関わり、クレジットにも名前を載せて、大きく宣伝している。一方、ヤングは全く表に出てこない。ユナイテッド・プレスのフレデリック・C・オスマンが「謎の男」ロバート・R・ヤングについて短い記事を書いている。ハリウッドでもヤングの名前を知る者は少ないが、彼こそPRCの負債整理を一挙におこなって立ち直らせた張本人だとつづっている[5]

ヤングは、このPRCの作品の英国配給と引き換えにJ・アーサー・ランクのイギリス製映画のアメリカ国内配給を提案したのだ。そして、ヤングが配給会社「イーグル・ライオン・フィルムズ」(前記事の表の③)を、パテ・インダストリーズの子会社として設立、ランクの映画配給を担当することになった[6]。確かにこのイーグル・ライオン・フィルムズ③は、組織上はJ・アーサー・ランクの「イーグル・ライオン」のトレードマークのもとに組み込まれた会社なのだが、実際の資本と経営はロバート・R・ヤングが掌握している。ヤングのチェサピーク・インダストリーズの子会社のパテ・インダストリーズの子会社としてイーグル・ライオン・フィルムズ③とPRCがある、という構図になっていた2) 。「混乱を避けるために」ランクが前年に設立したイーグル=ライオン・フィルムズ(前記事の表の②)は、その後「J・アーサー・ランク・オーガニゼーション(J. Arthur Rank Organization, Inc.)」と名称変更した、と報じられている[7]

イーグル=ライオンの体制

『バリー・ミー・デッド(Bury Me Dead, 1947)』
PRCがイーグル=ライオンに吸収される直前の作品。監督:バーナード・ヴォーハウス 撮影監督:ジョン・オルトン

ロバート・R・ヤングのイーグル=ライオン・フィルムズ③の社長にはアーサー・B・クリム(Arthur B. Krim, 1910-1994)が任命され、取締役の一人にロバート・S・ベンジャミン(Robert S. Benjamin, 1909 - 1979)も名前を連ねている。この2人はのちにユナイテッド・アーチスツを復活させ、オライオン・ピクチャーズ(Orion Pictures)を創立した、20世紀後半のハリウッドを代表するビジネスマンである。彼らの映画ビジネスの入り口は、このイーグル=ライオン・フィルムズであった。

もともと、アーサー・クリムとロバート・S・ベンジャミンは、ニューヨークのフィリップス&ニッツァー法律事務所で同僚だった。2人は1932年にこの事務所に入所している。ここはハリウッド映画界と所縁の深い事務所で、パートナーのルー・フィリップスはパラマウント・ピクチャーズの顧問をしていた。1935年にロバート・R・ヤングがパテ・フィルムズを買収する際に、ベンジャミンが法務担当になり、そこからヤングとの関係が始まっている[8]。1946年、ベンジャミンは前述のJ・アーサー・ランク・オーガニゼーションの社長に就任し、一方でクリムはナショナル・スクリーン・サービス(National Screen Service Corp.)という予告編専門の製作・配給会社の財務担当になっていた。その彼らがイーグル=ライオン・フィルムズで映画製作と配給の指揮を執ることになったのである。クリムもベンジャミンもまだ弱冠36歳、映画製作の経験などなく、手探りの状態で始まったのだと思われる。

そこで低予算映画製作に長けた人物が製作のトップに抜擢された。かつてワーナー・ブラザーズのBユニットを指揮し、その後二十世紀フォックスで製作を担当していたブライアン・フォイ(Bryan Foy, 1896- 1977)である。彼がイーグル=ライオン・フィルムズの製作主任として招かれた直後に『イッツ・ア・ジョーク(It’s A Joke, Son, 1946)』の製作が発表された。

ブライアン・フォイは、20世紀初めに一世を風靡したヴォードヴィル芸人エディ・フォイの長男で、「エディ・フォイ・アンド・ザ・セブン・リトル・フォイズ」という家族ユニットのメンバーとして幼少期から舞台に立っていた。第一次世界大戦中に海軍に入隊、除隊後は作曲家として曲を発表していた。その彼が映画界とかかわりを持つようになったのは、ウィリアム・フォックスにコメディの脚本家として雇われた1922年からである[9]。ユニヴァーサルで『ヒステリカル・ヒストリー・コメディ(Hysterical History Comedies, 1924)』という短編シリーズを監督し、一躍有名になったのち、1927年にワーナー・ブラザーズでトーキーの実験場だった「ヴァイタフォーン・ショート(Vitaphone Shorts, 1927- 1930)」の脚本家として雇われる[10]。すぐに監督、そして製作指揮を執るようになった。フォイは「オール・トーキー」の長編映画第1号の監督として映画史に名を残している。『紐育の灯(Lights of New York, 1928)』は全編にわたってシンクロした音声トラックとともに製作された最初の映画である3) 。フォイはメロドラマを安く、早く仕上げることで有名で「同じストーリーに何度も違う服を着せて売ることができる」プロデューサーと言われた [11, p.78]

このフォイの存在がイーグル=ライオンに暗い影を落とすことになる。

Notes

1)^ 1935年に、ロバート・R・ヤングのグループ会社で役員をしていたフランク・F・コルビーが、パテ・エクスチェンジの社長に就任する。前任者のスチュワート・W・ウェッブもヤングの配下にあったという報道もある[12]

2)^ この時、パテ・インダストリーズの配下にあった子会社として、コモンウェルス・セキュリティーズ、V・D・アンダーソン・カンパニー、パテ・ラボラトリーズ、PRCピクチャーズ、PRCスタジオ、PRCプロダクションズ、ピクトリアル・フィルムズ、パテ・マニュファクチャリングなどが挙げられている[6]

3)^ 当時、ヴァイタフォンの短編映画製作は週に2~3本のペースで行われており、スタジオの上層部が日々のオペレーションまで介入する隙はおそらく無かったと思われる。そんななか、1928年の2月にブライアン・フォイによってオールトーキーの全5巻ものが製作中だというニュースが報じられる[13]。これはハリー・ワーナーとジャック・ワーナーが渡欧して米国を離れているあいだにフォイが勝手に始めたことだと言われている。7月7日にニューヨークで公開されたときには全7巻まで膨れ上がっていた[14]

References

[1]^ R. Chamberlain, "Close-Up: Robert R. Young," Time, vol. 22, no. 8, p. 102, Feb. 24, 1947.

[2]^ "Grand National, New Pathe Firm, To Produce 30," The Film Daily, vol. 69, no. 92, p. 1, Apr. 18, 1936.

[3]^ "Pathe Laboratories," The Oakland Post Enquirer, p. 17, Jan. 08, 1942.

[4]^ "Young to Merge 3 Pathe Units," The Plain Dealer, p. 7, Jun. 05, 1944.

[5]^ F. C. Othman, "Mystery Man Controls Novel Movie ’Factory’," The Long Beach Sun, p. 12, Feb. 05, 1944.

[6]^ "Rank Signs Another 2-Way Deal, This Time With Young," Motion Picture Herald, vol. 161, no. 12, p. 13, Dec. 22, 1945.

[7]^ "Benjamin Named Rank President," Motion Picture Herald, vol. 162, no. 2, p. 33, Jan. 12, 1946.

[8]^ R. S. Benjamin, "Robert S. Benjamin: A Citizen’s Citizen." Private Publication, 1980.

[9]^ "Jessen’s Studio News by Wire: Fox," Motion Picture News, p. 1867, Mar. 25, 1922.

[10]^ "Warner Sign Bryan Foy," The Film Daily, vol. XXXIX, no. 37, p. 6, Feb. 13, 1927.

[11]^ D. J. Leab, "'I Was a Communist for the FBI': The Unhappy Life and Times of Matt Cvetic," 1st ed edition. University Park, Pa: Penn State University Press, 2000.

[12]^ "Court to Rule on Pathe Examination," Motion Picture Herald, vol. 120, no. 11, p. 34, Sep. 14, 1935.

[13]^ "W. B.’s First Talking Cast," Variety, vol. XC, no. 5, p. 5, Feb. 15, 1928.

[14]^ "’Lights of New York’ Pamphlet." Warner Bros., Jul. 1928.