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Repeat Performance (1947)
ブライアン・フォイ製作、イーグル=ライオン配給の最初のフィルム・ノワール
監督:アルフレッド・L・ウォーカー 撮影監督:ガイ・ロウ |
恐怖の一年
戦争が終結した翌年、ハリウッドは空前の興行成績を上げるが、その後急激に市場が悪化する。1946年にはハリウッド全体で16億9200万ドルあった興行収入が、それから毎年1億ドルずつ減少していくのである。この市場の変化の波に最初に飲み込まれたのは、ポヴァティロウと呼ばれる弱小のスタジオだった。年間50本以上を配給していたリパブリック・ピクチャーズは40本まで配給本数を落とさざるを得なくなってしまった。ポヴァティロウの最下層にランクされるプロデューサーズ・リリーシング・コーポレーション(Producers Releasing Corporation, PRC)は一層の苦戦を強いられた。戦時中からすでに資金繰りが悪化してプリントの現像代も焦げ付き、ロバート・R・ヤングが所有するパテ現像所の子会社になっていた。戦後の市場の冷え込みに加え、メジャースタジオのホールドオーバーを前提とした映画界の興行手法は、大量の低予算映画で収益を上げていたPRCにはまったくそぐわない経営環境になっていった。
ヤングの持ち株会社とJ・アーサー・ランクとの業務提携で生まれたイーグル=ライオン・フィルムズ(前記事の③)は、PRCから製作を引き継いだが、低予算映画を二本立ての添え物として定額でレンタル配給するというポヴァティロウ特有の経営スタイルから抜け出す必要があった。経営を任されたアーサー・クリムたちは、メジャースタジオが占有する市場に入り込むためには、映画の質を上げて二本立てのメインフィーチャーとして配給していくべきだと考えていた。いつまでも子供向けの西部劇やホラー映画ばかり撮っているわけにはいかない。自分たちもクオリティの高い映画で互角に戦わなければならないと意気込んでいたのだ。
そういった背景から、イーグル=ライオン・フィルムズは、成立当初から《A級映画》のみを製作すると公言していた。1946年7月のDaily News紙には、1年間で22本を2500万ドルの製作費を投じて製作すると発表している[1]。PRC製作の映画も並行して資金調達され、ロバート・R・ヤングは、自ら1200万ドルを映画製作に投入したと言われている[2, p.23]。アーサー・クリムは、イーグル=ライオン・フィルムズの映画はすべて製作費が100万ドル以上となると告げた。だが《A級映画》とは何を意味するのだろうか。ヤングとクリムのもくろみは《客を呼べるスター》に比重をかけて興行価値をつり上げ、配給を有利に進めようとする、というものだった。実際、1946年の末にイーグル=ライオンが発表した契約俳優のリストには、製作作品を1本も公開していない会社にしては、錚々たるメンバーが並んでいた[3]1) 。また契約した作家たちもヴェラ・カスパリー(『ローラ殺人事件』)、アガサ・クリスティなどユニークな顔ぶれだった2) 。
会社の体制を整えることに終始した1946年は、製作発表が続いたものの、イーグル=ライオンは一本も製作作品を公開できなかった。年が明けて1947年の1月にようやく最初の製作映画『イッツ・ア・ジョーク(It’s a Joke, Son, 1947)』が公開される。これは当時ラジオで人気を博していたコメディアン、ケニー・デルマー(Kenny Delmar, 1910-1984)が主演したコメディだが、まだPRC時代の低予算製作の残り香の強い映画だった。テキサス州のオースチンで州知事の就任式に合わせ、市内最大の映画館の一つパラマウント劇場で公開するというマーケティング・スタントを試みたものの、わずか4日しか上映されなかった[4]。その後の全国各地での興行も振るわず、ラジオ番組の人気コメディアンをあてにした戦略は失敗した。
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イーグル=ライオン・フィルムズの撮影スタジオ[5]
ウェスト・ハリウッド(7324 Santa Monica Blvd.)にあった撮影所。もともとキング・ヴィダー(King Vidor, 1894-1982)が1920年に開いた独立映画製作スタジオ “Vidor Village” があった場所で、その後、Grand National、Educationalといった映画会社を経て、PRCの撮影所となった。イーグル=ライオンがPRCを買収した際に、150万ドルを投入して改築した [5]。
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《A級路線》に切り替わったあとの実質的な最初の作品が『恐怖の一年(Repeat Performance, 1947)』である。ファンタジーとサスペンスが融合した極めてユニークな作品だが、製作計画が難航して公開までに時間がかかってしまった不運な作品でもある。派手なプレス発表が続いた1946年の7月に、フランチョット・トーン(Franchot Tone, 1905-1968)主演、トム・コンウェイ(Tom Conway, 1904-1967, 俳優ジョージ・サンダースの兄)共演、マリオン・パーソネット(Marion Parsonnet, 1905-1960)製作3) の映画として発表され、9月には撮影に入ると報道されている[6]。その後、シルヴィア・シドニー(Sylvia Sidney, 1910-1999)の名前が挙がり[1][7]、ジュールズ・ダッシン(Jules Dassin, 1911-2008)が監督に指名される[8]など、立て続けに景気の良いニュースが流れていた。ところが、製作開始は次第に先延ばしにされていく4) 。ダッシンの代わりにアルフレッド・ウォーカー(Alfred L. Werker, 1896-1975)が監督して発表されたのち[9]、12月になって、ルイス・ヘイワード(Louis Hayward, 1909-1985)5) とジョーン・レズリー(Joan Leslie,1925-2015)6) 主演、製作はブライアン・フォイでおさまった[10]。1946年12月の末に撮影の開始が発表される。
『恐怖の一年』の原作は、ウィリアム・オファレル(William O’Farrell, 1904-1962)が1942年に発表したファンタジー=ミステリ小説である。殺人を犯してしまった男が、突然12か月前に戻って、その1年間をやり直すという話だ。一年間の記憶がある彼は、殺人を回避するために、そこに至るまでの経緯を繰り返さないように奔走する。現在では、タイムスリップして経験した出来事をやり直すという設定のフィクションは珍しくもないが、この小説の発表当時は極めて新鮮でオフビートなアイディアだった。
もちろん、このプロット自体は、基本的には、無意識の世界へ酩酊して迷い込んだように奇怪なものだが、その叙述は、揺るぎない、恐ろしいほどの明晰さを持っている。(主人公の)バーニー自らが語り手だが、決して手抜きはしていない。結果的に読者は最初から彼に同情的になり、過去への旅でハッピーエンドを迎えることを望んでやまないだろう。
William Du Bois
The New York Times [11]
この小説が半世紀以上経った後に復刊されたとき、ジョージ・バクストは前書きで、その独創的なプロットだけでなく、物語の舞台となっている当時のニューヨークの演劇界の雰囲気を余すことなく伝えているオファレルの描写力を称賛している[12]。映画化に際して主人公が夫から妻へ変更されているが、それ以上に残念なのは主要登場人物の一人であるクロス・ドレッサーの「ウィリアム&メアリー・ウィリアムズ」から「メアリー」の人格を削除して、単に男性の「ウィリアム・ウィリアムズ」に変更されていることだろう。当時のプロダクション・コードが、性表現に関してはヘテロセクシャルを示唆する表現しか認めなかったためである。しかし、このウィリアム・ウィリアムズを演じたリチャード・ベイスハート(Richard Basehart, 1914-1984)は、視線の繊細な動きや、発声の巧みな制御によって、「メアリー」の残り香のようなものを感じさせる見事な演技を見せている。ベイスハートは、この『恐怖の一年』が実質的な映画デビューである。
《ファンタジーの要素を含んだフィルム・ノワール》と呼ばれることも多い『恐怖の一年』だが、全編がセットで撮影された。撮影のL・ウィリアム・オコネル(L. William O’Connell, 1890-1985)はサイレント期から撮り続けてきたベテランである。モーション・ピクチャー・ヘラルド誌によれば、『恐怖の一年』は1947年の1月から約2ヶ月にわたって撮影が行われ、3月初頭にクランクアップしている。前述の『イッツ・ア・ジョーク』が2週間というポヴァティロウ特有の短い撮影期間だったことを考えると、『恐怖の一年』の撮影期間は長い。実は、1947年前半のイーグル=ライオンの製作作品、『ラブ・フロム・ア・ストレンジャー(Love From A Stranger, 1947)』『カサノヴァの冒険(Adventure of Casanova, 1947)』なども2か月間と撮影期間が長いのである。イーグル=ライオンがこの時期の作品にかけていた意気込みを表していると言えるだろう。
プレミア公開は1947年の5月22日、オハイオ州のゼインズヴィルという小さな町だった。ゼインズヴィルはリチャード・ベイスハートの生まれ故郷であり、このプレミア上映は、彼を新しいスターとして売り出すことを考えていたイーグル=ライオンのPR部門が仕掛けたものだった[5]。その後、ニューヨークではリヴォリ劇場で7月1日から3週間、ロサンジェルスでは4-STAR劇場で7月30日から2週間の興行だった。ホールドオーバーはしたものの、大ヒットというわけではなかった。
エディ・ミュラーによれば、『恐怖の一年』は公開後長いあいだ行方不明になっていた。2007年に劣化し始めていた35㎜プリントと上映可能な16㎜プリントが見つかり、UCLAを中心にリストア作業が行われた [13]。現在はFlicker Alleyからブルーレイが発売されている。
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イーグル=ライオン/PRCでの撮影現場
この写真のキャプションには、ヒュー・ビューモント出演の「Tomorrow You Die」という映画の撮影風景と述べられている[5]。「Tomorrow You Die」はその後『偽証(Railroaded!, 1947)』と改題されて公開されるが、ヒュー・ビューモントは出演していない。中央付近に見える書棚の隠し扉は『偽証』に登場する道具に類似しているので、おそらく、これは『偽証』の撮影現場なのではないかと推測する。
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NOTES
1)^ この記事で挙げられている俳優名は、フランチョット・トーン、ミシェル・モーガン、マーガレット・ロックウッド、アルトゥーロ・ド・コルドヴァ、ジョーン・レズリー、トム・コンウェイ、ディッキー・タイラー、ジューン・ロックハート、ウナ・マーケル、ケニー・デルマー、デボラ・カー、アン・リチャーズ、シーラ・ライアン、ルイス・ヘイワード、ロバート・ペイジ、ザッカリー・スコット、そしてリチャード・ベイスハートである。
2)^ その他には、ジョセフ・フィールズ、ルイス・ブロムフィールド、マーガレット・ブエル・ワイルダー、アグネス・クリスティン・ジョンソンらと契約している。
3)^ パーソネットはもともとMGMで脚本家として活躍していたが、プロデューサーへの転身を考えていたようで、前年『ギルダ(Gilda, 1946)』の製作にも名前が上がっていた人物である(最終的にはヴァージニア・ヴァン・アップが製作)[14]。
4)^ イーグル=ライオンは『恐怖の一年』の映画化権をめぐって法廷で争っていたようだ[15]。原作の映画化権をもっていたパーソネットが契約を破棄したため、イーグル=ライオンがそれを取り戻す必要があった。
5)^ ルイス・ヘイワードはワーナーやユニヴァーサルで数々のヒット作に出演していた中堅男優。『仮面の男(The Man in the Iron Mask, 1939)』『巌窟王の息子(The Son of Monte Cristo, 1940)』などの剣戟物で人気があったが、『そして誰もいなくなった(And Then There Were None, 1945)』などのミステリにも出演している。
6)^ ジョーン・レズリーはワーナー・ブラザーズで『ハイ・シエラ(High Sierra, 1941)』『ヨーク軍曹(Sergent York, 1941)』『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ(Yankee Doodle Dandy, 1942)』などのヒット作に出演していたがスタジオとの契約に不満を示してフリーランスになっていた。
References
[1]^ "Virginia Wright, Drama Editor," Daily News, Los Angeles, p. 15, Jul. 29, 1946.
[2]^ T. Balio, "United Artists, The Company That Changed the Film Industry: 1951-1978." Madison, Wis: Univ of Wisconsin Pr, 2009.
[3]^ "E-L Signs 17 Stars," Motion Picture Daily, vol. 60, no. 118, p. 1, Dec. 17, 1946.
[4]^ "The Show World," The Austin American, Austin, Texas, p. 10, Jan. 22, 1947.
[5]^ ""Repeat Performance" First Major Picture of Newly-Formed Company," The Sunday Times-Signal: 4, Zaneville, Ohio, p. 1, May 04, 1947.
[6]^ "Studio Size-Ups," Independent Exhibitors Film Bulletin, vol. 14, no. 14, p. 17, Jul. 08, 1946.
[7]^ T. Bell, "Hollywood," Motion Picture Daily, vol. 60, no. 28, p. 5, Aug. 08, 1946.
[8]^ T. Bell, "Hollywood," Motion Picture Daily, vol. 60, no. 37, p. 3, Aug. 21, 1946.
[9]^ T. Bell, "Hollywood," Motion Picture Daily, vol. 60, no. 50, p. 8, Sep. 10, 1946.
[10]^ "Hayward in Two Picture Deal with E-L," Motion Picture Daily, vol. 60, no. 122, p. 17, Dec. 23, 1946.
[11]^ W. D. Bois, "Predestined Groove," The New York Times, p. 69, Nov. 1942.
[12]^ W. O’Farrell, "Repeat Performance." New York, N.Y. : International Polygonics, 1987.
[13]^ "Noir Alley: Eddie Muller on Repeat Performance (1947)."
[14]^ "Rita Hayworth to Straight Drama in Next for Columbia ’Gilda’," Boxoffice, vol. 47, no. 8, p. 22, Jun. 30, 1945.
[15]^ "Eagle-Lion," Independent Exhibitors Film Bulletin, p. 21, Dec. 09, 1946.
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