マフィアに蝕まれたハリウッドの中心にいた男、「ハンサム・ジョニー」ことジョン・ロッセーリ。その彼が刑務所から出所してきた。
T-Men (1947)
監督:アンソニー・マン
撮影:ジョン・オルトン

どの戦略も成功しないなか、経営を存続させるためにも、イーグル=ライオンは、スターと買い付けた脚本の組み合わせという従来のやり方の代わりにアクション、色彩、ロケーション撮影、現実味といったものを追及する製作方針とするラジカルな戦略を編み出した。結果的には製作作品の差異化という形で現れ、いくつかのフィルム・ノワール作品のおかげで、一時的にせよ、イーグル=ライオンは脚光を浴びることになる。これらの低予算で製作された作品として、財務省が関わった事件をもとにしたセミドキュメンタリー、アンソニー・マンの『T-メン(1947)』、コロラド州のキャノン・シティ刑務所で起きた脱走事件を再現した映画で、実地で撮影されたクレーン・ウィルバーの『キャノン・シティ(1948)』、狡知に長けたサイコキラーを描くアルフレッド・ウォーカーの『夜歩く男(1948)』などがある。例えば、『キャノン・シティ』は囚人の一人としてスコット・ブラディを起用してデビューさせ、42万4,000ドルの製作費に対して120万ドルの興行成績を上げ、その年のヒット作品としてライフ誌やルック誌にも取り上げられた。

Tino Balio [1]

ロバート・R・ヤングやアーサー・クリムらイーグル=ライオン・フィルムズの経営陣が、1946年7月に発表した華々しい計画が行き詰まりつつあることに気づいたのはいつ頃だったのだろうか。彼らのもくろみ・・・・だった《客を呼べるスター》と《独創的なストーリー》の組合せで《A級映画》 ───少なくとも二本立ての添え物ではなく、メインの興行番組として売れる映画─── を製作配給する、という戦略が、あきらかに成功していないとわかったのは1947年も後半になってからのことではないかと思う。確かに『ロスト・ハネムーン(Lost Honeymoon, 1947)』が公開された4月には、すでにその兆候はあった。フランチョット・トーン主演、ブロードウェイの人気作家ジョセフ・フィールズ(Joseph Fields, 1895-1966)が脚本を手掛けた、このコメディがわずか4日間の興行でロサンジェルスの主要3館のスクリーンから消えてしまったのは、大いに期待外れだったに違いない。しかし、『ロスト・ハネムーン』は撮影期間もたったの1週間、PRCからイーグル=ライオンへの過渡期の産物だと思えば、まだ深刻になる必要はなかったはずだ。イーグル=ライオンが製作プロセスそのものに本格的に取り組んだ最初の《A級作品》、『恐怖の一年(Repeat Performance, 1947)』と『レッド・スタリオン(The Red Stallion, 1947)』が公開されたのが、1947年の7月から8月にかけてである。どちらもロサンジェルスでの興行は、辛うじてホールドオーバーしたものの、2週間しかスクリーンにかかっていなかった。ロバート・R・ヤングが資金を投入してから2年近く経って、ようやく公開した数本の映画が期待をしたほど成績を上げていない、と誰もが感じたのはその頃だろう。

イーグル=ライオンの代表的なフィルム・ノワール作品、『T-メン』『キャノン・シティ』『夜歩く男』等がスタジオの《ラジカルな戦略》によって生まれたものかどうかは議論の余地がある。少なくとも『T-メン』に関して言えば、この映画が1947年の春ごろに計画され、7月末から9月初頭にかけて撮影が行われているという事実から考えても、戦略変更が行われたであろう時期よりもかなり早い時期に製作が終了している。さらに、その《ラジカルな戦略》を推進したのは誰か、という点に関しても注意を向けなければならない。当時、イーグル=ライオンの製作の主導権を握っていたのはブライアン・フォイであり、クリムでもヤングでもなかった。むしろ、フォイと彼を取り巻く人物たちを視野に入れて見てみると、もう少し違った映画製作の《環境》が見えてくる。

ハンサム・ジョニー

この土曜日、密閉された55ガロンドラム缶が、ダムファンドリング湾の北側で浮かんでいるところを発見された。中から死体が見つかっている。市警察は、この死体は行方不明になっている犯罪組織の一員、ジョン・ロッセーリではないかと見ている。

The Miami Herald Sun
1976年8月8日

ジョン・ロッセーリ(John Roselli/Rosselli, 1905-1976)は、1947年8月13日、約4年の刑務所生活を終えて保釈された。公開されたFBIの資料によれば、彼がまず向かったのはロサンジェルスだった。そして数日のうちにブライアン・フォイの尽力でイーグル=ライオン・フィルムズに雇われている [2]

ロッセーリは、南イタリアの小さな村エスペリアで生まれた。本名をフィリッポ・サッコ(Fillipo Sacco)という。彼が6歳の時に一家でボストンに移住、ティーンエイジャーの頃から麻薬売買などの犯罪を繰り返していたが、そのうちニューヨークやシカゴのマフィアとつながりを持つようになる。ロッセーリ自身が後年語ったところによると、当時使用していた「ジョン・スチュワート」という通り名を聞いたアル・カポネから「イタリア人らしい名前にしろ」と言われ、百科事典を眺めて見つけた「コジモ・ロッセーリ Cosimo Rosselli(15世紀の画家)」から苗字をとったのだという。彼は1920年代からマフィアの《渉外交渉員》としてハリウッドで活動していた。しかし、ロッセーリの素性を知っていたのは映画スタジオのトップのわずか数人だけで、ハリウッドの映画人のあいだでは洒落者《ハンサム・ジョニー》という綽名で浮名を馳せるプレイボーイとして知られていたに過ぎない。夜になるとサンセット大通りの違法カジノやナイトクラブに出入りし、数々の女優と浮名を流して、サンタ・アニタの競馬場にも頻繁に現れた。ウェイターや友人にも気前が良く、彼を悪く言う者はいなかった。だが、そんなロッセーリの本当の仕事は、映画スタジオで何か問題が起きたときに《解決》することである。もちろん、問題の《解決》には見返りがともなうもので、この見返りを梃子にして、わずか10年のあいだにロッセーリ ───すなわち、マフィア─── はハリウッドのスタジオの裏の世界に深く食い込んでいった。

例えば、コロンビア・ピクチャーズが良い例だろう。リー・サーヴァー著のジョン・ロッセーリの伝記[3 pp.103-104] によれば、ハリー・コーンが1931年に社長におさまった時に50万ドルの調達を頼んだ相手が、ロッセーリだった。ロッセーリはニュー・ジャージーのマフィア、アブナー・ツヴィルマン(Abner Zwillman, 1904-1959)に資金の調達について相談、すぐに現金がハリー・コーンのもとに届けられた。その金でハリー・コーンは兄の所有する株式を取得してトップにのし上がったのだった。コーンはツヴィルマンから金を借りたと思っていた。ところがツヴィルマンは後になってコロンビアの株式の3分の1を要求してきたのである。ハリー・コーンはマフィアに株を渡さざるを得なかった。

マフィアは、労働争議をめぐる問題の《解決》を通してハリウッドの映画会社との相互依存関係を強化していく。その中心にいたのが、ウィリー・バイオフ(William Morris Bioff, 1900-1955)だった。ジョージ・E・ダウン(George E. Downe)という操り人形をIATSEのトップに据えて、労働組合を実質的に支配下に置いていたマフィアは、映画スタジオの経営陣にストライキや劇場閉鎖を匂わせて恐喝し、巨額の金を毟り取っていた。そのダウンの片腕で《取立人エンフォーサー》をしていたのがバイオフである。バイオフはシカゴのボス達へ送る金からかなりの額を引き抜いて着服していただけでなく、やり口が大胆で人目を引くようになり、シカゴのボス達の頭痛の種になってきていた。このバイオフを牽制する役割を任せられたのがロッセーリである。彼はフランク・ニッティ(Frank Nitti, 1888-1943)らと共謀して、ハリウッドの労働争議を種にした《保証金取立》の事業を管理する立場だった。ロッセーリたちは、その他にも、ヨーロッパから亡命してきたカメラマンを雇用できるように全米撮影監督協会に圧力をかけたり1) 、スタジオが使うフィルムをコダックからデュポンに切り替えさせたり、といった仕事をしていた[4 p.51]

マフィアがターゲットにしていたのは、MGM/ロウズ、20世紀フォックスであり、MGMスタジオのトップ、ルイス・B・メイヤー(Louis B. Mayer, 1884-1957)、ロウズのトップ、ニコラス・シェンク(Nicholas Schenck, 1880-1969)、そしてその兄で20世紀フォックスのトップ、ジョセフ・M・シェンク(Joseph M. Schenck, 1876-1961)はバイオフが現れるたびに震え上がっていたという。だが、その中でもジョセフ・シェンクはバイオフの信用を得て、彼の財産隠しや資金洗浄を手伝うようになる。彼は、バイオフの不動産購入資金を、甥のアーサー・W・ステビンス(Arthur W. Stebbins, 1890-1963)2) の口座から貸与という形で準備した。

連邦財務省の捜査官たちがハリウッド入りして、映画スタジオの重役たちの隠し資産や脱税の捜査を始めたのは1937年のことである。ステビンスの口座からの取引に疑惑を抱いた捜査官たちはジョセフ・M・シェンクを徹底的に尋問し、その証言によってバイオフとダウンを恐喝で1941年12月に起訴、立件した。ジョセフ・M・シェンク自身も有罪判決を受け、1942年に服役する(1年の刑期だったが4か月で仮釈放された)。一方で、自分だけが罪をかぶった形になったバイオフは、シカゴ・マフィアに見捨てられたと思い、司法取引でマフィアの活動を洗いざらい話す。この証言で、フランク・ニッティを含む9人が訴追された。その中にジョン・ロッセーリの名前もあった。1943年の3月、陸軍に入隊しようとしていたロッセーリはニューヨークで逮捕された。フランク・ニッティは逮捕の前にピストル自殺した。

ウィリー・バイオフ
脱税の容疑で公判中、煙草を吸うバイオフ。1939年、ロサンジェルス、高等裁判所。(UCLA Library Digital Collections, Los Angeles Daily News Negatives, Creative Commons License 4.0)
フランク・ニッティ(左)とジョン・ロッセーリ(右)
1943年3月、ニッティとロッセーリを含むシカゴ・マフィアの9人が、詐欺などの疑いで捜査される。ニッティは警察に逮捕される前に拳銃で自殺した (Los Angeles Times [5])。

ロッセーリは仮釈放で1947年8月に出所したが、その身元保証人になったのがブライアン・フォイだった。フォイは堅気の仕事として、自分のスタジオ ───イーグル=ライオン・フィルムズ─── での職をロッセーリに用意していた。ロッセーリの肩書は購買アシスタントマネージャーだったが、その後プロデューサー・アシスタントの地位も約束されていた。二人の関係は戦前にさかのぼると言われているが、はっきりしたことはわからない。フォイはもともとヴォードヴィリアンの一家で交友関係が広く、犯罪組織の人間と交流することも厭わなかったのではないかとサーヴァーは述べている[3 p.207]。FBIの情報では、強盗犯のアーネスト・ブース(Ernest Granville Booth, 1898-1959)3)、警官殺人犯のチャールズ・ペリーらの仮釈放の際にもフォイが活動していたという[6]

捜査に協力したバイオフとブラウンは、1944年に減刑され釈放されたのち、マフィアたちから身を隠した。ブラウンはイリノイで隠遁生活をしていたと言われているが、その後はわからない。バイオフは「ウィリアム・ネルソン」という偽名を使い、妻と息子とアリゾナ州フェニックスで暮らしていた。

昨日、マフィアはフェニックスまでやってきた。かつて裏社会で鳴らしたものの、仲間を裏切って縁を切ろうとした男を吹き飛ばした。

午前11時少し前、ベサニー・ホーム・ロード1250番地、こじんまりとした豪華な家でその爆発は起きた。ウィリー・バイオフ(58)が、家の敷地内でピックアップ・トラックのエンジンをかけようとしたとき、強力な爆弾が爆発した。

縁なし眼鏡、仕立ての良い服に身をまとった小柄なバイオフは、運転手席側のドアから15フィート先まで吹き飛ばされていた。

右脚は膝のところで引きちぎれ、右腕は手首のところで切断されていた。左足はねじ曲がり、肋骨は卵の殻のように潰れ、心臓と肺は破裂していた。

32年寄り添っていた妻のローリーは、台所の窓から手を振って見送って、彼がエンジンをかけるときには窓から離れていた。奇跡的にケガ一つなかったが、ひどく動揺していた。

The Arizona Republic
1955年11月5日

ジョン・ロッセーリはイーグル=ライオンで『キャノン・シティ』『夜歩く男』の製作に関わったとされている。しかし、イーグル=ライオンの消滅とともにハリウッドでの映画製作には興味を失い、ラスベガスに活動の拠点を移す。ロッセーリは1950年代はシカゴ・マフィアのラスベガス担当として、カジノの利潤をシカゴに還流することを監視していた。キューバ革命でアメリカのマフィアが経営していたカジノが閉鎖されると、ロッセーリは復讐計画を準備し、フィデル・カストロの暗殺を企てる。毒殺をもくろんだ計画はどれも失敗した。のちの1975年、この暗殺計画について上院の調査委員会が開かれ、ロッセーリは証言する予定だったが、同じく証言予定だったサム・ジアンカーナが暗殺された事件を見て、身の危険を感じ、フロリダ州のマイアミに逃走した。

しかし、1976年の7月末、ジョン・ロッセーリは行方不明になってしまった。行方不明になってから10日後、ダムファウンドリング湾に浮かんでいるドラム缶が発見された。

NOTES

1)^ これは、コロンビア・ピクチャーズのハリー・コーンがロッセーリに依頼した仕事の一つである。ナチス政権を逃れて亡命してきたカメラマンを2人雇えるようにしてほしいと頼んだらしい。ハリウッドのメジャースタジオでは、全米撮影監督協会に所属していないカメラマン(撮影監督)は実質的に仕事ができないため、協会に圧力をかけさせたのだろう。この2人の撮影監督のうちの1人はフランツ・プラナー(Franz Planer, 1894-1964)と思われる。

2)^ アーサー・W・ステビンスは映画産業相手の保険事業を手掛けて大成功した人物である。もちろん、係累の伝手を最大限に活かして事業を拡大したのが、成功の最大の理由である。彼はアル・ジョルソンの声やジミー・デュランテの鼻に保険をかけるなどして話題を呼んだ[7]

3)^ アーネスト・ブースは14歳から窃盗などの犯罪を繰り返し、アンモニア爆弾なるもので脅迫する《アンモニア強盗》として有名になった人物である。彼が獄中で書いたストーリーがパラマウントで『暗黒街の女(Ladies of the Mob, 1928)』で映画化されるなど、ブースは犯罪を題材にした作家としてハリウッドで注目を集めた。《アメリカン・マーキュリー》のH・L・メンケンも彼の文才に感銘を受けて、仮釈放に向けて活動したと言われている。ブライアン・フォイが関係したのは、1937年の仮釈放のときだと思われる。その後も脚本の仕事をしながら、影で強盗や窃盗を繰り返し、1947年に逮捕されたのち、1959年に獄中で死亡した[8]

References

[1]^ T. Balio, "Columbia Pictures: The Making of a Motion Picture Major, 1930-1943," in Post-Theory: Reconstructing Film Studies, D. Bordwell and N. Carroll, Eds. Univ of Wisconsin Press, 1996. Available: https://books.google.com?id=ZUr4pRBZUcEC

[2]^ "Louis Campagna, with eliases, et al," Federal Bureau of Investigation, Los Angeles, 58-125, Oct. 1947.

[3]^ L. Server, "Handsome Johnny: The Life and Death of Johnny Rosselli: Gentleman Gangster, Hollywood Producer, CIA Assassin." Macmillan, 2018. Available: https://books.google.com?id=KEEviakaYcUC

[4]^ G. Horne, "Class Struggle in Hollywood, 1930–1950: Moguls, Mobsters, Stars, Reds, & Trade Unionists." University of Texas Press, 2013. Available: https://books.google.com?id=rVAGAgAAQBAJ

[5]^ "Indictments Tell Film Union Racket," Los Angeles Times: A, Los Angeles, pp. 1–2, Mar. 20, 1943.

[6]^ R. B. Hood, "Re: Louis Campagna, was; et al. Bribery; Parole Matters," Sep. 27, 1947.

[7]^ "Insurance Executive Arthur Stebbins Dies," Los Angeles Times, Los Angeles, p. 40, Jul. 13, 1963.

[8]^ P. Garnier, "Prison Made Me a Screenwriter!" Sep. 29, 2020. https://www.altaonline.com/dispatches/a8711/ernest-granville-booth-prison-made-me-a-screenwriter/