2025年6月第2週の「硝子瓶」です。
       

批評はどこ?

最近、(映画)批評は終わったとか、日本の映画批評は硬直化しているとか、そんな意見をときどき見かけるのですが、どうなんでしょう。

いま、(映画)批評はどこにあるのか、というのは、グローバルな視点で見ると、それほど悲観的になる必要もないか、と思っています。

私にとって、個人的に2010年代の批評で最も印象深かったのは、この「トランスフォーマーズ・ザ・プリメイク」です。

Transformers: The Premake (2014)

これは、『トランスフォーマーズ 4』が公開される前に・・動画サイトで公開されたビデオ・エッセイ/デスクトップ・ドキュメンタリーです。作者のKevin B. Leeはネット上にあふれていた『トランスフォーマーズ 4』に関するアマチュアビデオ(その大半がロケ撮影現場のようすをスマートフォンで撮影したもの)をかき集め、それらをデスクトップ上で再生する、関係するニュースを閲覧する、動画をバンされたユーザーにメッセージを送るなど、私たちが、どのように映画、あるいは映画という環境・・関わってエンゲージしているかを映し出しました。見事な批評だと思います。

いま、ストリーミングを除外して映画批評をおこなうのは、いくらなんでもナンセンスです。ストリーミングに特化したプロフェッショナルの批評は確かにあるのですが、従来の映画産業との乖離という図式で語られがちです。そういう点で、デニス・ビンガムが編集した「American Cinema of 2010s: Themes and Variations」はアメリカ(ハリウッドだけではない)の映像産業全体を見渡すうえで、非常によい本だと思いました。ストリーミングも従来の映画産業と地続きで語られていて、読んでいてしっくりきました。

American Cinema of the 2010s: Themes and Variations

Edited by Dennis Bingham

Contributions by Dennis Bingham, Michele Schreiber, David Greven, Raymond Haberski Jr., Alexandra Keller, Daniel Smith-Rowsey, Lisa Bode, Cynthia Baron, Julie Levinson and Mikal J. Gaines

Series: Screen Decades: American Culture/American Cinema

Published by: Rutgers University Press

トニイ・ヒラーマンの小説「聖なる道化師(Sacred Clown, 1993)」に、ナヴァホの人たちが『シャイアン(Cheyenne Autumn, 1964)』をドライブインシアターで見るシーンが出てきます。『シャイアン』はシャイアン族の人たちの話なのに、演じているのはナヴァホ族の人たち。だから、途中のダンスや、話している言葉は全部デタラメ。映画を見ているナヴァホの人たちはクラクションを鳴らしたり、バカにしたような声を上げている。シャイアン族のリーダーたちは、土地の話をしているはずなのに、実はナヴァホのことばで、リチャード・ウィドマークのペニスが小さいだのなんだのと真面目な顔をして言っている。観客はお騒ぎ。そんなシーンです。

『シャイアン』はジョン・フォードが、長年の罪滅ぼしのために、《インディアン》がいかにアメリカ政府の政策に苦しんできたかを描いたとか言われていますが、シャイアンの話なのに、ナヴァホの人たちに演技させている時点で、何もわかっていないし、他者の存在や文化へのレスペクトなど何も持ち合わせていないというのがよくわかるのです。彼らが本当は何を言っているのか、興味がない。だから「あいつのナニは小さい」とか言っていても誰も気づかない。私たちは、スクリーンに写っているものを微に入り細を穿って観ていると思っていますが、何にも見ていないのです。

リザ・ブラックの「Picturing Indians: Native Americans in Film, 1941 - 1960」は、ネイティブ・アメリカン(インディアン)の視点から、ハリウッドの映画製作をみた研究書です。上記の『シャイアン』の話は少ししか触れられていませんが(上記の逸話はヒラーマンの創作のようで、いまでも私たち外部の人間には、どんなセリフか分からないままみたいです)、いかにネイティブ・アメリカンがハリウッドによって(そしてアメリカ白人社会全般によって)搾取されていたかを追っていく本です。

よく、「今の価値基準で昔を判断してはいけない、昔には昔の価値観があった」という意見がありますが、その「昔の価値観」とは誰の価値観でしょうか?結局昔のマジョリティの価値観でしかない、昔のマイノリティの価値観なんて最初から無視しようという姿勢には変わりないのです。『荒野の決闘(My Darling Clementine, 1946)』の撮影のとき、ナヴァホの人たちが20世紀フォックスを相手に勝ち目のない賃金交渉をしていたなんて、私たち映画ファンはずっと知らずに来たのです。

Picturing Indians: Native Americans in Film, 1941–1960

Liza Black

Published by: University of Nebraska Press

他にも、これからまた紹介していきます。

Watching...

先日、アメリカのナショナル・アーカイヴスがジョン・F・ケネディ暗殺に関する政府の未公開記録をオンラインで公開しました。特別新しい情報はない、という点で専門家の意見は一致しているようです。

BBCのiPlayerで『ザ・リヴィング・デッド(The Living Dead, 1995)』を見ました。実はYouTubeでも見れるのですが。第2話の「You Have Used Me As A Fish Long Enough」で、冷戦下のCIAがいかにパラノイアにさらされていたかを追っていくのですが、これが秀逸でした。

CIAはケネディ暗殺の容疑者、リー・ハーヴィー・オズワルドはソ連の派遣した暗殺者だと疑っていた。無意識下で人間をコントロールし、命令を出せば、感情なく殺人や拷問ができる、そういう人間をたくさんアメリカに送り込んでいるのではないか、とパラノイドになるのです。しかし、ソ連から亡命してきた元KGBの工作員は「オズワルドはKGBが送り込んだ暗殺者ではない」という。いったい、誰が正しいことを言っているのか。合わせ鏡の間に放り込まれたような精神状態に陥ったアメリカの諜報機関は、心理コントロールの研究をするものの、出口が見えない。実験の犠牲者は増えていく。そんな話です。

カーチスが元KGBのエージェントたちに質問します。「心理コントロールはできていたのか」「人間の心理を知りたければ、ドストエフスキーを読めばいいんだよ」おかしなことを考えていたのはCIAの方だったのか。結局、鏡の迷宮からは抜け出せないままです。

The Living Dead (1995)
Written by: Adam Curtis
Produced by: Adam Curtis, Susan Gautier-Smith, Annabel Hobley
Cinematography by: Michael Eley
Production company: BBC