わたしたちの果てなき切望 (2)
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Report from the Aleutians (1943)
監督:ジョン・ヒューストン アリューシャン列島での陸軍航空隊の日常を描いた陸軍信号部隊製作のドキュメンタリー映画である。1943年アカデミー賞ドキュメンタリー部門ノミネート。
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第二次世界大戦に参戦したとき、アメリカ政府はハリウッドに対してどのようにアプローチしたのだろうか。
1942年6月。真珠湾攻撃からすでに半年が過ぎていた。
ルーズベルト大統領は、諜報機関である戦略情報局(Office of Strategic Services, OSS)と、報道や広報を担当する戦時情報局(Office of War Information, OWI)を結成する。この戦時情報局の一部門として映画部 (Motion Picture Bureau)がハリウッドに開設された。部長のロウェル・メレット Lowell Mellett はもともと政府と映画業界のコーディネーターとして働いていた人物[1]で、映画部の当初の目的は政府主導のもとにハリウッドのスタジオに短編映画を作らせることだった。ルーズベルト大統領は、これらの機関に対して、たとえ戦時下においても、政府によるマスメディアへの検閲強化や干渉を最小限にするように求めていた。
にもかかわらず、戦時情報局映画部はメレットのもとで、ハリウッドの映画製作に直接的に干渉しようとする[2 Chapter IV]。そして、その試みはほぼ失敗してしまう。メレットはハリウッドのみならず、ワシントンでも不興を買ってしまう。
映画部はスタジオに対して撮影前に脚本提出を求めたが、これを義務化することができなかった。脚本の修正を求めても、それはあくまで「助言」でしかなく、拘束力もなければ、国内での公開を差し止めることもできなかった。また、公開される映画のレビューもおこなっていたが、これもなんら効力を持たなかった。プレストン・スタージェスの『パームビーチ・ストーリー(Palm Beach Story, 1942)』をめぐるやり取りが良い例だ。映画部のレビュアーたちは全員、この映画を問題視した。愚かでだらしない金持ちのアメリカ人が描かれていることが、国家の緊急時にふさわしくないというのである。
際限ない浪費、夢のような豪勢さ、幼稚な無責任さ、そして愚かな悪ふざけ ─── それをやっているのが、本来なら、この戦時下には、その富と地位によって経済的リーダーとなるべき者たちだ。そんなものばかりを見せられるのだ。
Marjorie Thorson
OWI Motion Picture Bureau Reviewer
しかし、このスクリューボール・コメディに眉を顰めるようでは、ハリウッドでは煙たがられるだけである。パラマウントは戦時情報局の批判を実質的に無視して公開に踏み切った。
戦争情報局映画部がハリウッドに及ぼした影響力の一つとして、映画製作のマニュアル/ガイドラインを制定したという件がよく取り上げられる(例えば[3])。このマニュアルは、メレットらが映画産業への積極的な介入への糸口として、1942年の夏につくったもので、戦争協力のために映画製作者が自問すべき「7つの問い」が挙げられている。しかし、このマニュアルも、ハリウッドの、そしてアメリカの現実とはかけ離れた、未熟な理想でしかなかった。
1.この映画は戦争を勝利に導くのに役立つか?
2.どんな戦争に関する情報を明確にし、ドラマ化し、解釈しているのか?
3.逃避的な映画の場合、アメリカ、同盟国、そしてこの世界について間違ったイメージを映し出して、戦争協力を台無しにしていないか?
4.戦争を興行収入のためだけに利用していないか?戦争協力には何の足しにもならないか、あるいはほかの大事な映画のもたらす効果にダメージを与えないか?
5.世界紛争やそれに関わる様々な力についての理解に何か新しいものを提供しているか?それともすでにどこかでなされていることか?
6.この映画が配給網全域に届いたとき、その時の状況を正確に反映したり、需要を埋めることができるか?それとも時代遅れになっていないか?
7.この映画は真実を語っているか?それとも今日の若者にプロパガンダに誘導されたと言われても仕方ないようなものか?
OWI’s “7 Questions”
特に人種偏見に対する態度において、戦時情報局の理想とアメリカの現実のあいだには、あまりに埋めがたい乖離があった。MGMが製作、ウィリアム・ディターレが監督した歴史映画『剣なき闘い(Tennessee Johnson, 1942)』のケースが象徴的だ。今でいう歴史修正主義的な内容の映画だが、ここで描かれている黒人像があまりにも差別的で醜いものだったため、戦時情報局映画部は製作停止を求めた。戦時情報局が挙国一致体制の実現を目指して人種間に存在する敵意や対立を解消しようと躍起になっているなか、それを嘲笑うかのようなハリウッドの態度は許しがたいものだった。製作が停止されないと分かると、MGMに脚本の全面的な改変を要求したが、MGMはこれを拒否した。最終的にはMGM側が折れたものの、改変は最小限にとどまった。
この国のマイノリティは、戦時情報局を通じてスクリーンに何を映して良いのか悪いのか命令してくることができるのですか?
MGM
『剣なき闘い』の黒人差別描写に関して
戦時情報局が示した懸念に対するMGMの回答[2 p.87]
1942年の8月には、サミュエル・ゴールドウィンが戦前に製作した『暁の討伐隊(The Real Glory, 1939)』を再配給しようとした際、そのフィリピン人差別が時局にふさわしくないとして、共産党系の新聞、ザ・デイリー・ワーカー紙から攻撃されている[4]。MGMの『剣なき闘い』の黒人差別的な歴史捏造について最初に報じたのは、アフリカ系アメリ人向けの新聞、カリフォルニア・イーグル紙だった。同紙は、メレットにこのような映画を取り締まるよう強く訴えている[5]。しかし、いずれも上映を停止させることはできなかった。
同じく挙国一致の狼煙のもとに、ハリウッドの人種問題への無神経さを露わにした『リトル・トーキョー・USA(Little Tokyo, U.S.A., 1942)』も戦時情報局の悩みの種になった。日系アメリカ人は、すべからくスパイ、テロリストであると思わせるような内容で、配役から脚本まで徹底的に日系人差別を肯定している。「ファシズムのイデオロギーが敵なのであって、日本人という人種が敵なのではない」という立場から日本との戦争を見ていた戦時情報局にとって、これは許しがたい内容の低俗なB級映画だった。戦時情報局の映画部はただちに修正を要求した。しかし、製作会社の20世紀フォックスからしてみれば、当時アメリカ政府がおこなっていた日系アメリカ人の強制収容という政策を物語的に造形しただけであって、同じ連邦政府の機関である戦時情報局のこの修正要求は青天の霹靂であり、政策の矛盾でしかなかった。結局、この映画もマイナーな修正をおこなったが、全体的には政府の人種差別的な日系人強制収容の政策の正当性を強化する内容のものになっている。娯楽映画製作の軽佻浮薄さとアメリカ国内政治の怪錯した現実は、戦争情報局のマニュアルの理想を嘲笑うかのように無力化していったのである[2 Chapter IV]。
Ending of “Little Tokyo, U.S.A. (1942)”
20世紀フォックス製作。米国内の日系アメリカ人には日本のエージェントが数多く潜んでいて、破壊工作を謀っているという劇映画。エンディングは、実際に日系アメリカ人が強制収容所に移送される様子を撮影したフィルムが挿入されている。戦時情報局は人種差別を扇動しているとして、20世紀フォックスに改変を求めたが、マイナーな修正で公開された。情報戦時局の思惑は、日系人の強制収容を推進している政府の政策と矛盾していた。
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『リトル・トーキョー・USA』の撮影は、日系アメリカ人の強制収容が進むなかでおこなわれた。そのため「黄色い奴らは全員収容所送りにされてしまったのでジャップを演じる役者がいない[6]」事態に陥り、ユダヤ人のハロルド・ヒューバーや中国系アメリカ人のリチャード・ルーが日本人を演じた。この映画を製作したのは、センセーショナルな題材を時流に乗ってあっという間に映画化してしまう、あのブライアン・フォイである。
『カサブランカ』が公開された翌年の1943年7月、アメリカでは議会上院が戦時情報局の映画局の予算を凍結し、1年足らずで戦時情報局によるハリウッドの直接統制が頓挫する [7]。実は、海軍、陸軍ともに軍事教育用映画や一般公開用のプロパガンダ映画など戦略上必要な映画は自分たちで製作していた。さらに、議会から見ても、ハリウッドが戦争推進に必要な《名作》をみずから製作している(ミラード・タイディングス Millard Tydings 上院議員は、ワーナー・ブラザーズの『エア・フォース(Air Force, 1943)』を例として挙げた)のだから、映画局のような組織は必要ないという議論になった。結局、戦時情報局のエルマー・デイヴィス Elmer Davis 局長自身が、映画局の存在価値をあまり認めていないことが決定打となり、映画局の閉鎖に至った [8]。
映画部の閉鎖後は、ウルリック・ベルが中心となって、海外配給差し止めを梃子に、検閲局から映画の脚本に修正を求めるようになる。これは部分的に成功したが、ハリウッドが全面的に戦時情報局の求めていたような映画製作に舵を切ったわけではなかった。この一連の戦時情報局とハリウッドの関係については笹川の論文が詳細に論じている[9]。
戦時情報局 映画局閉鎖の直接の原因は、おそらく、局長のロウェル・メレット Lowell Mellett が軍製作の長編プロパガンダ映画『戦争の序曲(Prelude to War, 1942)』と『アリューシャンからの報告(Report from the Aleutians, 1943)』の一般劇場公開に難色を示したことだろう [10]。前者は戦時情報局の要請を受けて戦争活動委員会がフランク・キャプラに監督させた新兵トレーニング用映画、後者はアリューシャン列島でのキスカ作戦を記録したジョン・ヒューストン監督のドキュメンタリー映画である。軍はどちらの映画も長編バージョンを一般劇場公開しようと画策したが、メレットは興行主たちが嫌がるだろうという理由で短編映画としての公開を主張した。結果的には、これら二本は長編映画として一般公開され、一般の観客にも極めて大きなインパクトを与えることになる。この経過を見ても分かるように、戦時中のアメリカ政府、軍のプロパガンダ映画政策は統一性を欠き、むしろ映画そのものの評判が先行して、政策が事後的に改造されていくというケースが頻繁に見られた。
References
[1]^ "President Calls Screen to War, Defines Nature of Restrictions," Motion Picture Herald, vol. 145, no. 13, p. 17, Dec. 27, 1941.
[2]^ C. R. Koppes, "Hollywood Goes to War: How Politics, Profits, and Propaganda Shaped World War II Movies." New York : Free Press ; London : Collier Macmillan, 1987.
[3]^ 西森マリー and 副島隆彦, "カバールの民衆「洗脳」装置としてのハリウッド映画の正体." 秀和システム, 2022.
[4]^ "Pressure for Beter War Films Shows Results; More Needed," The Daily Worker, Chicago, p. 7, Aug. 01, 1942.
[5]^ "Act to Halt Distribution of MGM Anti-Negro Film; U.S. Aroused," California Eagle, Los Angeles, p. 1, Sep. 03, 1942.
[6]^ K. Morgan, "Ken Morgan’s Hollywood Keyhole," The San Bernardino County Sun, San Bernardino, California, p. 16, May 17, 1942.
[7]^ "Senate Votes End of OWI Film Bureau," The Film Daily, vol. 84, no. 1, p. 10, Jul. 01, 1943.
[8]^ A. H. Older, "Reelin’ Around ... Washington," The Film Daily, vol. 84, no. 13, p. 1, Jul. 20, 1943.
[9]^ 笹川慶子, "第二次世界大戦とハリウッド・ミュージカル映画――現実逃避か、プロパガンダか," 映像学, vol. 63, pp. 38–54, 108, 1999, doi: 10.18917/eizogaku.63.0_38.
[10]^ "Mellett, Army in "Aleutians" Dispute," The Film Daily, vol. 84, no. 6, p. 1, Jul. 09, 1943.
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