わたしたちの果てなき切望 (4)

世の中に氾濫するプロパガンダに関する言説は、書き手によってそれぞれ《プロパガンダ》の語の定義が微妙にずれている。定義がお互いずれた状態で「Aという作品はプロパガンダか否か」という議論を展開してもあまり意味がない。《プロパガンダ》の語源となったローマ・カトリック教会のSacra Congregatio de Propaganda Fideを持ち出す人が多いが、そんなことよりも、自分がどう定義しているか、具体的に・・・・明言する方が重要だろう。

この10年ほど、《プロパガンダ》を巡る議論が静かに行われている。発端はジェイソン・スタンリーの「How Propaganda Works」だった [1]。この本のなかの《プロパガンダ》の議論、とくにその特質についてのスタンリーの主張について、多くの論者が俄かに同意できなかったようである。例えば、スタンリーは「犬笛 dog whistle」のようなコード化された言葉(code word)を使った政治的言説を《プロパガンダ》と呼んでいるが、法学者のサミュエル・ライター、哲学者のオリヴァー・トラルディらはそれは単に《レトリック》とよばれるものではないのか、と指摘して疑問を投げかけている[2], [3 Chapter 22]。哲学者ジェイソン・ブレナン(選挙権をある一定の知性を持った市民にのみ付与するエピストクラシーを提唱している人物)は、この議論自体がプロパガンダだとし、スタンリーの左翼的視点に異議を唱えている[4]。イリノイ大学のミラ・ソティロヴィッチは「プロパガンダとは何か」という短いリストを作成していて、この語の歴史的な変遷を見ている[5]。このリストをもとに、トラルディが従来の《プロパガンダ》の定義を総括している。

(a) 一般的に、プロパガンダは受け手の態度や行動を変化させることを狙いとしている。

(b) 一般的に、プロパガンダの範囲は広く、「大衆」「集団」あるいは「社会」が対象である。

(c) 一般的に、プロパガンダの取り組みは、長期にわたり、何らかの形で組織的である。

(d) 一般的に、プロパガンダの目的は政治的である。すなわち、政治的態度や行動がターゲットとされている。

(e) 一般的に、プロパガンダの手法は、理性に訴えるものではなく、ある種の人心操作や心理的な「テクニック」によるものである。

Oliver Traldi [3 Chapter 22]

一見、この5つの特徴は《プロパガンダ》の定義として十分なように思える。(a)(b)(c)だけであれば、政府の広報や通達もこれに該当するだろう。問題は(d)と(e)だ。《プロパガンダ》が他の言説と決定的に違うとされるのは、この二点である。

例えば、有名なAC(公共広告機構)のTVスポット「ストップ、温暖化」は、このクライテリアに照らし合わせると《プロパガンダ》に該当するのだろうか。いたたまれない恐怖や背筋が凍るような嫌な感じを視聴者に誘発するように演出されており、(e)は十分満たしていると言っていいだろう。では、(d)の《政治的》な目的という点ではどうだろうか。ここにきて、私たちは最も厄介な問題に衝突する。《政治的 political》とはどういう意味だろうか。立ち戻って《政治 politics》とは何だろうか。

政治学者のエイドリアン・レフトウィッチは「《政治》という言葉の適切な定義や主題の範囲についての議論そのものが政治的である」述べて、《政治》という概念の困難さを吐露している[6 p.2]。ACのTVスポット「ストップ、温暖化」は、そのよい例だろう。地球温暖化の議論を《政治的》と捉えること自体が、《政治的》な態度であって、結果的にあのTVスポットを《プロパガンダ》とみなすか否かは、その議論自体が《政治的》だというトラップにおちいってしまう。「ストップ、温暖化」の映像をみて、「公共広告機構によるプロパガンダだ」という態度の向こうには、地球温暖化は、科学的な研究結果の積み重ねから得られた知見ではなく、政治的なアジェンダから生まれたイデオロギーのツールである、という認識がある。

この議論の行きつく先は、「科学は《非政治的》なのか」という問いになるだろう。そして、自然科学について頻繁に言及される「客観性」「中立性」に対して疑問が投げかけられる。だが「自然科学は真理のみを追求する」というテーゼを、現代において、いったいどこの誰が信じているのだろうか。私の知るかぎり、自然科学分野の研究者の多くは「自然科学は真理のみを追求すべき」と考えていても、自然科学の実態はそうなっていないことを極めて深く痛感していると思う(例えば、資金調達の《政治性》や、学会の《政治性》、研究課題の《政治性》を通して、日常的に経験している)。言い換えれば「科学は《政治的》なんじゃないのか」という議論を弄んでいるのは、(自然)科学の外部なのではないかと感じている。地球温暖化に関して、ほぼ大部分の科学者が警鐘を鳴らし続けているのは、そういった自然科学の行為がはらむ政治の実態を完全に引き受けたうえでも、それでも拭い難い地球環境の変化が厳然として存在するからこそ、だと私は認識している。

さらに厄介なのは、「ストップ、温暖化」のコマーシャルはプロパガンダじゃないでしょう、という意見は、「あれは公共広告機構によるプロパガンダだ」という意見への反対表明としてしか出てこない、という点である。「Aはプロパガンダではない」というのは、先に「Aはプロパガンダだ」という意見が存在していないと出てこない類の発言である。

この《政治という言葉の政治》の特性をよく表す言葉として、《政治化する politicize》、そして政敵を攻撃するためにアジェンダを利用することをあらわす《武器化する weaponize》が最近とみによく聞かれる。トランプ政権とリベラル派の言論は、まさしく《武器化するという言葉の武器化》という様相を呈している。

これを演繹していくと、上に挙げた、ジェイソン・ブレナンの「《プロパガンダ》に関する議論自体が《プロパガンダ》」という見方につながっていく。

すなわち、何を《プロパガンダ》と呼んで、何を呼ばないかは、極めて政治的な議論だということだ。

References

[1]^ J. Stanley, "How Propaganda Works," Reprint版. Princeton, New Jersey Oxford: Princeton Univ Pr, 2016.

[2]^ B. Leiter and S. Leiter, "Not Your Grandfather’s Philosophy - New Rambler Review." Link

[3]^ O. Traldi, "Political Beliefs: A Philosophical Introduction." Taylor & Francis, 2024.

[4]^ J. Brennan, "Propaganda About Propaganda," Critical Review, vol. 29, no. 1, pp. 34–48, 2017.

[5]^ M. Sotirovic, "What is Propaganda? (University of Illinois at Urbana-Champaign)," Jan. 29, 2015. Link

[6]^ A. Leftwich, "What is Politics: The Activity and its Study." John Wiley & Sons, 2015.