わたしたちの果てなき切望 (8)

ナチズムは、最も残虐で自己中心的な個人の本能を解き放つことで、大衆を操作している。

Herbert Marcuse [1 p.70]

Opfergang (1944)
監督:ファイト・ハーラン
スラヴォイ・ジジェクが「優れた“男性優位主義”ファンタジー」と呼んだナチス・ドイツ末期のメロドラマ。

1.

ナチス・ドイツを逃れてアメリカへ亡命したジーグフリード・クラカウアーは、ゲッベルスの言葉を裏付けるようにドイツ映画を批評する。

ナチスの映画はすべて、多かれ少なかれプロパガンダ映画だ。政治からかけ離れているように見える娯楽映画でさえプロパガンダ映画である。

Siegfried Kracauer [2 p.275]

だが、クラカウアーはその著書のなかでは、ナチス政権下で製作された娯楽映画を分析せず、もっぱらワイマール期の映画、そしてナチスが政権を奪取したのちの時代は、ニュース映画やドキュメンタリーに焦点を当てていた。

山田宏一と蓮實重彦は、このクラカウアーの映画史をとりあげて、だから、あの頃のドイツ映画と言えはリーフェンシュタールになってしまうのだと批判していた。「カリガリからヒットラーまで、表現主義からナチズムまでというテーゼを立てると、デトレフージールクの映画なんかは単なる音楽メロドラマで、そういうのを認めちゃうと論理が成り立たなくなる」、そして『第九交響楽(Schlußakkord, 1936)』なんて、もはやハリウッド映画ではないか、絶対に俗悪なオペレッタ映画と違うのだ、とデトレフ・ジールクがナチス政権下で監督した映画を擁護している [3]。「政治からかけ離れているように見える娯楽映画でさえプロパガンダ映画である」と極めて重要な指摘をしているにもかかわらず、クラカウアー自身がそれを分析していないのだから、こういった批判を受けても致し方ないのかもしれない。

実際、ダグラス・サーク Douglas Sirk がまだデトレフ・ジールク Detlef Sierck だった頃に監督した『第九交響楽』を見て、「この映画のどこがナチス政権賛美なんだ」と思う映画愛好者シネフィルは少なくないだろう。やれやれ、すぐにナチスだと決めつける、映画のことなんかわかりもしないくせに、と言いたくなるに違いない [4 Chapter 1] 。不幸に見舞われた女が、手放した幼い子供と紆余曲折の末、再会する───そんな映画のどこに、ユダヤ人排斥や総統崇拝や領土拡張の思想があるのだ。

デトレフ・ジールクは1934年にウーファ(Universum-Film Aktiengesellschaft, UFA)に招かれて、映画監督としてのキャリアをスタートした。彼はそこで1937年までの約3年間、『思ひ出の曲(Das Hofkonzert1936)』『世界の涯てに(Zu neuen Ufern, 1937)』『南の誘惑(La Habanera, 1937)』などの映画を監督する。しかし、1937年にドイツを離れ、ヨーロッパ各地を転々とした後、1939年にアメリカに亡命した。その際に名前をダグラス・サークに変えている。

Ich klage an (1941)
監督:ヴォルフガング・リーヴェンアイナー

2.

しかし、娯楽映画の衣をまとっていても、恐ろしいプロパガンダ映画であり得る。極端な例をひとつ挙げよう。

ナチス政権下で製作されたヴォルフガング・リーベンアイナー監督の映画に『私は訴える(Ich klage an, 1941)』というのがある。主人公の女性、ハンナはピアニストだが、多発性硬化症に侵されて、ピアノが弾けなくなり、やがて日常生活に支障が出始めてしまう。彼女は進行する病に絶望して、医師である夫、トーマスに、自分をこのまま安らかに死なせてほしいと嘆願する。夫は深く悩んだ末、彼女に過剰量のバルビツールを投与し、彼女は息を引き取る。映画は後半、殺人罪に問われた夫トーマスの裁判のシーンに移行する。裁判の争点は、果たして不治の病に苦しむ人を死なせるのは殺人なのか、という点だ。そして、トーマスは訴える。苦しむ人を苦しませ続けておくことが正しい「法」なのか、と。

映画自体は、徹底的にメロドラマの手法で貫かれており、女性が息を引き取るシーンはロマンチシズムの究極のような、甘美で劇的なものに仕上がっている。かぎ十字が出てくるいくつかのシーンをカットすれば、これがナチス政権下で製作された映画だと気づかない人の方が多いだろう。

『私は訴える』が、極めて邪悪なのは、それが障がい者を密かに大量殺害した「T4作戦 Aktion T4」を合法化するための世論操作をもくろんで製作された点である。T4作戦は1939年に障がいのある子供に対して開始され、その後障がいのある成人も対象とされた。翌年の1940年にはグラーフェネックやブランデンブルクの施設でガス室の使用による殺人が密かに行われた。しかしその事実を知ったキリスト教団体が公に抗議をはじめ、海外でも報道され始めた。1941年8月のグラーフ・フォン・ガーレン司教による説教がきっかけとなって、ナチスは作戦を一時的に停止せざるを得なかった。しかし、この一時停止指示が出るまでに、すでに70000人が殺害されていたという [5 p.85]

総統官房でT4作戦を率いていたヴィクトール・ブラック Viktor Brack は、ヒムラーから「T4作戦」の失敗を責められ、大衆宣撫活動が十分でないことを指摘された。それまでも、ブラックたちは《教育》を通じて「生きる価値のない生命 Lebensunwertes Leben」についての政策を大衆に啓蒙しようと活動を行っていた。例えば「Das Erbe (1935)」「Sünden der Väter (1935)」「Abseits vom Wege (1935)」「Erbkrank (1936)」「Opfer der Vergangenheit (1937)」「Alles Leben ist Kampf (1937)」などの短編映画を矢継ぎ早に製作して党の啓蒙活動用に公開していた。これらの短編映画はどれも同じ筋書きで、「人間社会には一生治癒しない障がい者や遺伝病患者がいる」「彼らの障がいは遺伝するので3世代も進むと障がい者の数は大変なものになる」「それらの障がい者を社会で面倒に見ているせいで、貧困が引き起こされている」といった主旨を、障がい者施設の映像とそこに暮らす人々を織り交ぜて告発するトーンで紹介する。そして「このままでよいのか」「よくない」という主張をスクリーンに映し出し、最後は行進するヒトラーユーゲントの映像で締めくくる。確かに論旨はいやというほど明確だが、それゆえに公開範囲は限定的だった [6]。そこで、ブラックがトービス映画社に指示して製作させたのが『私は訴える』だった [7 p.132]。この映画は、総統官房の指示と宣伝省の監視下において、ナチスのイデオロギーを推進する目的で製作された《プロパガンダ映画》である。

なお、上記の短編映画は Unites States Holocaust Memorial Museum のウェブサイトで視聴可能である。

これらとは別に《学術的》な目的のために製作された映画もある。障がい者の強制断種はナチスが政権を奪取した直後の1933年7月に開始されていたが、全国の外科医たちのために断種手術のプロセスを解説した『精管切除術による男性の断種(Sterilisation beim Manne durch Vasektomie bzw. Vasoresektion, 1937)』が製作された。同じく1937年には、シャリテーの精神科医ゲアハート・クヤトゥ Gerhardt Kujatu が、《実験》と称して小頭症の幼児を虐待する様子を撮影した映画が論文とともに発表されている [8]

『私は訴える』は、政策の直接的表現を避けつつ、安楽死は科学的思考の帰結であるというテーマをドラマ化していく。本来の目的は隠蔽されているが、随所に蝶番がずれたドアのような違和感を感じる箇所がある。例えば、トーマス・ハイト医師の研究室のシーンもその一つだろう。トーマスは、妻を救うために、多発性硬化症の原因と治療法を躍起になって研究する。彼の研究チームは、多発性硬化症患者の脳脊髄液を実験用ラットに注入し、ラットが不随になるか実験する。そして、スクリーンに、下半身不随になったラットが大きく映し出される。研究員のホーファー博士は「やった!素晴らしい!ラットが不随になったぞ!」と叫ぶ。同僚の女性研究員、ブルクハルト博士の「ネズミがかわいそう」という応答が、かろうじてホーファー博士のセリフのシュールさを緩和するが、不随になった下肢を引きずっているラットをクローズアップで映し出し、動物を使った医学研究の実態を観客に突き付けることで、《科学の冷徹な正しさ》を強調しようとしているのは間違いない。そのブルクハルト博士にしても、その前のシーンでは、ラットから摘出された器官の顕微鏡用試料を作成しているのだから、「かわいそう」という言葉は宙に浮いてしまう。科学の発見は、数限りない実験動物の犠牲の上に成り立っている。それを社会として倫理的にどのように引き受けていくかという視点ではなく、実験動物の哀れさにひるむ者の心情を矮小化し嘲笑する姿勢で描かれている。

多発性硬化症患者の脳脊髄液を動物に注入すると四肢不随を引き起こすという報告は実際に1917年に行われている [9]。『私は訴える』の実験動物のシーンは科学的根拠のある実験結果を再現したものだと言える。

そういった姿勢は、「科学である優生学」が導き出す結論は正しく、それに伴う命の奪取は、人類の進歩に不可欠なことであって、それを倫理的に議論するのは無意味である、というところに行きつくだろう。

ナチスの優生思想の体現化である「生きる価値のない生命の抹殺 Vernichtung lebensunwerten Lebens」の問題を「不治の病に苦しむ美しい女性が選んだ死を、愛する夫が幇助する」という悲劇と献身と苦悩の物語にすり替えて、大衆が受容しやすいようにパッケージ化する。前記事の冒頭に引用したゲッベルスの言葉は、1942年3月の日記に記されているもので、『私は訴える』の興行的大成功を聞いた後だ。映画は1800万人の観客を動員し、秘密警察 Sicherheitsdienst の報告によれば「おしなべて評判が良かった」という。

ヒトラーがT4作戦中止を指示したのは1941年8月24日だったが、『私は訴える』がベルリンで公開されたのはその5日後の8月29日である。

『私は訴える』の場合、《意図》は明確だ。だが、プロパガンダ映画が大衆に対して本当にプロパガンダとして・・・・・・・・・《効果》をあげたかどうかを見極めるのは難しい。興行成績や映画としての評判は、宣撫活動の効果、大衆の世論誘導の成功とは必ずしも連動しない。『私は訴える』のプロパガンダとしての《効果》は、後世の歴史家や研究者のあいだでも意見が分かれている。ロバート・E・ヘルツスタインは、映画公開後の教会、特にカトリック教会の強い反発がこの映画のプロパガンダ効果を極めて大きく損ねたと断言している [10 pp.426-428]。デヴィッド・ウェルチは、秘密警察の報告を引きながら、(その信憑性に疑問をあてながらも)労働者階級のあいだで安楽死について法改正を好意的にみる傾向がみられたことや、映画雑誌 Filmkurtur に掲載された医師を交えた映画批評座談会の様子を取りあげて一定の効果があったことを示唆している [11 pp.106-107]

私のあの映画は、患者の要望によって行われる安楽死だけを取り扱ったものです。

Wolfgang Liebeneiner [12 p.335]

監督のリーベンアイナーは戦後の1965年に雑誌「シュピーゲル」に対して、『私は訴える』弁明の手紙を送っている。そのなかで、「病気による死期よりも、より死期を早める行為である《安楽死》」と「患者の要望によって死期を早める行為である《要請による殺人》」は法的に違うものだが、それをみんな混同していると主張している。確かに、映画『私は訴える』の主旨は、「死を希望する者には安楽死の選択肢があるべきだ」というもので、これはナチスのT4作戦とは無関係のように見える。T4作戦は本人の希望による安楽死ではなく虐殺である。しかし、ナチスは、これらの定義上の相違を意図的に、詐欺的に消し去って、虐殺を安楽死と言い換えようとしていた。ヴィクトール・ブラックやカール・ブラントらT4作戦の推進者は、障がい者の殺害を「親族の了解を得た安楽死」と言い、そのように粉飾していたのだ [5 p.171]。宣伝省と総統官房の《意図》は、大衆・・に大きな括りの《安楽死》を受け入れさせることであった。ゲッベルスやブラックから直接指示を受けていたリーベンアイナーが、その《意図》を何も知らなかったとは考えにくい [12 p.337]

ドイツの映画アーカイブ、フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ムルナウ財団はナチス政権下で製作されたドイツ映画を数多く保管しているが、そのなかでも40本を今でも非公開(公開上映禁止)としている。財団は、これらの作品を政治的に非常に問題のあるものと認定し、「科学的な評価、政治的教育の枠組み」で研究される場合にのみ上映/鑑賞を許可している。『ユダヤ人ズース(Jud Süß, 1940)』『大いなる愛情(Die Grosse Liebe, 1942)』などとともに『私は訴える』もこの40本のなかに含まれている [13]

確かに『私は訴える』のケースは、娯楽映画としては例外と言えるかもしれない。この映画のプロパガンダの狙い(意図)や製作過程の議論(実践)、そして公開後の反応(効果)などの記録が残されているため、現在から分析するにしても見通しが良いほうだ。しかし、他の多くの娯楽映画はそのような記録を持たないか、あるいはアーカイブのなかに埋もれてしまっている。だが、ナチス・ドイツや大日本帝国の場合は、その政府機構(ドイツの場合は宣伝省、日本の場合は内務省)が、すべての公の文化活動をコントロールしていた。たとえ娯楽映画といえども、脚本の段階から検閲が入り、《意図》が政府によって直接制御されていた。ゆえに一見《非政治的 apolitical》にみえる娯楽映画でもプロパガンダ映画だとまず考える必要がある。その点において、アメリカは、最後まで、戦争省が物資配給制限などの間接的なかたちでしか映画製作をコントロールできなかった。その点が大きく異なるかもしれない。

Ich klage an (1941)
下肢不随になったラットを見て喜ぶホーファー博士(左)と神妙な表情のブルクハルト博士(中)

『私は訴える』のDVDは海外のオンライン・ショップやe-bayなどから購入できる。またオンラインの複数の動画プラットフォームやデータベース(Internet Archive 等)で全編を視聴可能である。しかし、そのアップロードやオンライン・ショップのなかには第三帝国のイデオロギーの拡散や正当化を目的としたものもあるため、ここではそのリンクを提供しない。

References

[1]^ H. Marcuse, "State and Individual under National Socialism," in Technology, War and Fascism: Collected Papers of Herbert Marcuse, Volume 1, D. Kellner, Ed. Hoboken: Routledge, 1998.

[2]^ S. Kracauer, "From Caligari to Hitler: A Psychological History of the German Film (Originally Published in 1947)," Revised, Expanded edition. Princeton, NJ: Princeton University Press, 2004.

[3]^ 山田宏一 and 蓮實重彦, "もう一つのハリウッド:ウォルター・ウェンジャーの映画史," リュミエール, no. 11, pp. 165–175, Spring 1998.

[4]^ T. Ryan, "The Films of Douglas Sirk: Exquisite Ironies and Magnificent Obsessions." Univ. Press of Mississippi, 2019. Available: https://books.google.com?id=j0OWDwAAQBAJ

[5]^ H. Friedlander, "The Origins of Nazi Genocide: From Euthanasia to the Final Solution." Chapel Hill (NC) London: The University of North Carolina Press, 1997.

[6]^ U. Kaminsky, ""Mercy Killing" and Economism: On Ethical Patterns of Justification for Nazi Euthanasia," in Nazi Ideology and Ethics, W. Bialas and L. Fritze, Eds. Cambridge Scholars Publishing, 2014.

[7]^ G. Reitlinger, "The Final Solution: The Attempt to Exterminate the Jews of Europe, 1939-1945," First American Edition. Northvale, N.J.: Jason Aronson, Inc., 1977.

[8]^ S. Rubenfeld and D. P. Sulmasy, "Physician-Assisted Suicide, Euthanasia, and Bioethics in Nazi and Contemporary Cinema," in Bioethics and the Holocaust: A Comprehensive Study in How the Holocaust Continues to Shape the Ethics of Health, Medicine and Human Rights, vol. 96, S. Gallin and I. Bedzow, Eds. Springer, 2022.

[9]^ U. J. Dowling, "Multiple Sclerosis; Mode of Onset and Etiology," University of Nebraska College of Medicine, 1936.

[10]^ R. E. Herzstein, "The War That Hitler Won: Goebbels and the Nazi Media Campaign." New York : Paragon House Publishers, 1987.

[11]^ D. Welch, "Propaganda and the German Cinema, 1933-1945," Revised edition. London ; New York : New York: I.B. Tauris, 2001.

[12]^ R. Giesen, "Hitlerjunge Quex, Jud Süss und Kolberg." Berlin, 2005.

[13]^ ""Forbidden Films" Presskit." Zeitgeist Films. Available: https://zeitgeistfilms.com/userFiles/uploads/films/251/ForbiddenFilms_presskit.pdf