また、G. W. パブストの映画について書こうと思います。

1930年には、第一次世界大戦のドイツ軍の悲惨な戦いを描いた映画が2本公開されました。有名なのは、ユニヴァーサルが製作した、ルイス・マイルストン監督の"All Quiet on the Western Front"[邦題:西部戦線異状なし]ですね。この作品は、アカデミー賞を受賞したことも手伝って、今でも「古くならない反戦映画」という評価もちらほら見ることがありますし、廉価版のDVDでどこに行っても売っています。しかし、もうひとつの映画、G. W. パブストの"Westfront 1918"[邦題:西部戦線一九一八]は公開当時こそ反響が大きかったのですが、今はあまり見る機会がありません。IMDBでも、ルイス・マイルストンの「西部戦線異常なし」は36000人以上が点数をつけているのに、パブストのほうは500人くらいしかつけていません。たいした映画ではなかったのかというと、そうではありません。公開後、この映画をナチス政権が否定したことで、ドイツ国内で忘れ去られてしまったことや、映画そのものの救いのなさが手伝って、いわゆる名作としては思い出されなかったのではないかと推測します。

ルイス・マイルストンの作品は「メインとなるプロットはほとんどないといってよく、ただ塹壕の中で戦うエピソードが次から次へと描かれるだけだ」とも言われますが、それでも主人公のポールの視点からみた戦争の世界という一貫性があります。パブストの映画はもう「視点の一貫性」さえもあやふやで、最初から最後まで継続した「物語」というものは放棄しています。前半は「学生」と呼ばれる青年兵と戦地の村の娘との恋に若干焦点が当たっているのですが、「学生」は戦死してしまい、後半は同じ部隊のカールに関心が移ります。「西部戦線異状なし」のような、ポールとそれを取り巻く戦友、というドラマやエピソードは、「一九一八」にはないのです。唯一ドラマらしくなりそうなポイントといえば、休暇をもらったカールが家に戻ってみると、妻が別の男と寝ているというエピソード。しかし、パブストはそれさえもドラマチックに描くことをせず、むしろ恐ろしいまでの無気力で画面を覆います。カールは怒りもしないし、悩みもしない、だからと言って許しもしない、もう、自分の妻が食料欲しさに誰と寝たということさえも、どうでもいい。また戦場に向かうカールと彼の妻が、階段で別れるシーンは、唖然とするくらい、見る者を拒むのです。これを見たときは、私は自分自身がいかにメロドラマ的な展開を期待してしまっているか、思い知らされました。

これは、戦闘シーンにも言えることです。マイルストンの「西部戦線異状なし」には、有名な機銃掃射のトラッキングショットがあります。突撃してくる敵兵がばたばたと斃れる様子を、機関銃の音と共に見せるのです。カメラが機関銃のように人を撃ち殺していく、そういう錯覚に襲われます。しかし、パブストの戦闘シーンは、固定されたカメラによる長まわしで、そのような編集技術を駆使したものにはなっていません。敵が攻めてくるのを塹壕からライフルでなんとか撃っている、そういう兵士の視点なのでしょうか。ここでも、ドラマチックな「闘い」の描写を徹底的に避け、なにか不気味に突き放した映像になっています。

「西部戦線異状なし」の戦闘シーン

「西部戦線1918」の戦闘シーン

パブストの「西部戦線一九一八」が衝撃的なもうひとつの要因は、映画のはじめとおわりに出てくる戦闘で、いずれも自軍の攻撃によって兵士が斃れていく様子を描いていることだと思います。映画のはじめのほうでは、味方の後方からの砲撃が距離が短く、最前線の塹壕に落ちてきて苦しめられる様子が描かれます。トンネルが崩れ、トンネルの下敷きになりそうな戦友たちのうえに、味方の砲弾が容赦なく着弾します。映画がはじまっていきなり全くやるせない話なのです。そして映画の終わりのほうのクライマックスでは、味方によって自分たちの塹壕に毒ガスが撒かれるのです。敵は戦車を従えて容赦なくカールたちの塹壕を襲ってきます。カールの部隊の多くは負傷し、敵が累々と積み重なる戦友の死体を踏みつけて前進していきます。このときに、塹壕の中で味方によって毒ガスが撒かれ、防毒マスクを装着したドイツ軍兵士たちが後方から現れて、敵を押し戻していくのです。

この映画は「国を防衛するとか皇帝のためにとかではなく、ただ目の前にいる愛する人を守る」という考えも、甘ったるいメロドラマだと静かに言い切っているのです。「家族を守る」「愛する人を守る」と言っても、家族は貧困にあえぎ、出征した夫のことなど忘れてしまっている。「友を守る」なんて言っても、上官は戦果をあげるためなら、自分の部隊の塹壕に毒ガスを撒くこともいとわない。「自分が誰かを守る」なんてすべてまやかしで、戦争に巻き込まれてしまえば、自分はただの肉片に過ぎず、なんの力も持ち合わせていないということを、淡々と描ききっているのです。この映画では、そういうことを誰一人演説をぶつわけではありません。ただ惨めな状況に黙って死んでいくだけです。

でも、本当に黙っているか言うと、そうではない。

「西部戦線一九一八」は、パブストの初めてのトーキーです。この映画の音で最も心に刻まれる「音」は、正気を失った大尉の絶叫でしょう。全編を通してこの大尉は非常に冷静な人物として描かれていますが、後半の戦闘の場面で、上官から毒ガスを自陣に撒くように命令され、その命令を遂行したものの、彼自身は正気を失うのです。聞く者の鼓膜を切り裂くような意味不明の叫びに続いて、野戦病院にこだまする数々の悲鳴が聞こえてきます。そのすべてが、自分の何かを失ったことへの叫びです。目を失った者、両足を失った者の、「あるべきものがない」ことへの慟哭です。その悲鳴とうめきの中で、カールがボソッと言うのは「仕方なかった、自分のせいではない、とみんな言ってきた。でも、これはみんなのせいなんだ。」こういうメッセージを、それまで淡々と撮っていたカメラが捉えるのは違和感を覚えるのですが、それ以上に、この映画の後にナチスが政権を掌握して戦争と虐殺を繰り返すことを考えると、このメッセージが、何かを予見していたようにも思われます。