2014年2月21日金曜日

広告に載った九つの映画:フレデリック大帝 (後篇)

「フレデリック大帝」
 
「フレデリック大帝」の製作・監督・脚本をしたアルゼン・フォン・クセレピィはもともとハンガリー人です。母親はドイツ人ですが、父親はハンガリー人の画家でした。彼の一生を見ていると、ドイツ人になりたかったのに、ならせてもらえなかった、という印象を受けてしまいます。ブダペストで自動車のエンジニアをしていたのですが、その後ベルリンに移り住み、1912年ごろから映画の製作に関わり始めます。1914年に第一次世界大戦が始まるとオーストリア=ハンガリー軍にパイロットとして従軍します。1918年に「ファウスト」を製作しようとしますが、「非ドイツ人がドイツの古典を手がけるとは何事か」と強烈な反発に会い、あきらめます。そして、この「フレデリック大帝」を手がけた後も自分の製作会社で映画を作り続けるのですが結局うまくいかず、1924年、ウーファに会社を売却してしまいます。翌年にはアメリカに渡って、ハリウッドでの映画製作を試みます。パラマウントにH・G・ウェルズの「世界戦争」の映画化の話を持ちかけますが頓挫、「創生」「ラスプーチン」などの企画もすべて失敗します。1927年にはニューヨークで「クゼレピィ・ムービーズ」を設立するも行き詰ってしまい、翌年ベルリンに戻ります。さらにここでも11月革命の映画の製作で政治志向性の意見が合わず、監督を辞しています。

1930年に、彼はナチス党員になります。

1932年、ゲッベルスに映画「Deutschland über alles」の企画を持ち込みます。また、ベルリン滞在中のエイゼンシュタインについて記事を書いて、母親の旧姓(デーリンゲルというドイツ名)で出版して「ドイツ人になる」ことを誓っています。翌年に再び映画製作会社を設立するのですが、ゲーリングのドイツ空軍がすぐそばに飛行場を作り始めたために、スタジオの建設ができず、やっと作った映画もウーファとの間でいざこざが起き、会社は破産します。

1939年にブダペストに戻った後は、1941年まで数作を監督した後、引退したかのごとくぱったりと音沙汰が無くなり、1958年に亡くなります。

ワイマール期の早い時期に保守的な作品で成功を収めただけでなく、ナチス党員でもあったクセレピィが、ナチス政権下でかんばしい扱いを受けていないのは、彼自身の性格の問題か、それともナチス幹部や同調者たちの問題か、そこはよくわかりません。しかし、あれほどゲッベルスやヒトラーに気に入られ好待遇を受けたレニ・リーフェンシュタールやヴァイト・ハーランがナチス党員でなかったことを考えると、党員 -しかもわりと早い時期に入党していた- であった事実は、何の役にも立たないことがあるのだということですね。

また、彼のように1920年代後半には多くのヨーロッパ映画人がハリウッドを目指しています。しかし、エルンスト・ルビッチやマイケル・カーチスのように成功して名を残したのは一握りで、ヨーロッパに戻ってしまった人も多くいます。クセレピィは一本も作れていないので、かなり極端な例ですが、ヴィクター・シェーストロム、モーリッツ・スティルレル、ヴィクトル・トールジャンスキー、ここでも取り上げたパウル・フェヨス、後で取り上げる予定ですがベンジャミン・クリステンセンなど、数えればきりがありません。F・W・ムルナウも亡くなったときには、ハリウッドに見切りをつけてしまっていました。しかし、このサイレント末期の「宇宙戦争」は実現していれば、面白かったかもしれませんね。

「フレデリック大帝」の脚本に名を連ねているハンス・ベーレントは、ユダヤ人です。ナチスの台頭と共にドイツから脱出し、スペイン、オーストリアと転々としますが、ベルギーで拘束され、1940年にアウシュヴィッツ収容所に送られ、殺されます。同じく名を連ねている、ボビー・E・リュトケは、1928年ごろから反共作品の脚本などを手がけ、ナチスの初期のプロパガンダ映画「ヒトラー青年 クヴェックス」も彼の手によるものとされています(リュトケ自身は、戦時中は自身が書いたと主張、戦後は否定)。彼は戦前の映画出版で最もポピュラーだった「Film Kurier」の創刊にも携わっていました。彼は、戦後の「シュピーゲル」誌のインタビューで、いかに自分がこの「フレデリック大帝」の製作でイニシアチブをとったかを語っていますが、ベーレントの名前を口にすることはありませんでした。

撮影のギイド・ジーベルは、ドイツ映画の黎明期のもっとも重要なカメラマンです。彼が「プラーグの大学生(1913)」で2重写しを用いてドッペルゲンガーを表現したことが、ドイツの撮影技術の方向性に大きな影響を与えたことは間違いありません。カール・フロイント、フリッツ・アルノ・ワーグナー、カール・ホフマンらが師と仰いだカメラマンですが、トーキー以後は仕事が減り、後進のために撮影技術の本を書いたりしていました。

この「フレデリック大帝」4部作は、現在なかなか見ることのできない作品です。私も見ていません。35mmプリントは4部とも現存しているようです。第4部だけはDVD-Rでも流通しているようですが、クオリティはかなり悪いようです。

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