2014年4月21日月曜日

広告に載った九つの映画:「ズムルン」の時代




1945年までのドイツの主な映画会社(クリックで拡大)

  ウーファスタイル

ワイマール期から第三帝国期までのドイツ映画界を表現する言葉として「ウーファスタイル」は非常に良く使われます。しかし、この言葉が意味するところはあまりはっきりとしていません。実際、ウーファと言って思い浮かべるのは、「会議は踊る(Der Kongreß tanzt, 1931)」だったりしますが、同様のオペレッタやミュージカルは、ウーファだけでなく、当時のドイツ、オーストリア映画界では量産されていました。あるいはウーファの、あのシンプルだけど特長的なロゴを見ると「ニーベルンゲン二部作(Der Niebelungen, 1924)」、「最後の人(Der letze Mann, 1925)」を思い出します。フリッツ・ラングもムルナウもウーファで大作を監督しましたが、それらの作品に見られる手法や技術、表現方法が「ウーファのスタイル」としてウーファ作品に限って顕現し、他のドイツ映画群から独立していたわけではないのです。

第一次世界大戦からワイマール期に向けてのドイツ映画界は、中小の独立プロダクションが次々と現れては消えていきます。それらが果たした役割は極めて重要で、そのなかで成功を収めた会社や監督、俳優、スタッフが大きな会社に、そして最終的にはウーファに吸収されていく、という構図があります。たとえば、エルンスト・ルビッチはポール・ダヴィッドソンのPAGUで1年に数本の割合で大量生産していましたが、それがそのまま1917年にウーファに買収されました。その後もルビッチはPAGUブランドの下で「牡蠣の王女(Die Austernprinzessin, 1919)」「パッション(Madame Dubbary, 1919)」を監督します。ムルナウの場合も小さなプロダクション会社(ゴロン、プラナ)で初期の作品を作っています。「ノスフェラトゥ(Nosferatu, eine Symphonie des Grauens, 1921)」はアルビン・グラウ/プラナフィルムが賭けに出なければ出来なかった映画です。フリッツ・ラングも「ドクトル・マブゼ(Dr. Mabuse, der Spieler - Ein Bild der Zeit, 1922)」まではデクラ・バイオスコップかウーコフィルムで監督していました。ムルナウとラングの場合には、デクラ・バイオスコップという製作会社が重要な役割を果たしています。これは1915年にエーリッヒ・ポマーが興した会社で、「カリガリ博士(Das Cabinet des Dr. Caligari, 1920)」はここで製作されました。第一次世界大戦後のドイツでウーファについで第2位の映画製作会社で、ミステリー、アドベンチャーなど、今で言う通俗的な題材の「ジャンルもの」を得意としていました。フリッツ・ラングの初期作品にそれは如実に現れていますね。しかし、デクラ・バイオスコップはウーファ資本に1922年に吸収されます。同時期に、先に吸収合併していたPAGUのポール・ダヴィッドソンとエルンスト・ルビッチがウーファを抜けてEFAを立ち上げます。エーリッヒ・ポマーはダヴィッドソンの後任の製作主担当として、1920年代の「ドイツ表現主義」とラベル付けされる数々の著名な作品を製作します。このように、非常に流動的な人材の移動が当時のドイツ映画界では起きていて、確かにその中心にウーファが存在していました。そのことが、ウーファと言う一企業をもって当時のドイツ映画界の「代名詞」として呼ぶことになったのかもしれません。

「ズムルン」の時代への道のり

 

「ズムルン(Sumurun, 1920)」
エルンスト・ルビッチ監督

 

 

故淀川長治氏がかつてインタビュー(聞き手蓮實重彦氏)でこんなことを言っていたのを思い出しました。
ところでルビッチ、いまは誰も知らないものね。名人芸だものね。意外にルビッチは誰も知らないのよね。ルビッチいうと「ズムルン(「寵姫ズムルン」)」みたいなあんな時代のことばかり知っているのね。現代のはあまり知らないのね。
「シネクラブ時代」フィルムアート社、1990年[1]
これは1990年のインタビューだから、今とずいぶん違うのかもしれません。今はむしろ「ズムルン」のほうが知られていないでしょう。「『ズムルン』みたいなあんな時代のこと」という表現が非常に面白いですね。というのも、デビューから生涯を通じてコメディの比率が高いルビッチの作品群の中で、1920年前後は歴史大作が集中している時代です。そして、ハリウッドが、「パッション」の国際的ヒットに危機感を感じて、ルビッチをドイツから引き抜いた「時代」なのです。

映画史としてはごく初期にあたるこの時期でも、すでに映画産業の国際化、正確に言うと地域間競争が始まっていたのです。そして、日本やアメリカと違い、ヨーロッパ大陸は政治的な紛争も背景に国境を越えた映画会社の進出が見られていたのです。

現在(2014年4月)、ウクライナをめぐる情勢は非常に緊張しています。今からほぼ百年前も緊張していました。1918年の前半には、ドイツとオーストリア=ハンガリー帝国とトルコの連合が、革命下にあったロシアにウクライナの独立を認めさせました。すると、ウーファの経営陣はウクライナに進出するために300万ドイツマルクを準備、東ヨーロッパから黒海に向けた地域の市場確保に乗り出すのです。非常に早い決断です。もちろん、この計画はその年の内に頓挫しますが、ウーファはウクライナでの配給についてロシア政府と交渉を続け、コンスタンチノープル経由で供給をするようになります。ウーファが国策会社であったという背景はあったにせよ、ヨーロッパの映画産業の状況を良くあらわしていると思います。

第一次世界大戦前のドイツの映画界の状況は決してかんばしいものではありませんでした。ドイツ国内で公開される映画の90%はフランス、アメリカ、イタリア、スカンジナビアからの輸入で「ドイツ映画」は肩身の狭い思いをしていたのです。映画館のチェーンも外国資本で、コスト競争力の面から言っても、すでにフランスやアメリカ本国で十分儲けてきた映画を安く買い取って公開するほうが儲かったのです。

しかし、第一次世界大戦が始まり、「敵国」―すなわちフランス、後にはアメリカー の映画は輸入・公開が制限され、ようやく国産の映画が映画館を埋めるようになりました。このころのドイツ映画といえば「プラーグの大学生(Der Student von Prag, 1913)」が有名ですが、むしろ主流はジャンルものの連続活劇でした。そして、小さな製作会社が、低予算で客を呼べる映画を次々とひねり出していたのです。たとえば、ジョー・ディーブスという探偵が活躍するシリーズは大人気で毎年5,6本公開されています。ステュアート・ウェブスという、これもアメリカ名の探偵連続活劇もありました。大戦の後半になって、ドイツ政府は映画業界をプロパガンダ目的で統制下におくことを考えます。当時おおやけにされることの無かった密約で、ノルディスク、メスター、PAGUの3社を合併してウーファが発足したのでした。

[つづく]


[1] シネクラブ時代: アテネ・フランセ文化センター・トークセッション. フィルムアート社, 1990.

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