2014年9月25日木曜日

戦争が終わり、兵士達が帰ってくる(3)

The Destination Moon (1950)のポスター


3部構成の第3部です。第1部はここ、第2部はここ

アンソニー・マンとジョン・オルトン

アンソニー・マンとジョン・オルトンはイーグル・ライオンで3作(「He Walked By Night」を入れると4作)、MGMで2作、一緒に仕事をしています。この中で、純粋に「フィルム・ノワール」と呼べるのは、イーグル・ライオン時代の 「T-Men」と「Raw Deal」だけかもしれません。しかし、他の作品もその表現は、ジョン・オルトン独特のカメラワーク(ディープ・フォーカスを多用した構図、最小限の照明 によって得られるコントラストの強い画面、遠近法を強調する直線の利用、仰角、俯角などのアングル、シルエットの多用など)を、アンソニー・マンが演出の中で器用に使いながら、印象的な作品に仕上がっています。面白いことに、イーグル・ライオンでの給料は、監督のアンソニー・マンが週750ドルだったのに対し、撮影監督のジョン・オルトンはフリーランス契約で週1000ドルだったのです。これには、年齢や経験の差、オルトンの交渉などがあったようですが、 それでも、ジョン・オルトンがイーグル・ライオンにとっていかに重要な存在だったかをうかがわせます。スタジオにとっての彼の存在価値は、その作品のクオリティとともに仕事の迅速さだったことは有名です。すなわち、撮影期間を非常に短くすることができる、最大のファクターだったのです。

アーサー・クリム


しかし、いくら彼らが安上がりの評判の良い作品を作っても、実際の配給となると、イーグル・ライオンはメジャー・スタジオの配給独占に阻まれてしまいます。確かに「Raw Deal」などは評判もよかったのですが、メジャーの映画館チェーンでの2本立て興行に食い込むことさえ非常に難しく、結局は場末の2番館、3番館での興行が主体とならざるを得ませんでした。そういうところでは、定額レンタル料で興行収入がじわじわと入ってくるだけなので、最初の年に作った赤字がなかなか埋まりません。アーサー・クリムは、鉄道王ヤングの信用で借り入れることのできたバンク・オブ・アメリカからの600万ドルの利子を払うのさえ苦労し、固定費を下げるためにスタジオを実質上閉鎖していたようです。資金繰りの悪さに関する噂は、ハリウッドではすぐに広がります。1949年にはかなり資金繰りは悪化していましたが、それでも「Jackie Robinson Story(1950)」、「The Destination Moon(1950)」など、話題作を製作、配給していました。パブリシティはいいのに、配給できない。つまり、いいものを安く作っても、売ってくれる店がないのです。アーサー・クリムは、「もはや私にできることはなさそうだ」と1949年にはイーグル・ライオンを去ってしまいます。その後を引き継いだウィリアム・マクミランはヤングの意向で会社を再建しようとしますが、もはや手遅れでした。

作品たちの復活

実は、これらの作品をもう一度救うのは、アーサー・クリムです。1950年初頭、彼はもはや大出血を起こして死亡寸前のユナイテッド・アーティスツの経営を任されます。UAは毎週10万ドルを溝に棄てている状態だったのです。クリムと彼のパートナー、ロバート・ベンジャミン(イーグル・ライオンでも一緒でした)は、UAに乗り込んでいったその日のうちに、20世紀フォックスのスパイロス・スクーラスから資金を調達して、とりあえず「輸血」します。そして、様々な手を打って経営の改善に乗り出しますが、そのうちのひとつが、イーグル・ライオンの後継会社を買収して、そのフィルム・ライブラリをUAの財産と し、それをマティ・フォックスが経営するTV向け映画配給会社に貸し出すことでした(イーグル・ライオンの買収資金はフォックスが調達したようです)。当時、TV放送は始まったばかりで、まだ十分な量のコンテンツがない。そこに目をつけたのがマティ・フォックスの会社でした。ところがハリウッドのメジャー・スタジオは「TVで映画を流すなど、もってのほか」と受け付けません。UAやイーグル・ライオンなど底辺にいた会社は、配給ができないで困っていたのですから、PRC時代からの映画、加えてランクが持ってきたイギリス映画、合わせて300本ほどのライブラリで少しでも固定収入があれば、財務状況がかなり改善されます。よく50年代のハリウッドの凋落はTVのせいだ、と言われますが、一方でUAなどの映画会社がTVへの配給をもとに復活していった経緯もあるのです。アーサー・クリムはUAのトップとして30年近く君臨し、数々の名作を世に送り出すとともに、ジョン・F・ケネディ、リンドン・ジョンソン両大統領の政権に深くかかわります。

左から2人目がアーサー・クリム、一番右がジョンソン大統領

このようにして、TVに配給されたイーグル・ライオンの映画は、深夜枠などで放送されることが多くなり、さらにVHSの登場と共にアメリカ国内での再評価が始まります。1980年代には、フィルム・ノワール批評の文脈のなかで、ジョン・オルトンのコアなファンたちが映画雑誌などで彼の作品の分析を繰り広げ るようになります。1984年、テルライド映画祭で「ジョン・オルトンは今どこだ?」と題した回顧上映が行われ、彼の業績についての議論が活発に行われました。一部では死亡説まであったオルトンですが、1992年のドキュメンタリー映画「Visions of Light」をきっかけに、映画祭などに出演するようになりました。80年代に「オルトンのコアなファンは全米で200人くらい」といわれていましたが、 今は全世界に彼のファンがいます。

2014年9月23日火曜日

戦争が終わり、兵士達が帰ってくる(2)

He Walked by Night, 1948


(3部構成の第2部です。第1部はここ。)

イーグル・ライオン・フィルムズのノワール

最初に手がけられた本格的なフィルム・ノワールは「T-Men(1947)」でしょう。アンソニー・マン監督、エドワード・スモール・プロダクション製作、そしてジョン・オルトンが撮影。これは、1945年頃から流行になり始めた「セミ・ドキュメンタリー・スタイル」の作品 [1] で、財務省の覆面捜査官が偽札マフィアたちを追い詰めるストーリーです。政府の捜査がいかに科学的で進歩的であるかをドキュメンタリーのごとくボイス・オーバーが語るような映画ですが、この作品の最大の特徴は、陰惨で冷酷なマフィアの世界を視覚的に表現しているところでしょう。ジョン・オルトンは、この作品で「好きに撮って良い」と 言われ、ストーリーにマッチした構図、照明を手早く判断して仕事をしたといわれています。いくつかのシーンでは、撮影用の照明を全く使用しなかったとか。この作品は試写の段階でかなりの評判をとりました。けれども、配給には苦労し、公開後ゆっくりと2番館、3番館で繰り返し上映されながら3年ほどかけて300万ドルを売り上げました。

その後、イーグル・ライオンは、この手の「粗い手触りの/gritty」ノワール作品を次々製作します。前年にコロラドで起きた刑務所脱獄をテーマにした 「Canon City(1947)」、脱獄囚の復讐を描いた「Raw Deal(1948)」、やはり実際に起きた連続強盗事件を題材にした「He Walked By Night(1948)」などです。これらの作品には、ジョン・オルトンが撮影監督として起用され、まさしくイーグル・ライオンのこの一連の作品は、彼の仕事そのものでした。


Vera Caspary
「ローラ殺人事件」の原作者
イーグル・ライオンに脚本家として雇われていた
しかし、なぜこの時期にイーグル・ライオンはそのようなタイプの映画を製作するようになったのでしょうか?最大の理由は、少ない予算で「A級映画のようなルック」が作れるからです。犯罪者達の世界は、最低限のセットのほうがむしろ現実味があるし、夜のロケ撮影で底辺の世界を描くことができます。それをほとんど時間もかけずにどんどん撮影してくれる監督とカメラマンがいる。俳優達だってむしろ無名のほうが真実味もあるし、自分の役柄がどうのこうのと文句もつけない。製作側としてはかなりやりやすいジャンルです。

もうひとつの理由は、イーグル・ライオン・フィルムズの実質的な製作担当だった、ブライアン・フォイにあるでしょう。彼は、もともとボードビルの出身でしたが、1930年代にハリウッドの映画製作に深くかかわるようになりました。その中で彼が作った「友達」たちが非常に「カラフルな」人たちだったのです。 ジェイク・「散髪屋」・ファクター。シカゴ・マフィアの一員で、ヨーロッパで散々詐欺で儲けた後、最後はラス・べガスの有名な「スターダスト」のオーナーでした。ハリウッドのメイクアップ文化の創始者、マックス・ファクターの義弟です。フランク・「俺が掟だ」・ヘイグ。ニュー・ジャージーのジャージー・シティの市長で、腐敗政治家の代名詞。彼の机には来客側に引き出しがあり、訪れた客はそこに賄賂を入れるようになっていたそうです。エド・ケリー。マフィア にまみれたシカゴ市長。こういう交友関係の中でも最も有名だったのが、ジョン・「ハンサム・ジョニー」・ロッセーリ、シカゴ・マフィアのハリウッド駐在代表でした。ロッセーリは1920年代末にハリウッドに現れ、組合(IATSE)を抱き込んで、MGMからコロンビアまで、すべてのスタジオを強請っていました。あだ名の通りハンサムな上に、非常に上品で礼儀正しい男だったので、妻だった女優のジューン・ラングは結婚した後もマフィアだと知らなかったと言われています。中でも、コロンビア社長のハリー・コーンとは「兄弟」とまで囁かれるほど仲が良かったのですが、恐喝でロッセーリが逮捕されたときに、コーンは裁判で口を滑らしてしまい、ロッセーリは刑務所に行くことになってしまいます。1945年に、ハリー・トルーマンが大統領選挙の票と引き換えにシカゴ・ マフィアと取引し、その恩恵を受けて10年の懲役を3年で出てきます。出所したロッセーリは、すぐにコーンのところへ。「誰のおかげで刑務所に行かないですんだと思っているんだ」と怒鳴られて、あのハリー・コーンがうろたえて許しを請うたそうです。そんなこともあって、ロッセーリは、コーンの口利きで旧友ブライアン・フォイのいる、イーグル・ライオン・フィルムズにプロデューサーとして参加します。そして、「T-Men」、「Canon City」、「He Walked By Night」に製作の立場で関わっているといわれています(クレジットはされていません)。その後、ロッセーリは、ラス・べガス開発、カストロ暗殺計画などに関わっていきます。しかし、1970年代になって、寝返って政府側の参考証人として発言したあと、フロリダの海でドラム缶に詰められた死体となって発見されます。[2]

ジョン・ロッセーリ

そういう筋金入りのマフィアが、製作の立場で関わっていたことが、どのくらい映画の表現に影響したでしょうか。「T-Men」で危険な殺し屋の役をしたチャールズ・マックグローは、この映画の撮影の頃から普段でもマフィアのようなしゃべり方になり、自分の娘に嫌われてしまいます。「He Walked By Night」ではロスアンジェルス警察の現職刑事、マーティ・ウィンがアドバイザーとして参加しており、犯罪者側と警察側それぞれにアドバイザーがいたのかもしれないと思うと、奇妙な製作現場を想像してしまいます。少なくとも、腐敗した権力者たちを仲間に持つブライアン・フォイが重役として製作にかかわっ ていたスタジオですから、その趣向が作品に反映されたとしても不思議ではないでしょう。

ちなみに「He Walked By Night」に出演していた俳優のジャック・ウェッブは、アドバイザーのマーティ・ウィン刑事と親しくなり、ロスアンジェルス警察に出入りするようになります。そこから警察の日々の様子を描くTV番組「Dragnet」のアイディアを得たのです。「Dragnet」はその後の警察ドラマの原型となり、「Law And Order」や「CSI」といった現在のドラマにもその影響をはっきりと見ることができます。

第3部に続く)


[1] セミ・ドキュメンタリー・スタイルのフィルム・ノワールは、20世紀フォックス製作、ヘンリー・ハサウェイ監督の「Gメン対間諜(The House on 92nd Street, 1945)」が最初といわれています。 製作のルイ・ド・ロシュモンは、1930年代からニュース映画(March Of Time)を製作してきていました。スター俳優のいない「Gメン対間諜」はほぼ同時期に公開されたスター俳優の出演している映画よりも興行成績がはるかに良く、当時の製作陣にショックを与えたようです。1940年代後半のフィルム・ノワールに見られる、ドキュメンタリー・スタイルの映像、ロケーション撮影への傾倒は、イタリア・ネオリアリスモの影響よりも、このフォックスの一連の作品が得た高い人気に起因しているところが大きいようです。

[2] このあたりのマフィアとハリウッドの関係については
Tim Adler, "Hollywood and the Mob: Movies, Mafia, Sex and Death", Bloomsbury Publishing, LLC, 2008
に詳しいです。


2014年9月22日月曜日

戦争が終わり、兵士達が帰ってくる(1)

J・アーサー・ランク製作「黒水仙(1947)」のオープニング


戦争が終わり、兵士達が帰ってくる

1946年、イギリスの実業家で映画製作者、J・アーサー・ランクと、アメリカの鉄道王、ロバート・R・ヤングが、手を組んで事業に乗り出します。彼らはイーグル・ライオン・フィルムズという映画会社を設立します。そのトップに弁護士のアーサー・クリムをすえ、ワーナー・ブラザーズからブライアン・フォイをプロデューサーとして迎えました。この会社は、映画の未来を見すえようとしていました。しかし、あやふやな基盤と少し早すぎたヴィジョン、何よりも市場の動きを見誤って、4年目には消滅していました。

戦時中、この二人の実業家は、戦争が終わった後のことを考えていました。イギリスのランクは、戦争が終われば、兵士達が帰国し、さらに映画産業が拡大すると予想していました[1]。彼はその機会を逃さず、特に同じ英語圏であるアメリカでの市場を獲得するために、アメリカの映画会社と交渉を重ねます。彼が製作したイギリス映画をアメリカ国内で配給するためです [2]。しかし、MGMやパラマウントといったメジャーには相手にされず、独立系のユナイテッドと交渉を繰り返したものの、メアリー・ピックフォードやチャールズ・チャップリンとのやり取りはひどいありさまでした。結局、彼はさらにその下のランクの映画会社、Poverty Rowと呼ばれるB級映画会社をパートナーとして探すしかなかったのです。

一方でヤングは、戦争が終われば旅行産業がブームになるだろうと考えていました。戦時中はアメリカ国内での旅行が制限されていたため、観光産業は縮小していたのです。戦後の旅行ブームのときにぼやぼやしていると、市場を航空産業に取られてしまう。そう考えた彼は、長距離鉄道事業への投資を始めます。その事業展開のひとつに、長い旅行の間のアトラクションとして映画上映を考えていたようです。そして映画プリントを扱う会社 ーパテ現像所ー を買収します。ところが、取引先のある映画スタジオが現像代を払えなくなり、そのままスタジオごとヤングが買い上げることになります。他のPoverty Rowの会社からさえ「腐ったゴミ」と呼ばれたPoverty Rowの最下層、PRCです [3]。

ランクとヤングは、英国産映画をアメリカ国内で配給する会社としてイーグル・ライオン・フィルムズを興します。一方でPRCの設備を使って映画製作をすることにも乗り出したのです。

PRC製作「The Black Raven (1943)」のオープニング

典型的なPRC作品「ナボンガ(Nabonga, 1943)」


メジャーの独占はいつ終わるのか

イーグル・ライオンのトップに就任したアーサー・クリムは、もともとは映画スタジオをクライアントに持つ有名な弁護士事務所のパートナーでした。彼は当時のハリウッドが独占禁止法に抵触したビジネスをしていることを、長い経験から知っていました。また、ハリウッドの金の流れにも通じており、ビジネスの側面については裏まで知り尽くしていた男です。独占禁止法違反として、1940年にメジャー5社に対して出された判決は、他の中小のスタジオが公平な配給を受けられるようになる道筋となるはずでした。しかし、メジャーはのらりくらりとして、判決に従いません。1945年に更なる独占禁止法違反でハリウッド映画会社8社が訴えられます。クリムはまさにこのタイミングで映画スタジオと配給の会社を任されるのです。彼は、国の判決でメジャー8社が映画館チェーンを切り離さざるを得なくなれば、独立系の製作会社にも有利な配給ができるようになると思っていました。

1946年から製作に着手したイーグル・ライオンでは、ヤングが準備した1200万ドルを元手に6作品を手がけます。そのどれも100万ドル以上の製作費をかけて、メジャーの配給チェーン、すなわち封切りの一番館に配給できるように狙っていました。映画のクオリティを引き上げれば、必ずチャンスはあると考えていたのです。

イーグル・ライオン・フィルムズ製作「虚しき勝利(1948)」のオープニング

うまくいかないビジネス

イーグル・ライオンが当てにしていた目論見は外れるばかりでした。戦後、アメリカ国内での映画の興行成績は無残な状態に陥ったのです。兵士達は帰還しました。しかし、彼らは家庭を持ち、子供が産まれ、夜に映画を行くよりも、家でラジオを聴くようになっていたのです。また、GIビルという制度で、多くの帰還兵は大学に入学、出費を抑えるためにも、映画館から足は遠のいてしまったのです。

映画の配給も、メジャー各社は心を入れ替えようとはしません。実質的なブロック・ブッキングは続き、「クオリティが低い」とPoverty Rowの作品は買い叩かれるか、2番館、3番館でしか興行できない状態が続きます。おまけにメジャー各社がBユニットで2本立て興行の添え物も製作する体制が出来上がり、ハリウッド全体が完全な供給過剰に陥っていたのです。1946-47年のシーズンは、イーグル・ライオンは大幅な赤字に転落、戦略の転換を余儀なくされます。自社での製作はやめ、独立プロデューサーに資金の一部を調達、その配給権を得るというビジネスにするのです。このシステムで、ブライアン・フォイ、エドワード・スモール、ウォルター・ワンガーといった、メジャーから独立したプロデューサーたちがイーグル・ライオンで映画製作をすることになります。そして、大幅に削減された予算のもとで、一連のフィルム・ノワールの作品が誕生します。

第2部につづく)

<注>
[1]J・アーサー・ランクは1944年にイーグル・ライオン配給会社を設立し、世界中に配給網を拡大することに乗り出します。そして、戦時中にもかかわらず、デンマーク、 オランダ、フィンランド、スェーデン、チェコスロバキア、ギリシャ、ルーマニア、ユーゴスラビア、シリア、パレスチナ、アビッシニア、インド、シンガポールなどに支社を設立しました。(Geoffry Macnab, "J. Arthur Rank and the British Film Industry", p.80 [1993] )

[2] J・アーサー・ランクが製作した主要作品リスト
老兵は死なず(The Life and Death of Colonel Blimp, 1943)
ヘンリー五世(Henry V, 1944)
天国への階段(The Matter of Life and Death, 1945)
黒水仙(Black Narcissus, 1947)
赤い靴(The Red Shoes, 1948)

[3] PRCが製作した主要作品リスト
The Devil Bat, 1940
コレヒドール(Cooregidor, 1943)
Nabonga, 1943
まわり道(Detour, 1945)

2014年9月10日水曜日

カメラが多すぎる


イントゥ・ザ・ストーム(Into the Strom, 2014)」を観たのだが、何かがしっくりこない。いや、別に期待していたわけではない。これはアメリカ国内では頻繁に起きるトルネードを題材にした、パニック映画だ。それ以上の期待はしていなかった。むしろ、そこそこのプログラム・ピクチャー、アクションとイメージが売り物のハリウッド製品、90分で楽しんだら、次の週には題名も覚えているか怪しいような、それで構わない映画を期待していた。しかし、もう一週間以上経とうかと言うのに、題名どころか色んなものが引っかかったまま、残ってしまった。「ファウンド・フッテージ」ものとして始まったはずなのに、途中でカメラのPOVに統一性がなくなって、サウンドトラックもNon-Diegeticになるような破綻が見られるから、そのいい加減さに呆れたのか?そういう部分もあるが、それよりももっと痛々しい感じがしたのだ。人物造形があまりに単純で薄っぺらいからだろうか?この映画並みか、それ以下の人物造形の映画はざらにある。ご都合主義の脚本も、科学的に怪しいあれもこれも、そんなのは承知のうえだった。この映画が、そういう問題を抱えることになった、もっと奥底の理由があるような気がする。

この映画の撮影自体は2012年に完了している。映画の企画自体はもう少し前からあっただろう。この映画の企画が進められる背景には、2012年以前に「ストーム・チェーサー」というリアリティTV番組がそこそこ人気があった事が大きく影響しているはずだ(日本では「追跡!竜巻突入チーム」という題名で放映されていたらしい)。これは、実際にアメリカの各地で発生するトルネードの映像を撮ろうとする「命知らずの追っかけ屋(ストーム・チェーサー)」に密着して、「科学調査」の名の下に行われる、彼らの勇敢/無謀な行動をTV番組に仕立てたものだ。映画に出てくるトルネード撮影用特殊装甲車「タイタス」も、この番組内で登場する装甲車がモデルになっているのは一目瞭然である。だが、この番組も人気が下降して、2012年に終了してしまう。「イントゥ・ザ・ストーム」の撮影が進んでいる頃だ。

SRV Dominator
ディスカバリーチャンネルの「Storm Chaser」にも登場した装甲車
Wikipediaより)


翌年の2013年5月には超弩級(EF5という)のトルネードが二つもオクラホマを襲った。そのうちのひとつ、エル・リノの街を襲ったトルネードは、史上最大のサイズとされ、小学校を跡形もなく吹き飛ばし、10トンもあるガスタンクを900mも吹き上げて小学校に叩きつけた。ムーアの町を襲ったトルネードは24人もの犠牲者を出している。こういった実被害が「イントゥ・ザ・ストーム」製作側にどういう影響を与えたかは分からない。しかし、そもそもトルネードのパニック映画を製作する時点で、そういったことは予想していたはずだ。撮影前の2011年に158人もの犠牲者を出したミズーリのトルネードもあるし、そんなことを言ったら、トルネードの被害は毎年ある。トルネード被害者に対して無神経にならないような最低限の工夫は、脚本や演出の上でももちろん施されていた。しかし、このエル・リノのトルネードでティム・サマラスをはじめとする3人のストーム・チェーサーが事故死したことは、製作者側をことさらに敏感にしたかもしれない。ティム・サマラスは「ストーム・チェーサーというよりは気象研究者」という評価が高かっただけに、「イントゥ・ザ・ストーム」の中でのキャラクター達の扱いは再検討されたとしてもおかしくない。

このオクラホマのトルネードの際に一般人が撮影したビデオがいくつかYouTubeにあるのだが、この動画を以前見た記憶があって、「イントゥ・ザ・ストーム」を見た後にふと思い出した。



これが印象に残ったのは、今思うとその映像もさることながら「”Loaded Gun” Warning」という言葉だったかもしれない。『弾が込められた銃』警報。気象状況を武器に見立て、いつ殺戮を起してもおかしくないことを、このように表現したのだ。たった3つの単語だが、トルネードが襲う土地が染み付いた言葉だ。オクラホマという、南部の州、銃所持を支持する層が多く、銃規制もゆるい。そして、それが言葉に滲み出して、気象現象に南部のアクセントが聞こえる。

さらにこの映像では、パニックを起した女性が登場する。私がなぜか忘れられないのは、彼女が手にしているコーラのボトルとタバコだった。

あるいは「Ugly」と言う言葉。トルネードを表す形容詞として、「Ugly」が幾度も発せられる。ひとは、突然の危険や事故に遭遇すると、同じ言葉を幾度も幾度も繰り返すことがある。まるで念仏か祈りの言葉のように繰り返す。その言葉を発することで浄化しているかのように。

トルネードが道の向こうでゆっくりと町を破壊している、その強烈な映像よりも、そんな些細なことのほうが引っかかって残ってしまった。このYouTubeのページで右の「おすすめ」を見ればわかるようにトルネードの強烈な映像はもっと他にもたくさんある。多くの人が手にカメラを、スマートフォンを持って、自分の住んでいる場所の向こうを通り過ぎる「弾が込められた銃」を撮影している。

カメラが多すぎるのだ。

何も誰かが手に持っているカメラだけではない。むしろ、全世界で最も大量の映像を撮影しながら、その大部分は人間に見られることなく削除されているカメラの一群がある。セキュリティ・カメラ、CCTVだ。

このオクラホマのトルネードでも、小学校のCCTVに撮影された映像が残されていて、YouTubeで閲覧することができる。



トルネードを撮影するために設置されたわけではない。だから、クリーンな映像ではないし、アングルも光量も「トルネードの破壊力を見る」にはベストではない。けれども私達はその前提を理解しているがゆえに、そのすさまじさを思考の中で増幅してしまう。

実は「イントゥ・ザ・ストーム」は、映像を取り巻くこういった環境について非常に意識的だ。卒業式で、ほぼ全ての卒業生達がスマートフォンで校長のスピーチを撮影している。センセーショナルな動画を撮影して、YouTubeでのヒット数を稼ぐことだけに人生を費やしている二人組の男。高校にトルネードが押し寄せるときには、CCTVの映像が挿入され、主人公の兄弟は、タイム・カプセルに入れるためのビデオを撮影している。この兄弟やストーム・チェーサーのビデオが折り重なるようにして、ストーリーが展開するのだが、どこか優柔不断なままつなげられていく。手持ちカメラはいつもほぼ完璧なフレーミングだ。素人のカメラワークのような、撮影者の靴が何分も写っていたり、天井が写されたまま会話が進行したり、指が画面の半分を覆ったままトルネードが写っていたりするようなことはない。本人達がカメラの存在を忘れてしまっているであろう場面でも、カメラはちゃんとフレーム内にアクションを捉えている。CCTVもトルネードの破壊力を見せ付けるべく特等席に設置されている。迫り来るトルネードを撮影したビデオでも、会話はちゃんと聞こえ、マイクを襲う強風のノイズは聞こえない。登場人物たちも「逃げろ!」と叫ぶ。「下がれ、下がれ、下がれ、下がれ・・・・下がれ、下がれ、下がれ、下がれ!」ではない。トルネードを撮影するためにTV局はヘリコプターを飛ばし、「警報が発令されました」と報道するが、「弾が込められた銃警報」とは言わない。

そうするしかなかったのだろう。靴が映ったまま3分も会話が流れるような映像にするわけにもいかないし、「撮影範囲の廊下の角を曲がったところが吹き飛ばされたので、特に何も写っていないCCTV」設定にはできない。ハリウッドの映画に求められているのは、そんなことではなくて「プロフェッショナルな」エンターテーメントだ。カメラは特等席でなければならない。あるいはハリウッドはそういうものを観客は求めていると思っている。しかし、この氾濫するカメラとそれがとらえ続けている映像について意識すればするほど、プロフェッショナルであること、特等席のカメラは弱点になっていってしまう。結局、見所をつくるとすれば、飛行機が巻き上げられるとか、炎の竜巻とか、あるいは「オズの魔法使(Wizard of Oz, 1939)」みたいにトルネードに巻き上げられて「別世界」を見てくるとか、そんなところになってしまう。


この映画はアメリカではすこぶる評判が悪い(Rotten TomatoのTomatometerは21%)。理解できる。彼らにとっては、トルネードの驚異/脅威はわざわざVFXで見直さないといけないものではない。ましてリアリティTVやYouTubeに氾濫する映像の「不完全さ」が、それを真似しきれないハリウッド映画をあざ笑っているように思える。

2014年9月7日日曜日

フィルムに写った空は曇っていた

(UNKNOWN HOLLYWOOD第2回、「南海映画の系譜」プログラムから)


透明で無形な媒介

アメリカの美術史家、ジョナサン・クレーリーは、19世紀にフォトグラフ(写真)が社会に認知されていく経緯を「(カメラが)観察者と世界の間の透明で無形な媒介として偽装した」と記述しています(「観察者の技術(Techniques of the Observer, 1988)」)。しかし、フォトグラフが「透明で無形な媒介」に偽装したと言うのは、進化したフォトグラフに飼いならされた私達の感覚のせいで「昔からそうだったに違いない」と思っている部分が多分にあります。初期のフォトグラフが白黒写真だった時点で、「透明で無形な媒介」であるわけがなく、後から後から「偽装」させるために様々なトリックを導入してきたに過ぎません。デジタルや3Dも含めた進化は、人間が「透明で無形な媒介」を欲しがっている今も続く長い歴史です。そして、観察者の不信をぬぐうべくヴァーチャル・リアリティやホログラフィまで進んできています。

そういうふうに進化してしまった「偽装」を享受してしまっている私達が、20世紀前半の白黒のフォトグラフ/シネマにおける「偽装」について考えるというのは、実は非常に困難なことかもしれません。

たとえば、白黒映画における「ブロンド」というのは、どういうことなのでしょうか。「生きるべきか死ぬべきか(1942)」のキャロル・ロンバードを見て、ブロンドだと分かる(あるいは感じる)のはなぜなのでしょうか。彼女の髪としてフィルムに映っているのは、グレースケール上の薄い色です。ブロンドの髪と呼ばれるバリエーションの色ではありません。でも、なぜか我々はブロンドだと思っているのです。我々は、あるいは当時の人々は、白黒のイメージを頭の中でカラーに変換している(していた)のでしょうか?

サイレント期に最も人気のあった女優の一人、メアリー・ピックフォードについてこんな話があります。彼女の(白黒)映画を観ていたファンの中には、彼女は「ブロンドで青い眼」と思っている人も大勢いました。彼女の髪はダーティー・ブロンドという、茶色に近い色です。しかし、彼女の出演作品では金髪の少女の役柄が多いため、撮影のときに髪の毛の向こうから強いライトを当てて白く飛ばしてしまって、「ブロンド」の錯覚を起させる手法をとっていたのでした。1920年代に入ってからは明るいブロンドに染めていたようです。一方で眼の色は「ヘーゼル(栗色)」だと彼女自身もインタビューで答えています。状況をややこしくしたのは、彼女が出演した2-ストリップ・テクニカラーの映画「ダグラスの海賊(1926)」です。彼女が現役時代に唯一出演したカラー映画ですが、この映画で彼女の眼は緑色に見えるのです。そして今でも「2-ストリップ・テクニカラーは色が正確に反映されないから、青い眼が緑色にシフトした」と言われるのです。彼女が1976年にオスカーを特別受賞した際の映像では、彼女の眼は濃いヘーゼルに見えます。さあ、彼女の眼の色は何色だったのでしょうか。

パンクロマティック・フィルムと南海映画

初期の(白黒)写真感光層は、可視光のスペクトルの中で、青い側には反応しやすいのですが、赤いほうは感度が悪いという欠点がありました。このようなフィルムを「オルトクロマティック(Orthochromatic)」と呼びます。このフィルムで撮影すると、青い眼は白く飛んでしまい、赤い唇は黒く写ってしまい、空は白く写って雲と見分けがつきません。不思議なことにカラーをグレースケールに変換するという経験が大してあるわけではないのに、この特性を人々は異様ととらえました。初期の映画はこのフィルムの特性に苦労しています。クローズアップが映画で重要な役割を果たすようになると、スクリーンに映った顔が異様でないように見せるメークアップが必要となります。ブロンドの髪は暗く映ってしまうので、強力なバックライトで白く飛ばすしかありません。一方で黒い髪を美しく表現する為に、ヘンナで褐色に染める場合もあったようです。そういったメークアップや染色を考案したのがマックス・ファクターでした。役者達の顔はメークアップで調整できますが、空だけは調整できません。いつまでも空は曇った(Overcast)ままでした。

1920年代に市場に現れたパンクロマティック(panchromatic)フィルムは、赤い側の可視光に対して感度を向上させたものです。空の雲がはっきり写るフィルムですが、高価だったこともあり、なかなかハリウッドの中では浸透していきませんでした。

このパンクロマティック・フィルムの普及に重要な役割を果たしたのが、「南海映画」、南太平洋を舞台とした映画です。ロバート・フラーハティーが南太平洋サモアで監督した「モアナ(1925)」は全編パンクロマティック・フィルムで撮影された作品です。この作品で主役となるのは、サモアの人々であり、その背景の青い空に浮かぶ雲です。水平線の向こうに浮かぶ雲がここまでヴィヴィッドに映し出された作品はそれまでほとんどなかったのです。「モアナ」のビジュアルは当時話題となり、南海映画はどれもパンクロマティック・フィルムを使うようになりました。「Aloma of the South Seas(1926)」はやはり南太平洋を舞台とした娯楽作品ですが、1920年代の歴代興行成績4位という人気を得ます。この作品も(プエルトリコやバミューダでロケしていましたが)水平線の向こうの美しい雲を映し出していたと言われます(プリントは現存しません)。それらの中でも、最も美しい映像として評価されたのが、「White Shadows in the South Seas (南海の白い影)」です。この映画は第2回アカデミー賞撮影賞を受賞しました(撮影監督:Clyde De Vinna)。

肌の色、髪の色

ロバート・フラーハティーの妻、フランシスによると「初期の段階でオルトクロマティック・フィルムを試したが、現地の人の肌がニグロのように真っ黒になってしまい不快であった。パンクロマティック・フィルムによって彼らの薄い褐色の肌を美しく見せることに成功した」と書いています。フラーハティー夫妻は民俗学的映画の専門家と当時見られていたのですが、この人種観は非常に示唆的です。「南海の白い影」撮影時に、W・S・ヴァン・ダイク監督が危惧したことのひとつが、ヒロインのフェイアウェイの役を演じたラケル・トレスの肌の色でした。ヴァン・ダイク監督は、このメキシコードイツ系アメリカ人の肌の色が白すぎるので、日焼けをするように指示を出していたのですが、彼女は言うことを聞きませんでした。現地で彼女の肌を暗くメークアップしてタヒチの島民と肌の色が大きく食い違わないようにごまかす必要があったのです。このパンクロマティック・フィルムによって生まれた「褐色の肌」への執着の一方で、肌の色が薄い「黒人」は敬遠され、30年代のハリウッド映画では肌の黒い「黒人」のみが描かれています。肌の色による「分類/区別/差別」が存在しながら、肌は褐色でも白人の顔立ちをしたヒロインへの憧憬がドライブになる、という倒錯した人種/性の観点が、南海映画と言う混濁したファンタジーの基盤でもあるのです。

パンクロマティック・フィルムは主にロケーション撮影で威力を発揮しましたが、そのうち、マックス・ファクターがパンクロマティック用のメークアップを開発して売り出したあたりからスタジオでも使われるようになります。トーキーの導入と共に、パンクロマティック・フィルム、白熱電球の組み合わせが標準となり1930年代のハリウッド黄金期を迎えるのです。「ブロンド女優」への執着もこの頃から始まり、ブロンドを売りにした若い女優がハリウッドに集まってきます。さらには髪を脱色したメイ・ウエストやジーン・ハーローがプラチナ・ブロンドと呼ばれて一世を風靡します。このようなブロンドの「分類/区別/差別」にもパンクロマティック・フィルムが大きく貢献しているのです。

今、私達が見ている最新のハリウッド映画で、ブロンドの女性が出てきたとき、褐色の肌の色の俳優が出てきたとき、その色はどうやって出てきたのでしょうか?カメラのCMOSセンサーが決めたのでしょうか?後にカラー補正の担当が決めたのでしょうか?なぜその色になったのでしょうか?それは、あなたの眼が見た「本当の」色でしょうか?
 
 
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