2016年5月17日火曜日

「富める者への手紙、貧しき者への手紙」




 1930年代後半、イギリスのドキュメンタリー映画は、ジョン・グリアソン(John Grierson, 1898 - 1972)のGeneral Post Office Film Unitによって革新的な展開を見せるが、そのなかでもブラジル生まれの映画監督アルベルト・カヴァルカンティ(1897 - 1982)が果たした役割は大きい。彼は、GPOではサウンドトラック担当であったが、その音像世界は、今聞いても斬新なものだ。当時、大学を卒業したばかりのベンジャミン・ブリテン(Benjamin Britten, 1913 -1976)が作曲している作品もあり、W・H・オーデン(W. H. Auden, 1907 - 1973)がまるでヒップホップのように詩を詠唱する『夜行郵便列車(Night Mail, 1936)』は圧倒的なスピード感がある。

 面白いことに、『黒水仙(Black Narcissus, 1947)』などで知られるマイケル・パウエル(Michael Powell, 1905 - 1990)は、ドキュメンタリー映画を非常に嫌い、そのことを公言してはばからなかった。

私はドキュメンタリーが好きではないし、一度も好きになったことがない。私はいつもイギリスの映画作家と言い合いになってしまう。彼らがドキュメンタリーの製作することに随分とプライドを持っているからだ。・・・25年間もドキュメンタリーを作り続けて、いまだに連中はストーリーを語ることができない。
マイケル・パウエル インタビューより

(W・H・オーデンとベンジャミン・ブリテンのコラボレーションについて)
マイケル・パウエルが「長編映画を作れなかった人間や失業した詩人」の吹き溜まりだと言って、ドキュメンタリーのジャンルを一笑に付したとき、この2人のコラボレーションのことを考えていたのである。
A History of Film Music, Mervyn Cooke

 1930年代が、パウエルにとって不遇の時代だったことを考えると、その頃に「風変わりな」ことをやって、批評家達の注目を浴びたGPOのクリエーター達を面白く思わなかったのかもしれない。


『夜行郵便列車』Night Mail, 1936
       GPO Film Unit 製作
       Dir. Basil Wright, Harry Watt
       Soundtrack: Cavalcanti
       Music: Benjamin Britten
       Poem: W. H. Auden






2016年5月12日木曜日

エウゲニオ・バーヴァ

"Cabiria (1914)"
撮影:エウゲニオ・バーヴァ


 イタリアン・ジャーロの巨匠、マリオ・バーヴァ(Mario Bava, 1914-1980)の父、エウゲニオ・バーヴァ(Eugenio Bava, 1886-1966)は、イタリア無声映画期からカメラマン、特殊効果を担当した、映像エンジニアのパイオニアである。彼は『クオ・ヴァディス(Quo Vadis?, 1913, エンリコ・ガッツォーニ監督)』『カビリア(Cabiria, 1914, ジョバンニ・パストローネ監督)』で撮影、アシスタントを担当している。『カビリア』では、特殊効果をセグンド・ド・ショーモン(Segundo de Chomon, 1871-1929)と共に担当した。
 エウゲニオは、イスティトゥート・ルーチェ(Istituto Luce)の特殊効果部門のトップを長く務めたようである。晩年では、息子マリオの作品の特殊効果も担当している(『ブラック・サバス/恐怖!3つの顔』)。
 マリオ・バーヴァは父親のエウゲニオを非常に尊敬していたようだ。「私は彼の全ての秘密と技術を学んだ」と言っている。父親の部屋は「錬金術士の隠れ家のよう」で少年期のマリオは非常に感化されたようである。
 これはエウゲニオ・バーヴァが、ロベルト・オメニア(Roberto Omegna, 1876-1948)と共に製作した『眼』というドキュメンタリーからの抜粋である。この作品は、ルーチェのアーカイブには登録されていないようで、正確な製作年が判然としない。しかし、オメニアの活動期から類推して1940年代前半ではないだろうか。教育的な目的を持っているとはいえ、この「器官」への執着には、形容しがたい異質さがある。これを当時の観客は、どのように受容したのであろうか。




EDIT:「Cabiria」のプロダクション・スチールを追加。

2016年5月5日木曜日

ニック・カーターとその時代

Nick Carter Stories, 1915年2月6日, 126号
Archive.orgより

歴代のフィクションの探偵のなかで、週刊誌、映画、小説、ラジオにまで登場し半世紀にわたって最も人気があったにもかかわらず、今はすっかり忘れ去られているキャラクターがいる。1886年にデビューしたニック・カーターである。

ニック・カーターは、ストリート&スミス社が創りだした、鋭い頭脳と強靭な身体能力を備えもつ、スーパー・ヒーローである。彼は変装の天才でフランス人の役人から日本人にまでなりきることができる。3言語の読唇術は朝飯前だ。それに彼は紳士で酒も飲まなければ、タバコも吸わない。このキャラクターが、大活躍する短編小説が毎週発行され、飛ぶように売れた。だが、これはある一人の作者が創りだしたキャラクターではない。私達は、フィクションの探偵というと、コナン・ドイルがシャーロック・ホームズをベイカー街に生み落としたように、アガサ・クリスティがエルキュール・ポアロにフランス訛りの英語を喋らせたように、一人の想像力豊かな作家が造形するのが当然だと思っている。しかし、ニック・カーターは、ストリート&スミスの編集者たちが編み出したキャラクター像にあわせて、請負の作家が安い原稿料で書いたものであった。

19世紀後半から20世紀初頭までのパルプ・フィクション全盛の時代には、このシステムが多くのジャンル小説に採用されていた。実際に、どんなプロセスだったのか。『パブリッシャーズ・ウィークリー』の1892年8月号に、その実態を調査した記事が掲載されている(1)。

ニューヨークの裏通りにある、「文学工場」と呼ばれるこのオフィスには、30人以上の女性が雇われている。彼女達の仕事は、アメリカ中の日刊紙、週刊誌を読むこと。彼女たちは、そのなかから「奇妙な話」、多くの場合、都市で起こる事件を選び抜いて集め、それをマネージャーに手渡す。マネージャーたちは、そのなかから、面白いネタになりそうなものを更に選び出し、それを5人の非常に優秀な女性ライターに渡す。彼女たちは、その厳選された「奇妙な話」の骨格を抜き出して、プロットを書き出すのだ。

この「骨格だけのプロット」はチーフマネージャーに渡される。チーフマネージャーは、100人を超える契約作家たちのなかから選び出した候補者に、内容、章数、文字数、納期とレート(原稿料)を指定して連絡を入れる。それらの契約作家の中でも優秀な者はペンネームで作品を発表されるが、その優秀な作家だけでは、とても消費者の需要を満たすことができない。そこで、安いレートでゴーストライターたちに書かせていた。多くの場合、1語1セントかそれ以下であった。これらのゴーストライターは、昼間の仕事を持ちながら、夜や休日に小説を書く者達がほとんどであったという。

ニック・カーターのキャラクターで発行された小説は、1000冊を超えると言われている。1940年代のラジオ番組は、同じくドラマ『シャドウ(Shadow)』と共に、黄金期のラジオミステリードラマの代表番組である。そのニック・カーターが、今は本国のアメリカでさえほとんど忘れ去られてしまい、パルプ・マガジンの時代は1920年代から始まる、と誤解されている。たとえジャンル小説とはいえ、「作家」が見えないものは、「作家」の存在を強く望む世紀を通り過ぎていく間に、「作品」も見えなくなっていったようだ。



UNKNOWN HOLLYWOODのトークで流す予定だった動画。
この時代のニック・カーターは、マシンガンを撃ちまくっている。

(1)John Walton "The Legendary Detective: The Private Eye in Fact and Fiction"

2016年5月1日日曜日

なぜフォックス・ムービー・チャンネルは『チャーリー・チャン』映画シリーズの放映をとりやめたか

ワーナー・オーランド

 2003年、アメリカのフォックス・ムービー・チャンネル(FMC)は、1930~40年代のチャーリー・チャンが主役のシーリズの放映を発表しました。しかし、その後すぐにFMCはその放映をキャンセルすると発表したのです。


 フォックス・ムービー・チャンネルは、チャーリー・チャンのミステリー映画の放映を取りやめます。
 フォックス・ムービー・チャンネルは、ミステリーファンや古典映画ファンからのリクエストに応えるためにフィルムを修復し、これらの映画に見られる、複雑なストーリーや登場人物、そしてチャーリー・チャンの素晴らしい知性、といったポジティブな側面を描くことを意図してこれらの映画の放映を予定していました。また、フォックス・ムービー・チャンネルの多くの契約者、そして映画史研究者が、これらの映画の放映を長い間リクエストしていました。
 しかしながら、フォックス・ムービー・チャンネルはチャーリー・チャンの映画は、一部の視聴者に対して問題のある状況や表現が含まれることを知らされました。フォックス・ムービー・チャンネルは、これらの歴史的な作品は、人種に関する感受性が今日とは相違する時代に製作されたことを認識しています。これらの映画を放映するにあたっての皆さんからの反応の結果として、フォックス・ムービー・チャンネルは、これらの映画を予定から外すことにしました。
 このアクションが私達のこの現代の多文化社会における進歩に関して、議論を呼び起こすものと期待しています。この件についてのあなたのご意見をこのWebフォームを使ってお送りください。

 3つのアジア系アメリカ人の団体 ーNAPALC (National Asian Pacific American Legal Consortium)、 NAATA (National Asian American Telecommunication Association)、 OCA (Organization of Chinese Americans)ー が抗議活動を行った結果だと言われています。OCAのチャーリー・チャン映画への反応は、「ハリウッドがマイノリティに与えるべき役を与えなかった差別的な時代」を思い起こさせるものであり、「白人が、アジア系民族のステレオタイプを不正確に演じたもの」というものでした。NAATAは、「アメリカの映像文化の歴史における、不愉快極まりないアジア人のカリカチュア」と呼んでいます。

 これに対し、多くの映画ファンが「政治的正しさ(political correctness)による弾圧」と反発し、彼らはチャーリー・チャンの映画が「人種差別的」だとする視点こそ、何も見ていないと強く抗議したのです。チャーリー・チャンの研究家で権威とも言われるケン・ハンケは「圧力団体には言いたい:大人になれ」とかなり強い口調で、このような放映の取りやめを要請するような政治的活動を非難しました。多くの映画ファンや歴史家は「これは、歴史的な作品であり、それを消し去ることは、修正主義的だ」とPC的なスタンスに疑問を呈しています。

 ファンの一人が、FMCのPR部副部長のジョン・ソルバーグにこの件について問い合わせたところ、プログラム編成の際に、歴史的な視点だけを考えてしまい、エスニック(人種的)な視点が抜け落ちていた、と語ったと伝えています。結局、FMCはプログラムの一部を戻し、チャーリー・チャンのシリーズから3作を選んで放映しました。

 この一連のやり取りを、「政治的正しさによる言論統制」「一部のファンのマイノリティへの鈍感さ」「歴史的文脈への無理解」などと一般化して片付けてしまうのは、私は少し乱暴のように思うのです。これに類似しているようにみえる議論は、今は毎日のように目にするのですが、どれもこれも同じパースペクティブで解釈するのは、少し怠惰だと思います。

 まず、アジア系アメリカ人のコミュニティの一部は、この「チャーリー・チャンの映画がケーブルテレビで特集放映される」ことの何を問題にしたのでしょうか。「アジア系アメリカ人が差別的な状況下で当然の役柄を与えられなかった時代を思い起こさせること」であり、「白人によって不正確にアジア系人種が描かれ、演技されていること」だと主張しているのです。これは繰り返し、1970年代からアジア系アメリカ人コミュニティが発信してきたことで、チャーリー・チャンに限らず、アメリカのメインストリームのメディア、エンターテーメントが描いてきた、アジア系人種のステレオタイプが、「非アジア系人種によって不正確に描かれている(whitewashing)」ことを問題視しているのです。

 これに対し、チャーリー・チャン映画の放映取りやめに抗議した人たちの主張は何だったのでしょうか。多くは「チャーリー・チャンは探偵として優秀であり、過去も今も見る者に尊敬を念を抱かせる」「チャーリー・チャンはサム・スペードやフィリップ・マーロウと並ぶアメリカのアイコンである」というもので、「見ればわかるが、決して差別的ではない(だから、放映中止を呼びかけている人は見てもいないだろう)」「放映中止を呼びかけている連中は、ワーナー・オーランドが黄色いメークアップをしているなんて言っているが、そんなメークなんかしていない」という論を展開していました。

 これは当時様々なサイトに書き込まれたものなどから、おおまかにまとめた傾向ですが、どこを見ても、この2方向の議論のベクトルが交わっていないように見えるのです。誤解がない範囲でこの2つのベクトルをそれぞれ一言で言うと、一方は「(人種的なアイコンとして)不正確だ」と言い、もう一方は「(文化的なアイコンとして)立派だ」と言っているのでしょう。別な言い方をすると、「アジア系アメリカ人としてリアルではない」と「フィクションだ」というベクトルかもしれません。

 フィクションのキャラクターに対して「リアルではない」というのは、言いがかりと言われても仕方ないでしょう。「チャーリー・チャンが引用するいい加減な格言」について、「不正確極まりなく差別的だ」というのは、「フィクションなのだから、それは分かった上でのエンターテーメントだ」と返すのはファンの心情として理解できます。チャーリー・チャンの映画シリーズのファンは、チャーリー・チャンと言う現実とはかけ離れたキャラクターに魅力を感じ、それがアジア系なのかどうかさえも特に問題視せず、腕力も武器も使わずに、知性だけで犯人を追い詰めていく、その卓越した人物像に惹かれているのです。そして他の探偵は違い、家族思いで、子どもたちに対する責任感も強い一方で、妻への愛情も素直に表現する、何よりも一人の人間として尊敬に値するキャラクターなのです。それが「白人が演じた偽のアジア系アメリカ人」だからと放送キャンセルまで追い込むような政治活動は行き過ぎだ、と感じるのはファンであれば至極当然でしょう。

 では、フィクションのキャラクターに難癖をつけるアジア系アメリカ人たちは、政治的正しさに酔いしれた狭量な人たちなのか。『チャーリー・チャン』の著者、Yunte Huang氏が、そのイントロダクションで紹介している話が、象徴的だと思います。2002年にハーバード大学で彼が講演をすることになったとき(彼が『チャーリー・チャン』研究を始める前です)、その告知ポスターに、中国から北米大陸を睨んでいるチャーリー・チャンが描かれていました。そのポスターを作ったのは英文学科の秘書の女性で、お互い職場の仲間としてよく知っていたのですが、「50代後半の白人女性である彼女は、チャーリー・チャンの映画を見て」育ったのです。そして、いつも楽しそうに会話をするHuang氏のイメージを、(彼女の好きな)チャーリー・チャンのイメージに重ねてポスターを作ったらしいのです。Huang氏は「彼女に対しての好意もあるし、自分が感じる礼儀の問題としても、『こういった好戦的なチャンのイメージは多くの中国系アメリカ人にとっては不快ですよ』と伝えて、彼女の創作物に対して疑問を投げかけるようなことはあえて」しなかった、と述べています。

 多人種社会/多様化社会では、このようなことは日常茶飯事です。こういった些細なこと ーステレオタイプと目の前にいる実在の人物をカジュアルにつなげることー がとめどなく繰り返されるなかで、多くのマイノリティはそのことを「あえて指摘しないで」過ごしていきます。フィクションとリアリティを混同しているとか、レッテル貼りだとか、いちいち大上段に構えていたら、それこそやっていけない。けれども、多くのマイノリティは、そのようなステレオタイプにウンザリはしている。自分たちは、生まれた時から英語で生活し、発音だって、表現だって、ネイティブなのに、いつも「ピジン・イングリッシュ」で喋っていると思われていて、喋ると「英語上手いね」なんて言われる。なにかといえば、拳法やっているのか、とか、家ではお辞儀ばっかりするのか、と質問される。「おもしろいから」と無自覚なまま、そういったイメージが再生産され続けていることにウンザリしている。「フィクションで楽しんでいる分には実害なんかないじゃないか」といわれても、そうですか、でもウンザリはしているんですけどね、と心のなかでつぶやいている。そして、『チャーリー・チャン映画シリーズ大特集』と出てきたときには、これを見た新しい視聴者が、またウンザリを拡大再生産するのではないか、と危惧するのは当然でしょう。フォックスの担当部長が「人種的な視点が抜けていた」と言ったのは、そういう意味ですね。



 ただ、この「ウンザリ」も、マイノリティ全員一様にウンザリしているわけではなくて、ひとそれぞれ、中には全く気にかけない人もいます。実際に、無自覚にカジュアルな不快な発言をする人のなかには、ウンザリしない人を知っているから「ウンザリするほうがおかしい」とさえ言い始める人もいるくらいです。

 特にチャーリー・チャンの映画シリーズの場合には、その製作において厳然と存在していた実害 ー中国系アメリカ人俳優の差別的な扱いー が、「白人俳優が演じる中国系アメリカ人」という形でフィルムに刻み込まれていることを意識することが重要です(1)。なぜなら、その屈辱が中国系アメリカ人のコミュニティには(そして似たようなことはあらゆるマイノリティのコミュニティにおいて)、今もさまざまな形で痕跡を残しているからです。


 第一次世界大戦後にアメリカ国内で移民排斥の論調が高まり、特にアジア系に対する反感が強まっていました。そのなかでジョ ンソン・リード法(1924年移民法)が発動され、中国人、日本人の渡米が実質的に禁止されました(この法律を日本で「排日移民法」と呼ぶこともあるよう ですが、明らかにおかしいですね)。その直後の時代に、ハリウッドではフーマンチュウや『フラッシュ・ゴードン』のミンなどのキャラクターを作り出し、立場の弱いマイノリティを「面白おかしく」描いていたことは忘れてはいけません。1920年代からハリウッドに厳然と存在するステレオタイピング、人種差別、ホワイトウォシングに公然と反論したのは、女優のアンナ・メイ・ウォンでした。主役をもらえないばかりか、差別的な役を、白人よりも明らかに安い給料でやらされる、そのことにうんざりした彼女は、ハリウッドを捨てて、ヨーロッパに2度も渡っています。彼女の演技力と女優としての魅力はヨーロッパで高く評価され、多くの信奉者も現れました。しかし、MGMはパール・バック原作の『大地』の映画化に際して、アンナ・メイ・ウォンに主役をオファーせず、白人のルイーゼ・ライナーが阿藍の役を与えたのです。ウオンには、意地悪い性格の役がオファーされたのですが、彼女はそれを断りました。

  非常に人気のあったアンナ・メイ・ウォンでさえ、このような扱いを受けていたのですから、マイノリティの俳優や映画関係者の大部分は、映画という新しいメディアが自分達とは似ても似つかないイメージを繰り返し生産していくさまを黙ってみているよりほかなかったのです。それはつい最近まで残り続けていたことを、マイノリティのコミュニティは覚えているのです。

 メインストリームの映画批評も、そのようなハリウッドの人種構造について、1980~90年代までは特に強い批判を行ってきませんでした。ポーリン・ケイルは、例えば『大地』について、ルイーゼ・ライナー演ずる阿藍が従順な女性であることが美徳して描かれているという、ジェンダーの問題には鋭い批評の矛先を向けますが、人種の問題については、白人が東洋人の役柄を演じた、と言及するに終わっています。アンドリュー・サリスに至っては、ライナーの演技がつまらない、くらいの表現に終止する程度です。

 このような人種のステレオタイプの問題が表面化した例として、ディズニーの『アラジン(1993)』があります。ここでは、主人公のアラジンがアングロ・サクソン化されて訛りのない英語を話す一方、盗賊たちが典型的な「アラブ化」を施されていたことに 、公開当時から非難の声が上がっていました。ディズニーのその後の「PC化」を考える上で非常に重要な岐路となった出来事でした。

 では、2003年の「チャーリー・チャン放映」ときにはどうすればよかったのか。最終的にFMCは、チャーリー・チャンの映画から3作品を選び出して放映し、そのあと中国系アメリカ人が司会を務めるパネルディスカッションの番組を流したそうです。私はその番組を見ていないので、どうにも判断できませんが、抜けていた「人種的な視点」をもう一度テーブルに上げるという作業が必要だったのは間違いありません。

 なぜ、非白人の人種を白人が演じるのか。映画製作者側の人種的バイアスが顕在するのでしょうか?映画製作者は、興行成績を伸ばすため(あるいは不発にならないようにするため)に、選ぶのでしょうか?そして、ここにきてこの問題は、1930年代の過去の話ではなくなってきています。今、話題になっている映画の予告編が、いずれも「白人女性がアジア系人種を演じている」ということで、問題視されているのです。2017年に公開予定の『Ghost in the Shell』の草薙素子役にスカーレット・ヨハンソンが起用されたこと今年公開予定の『Doctor Strange』の Ancient One の役をティルダ・スウィントンが演じていること、がエンターテーメント関係のウェブサイトで取り上げられてから、議論が再燃しています。そのような配役は過去ずっと行われてきてはいたのですが、この数年間、それがやや増加する傾向にあると考えられています。なぜ、ここにきてこのような事態が顕在化してきたのか。これは「映画産業が白人に支配されているからだ」とか「観客側の無意識のバイアスが投影されているのだ」とかさまざまな意見を繰り広げることは可能ですが、問題はもっと根深く裾野の広いものでしょう。

 その議論を伝える記事のコメント欄に、また「大人の頭があれば、こんなこと(白人がアジア系人種として配役されること)を問題にしない」というのがありました。この問題が「大人に成長すれば」解決するのであれば、「大人になるために」向き合って話し合う必要があるでしょう。

(1) チャーリー・チャンの映画の場合、「中国系アメリカ人」という設定にも特に注意する必要があるでしょう。
 
 
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