ウクライナの領土内にロシア軍が侵攻してしまった。私達の多くは、この事態が訪れるのをまるで知らなかったかのように驚いているが、クリミアへのロシア侵攻以来、ロシアの強硬な姿勢は崩されていなかった。そして、ウクライナ国内では内戦状態がずっと続いていた。ドキュメンタリー映画のストリーミングサイト、dafilmsでウクライナについての映画の特集が組まれている。少しづつ見ているのだが、この内戦状態について扱った2本の作品を紹介したい(追記:いずれも英語字幕)。
LIKE DEW IN THE SUN (2016)
監督のピーター・エンテル(Peter Entell)はニューヨーク生まれのユダヤ人で、現在はスイスに拠点を置きながら、ドキュメンタリー映画を製作している。エンテルの祖父母は、1914年にウクライナを離れてアメリカに渡った。祖父母がなぜ故郷を離れることになったのか、その故郷とはどんなところなのか、彼は祖父母の写真とわずかな手がかりだけをもって、彼らが住んでいた村を探し当てるためにウクライナを訪れる。エンテルが訪れたウクライナは、東部のロシア系分離独立派とウクライナ政府とのあいだで市民戦争状態に陥っていた。カメラは、彼の祖先を訪ねる旅を映しながらも、同時にウクライナ兵たち、そしてロシア系の分離独立軍の兵士たちを映し出す。また、一方でクリミアのバフチサライに住むタタール人の一家や、探し当てたエンテル監督の祖父母の故郷、モリカ・カリルカに住む人々の声も収めている。
このドキュメンタリーは、黒海を臨む土地をめぐって交差する、数多くの人種の争いの歴史が、時には遠景に、時には近景に現れてくるため、そのそれぞれの歴史の重みを直接感じることができない私達には、共感が横滑りして思考に詰まってしまう場面も多い。たとえば、モリカ・カリルカを訪れたエンテル監督は、住人に「もし、私の祖父母がここにとどまっていたなら、私達は隣人だったんですよ」と言ったその直後、「いや、そんなことはないか、わたしの祖父母は殺されて、私は生まれていませんね」と付け加える。ユダヤ人は激しいポグロムにさらされ、ほとんど全滅させられた。逃げた者だけが生き残ったのだ。事実、かつてユダヤ人が800人も住んでいたモリカ・カリルカには、ユダヤ人は一人もおらず、ユダヤ人の墓地も墓石がどこかに持ち去られて跡形もない。私達は、現在の村の住人たちが、その過去をおぞましいものとして語る様子を見るのだが、さて、そのユダヤ人を抹殺し、ユダヤ人の歴史を抹殺した者たちはどこへ行ったのか。その歴史を身近に経験していない私達には、その<見えない>部分が想像力の埒外に置かれてしまったままになる。また、クリミアのタタール人たちは、ロシアによる長い迫害の歴史について、「何百年も前のカーンのことをロシア人はまだ許さないのさ」という。そのクリミアは、また実質的にロシアの支配下に入り、タタール人達はマイノリティとして肩身の狭い思いをしている。このロシア人たちはどのようにしてタタール人を<許さない>のか、またウラル地方に追放しようとしているのか、私達には見えない。
そして、前景に現れるロシア分離独立派とウクライナのあいだの紛争の映像は、スマートフォンで撮影された生々しいビデオや、砲撃で殺された遺体に横たわって寄り添う女性や、ウクライナ人捕虜を虐待するロシア分離独立派兵士の映像や、大砲を撃って喜ぶ兵士たちの映像など、まったく理性を欠いた人間の行動とその結果を次々と直視させられる。電話でウクライナの指揮官と<やりあって>いるロシア分離独立派の将兵の様子は、まるで中学の不良が「やんのか、テメエ」と啖呵を切っているのを見せられているようだが、それは殺戮の宣言なのである。
随所に挿入される<像>の映像。特にバビ・ヤールのモニュメントは繰り返し登場する。ナチスに殺された子供たちのために作られたモニュメント、ソ連時代に作られた巨大なモニュメント、いずれも極めて扇情的なモチーフで、日本の広島や長崎に見られるモニュメントとは趣が違う。そこで残虐な方法で殺された人々の無念と悲しみを、可視化して絶対に後世に残すのだ、という強い執念を感じる。
そして、市井の人々が歌う歌も怨念がこもったものだ。クリミアの老婆が歌う。
Ural moutains, The horses here are no better
Crimean steppes and Crimean gardens, Live in my heart and give me joy
You who sent us away, Damn you!
May you burn and turn into ashes and be blinded for sending us away!
Don't rejoice, you unfortunate people who live in the house we left behind
Because one day we will come back to Crimea and you will go instead to the Ural mountains
ちなみにこの映画のタイトルも、ウクライナの国歌からとられている。「敵は陽の光のなかの雫のように消えていく」という歌詞だ。
モリカ・カリルカの老婆が言う。「私にとってはみんな同じ人間、私達はみんな同じ太陽に照らされている」と。同じ太陽の光のもとでも、<敵>が雫のように消えていくことを願う歌もあれば、同じように照らされているという宣言もある。
怒りや憎悪、怨念や暴虐が、何らフィルターを介することなく表現され、そこからエスカレートした戦争も可視化されている。ロシア分離独立派がリクルートした新兵たちに宣誓をさせる様子のフッテージは、それがなんの統率もなく、およそ軍事組織とは思えない集団であることを映し出している。将兵はユダヤ人差別、同性愛差別を丸出しにして<想像のウクライナ>を敵視している。そこには、オブラートに包まれた<民族自立>といった概念は存在しない。機動力の高いデジタルカメラやスマートフォンのカメラは、そういった粗い現実の素地をすべて記録している。
そうやって、可視化されているにもかかわらず、いずれは忘れ去られていく。この映画もいずれは大量の映像の記録の山に埋もれてしまうのだろう。そして監督が訪れたモリカ・カリルカの村のユダヤ人墓地のようにわずかな痕跡しか残らないのだろう。
この作品は、その意図と語ろうとする物語は多くの人に受け入れられやすいものかもしれない。だが、決定的な瑕疵がある。それは次に紹介する映画「Show Me the War」が見せる、紛争地帯の映像の<とらえどころのなさ>について、あまりに無責任だという点だ。
SHOW ME THE WAR (2016)
Show Me the War (2016) [FAMU] |
戦場にカメラを持って飛び込み、戦争の真実を伝える。だが、紛争地帯は世界中にあり、どこへ行けば<戦場>なのか、誰に会えば話を聞けるのか、すぐにはわからない。かつての従軍記者のように長期間部隊と行動を共にするような人たちは少ない。海外から来たジャーナリストやドキュメンタリー・クルーが、すぐに<戦場>を撮影できるように手配する者たちがいる。<フィクサー>と呼ばれている。
この映画では、そんなフィクサーの一人の仕事を追う。ロシア分離独立派兵士のなかにコロンビア人がいるので取材したいと、コロンビアからTV局の撮影クルーがやってきた。なぜ、こんな遠い土地で、コロンビア人が戦っているのか、インタビューしたいのだそうだ。フィクサーとして雇われたルスランは、クルーを連れてキエフから前線に向かって移動し、様々な<戦場>を見せてゆく。
ルスランとクルーは、ある町の集合住宅を訪れる。この建物は砲撃を受けた痛々しい傷跡や生存者が隠れた地下室などがあり、戦争の悲劇を見せるにはうってつけの場所なのだ。さらに、この地域では戦闘はおさまっており、安全地帯で戦争を取材できるというメリットもある。彼らが取材していると、偶然通りかかった住人の一人が言う。「私達はここに住んでいるんだよ、花も植えている、なのにどうしていつもぶっ壊れたところだけ撮影するんだろうね」と少々激昂している。ルスランは以前にも別のジャーナリストをこの場所に連れてきたようだった。一種の戦場観光のようになっているわけだ。
また別の日には、分離独立派に雇われている兵士が、誰もいない野原で射撃をしている様子を撮影する。だが、こんなものではとても遠く離れた国の視聴者が満足するわけがない。次の日、撮影クルーの女性ジャーナリストが言う。
私達が欲しいのは、軍の存在、戦車とか、そういったものなんです(中略)(昨日撮ったのは)3人の人が弾を撃っているところ。そんなのは、コロンビアでは普通なんです。
本人たちは笑いながら話していた。
近代の戦争で、映像が果たす役割は大きい。だが、実際の戦闘場面を撮るためには危険を侵さなければならないし、協力してくれる戦闘員たちがいなければ、視聴者が釘付けになるような映像は撮れない。フィクサーはそれを比較的簡単に手配してくれる。言い換えれば、いま今日の世界で戦闘の場面が映る際には、それを撮らせることを了承した人々の意図を考えなければならない。
なぜコロンビア人がウクライナで戦っているのか。傭兵だからに決まっている。実際、彼と同じ部隊にいるベトナム人は、ベトナム戦争を経験したベテランだ。現代の軍事行動では傭兵の存在は当然だし、それが多国籍にわたることも常識だ。そんな当たり前のことのために取材に来たのは、取りも直さず<戦車や大砲やミサイル>の映像が欲しかったからである。実際、クルーはフィクサーに紹介された分離独立派の将校に頼み込んで、極めて危険な撮影に出かける。彼らは帰ってきた時、非常に満足そうである。コロンビア人の取材よりも何かが爆発する映像のほうが重要なのだ。
前述の『Like Dew In The Sun』では、スマートフォンで撮影されたと思われる紛争の被害者たちの映像に「本作品のシーンの中には、インターネットからの映像もあります」という字幕が重ねられる。そのうち、どれが<インターネットからの映像>で、どれが<エンテル監督たちが撮影した映像>かが、判別し難くなっていく。<インターネットからの映像>を使用している際に、字幕で引用を明示していないからだ。明らかにアスペクト比が違うものや画質が違うもの、周囲をマスクしてサイズを小さくしたフッテージが、<インターネットからの映像>なのだろうが、見ている者にはわかりづらい。そうこうするうちに、それぞれの違う諸元の映像がエンテル監督の語りたい物語に編み込まれ、もはやそれがどこから来たかは重要でなくなってしまう。自らの物語を強化するために他の映像をこのような形で借りることは極めて危険な行為である。どこから引用されたか明らかでない、だがショッキングな数々の映像は、フィクサーによって手配され、分離独立派が、それらを世界に見せても良いと思って撮影させたものだ。分離独立派の兵士がウクライナ兵捕虜を虐待するシーン(これはインターネットから引用されたものだろう)でも、もともとは分離独立派にとって何らかの利益がある動画だったのだ。ロシアやその影響が及ぶ地域でウクライナ人や他の民族に反感を抱いている若い人間達の関心を引き、リクルートに役立つと考えていたのかもしれない。捕虜の肩章をナイフで切り取り、口に押し込んで食べさせると行った、あからさまで、映画的な演技をみるにつけ、そう思わざるを得ない。私達が<戦車や大砲やミサイル><戦場の現実><戦火に追われる人々の悲劇>を見たいと反応すればするほど、それを見せる仕掛けが現地で作動して、軍事行動をより正当化させてしまう側面もあるのではないか。
戦闘の映像を撮るための機会がこのようにして取引され、撮影されたフッテージは真実でありつつも用意周到に意味が付与されている。私達は<観る>だけではなく、実は知らぬ間に<参加>させられているとも言える。
Like Dew in the Sun
監督:Peter Entell
脚本:Peter Entell, Elizabeth Waelchli
撮影:Jón Björgvinsson
製作:Show and Tell Films
2016 スイス
Show Me the Invasion(原題:Ukažte mi válku)
監督:Zdeněk Chaloupka
撮影:Zdeněk Chaloupka
編集:Ilona Malá
音響:Miroslav Chaloupka
製作:FAMU、Smetanovo nábřeží 2、11000 Praha 1
2016 チェコ
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